口づけは陳腐な言葉とともに

@mrorion

口づけは陳腐な言葉とともに

 ヘボ詩人と言って良かったのではないだろうか。彼の紡ぎ出す言葉は、だいたい陳腐で概念的で、なにがいいたいのかよくわからなかった。一度、その旨を直接伝えたところ、「そんなことは俺にだってわかってるんですよ」とひどく悲しそうな顔をされた。「だけど、言葉ってのは脈動と一緒だから。俺の意志で変えられるもんじゃない。鬼宮さん、自分の心拍数変えられますか。変えられないでしょう。そういうことですって」

「走れば変わるんじゃないでしょうけど」

「そういうこと言いますか。そういうことではないんですけど」

 確かに、こんなところに日夜閉じ込められていたら、走ることなんてできないし世界は狭く狭く凝縮されていく。彼の言い分もわからないではなかった。

 私と彼は、第八大学図書館の文学部中央地下書庫で朝から夜まで働いていた。市民統制が一年前から始まって、文学部での研究の内容が検閲にひっかかった私は大学を出ることを禁止され、修了論文を提出後も学内にとどまらざるを得なかった。そういう学生は他にも何人かいて、彼らはひっくるめて学内で仕事を与えられ、意味があるともないともわからない単純労働に従事していた。

「吐息は新しい夜の息吹、古い言葉が影を纏い、口づけは……口……」

 彼が何かぶつぶつと言葉を練っている。私は「な」行の棚の間で、それをぼんやりと聞いていた。与えられた仕事は整理番号ごとに本を並べ替え、タイトルの目録を作ることだけだったが、私は中身をパラパラと開いては、内容の簡単な要約を作っていた。時間はたっぷりあった。世界は私を弾き出すように変わりつつあり、何年ここにいることになるかもわからなかったのだ。日の光も届かない、寒くて暗い地下書庫、古い言葉たちの霊廟に。

 彼もまた霊廟に閉じ込められた一人だった。彼は近代詩の研究をする傍ら自分でも詩作をしていた。検閲に引っかかって彼を社会不適格者にした、詩の論文は本当に素晴らしいもので、私は彼の目の前で思わず絶賛してしまった。しかし本人の詩となると、途端に陳腐なその調子だった。しかも彼は働きもせず、形の良い虚ろな唇で、延々と陳腐な言葉を練っていた。「もう論文なんか、書く気なくなっちゃいましたよ」と、ぼそっと一度だけ言っていた。

「キスしたことあるんですか」

 私は何となく聞いてみた。ぶつぶつが止まる。しばらくして棚の向こうから、とてもつらそうな「ないです」という言葉が絞り出された。

「してみます?」

 こんな地の底みたいな場所に、監視の目は届かない。私は退屈していたし、それ以上になんだか切なかった。一年以上前なら、私はこんなありきたりの言葉しか紡げなくなった男に一瞥もくれなかっただろう。だけど今の私には、彼の痛みにも哀しみにも、陳腐に腐りかけた言葉にも、身を切られるような同情を感じてしまっていた。

 棚から首を伸ばしてみると、彼は透き通った目を見開いてこちらを茫然と見つめていた。

「そんなに驚かなくても」

「いや…」

「女性は嫌いですか」

「いや……」彼はこちらを見つめたまま、きれぎれに言った。

「鬼宮さんのことは好きです」

「それならよかった」私は膝に抱えた本を適当に棚に置いて、彼が陣取ったカウンターに近づく。

「してみましょうよ、キス。あなたのその想像しかないぼんやりした残念な表現がキリッとクリアになりますよ」

「いや、いや、その」彼は身を引く。「いや、結構ひどいこと言いますね」無精ひげがひどいけど、そう悪くない顔だ。これくらいならキスしたって全然いい。引き締まった唇はほの暗い蛍光灯の光に薄紫色に照らされて、殺された言葉たちの哀しみを漂わせている。その唇がせわしく動いた。「そうじゃなくて。俺は、私は……遠慮しときます」

「ひどい」私は結構傷ついた気がした。

「ええと、すみません。でも、そう、詩なんですよ、詩。俺はキスしたことがないから、だからキスの詩を書こうかなと思うんです。鬼宮さんとキスしちゃって、あ、こんなもんかと思ったら、俺はもうこういう言葉をひねれない気がする」

