第5話 いるべき場所を、見つけたの。

 ちーちゃんが自殺した。


 そんな内容のニュースを耳にしたのは、高校十五年生の七月のことだった。


 デフォルトの設定のままのテレビは、私が居間にいる間は常に電源がオンになっている。生まれてこの方、真剣にテレビ番組を視聴したことなど一度もないのだけれど、敢えて設定を変更するほどのモチベーションも具有してはいなかった。


 その日の朝もトーストをちまちま口に入れながら、読み上げられていくニュースをぼんやりと耳に入れていた。


 キャスターが突然、ちーちゃんの名前を口にした。


 あれ、と思って画面に意識を向けたのと、ちーちゃんが自殺した、という文言が耳に入ってきたのは、ほぼ同時だった。


 マジか、と思った。


 咀嚼途中のぐちゃぐちゃになったパンが口からこぼれ落ちてしまったのにも、しばらくの間、気づかなかった。


 久々に驚きの感情を抱いていた私だったけど、詳しい話を聞いてみると、ちーちゃんは別に自殺したわけではなかったらしい。自ら命を絶とうとしたことは確かなようだけど、一命は取り留めていて、つまるところ自殺ではなく自殺未遂。相変わらずアバウトな報道だった。


 よかった、と内心で軽い安堵を覚えつつ、ニュースの続きにじっと耳を傾ける。


 ちーちゃんは昨日の夜、大戦以前から存在している、全壊一歩手前の雑居ビルの屋上から、ピョンと飛び降りたらしい。何度かライブを開催したこともある、ちーちゃんからしてみれば思い出の建物だったとか。


 高さは五階。普通なら助からない高度だけれど、下に植え込みがあったおかげで運良く……、なのかどうかはわからないけど、いや、運よく。そういうことにしておこう。ちーちゃんは幸運にも、命を落とすことはなかったようだ。


 ニュースキャスターはいつもどおり、へらへらとした笑みを口元に貼り付けながら、「いやぁ、自殺なんて言葉、五百年生きてて初めて使いましたよぅ」と愉快そうな感想を漏らしてらっしゃる。


 私は、初めてというわけではない。ちーちゃんの口から、何度か聞いたことがあったから。確か大昔の小説家の……、誰だったかな。ダサい? おお寒い? みたいな名前の人の本を片手に、かつてはそういうことをする人達がいたんだよ、と縷々と語ってくれたっけ。


 秋も深まり、夏の茹だるようだった熱さも和らいで、屋上で外気に晒されるのが気持ちよく感じられるような季節だった。


 私はその日もちーちゃんの練習に付き合っていたのだけれど、降り注いでくる穏やかな陽光は暖かで柔らかで、まるで天然の羽毛布団のようだった。私はつい、うとうとして、気づけば本格的な眠りに落ちてしまっていた。


 あ、寝てた。そう思って瞼を開くと、橙色の強烈な夕陽が網膜を焼いてきた。日はとっくのとうに、西に傾いていたらしい。


 いや。どれだけ昼寝してたんだ、私。


 呆れたような感心したような気持ちになりながらも、ちーちゃんはもう帰っちゃったよなー、と当たり前のように考える。私も帰らなきゃ、と緩慢な動作で立ち上がろうとした、その矢先のことだった。


「起きた?」


 すぐ隣から、声がした。


 ちょっとだけ驚きながら、横を見る。


 ちーちゃんは、コンクリートの上にちょこんとお尻を乗せながら、私のことを涼し気な表情で眺めていた。


「このまま朝になるんじゃないかって思ってたのに。予想外れた」


 ちーちゃんが冗談めかして言いながら、小さく肩を揺らした。


 私はしばし固まって、その様を間抜け面でぼーっと観察してしまう。


 なんというか、ジーンと来た。


 ちーちゃんの脇には、本や端末などの暇つぶしになりそうな道具は何一つとして置いてない。ギターさえ片付けられてしまっている。


 つまりちーちゃんは昼前から夕方までの、長針がゆうに五周はするであろう決して短くはない時間を、何をするでもなく、私の横で体育座りしながらただひたすらに待ってくれていたのだ。


 起こすことも、置いていくことも、一時だけ離れることすらせずに。


 私が目を覚ますのを、延々と待っていた。


 表情筋が、いつにも増してゆるゆるになっていくのを自覚する。


 引き伸ばされた時間を生きる私ならともかく、密度の高い毎日を駆け足で送っているちーちゃんからしてみれば、五、六時間もじっとしているのなんて、もはや拷問にも等しいほどの苦行だったはずなのに。


