第6話 ありがとね。

 微かな冷気を孕んだ風が、淀んだ初夏の空気を一瞬にして追い払う。


 煽られてなびく黒髪を、右手でそっと撫で付けた。


「来たよ、ちーちゃん」


 私はいつもどおりのゆるっとした挨拶を投げかけながら、にへらーっとだらしのない笑みを浮かべてみせる。


 灰色の石柱にボトルの水をかけてから、花を手向ける。線香に火をつけて、立ち上る独特な香りにうっとりする。昔はうへぇ、と思っていた匂いなのだけれど、いつの間にか好きになってしまっていた。


 そっと両手を合わせて目を瞑った後、額を伝う汗を手のひらで拭う。


 なんとはなしに周囲を見回してみて、あまりの殺風景さに改めて驚かされる。人間どころか犬も猫も鳥も鹿も狸も熊も猪も、虫の一匹さえも見当たらない。建物は遥か彼方に、薄っすらと見て取れるだけだった。


 そこは荒涼とした、或いは爽涼とした、一面の青い草原だった。


 コロニー最北端にある辺境の地の、そのまた辺境。あと数キロも北に進めば放射線汚染区域で、城壁のようにそそり立つフェンスが顔を覗かせてくることだろう。


 一度だけ、ちーちゃんと一緒に外周を歩いてみたことがある。この場所を選んだのは、ただ単に自由に使える空き地がここしかなかったというだけでなく、探検のときにちーちゃんが気に入っていたからだ。


 ちなみに、私が連れ出したわけではない。言い出しっぺはちーちゃんだ。死体を探しに行くだのなんの、よくわからないことを口走っていた。多分、古い本か映画の影響だろう。


 そんなわけで私とちーちゃんは寝袋と食料を背負って壮大な旅に出たのだけれど、それはもう酷い目にあった。世界政府の警備隊からテロ画策の嫌疑をかけられて、危うく射殺されるところだったのだ。あれは本当に、生きた心地がしなかった。正直、二度とやりたくない。命からがら逃げ帰る経験なんて、人生に一回で充分だ。


 だけど、まあ。


 そんな馬鹿げた心配をする必要も、もうないのだろう。


 ちーちゃんと再開したあの日から、既に百年以上が過ぎていた。


 当然、ちーちゃんはとっくに他界している。五十年くらい前に老衰で亡くなった。心肺が停止して生命活動が終わるその瞬間まで、かさついて皺だらけになった左手をずっと握りしめていたのを、よく覚えている。死んでしまったときはやっぱり寂しかったけど、独りで逝かせることにならなくてよかった、と。今では、そんなふうに思っている。


 私はポケットから煙草を取り出して、古臭いオイルライターで火を付けた。中指と人差し指で挟みながら、口に咥える。そして、肺底まで煙を深く吸い込んで――


「ゲホッゲホッ!」


 噎せた。……本当、こんなもののどこが気に入っていたんだろう、ちーちゃんは。きつい匂いにちょっとだけ顔をしかめながら、やっぱりあげる、と線香の隣に煙草を供える。くそぅ、格好つけるんじゃなかった。


 そういえば、初めて吸ったときもこんな感じだったっけ。咥え煙草で楽譜に向かっているちーちゃんをぼーっと眺めていたら、「吸う?」こちらに吸いかけの紙巻きを差し出してきた。折角なので貰ってみることにした。口をつける。即座に咳き込む。「やっぱいらない……。ちーちゃん、なんでこんなの吸ってるの……」私が突き返すと、ちーちゃんは愉快そうに相好を崩して、ケラケラと笑っていた。


 懐かしい記憶を愛おしく感じるとともに、一抹の寂寥と懐古の念に襲われる。仄かな胸の締め付けを覚える。でもそれは、決して悪い感覚ではなかった。不思議と心が穏やかになるような、温かい寂しさだった。


 ……本当に、色々なことがあったのだ。


 たった五十年の短い同居生活だったけど、それ以前や以後とは比べ物にならないほど、いや、そもそも比較なんか絶対にしたくないと感じるほどに、濃密で、濃厚で、充足した、稀有で大切なひとときを私は過ごした。勿論、すれ違ったことも仲違いしたことも、多々あった。ちーちゃんが一ヶ月ほど帰らないときもあった。けどそういうのも諸々ひっくるめた上で、良い人生の一幕だった、と。そんなふうに、らしくもない感慨を抱いてしまうばかりなのだった。


 慣性の法則に則って、惰性で、流されるように静穏な日々を繰り返すだけじゃない。何かを求め、足掻き、走って、傷ついて、涙を流して、前に進んで、積み上げて、そうして、自らの人生を駆け抜ける。そういう生き方もあるのだと知れたのは、きっと幸福なことなのだろう。


 そのとき、ポケットに突っ込んでいた端末がブルブルと震えた。見てみると、案の定マネージャーからだった。


「ん、どした? 何か用事かい?」


「用事かいって……、それ、本気で言ってるんですか?」


 スピーカー越しに、大袈裟に嘆息してきたのがわかった。


「一時から打ち合わせだって、この前、連絡しておいたじゃないですか! また忘れたんですか? まったく……」


 可愛らしい声をしているくせに、口に出される文言は基本的に刺々しい。いやまあ、悪いのは私なんだけど。


「あ、そういえば」


「そういえばって、あのですね……! 歳上なんですから、少しは社会人としての自覚を持って――」


「ごめんごめん。ちょっと、ちーちゃんに会いに行ってて」


 あ、と。マネージャーが言葉に詰まって、一瞬の沈黙が生まれる。


「……そうですか。本当に頻繁に会いに行ってらっしゃいますよね。今どき、わざわざお墓を作る人さえ珍しいのに」


 まあね、と苦笑しながら相槌を打つ。


「ちーちゃん、ああ見えて嫉妬深いからさ。ちゃんと定期的に顔見せないと、呪われそうで」


「それ、いつ聞いてもピンとこないんですよね。本当なんですか? 私としては、クールでサッパリした印象が強いんですけど……」


 怪訝そうな声色で言う。ちなみに彼女はなんと、小学三年生の頃にちーちゃんの熱烈なファンになり、ついぞは高校卒業後にマネージャーにまでなってしまったという強者だった。