「いいじゃないですか、代わりに新しい言葉が生まれたら」

「新しい言葉を生んでしまったら……」彼は首を振った。

「そしてまた、あの論文みたいに消されたら、詩を書く気すらなくなって、俺には何にもなくなる」

 うなだれた白い顔があまりに気の毒で、私はやっぱり、彼にキスして暖めたかった。私は勝手に、カウンターの上に落ちていた左手を取って、そのごつごつした甲に唇を押し当てた。唇の下で手がこわばって、もう一度力が抜けた。冷たい手だった。目を上げると、彼は透徹な眼差しをじっとこちらに据えていた。

「これくらいならいいでしょ」

「これくらい……」彼はつと立ち上がって、カウンターの上に身を乗り出した。目線が合って、これはキスされる流れかなと思ったがそんなことはなかった。目の前に寄せられた、ひげと影に沈んだ唇から、柔らかいささやきが一言ずつ、耳に注がれた。「待っていてください。俺もあなたも、こんなところに閉じ込められて絶望してる。そんな時じゃもったいない。いつか、いつかきっと、俺たちが言葉を取り返したら……俺は論文を書きますし、そしたらもう、詩を書く必要はなくなるんですから。きっと」

 その時のささやきは口づけよりも優しく、私の脳髄に染み通った。


 十年経って、私は書庫に再び戻ってくることになった。政権が長い争いの果てにようよう交代し、市民統制が解かれ、死んだふりみたいに大人しくしていた私は大学の研究員になったからだ。相変わらず、ほの暗い蛍光灯に照らされたカウンターには誰もいない。あの時は確かに絶望していたし、だから私たちもどうにかなりそうな雰囲気だった。

 彼は政情が一番混迷を極めた時期に警察につかまって、大学からも引きずり出され、それっきり帰ってこなかった。それから三年、私は一人きりで書庫を整理し続けた。

 殺された言葉たちが彼を駆り立て、陳腐な詩が彼を狂わせたのだ、と私は思った。やめておけばいいのに、何か、政府に対する抵抗運動のアジテーションのようなことに関わったのだという。言葉が脈動のようなものなら、彼はそれを変えられなかったということだろうか。あの時私たちがキスできていれば、胸が高鳴り、言葉が生まれ、この霊廟の中の世界ごとすべては変わったかもしれないけれど。でもそうはならなかった。

 先月、彼に似た人を大学近くの古本屋で見た。口元はしなびて、老人のようだった。もう彼には、どんな言葉も残っていないのだろう。どんなひどい目に遭って、どんなうめきや叫びををその唇が洩らしたのかは知らない。そして彼からは何もなくなった。ヘボ詩人でも、ヘボ詩人なだけましだったのだ。もっとも、私が見たのは別人なのかもしれない。

 私は書庫のカウンターの内側へ入って、引き出しの奥にしまい込んだ薄いノートを探し出した。警察が踏み込んできたとき、私はそれを咄嗟に本棚の分厚い一冊の内側に隠した。そこに彼の詩があった。時が経って、私はそれをカウンターに戻して、そのままにしてあった。

「吐息は新しい夜の息吹、古い言葉が影を纏い、口づけは静かな響きと共に、心臓から忘れた夢を立ち上らせる」ノートの中ほどのページに端整な字で書かれた言葉を読み上げる。相変わらず、まずい詩だ。あの日カウンターの中で立ち上がった彼のささやきを思い出し、一瞬、鼓動が早くなった。「吐息は、新しい、夜の、息吹」一語一語、囁くように読み上げる。終わりまで読み上げると、それを繰り返した。やがて眼を閉じて、何度も何度も。

「口づけは、しずかな、ひびきと、ともに、心臓から、わすれた、ゆめを、たち、のぼらせる」

 心臓から流れ出した言葉たちは喉を通り、私の唇に口づけされて、静かな霊廟の中に降り積もっていく。やっぱり、私は心残りだったのだ。果たせなかったキスを繰り返すように、もういない彼の幻影をどうにか温めようとするように、私は彼の陳腐な言葉たちに口づけし続けた。

「私、待ってたんですけどね」心の中でつぶやく。

彼が思い描いた相手は誰だったのだろう。今はもう、知る由もない。彼の想像の中のぼんやりとしたキスの概念を思い描いて、何十度目かの繰り返しを始めた時、言葉はとうとう確かな輪郭を持って立ち現れた。

私は初めて、彼の薄紫の唇が、冷たくなった私の唇に触れるのを感じた。新しい夜の息吹とやらが私を包み、陳腐な言葉は今は確かに脈打って、静かな霊廟をあの日に巻き戻し、忘れてしまった美しい夢で、私を優しく満たした。脳髄に染み通るほど、いつまでも、いつまでも。

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