 それでもちーちゃんは、私のことを無理に起こしたりなんかせず、私の生きる時間に合わせようとしてくれた。


 そういう優しさには、やっぱり、満たされるものがあるのであって。


 私はちーちゃんの方に身を乗り出して、「よしよし」右手で頭を撫でてみた。ちーちゃんの髪は細い。指を入れると、砂のようにサラサラと流れていく。「ちょっと」ちーちゃんが拗ねたように、唇を尖らせる。塔屋の作る影に入っているはずなのに、その頬は西日に照らし上げられたみたいな色濃い赤に染まっていた。


 教室に戻ると、私達以外の生徒は皆、とっくに帰宅してしまっているようだった。暮色に沈み、人っ子一人いないその部屋は、なんだかやけに広々として感じられる。世界の終わりの景色にさえ見紛うほどの、静謐と哀愁に満ちていた。


 私達は、すぐに帰ることはしなかった。机の上に腰掛けたちーちゃんが話を切り出してきたので、雑談する流れになったのだ。きっと、やられっぱなしで終わるのが不本意だったんだと思う。


「ねえ。自殺って知ってる?」


 ちーちゃんがその話題を出したのは、本当に唐突なことだった。


「知らなくは、ないけど」


 軽く面食らいながら答えると、ちーちゃんは一冊の文庫本を見せびらかしてきた。


「この本の作者、自殺してるんだよね。二十世紀の半ばなんだけど」


 ちーちゃんの顔の半分が、煉獄の炎のようなくすんだ赤橙色に塗り込められる。どことなく妖しげな雰囲気があって、私は一度、さり気なく唾を嚥下した。


「でも、なんでそんなことしたの? 別によくない? わざわざ死ななくても。面倒くさそうだし、痛そうだし」


 素朴な疑問だった。わざわざ自分から命を絶つなんて、私からしてみれば考えられない。


 ちーちゃんは、手にしていた文庫本を隣に置くと、まるで瞑想でもするかのように静かに瞼を閉じた。


 しばらく間を空けた後、ふぅ、と微かに吐息を漏らす。


「今の人類と違ってさ、昔の人は色んな事を考えてたんだよ。自分が存在してる理由とか、自分が何を為すべきなのかとか、そもそも自分はここにいるべきなのか、とかさ」


「ふぅん。昔の人は凄いんだねぇ。けど……、人間って、考えると自殺しちゃうの?」


 ちーちゃんが、微かに目を見開いたのがわかった。


 どうだろう、とだけ答えると、再び唇を閉ざしてしまう。小難しい表情を浮かべながら、黙念と考え込んでいる。


 そんなちーちゃんの怜悧な顔を、私は机の上にぐでーっと突っ伏しながら、ぼんやりと見上げていた。


「きっと、信じられなくなっちゃうんじゃないかな」


 ちーちゃんが伏せられていた顔を上げた。


「物事を深く考えていると。今まで無視できていたことから目を逸らすことができなくなって、不安になって、それで、その人が生きる上で必要だった何かを信じられなくなっちゃって、自殺するんだと思う」


「……ふぅん。そっか」


 自分で訊いておいてなんだけど、そういう話はやっぱり私には難解で、会話が弾むような返答をすることは出来なかった。ちーちゃんの発した言葉の意味を、額面通りに受け取るだけで精一杯。


 それ以上、ちーちゃんが自殺について何かを語ることはなかった。


 このときの言葉が確かなら、ちーちゃんは信じられなくなってしまったのだ。ちーちゃんが生きていく上で大切だった、何かを。


 でも、それって一体、何なんだろう?


 答えには、すぐに思い至った。


 わかってしまえば、後は早い。やるべきことは一つだけ。


 私は食べかけのトーストを皿の上に放置して、よっこいしょと席を立つ。制服から私服に着替えることもせず、ふらふらーっとした足取りで朝の街並みへ足を踏み入れた。


 総合病院の受付で「ちーちゃんの病室ってどこですか」と訊くと、「は? ちーちゃん?」と首を傾げられた。


 忘れていた。ちーちゃんというのは、私のつけた渾名であって本名ではないのだ。えーとえーと、と記憶の海からどうにか本名を引っ張り出して、伝える。受付の人は、ああ、と得心がいった顔をしたけれど、すぐさま首を横に振ってきた。