 紛うことなき古参ではあるけれど、そんな彼女も、二人きりのときのちーちゃんの話をすると、いつも腑に落ちなさそうな反応をする。


 まあ、それはそうだろう。ちーちゃんは自分の音楽に、自らの魂を乗せていた。でも一方で、たとえ曲の中であろうとも絶対に晒さない一面というのも、ちーちゃんにはあったのだ。


「さー、どうでしょう。内緒内緒」


「なんですか、それ……」


 不服そうに眉をひそめる姿が目に浮かぶ。


 どういうわけか、近年は大人になっても表情が豊かなままの子が増えていた。積極性や意志の強さも、脳みそ綿あめ状態のこれまでの大人とは見違えるほどだった。若い世代を中心に、科学技術や学問、芸術活動も少しずつ息を吹き返しつつあって、人類は段々とかつての在り方へと回帰しつつあるらしい。


 もしかして、ちーちゃんのおかげなのかな、なんてことを考えて、いやいや、と否定する。単純に、人類の進化がそういう方向に向かっていっただけなのだろう。


 でも心の奥底で、その可能性もなくはないんじゃないかなー、と。根拠のない確信を抱いてしまう自分がいるのも、確かではあるのだった。


「とにかく、挨拶が済んだらでいいですから、早いところこっちに来て下さい。顔見せするのはいいですけど、そのせいで活動を疎かにしたら怒られますよ? ……あの人の音楽を守り続けられるのは、アヤさんしかいないんですから」


 最後の一文だけ今までとは異なった声で言ってから、マネージャーは電話を切った。全く仰る通りだったので、私は返事することさえ出来なかった。


 今現在、私はちーちゃんと同じミュージシャンの肩書を持っている。


 飛び降りの後遺症で右手に軽い麻痺が残ったちーちゃんに代わって、ギターを弾き始めたのが始まりだった。最初のうちは、ただ楽器を担当していただけなのだけど、そのうち「どうせならアヤも歌って」とコーラスをやらされるようになり、段々と私の歌うパートが増えていき、最終的には「私、そろそろ引退するから。あとは任せた」と何もかも丸投げされた。


 正直、自分だけで活動することには割と懐疑的だったのだけれど、その頃にはちーちゃんだけでなく私にもファンが付き始めていたし、なにより、任せた、とまで言われて断るわけにもいかなかった。


 なんだかんだと肉体年齢にして二十代後半となった今になっても、こうして音楽活動を続けている私なのだった。


 最近は自分で曲を作るようにもなったのだけど、ちーちゃんの曲には未だに根強い人気がある。というか、そっちの方がウケが良かった。若干、複雑だった。


 ちーちゃんは自分が引退してからも、私のために作曲、作詞までしてくれていたので、誇張でも何でもなく死に際まで音楽を作り続けていた。でも、後年の作品になると初期に見せていたような荒々しさや痛々しさは鳴りを潜めて、どこか穏やかな、優しい歌詞や旋律が占める割合が増えていった。


 ちーちゃんと出会って私が変化したように、ちーちゃんも少しずつ、変わっていったのだと思う。


 その変化はきっと、悪いことではないのだろう。


 お互いに手を伸ばし、寄り添って、歩み寄ろうとした結果なのだから。


 前向きで、温かくって、優しいものがあるように思えてならないから。


 ふと、大昔にちーちゃんが言っていたことを思い出す。人の作った音楽にはその人の歴史が刻まれている、だったっけ。


 その意味が、今ならわかる。ちーちゃんの残した曲を演奏する度、脳裏にちーちゃんとの思い出が鮮明に蘇ってくる。弦を弾いて、声帯を震わす度に、ちーちゃんがすぐそこにいるかのような感覚に包まれる。


 実際、そうなのだろう。


 ちーちゃんの残した楽曲は、ちーちゃんという一人の人間が生きてきた証明であり、連綿と紡がれた歴史でもあるのだ。音楽を通して、私は遠いところへ行ってしまったちーちゃんと、また繋がることができる。手を握りあうことができる。


 きっと、私達はこれからも一緒だ。


 ちーちゃんが生きた証は、今も、この世界の中に満ちている。


 ……って、感傷に浸るのもいいけれど、ぼさっとしてもいられない。この調子じゃ、マネージャーから二度目の電話がかかってきてしまう。


 あの子はキレさせると怖いから、あんまり好き勝手するわけにはいかないのだ。そもそも、何かと苦労ばかりかけてるし。こっちの都合で困らせすぎるのも忍びない。


「じゃあね、ちーちゃん。また来るよ」


 別れの言葉と再開の約束を口にして、踵を返す。


 ――それじゃまあ、行きますか。


 私はお守りのように持ち歩いているボロボロのギターケースを背負って、清らかな草原を後にした。


 一際強い風が吹き、手を振るみたいに草木が揺れた。


 私は、ちょっとだけ頬を緩ませた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ツインクロック・ロックンロール 赤崎弥生 @akasaki_yayoi

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