最終話

「足の痛みはどうなの?」

「んとね、不思議な事に、足が動かなくなってからはピタッと痛みが止んだのね」

「そうか、全く動かないの?」

「動かないわね。でも、足首の先だけは鱗が無いじゃない? だから、そこだけはピクピク動かせるのよね」

「本当に尾ひれみたいだね」

「本当よ。マジで人魚姫ね」

「姫なの?」

「姫よ、決まってるじゃない。こうやって運んでもらうなんて、お姫様待遇でしょ」

 楽しそうな人魚姫を連れて、満月に向かい坂を登っていく。

「いっちゃん、腕貸して、歩きたい」

 坂を登り切り、姫のご要望に応えるように腕で支える。妃夜ちゃんは片手に松葉杖、もう片手を僕の腕に預け、ひょこひょこと歩いた。

「やっぱり、ここからの眺めは最高よね」

 万感胸に迫るように、妃夜ちゃんは普段よりも少しだけしんみりと、そう呟いた。

「妃夜ちゃん、僕、妃夜ちゃんに謝らなきゃ」

「ん? 何を?」

「妃夜ちゃんの足、もしかしたら、僕が海水とか持って来なきゃ、途中で動かなくならなかったかもしれないのに……」

「あー、そんな事気にしてたのね。いいのいいの、いっちゃんが私の為に頑張ってくれたんだし、その気持ちはめっちゃめちゃ嬉しかったし、そもそも、本当にその所為で足が動かなくなったかなんて、わっかんないしね」

 そこで妃夜ちゃんは、僕の腕に強く抱きついて来た。まるで甘える猫のように、顔を擦りつけてくる。

「まぁ、全く悔しくないかって言ったら、そんな事無いし、寧ろめっちゃめちゃ悔しいなぁって思う訳だけど、それはそれよ。そう思うって事は、私がそんだけ、走る事が好きだったって証でもある訳だからさ」

 人魚姫の瞳から、不意にぽつりと、塩水が零れ出る。

 妃夜ちゃんが転んだ時、立ち上がれずにいた妃夜ちゃんを助けたのは、彼女を遠巻きに見ていた陸上部のメンバーと、先生だった。もしかしたらそれは、学校としての恥を晒したくないだけの行為だったのかもしれない。だけど、それは僕の目にはとても暖かいものに映ったし、罪悪感からの行動だったとしても、妃夜ちゃんが救われたのなら、それで充分だったと思う。

 失格になってしまったのは、残念だったけれども。

「いっちゃん、私ね、絶対にこの病気治して、また走れるようになるから。その時は、また一緒に練習して貰える?」

「うん、いいよ。また一緒に、水の中に潜るよ」

「水の中?」

「僕もね、妃夜ちゃんが走ってる時、一緒に水の中に居たんだ。世界がゆっくりになって、全部に包まれてるって、あんな感じなんだね」

 そう告げると、妃夜ちゃんは喜色満面で僕の腕に強く抱きついてきた。

「そっか~、いっちゃんも一緒に走ってくれてたのか~」

 嬉しそうに、泣きそうに笑う妃夜ちゃんの姿が、月明かりに照らされる。

 坂の上から下界を見つめる人魚姫は、これから再び人の足を手に入れる為の旅に出る。時間はかかるかもしれない。だけど、再び彼女がその足で、水の中を駆ける姿を願う人間は、少なくとも、ここに一人いる。


 翌日の朝。

 病院へと向かう妃夜ちゃんを、僕達は家族で見送った。

「じゃあいっちゃん、たまにはお見舞いに来てくれてもいいんだからね」

 元気一杯に手を振る妃夜ちゃんは、海の近くの病院に入るのだと言う。

「絶対行くよ、自転車で」

「うん、待ってるね」

 妃夜ちゃんを乗せた車が段々見えなくなる。

 僕は遂に、妃夜ちゃんに言えなかった事が一つだけあった。

 散々彼女を悩ませて、夢まで奪ってしまうかもしれないその病気。明るく振る舞ってはいても、辛いに違いないその病気。だけど僕は、妃夜ちゃんの人魚姫のような足を見る度に、こう思ってしまっていたのだ。

 ああ、なんて綺麗なんだろう、って……。

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坂の上の人魚姫 泣村健汰 @nakimurarumikan

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