「面会謝絶なので」


「あ、そうですか。じゃあ……、いつなら会えますか?」


 受付の人はしばし考え込んだ後、ふらふらっと奥の方に入っていった。しばらくして戻ってくると、一月後だと告げてきた。


 一ヶ月後、私は改めて病院を訪れて、「ちーちゃんの病室ってどこですか」と訊ねた。受付の人は私のことを訝しむ代わりに、「面会拒絶なので」と平坦な口調で言ってのけた。


 面会拒絶。聞いたことのない言葉だった。私が首を傾げると、


「ちーちゃんって呼んでくる人がいたら追い払って、と頼まれているので」


 なるほど。それで拒絶。言い得て妙だと思った。


「えと……、じゃあ、退院っていつですか?」


 受付の人はまた奥の方へと入っていった後、一週間後ですねー、と気の抜けた声で教えてくれた。


 一週間後にまた来ると、「本人の強い希望で、一日早く退院なされたんですよ」ふむ。どうやら本格的に避けられているらしかった。


 仕方がないので私は、それから毎日、ちーちゃんを探して彷徨い歩くことにした。学校はサボったけれど、何も問題はない。先生たちがとやかく言って来ることはないし、そもそも、行かない理由がないから惰性で足を運んでいただけだ。他に目的が出来たなら、そちらを優先するに決まっている。


 ちーちゃんのことを発見したときには、あてのない彷徨を始めてから五ヶ月以上が経っていた。


 街を満たす空気もすっかり冷えて、乾いたナイフのような寒風が頬や首筋を切りつけてくる。空を覆う分厚い灰色の雲に遮られ、月明かりは地上まで届かない。そんな、うら寂しい冬の夜のことだった。


 見つけた場所は、ちーちゃんが自殺というか自殺未遂したという廃ビル付近の路地裏だった。当然ながら人間の気配はなくて、立ち並ぶ街灯はどれもが壊れ、廃れ、十本に一本ほどの割合で、ジ、ジ、ジ、と仄かな白色光を明滅させているだけだった。


 そんな中、ちーちゃんは闇色のアスファルトの上に直に腰を下ろしながら、薄汚れたクリーム色の壁面に背中を預けていた。


 指先に挟まれた煙草が、蛍のように柔らかくて弱い光をぼう、と放つ。ちーちゃんの容貌を、宵闇の中にうっすらと浮かび上がらせていた。


「やぁやぁ。お久しぶりです」


 ちーちゃんが勢いよく路地の入口へと顔を向ける。煙草の燃えさしがハラハラと舞い落ちた。信じられない、とでも言いたげに口を半開きにしながら固まるちーちゃん。死人でも見たかのような驚きよう。


 私も、同じくらいの衝撃を受けていた。


「ちーちゃんが老けてる」


「……第一声がそれなの?」


 形の良い細い眉毛の間に、不愉快そうな縦じわが刻まれる。


 その表情に、中高生時代のような幼さやあどけなさは、毛ほども残っていなかった。目の前にいるのは、擦り切れ、やさぐれ、疲れ切ったかのような退廃的な雰囲気漂う、齢三十の一人の女性。


 かつて纏っていた威勢の良さも、尽きることのないような熱量も、時代錯誤としか言いようのなかった若々しさも、今のちーちゃんからは何もかもが綺麗サッパリ剥がれ落ちてしまっていた。


 唯一つの例外は、黒曜石のような鈍い輝きを帯びた、孤独な瞳。


 ちーちゃんを形成する無数のパーツの中でこれだけが、過ぎ去っていく時の流れから放逐されているかのように、あの日、空き教室で垣間見た光景と、あの日、屋上前の踊り場で見せつけられた情景と、寸分違わぬ色彩を放ち続けていた。


 ちーちゃんが、火のついたままの煙草をその辺に投げ捨てる。特大のため息を吐き出すと同時に、両脚を抱きかかえて小学生みたいに体育座りをしてみせた。哀しげな両眼が、どこか遠いところへとピントを合わせるかのように、ひっそりと細められる。


「……そりゃ老けるでしょ。私はあんたとは違うんだから。三十路になれば、もう立派な中年のおばさんに様変わりだっての」


 自らを嘲るように口の端を吊り上げて、フッ、と乾いた呼気を吐き捨てる。ちーちゃんは、ひどく冷めた目つきで路地の入口に突っ立った私のことを睨んだ。恐らくは、最後に顔を合わせたときから全く変化していないであろう、私の顔を。身体を。輪郭を。誰がどう見ようと、幾分のあどけなさを残した未成熟な少女でしかない、私のことを。


