第8章 『戦い』 【2】
更紗右手を振り下ろすと、ひときわ激しい吹雪が吹き、懸命に立っていた季里をなぎ倒した。
「……さら、さ……」
季里はそれでも立ち上がろう、とした。
けれど、もう限界だった。
雪原に、季里は倒れて、目を閉じた。何度か、起き上がろうともがき、ついに動かなくなった。
「手間をかけたね、季里」
更紗は、軽蔑するような目で、季里を見た。
「さあ、行かなくちゃ。私は忙しいんだから。……季里、私はあなたが好きだったの。けれど、神に逆らう者は、許してはおけない。さようなら」
更紗がきびすを返そう、としたとき――。
「お邪魔しますよ」
声がして、いつも公園にいる中年男が、季里と更紗との間に割って入った。
「何なの、あなた!」
「遠賀更紗。君を連れに来たんですよ」
「ふざけないで!」
更紗はまた、叫んだ。
男は、どこか悲しそうな笑いを浮かべて、更紗に歩み寄った。
「来ないでって、言ってるでしょう!」
叫んで更紗は、男を指さした。
どっと吹雪が吹き付けた。けれど男は、何もなかったかのように歩いてきた。
「私の記憶が壊れていたので、思いだせずにいました。更紗、まだ、君の番ではなかったんですよ」
そう言ったとき、男の目に、光が宿ったようだった。
「ときどきね、君のように、まちがってこの世に現われてくる神がいます。それを、連れて帰るのが私の役目です。やっと思いだしたんですよ、私の役割を」
「そんな、そんなのってない! やっと、自分が何なのか分かったっていうのに、それなのに――」
「君が、ここにいることが、そもそものまちがいなんだよ」
「じゃあ、人間はどうなるの? この街はどうなるの? 私が滅ぼさないとしたら、街は大きくなり続け、人は世界を壊し続けて、何もかもがめちゃめちゃになってしまう。それでもいいっていうの?」
「残念だが、答えはないよ」
男は言った。
「私は、それを考える役目ではないんだ。ただ、君のために、――君をこの街から、本来いるべき所へ、連れ戻すのが、私の役目なんだよ」
「それじゃ、私はいったいなんだったの? この世界で、私は何のために生まれてきたっていうの? 私がここに『ある』ということは、何も意味のないことだったの!」
更紗が叫ぶと、吹雪は氷の粒となって、鋭い刃のように頬をかすめた。
それでも男は、かわらず悲しげに立っていた。
「神の中の神は――」
男は言った。
「すべて生きるものを、ただその命を喜ぶために作られた。何かのために生きるのではなく、生きていること、それだけでいい――それが生きるということだ。君が目ざめてしまったのは、まちがいだった。悲しいまちがいだ。それでも、まちがいは正されなければならない。この世界の人間たちがもしまちがっているとしたら、それはいつの日か必ず正しくされるだろう。だが、今は、放っておかねばならない。それが、神の中の神、その方のご意志なのだから」
そして、男は優しく、更紗の手を取った。
更紗は、おびえたように震えた。
「おそれることはないのだよ。君のせいではないのだよ。君はこれから、生まれた場所へ帰る。そこは、役割りを終えた神たちがやすらぐ場所だ。そこで君は、ずっと安らかに暮らすのだよ」
「いやよ!」
更紗は首を振った。
「私は、この世界にいたい。神でなくったってかまわない。だって、私は――」
そこで更紗は、季里のほうを見た。
季里は、吹雪にあらがう力もなく、雪の上に横たわっていた。
もう、限界のようだ。
更紗は急に、髪をかき乱した。
「ああ……私、季里を殺してしまった。たったひとりの友だちだったのに」
「それだから、君はここにいてはいけないのだよ」
男が首を振った。
「君がここにいることは、さらに多くのまちがいを生む。さあ、帰ろう。生まれた所へ」
男が近づいたとき、更紗はハッとしたようだった。
「――お父さん」
更紗は唖然として、つぶやいた。
「あなたが私の、お父さんだったのね」
男は、うなずきもせず、否定もしなかった。
いまはただうなだれている更紗の手を引いて、雪の中へと消えていった。
あとに、季里だけが残された。
安心したように、目を閉じる。――。
恭司は遠くから、その姿を見つけた。
……大宮駅で、恭司が見つけたのは、JR武蔵野線だった。
恭司にとって、奇跡的にありがたかったのは、その武蔵野線が、新秋津までは動いていたことだった。そこから先は、電車では行けなかった。
しかし、それは、歩いて入れない、ということではない。
恭司は、武蔵野線に乗り、新秋津駅で降り、後はわずかな道や、道のない所は雪をかき分け、必死に歩き続けた。用心のために背負ってきたバックパックには、カイロが入っている。熱湯の入った水筒もあった。大雪には慣れていた。
それでも季里の住む街へ、豪雪の中を歩いて行くのは、ひどく難しいことだった。
あるいは、季里が青森へ来るよう連絡する方が、賢明だったかもしれない。けれど、連絡する方法はなかった。電話線さえあちこちで切れていて、『ねむ』にはつながらなかった。
非常食をかじり、吹きだまりに足を取られないよう気をつけながら、恭司はひたすらに歩いていた。
そして、恭司は知らなかったが、もうひとつの奇跡があった。新秋津から新小平までの距離は八キロメートル、そこから季里の許へ行くには、あと二キロメートル。合わせて十キロメートルほどしかなかったのだ。
もちろん、記録外れの豪雪の中で十キロを歩くのは、至難の業だ。だが、不可能ではない。何より恭司には、強い意志があった。――季里に、逢いたい。
辛いとき、そう思うと、次の一歩を踏み出すことができた。
こうして恭司は、十キロを歩き抜いた。……
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