「……まさか、まだ私のこと探し回ってるとは思わなかった」


「私、基本的に暇だからね」


「へー、それは羨ましいや」


 ちっとも羨ましくなんかなさそうな口振りだった。何もかもどうでもいい。そんな空気感が漂う、投げやりな言い方だった。


「……悪いけど帰ってくれない? 何考えてるのかは知らないけど、生憎、私はあんたの顔なんか見たくないから」


 無理くりに感情を押し殺したような、不自然なまでに冷たい響き。


 拒絶の意を示しているのは、明らかだった。


「んー、それはちょっと」


 だが私は、ふるふる、と首を二度横に振る。


 ちーちゃんはさらに不快そうな面持ちで、「帰って」と。同じ台詞を語調を強めて、繰り返す。


「ううん。帰らないよ」


 だが、私はなおも暗闇に佇立したままでいる。言われたとおりにしようとは思わなかった。私にあるまじき意固地さだった。


「駄目。いいから帰って。さっさと。今すぐ。……帰ってよ、ねえ」


 言葉の節々から、隠されていた感情が僅かに頭をもたげ始める。


 私は再度、かぶりを振った。そして、一歩も動かない。


「だから、さっさと帰れって言ってるじゃん……っ!」


 痺れを切らしたちーちゃんが激情した。左手を地面に叩きつけるようにして身体を起こし、よろめきながら立ち上がる。


「どうして……、どうして、こういうときだけ言うこと聞いてくれないの⁉ あんたなんか、とっくに虫に毒されてる死人のくせに! 自分の意志なんか何にもない人形のくせに! いいから帰ってよ! 私の前から消えてよ! どうせ何もしてくれないんでしょ⁉ 私のこと苦しめるだけなんでしょ⁉ ならせめて……、せめて……っ! 思い出くらい、綺麗なままでいさせてよ……っ!」


 詰め寄ってきたちーちゃんが、左手で胸ぐらを握りしめてくる。そのまま顔を固く俯けて、顔面が見えなくなる。


 ちーちゃんの荒い息遣いだけが、ぜぇ、ぜぇ、と。夜の寂寞を切り裂くように、死んだ街並みの中へ染み入っては、消えていく。


「ちーちゃん」


 私は、ちーちゃんの名前を呼んだ。ギリ、と歯を噛みしめる音がした。


 ちーちゃんが私のことを、ガンッ! と冷え切ったビルの壁面に乱暴に押し付けてくる。肋骨が圧迫されて、一瞬、息ができなくなった。


「もう止めてよ……! あんたには、どうせわからないんでしょ⁉ 私がなんで死のうとしたのかも! 私があの日、なんであんたのことを押し倒したのかも! だったらもう、私に近づいて来ないでよ⁉ 私のこと、これ以上苦しくさせないでよ⁉ あんたに側にいられるの、はっきり言って迷惑なの! ありえない希望に縋るのはもう嫌なの! 人の心散々引っ掻き回しておいて、何食わぬ顔で戻ってきたりするんじゃな――」


「ちーちゃん」


 ちーちゃんの頬に、そっと指先を押し当てた。


 悲鳴のような叫び声が、ピタリと止んだ。


 ちーちゃんの肌は冷え切っている。氷塊に指先を押し付けているみたいで、痛かった。一体いつから、この場所にいたんだろう。数時間前なのかも知れないし、数日前なのかも知れない。


「わかるよ」


「……え?」


 下を向いていた顔が、持ち上げられる。溢れた前髪の隙間から、深い黒色の双眸が姿を見せる。


「私、難しいこと考えるのは苦手だけど、ちーちゃんのことなら、ちょっとくらいはわかるよ」


 ちーちゃんの漆黒の瞳孔が、紙にインクを垂らしたときみたいに、じわじわと拡大していく。何か言おうとするみたいに唇がわなわなと震えて、でも、具体的な言葉が吐き出されることはなかった。


 私は、頬をちょっとだけ緩ませてから、続ける。


「寂しかったんでしょ、ちーちゃんは」


 ちーちゃんが、ハッとしたように息を呑む。


 その反応を見て、やっぱり、と私は心の中で確信する。


「ちーちゃんは、昔から寂しがり屋だからね。心細くなっちゃったんでしょ? 自分は独りじゃないって信じられなくなっちゃって、それで飛び降りたんだろうなぁ、って」


 ちーちゃんが生きる上で必要なもの。


 それは、孤独を忘れること。誰かが側に、いてあげること。


 それ以外の答えなんか、私には、考えようがないのだった。


「そんな、こと……」


 ちーちゃんが脇へと目を逸らす。歯切れの悪い回答に、私は場違いにも苦笑してしまいそうになる。


 だってその反応は、あまりにもちーちゃんらしい。


「いーよいーよ、強がらないで」


 私はさらに表情筋をにへらーっと緩ませて、ちーちゃんのほっぺたをむにむにと摘んでみる。ちーちゃんが、ビクッと肩を震わせた。


「ちーちゃんが私に甘えてくるのは、いつものことだからね。今更、気に病むようなことじゃないでしょ」


 抵抗するのを諦めたかのように、ちーちゃんの左腕がだらりと垂れる。そのまま私の胸にしなだれかかってきて、今度は右腕をきつく握りしめてきた。


「……どうして?」


 絞り出したかのような、無理やり押し出したかのような、か細い声。


「どうしてなの? どうして、アヤはそこまで言ってくれるの? 私、わからないよ。アヤのこと。だって私、アヤに何かしてあげたことなんか、一度もないじゃん。いつもいつも一方的に押し付けてばっかりで、それどころか、酷いことして押しのけて。それなのに、どうして……」


 どうして、か。


 しばし、思慮を巡らせてみる。でも、頭の中でどれだけ理屈をこねくり回そうとも、それらしい解答は一向に出てこなかった。そもそも、私のぽわわんとした脳みそは、そんな難問に答えられるだけのスペックを持ち合わせていなかった。


 だから私は、問いかける場所を変えてみる。


 頭ではなく、胸の内へと問うてみる。


 私は何故、ちーちゃんのことを追いかけたのか。


 私は何故、ちーちゃんのキスを受け入れたのか。


 そもそもあの日、私はどうして、空き教室に足を踏み入れたのか。


 浮かんできたのは、二つの情景。


 寂しげにしてるちーちゃんと、笑顔を湛えたちーちゃんだ。


 要するに、そういうことだ。


「んーとね。私、なんでかは知らないけど、ちーちゃん見てると思っちゃうんだよね。ちーちゃんのこと、独りぼっちにしたくないなって。ちーちゃん、寂しそうにしてること多いでしょ? でも、私が隣に行くとなんだかんだ笑ってくれたりしてさ。そういうの、結構嬉しいんだよ」


 改めて口にするのは、私といえども些か面映ゆいものがある。


 でも、こういうときくらいは曖昧な態度に逃げないで、ちゃんと向き合わなきゃいけないのだと思う。ちゃんと生きて、寄り添わないといけないのだと思う。大切な人の前でくらいは、せめて。


 ちーちゃんの身体が、時間が凍りついたかのように静止する。


 程なくして、ちーちゃんはプルプルと両肩を震わせながら、遅々とした速度で顔を上げてきた。せり上がってくる何かを必死で押し止めようとするかのような、胸が一杯になったとでもいうかのような。そんな、決壊寸前のダムみたいに感情の極まった表情を浮かべていた。とん、と軽く力を加えれば、瞬間的に瓦解してしまうかのような脆弱さ。


 でも私は、それを愛おしく思った。ちーちゃんの抱え込む弱さとか、不安定さとか、歪さとか、醜さとか、哀しさとか、寂しさとか、激しさとか、幼さとか、不器用さとか。そういうのを全部、受け入れてあげたいと思った。まあいいじゃないですか、って抱きしめてあげたくなった。


「ねえ、ちーちゃん」


 水気を存分に湛えた一対の黒い瞳が、しっとりと瞬いた。


 私はすぅ、と息を吸う。冬の冷え切った夜気を肺の奥底で温めて、熱を与えて、声帯で震わせる。意味のある音にして、そっと吐き出す。


「私達、一緒にいよっか」


 ちーちゃんが、口元にサッと右手を当てる。目元を、頬を、唇を、瞼を、肩を、全身を小刻みに震わせながら、ゆっくりと目を瞑る。


「……っ、……う、ん」


 ちーちゃんはコクリと首肯しながら、途切れ途切れの返事をどうにかして口にした。


 ちーちゃんが顔をくしゃくしゃに歪める。両目から、次から次へと淡い輝きを帯びた粒子が零れ落ちていく。手で瞼を抑えても、隙間からとめどなくボロボロと溢れていって、意味をなしていなかった。


 えっぐ、えっぐ、と。本物の子供よりも子供らしい嗚咽を漏らしつつ、ちーちゃんが私の胸に目頭を押し当てる。そんなちーちゃんの背中を、私はあやすようにゆっくりと撫でていく。


 本当に。ちーちゃんは、ちっとも変わらない。誰よりも達観していて、誰よりも澄ましていて、大人よりも大人びた聡明な雰囲気を身に纏っていて、でもだからこそ孤独で、寂しくて、独りぼっちが怖くって。


 誰かに側にいて欲しいのに、自分から歩み寄ることも出来なくて。


 だから脆くて、弱くて、虚勢を張って強がることしか出来なくて。


 ならやっぱり、隣にいてあげないと。


 いつだって、そんなふうに思うのだ。


「……でも、いいの?」


 ちーちゃんが、しゃくりあげなら訥々と問いかける。


「だって私、もうこんなおばさんで、あと三十年もすれば、立派なお婆ちゃんで、そのときアヤはまだ実質、二十歳くらいにしかなってないんだよ……? それに私、すっごい面倒くさい性格してるし……」


「あ、自覚あったんだ」


 私がちょっとだけ瞠目すると、うるさい、とちーちゃんが泣き声で言いながら胸を小突いてきた。むぅ。自分で言ってきたくせに。


「別にいいよ。私って適当だから。細かいことは気にしないんだよ」


 臆面もなく言ってのけると、ちーちゃんは「そっか……」と、鼻をすすりながら相槌を打ってきた。


「……私ね、怖かったの」


 泣くだけ泣いて落ち着いたのか、ちーちゃんが滔々と自分のことを語りだす。なんだか、懐かしい感触がする。ちーちゃんが話して、私が聞いて。これが一番しっくり来るなぁ、と。改めて思い知らされる。


「アヤが日に日に変わっていっちゃうのが、怖かった。なんだか、アヤが私の知らないアヤに変わって、私のことを置いていっちゃうんじゃないかって、そんなことばかり考えちゃって……。でも、違ったんだね。アヤはずっと、優しかった。私の隣に、いようとしてくれてた。なのに私、アヤのことを受け入れようとしなかった。ごめんね、アヤ。……変わらないものも、アヤにはちゃんと、あったのに」


 ちーちゃんが、頬に残った涙の跡を左手で拭う。


「……私、逃げたの。持ってるものを失うくらいなら、自分から手放したほうが良いと思って。それで、どうにかして新しい居場所を作り出そうとしたけど、駄目だった。私の曲好きだって言ってくれた子は皆、手術を受けた途端に私のことなんか見向きもしなくなるの。身体だって老けていく一方で……。それに耐えきれなかった。結局、不適合者の私はどこまで行っても独りきりなんだなって思って、それが嫌で死のうと思って、でも、ちゃんと死ぬことすらできなくて……」


「そっかそっか。大変だったね」


 ちゃんと聞いてるよ。隣にいるよ。独りじゃないよ。


 ちーちゃんにそう伝えるために、私は鷹揚に頷きながら、ちーちゃんの背中をさする。


 丁寧に、ゆっくりと。愛おしむみたいに、優しく。そうして、強く。


「……でも、いいのかな。私なんかが、一緒にいても。……本当は、一緒になんて、いられないのに」


 ちーちゃんが、不安げに両の瞳を潤ませながら、視線を斜め下へと落としていく。そんなちーちゃんの頬に両手を当てて、ぐい、と強引にこっちを向かせる。ちーちゃんの目を、真っ直ぐに覗き込む。


「ううん。一緒だよ。確かに、同じ時間の中を生きていくことは出来ないけど……、でもちーちゃんは、私の隣にいようとしてくれるじゃん。私、忘れてないよ。ちーちゃんが居眠りしてた私を、ずっと待っててくれたこと。こんな私に、寄り添ってくれたこと。大丈夫。私達はちゃんと、一緒にいられるよ。だから……、ね?」


 私はちーちゃんの両頬からゆっくりと手を離し、代わりにちーちゃんの手を取った。


「帰ろっか。二人で。一緒に」


 寂しげな色を帯びていたちーちゃんの表情が、柔らかく緩む。


 久々に目にしたちーちゃんの微笑みは、昔からちっとも変わらない。


 相変わらず、小さな子供みたいに屈託のないままだった。


「――うん」


 ちーちゃんが、目を糸みたいに細めて笑う。


 そうして私達は、薄暗い路地裏を後にした。


 思えば、私達が横並びで歩いたのは、このときが初めてだ。


 歩調も歩幅も揃わなくって、途中、何度も転びそうになる。


 その度に繋いだ手に力を込めて、支え合いつつ前へと進む。


 私達はこれからも、こんなふうに、二人一緒に生きていく。

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