第10話
高昌郊外から、積石庵に戻る道中。飛廉に乗りながらバガトゥールは驪龍に尋ねた。
「ねえ先生、俺の両親て死んでるんだよね」
「ああ……お前しか生き残らなかった」
「……うん」
それは幼き頃から幾度となく聞かされていた自分の出自。
「でもね、先生。俺、今日、母さんに会ったかもしれない」
「母に?」
「不思議な人だった。その人、とても綺麗で俺のこと“息子”って呼んだ。それから獅子に乗って空に消えていったんだ。ねえ、先生。どう思う?」
それは“
「彼女とはそのうちまた会うから、その時“本当のこと”を訊くと良い」
「また会えるの? 嬉しいな」
バガトゥールが抱えているもの、それは驪龍と過ごす日々の中で、ゆっくりと浄化されていっている。“金山の魔女”はその変化を待っている。今の驪龍が解っているのはそれぐらいだった。
そして“魔女の業”が成るのは、まだ遙か未来。彼らの生きた時代よりずっと先のことであった。
「もう起き上がって大丈夫なの?」
雪豹は胡床から起き上がって外を見ている女狐を見ていった。
戻ったときは起き上がれないくらい弱っていたのが嘘のようだ。
「ああ、ありがたいね。あの仙薬は効いたよ」
女狐は胡床に腰掛けると言った。
「寿命なんだから、飲む気はなかったがね。でも飲まないと紫陽先生に怒られるから仕方ない」
彼女はケラケラと笑った。
「お頭は本当に紫陽先生と仲が良いよね」
「ああ、昔の情夫(おとこ)だったって言ったら信じるかい?」
「――まさか」
一呼吸置いてから雪豹は言った。
「だって、好みじゃないだろ」
「正解。よく解ってる」
女狐は笑いながら言った。楽しそうに笑う彼女を見て、雪豹は急に寂しくなった。
「お頭、本当に行っちゃうのかい?」
「ああ、これが私らの宿命だからね」
女狐は雪豹の頭を撫でた。
「ありがとうよ、雪豹。最後に私のところに来てくれて」
知らない間に、雪豹は涙を流していた。
「しけた面してるんじゃないよ。情けない」
女狐は雪豹の頬をパシパシと叩いた。
「まだ行かないよ。他の息子たちが帰ってくるまではね」
彼女は力強く言った。雪豹の涙は止まるどころか、さらに量を増やした。
彼女はギュッと強く雪豹の肩を抱いた。
「何弱気になってるんだよ。私らはどうやったって、天帝に憎まれる存在。だから最後まで足掻くんだよ。お前も、強くお生き」
雪豹の涙は止まらなかった。女狐はただただ、優しく彼の頭を撫でていた。
高昌から阿耆尼へ行く道は、いくつかの山を越えなければならなかった。少女たちは道中をしっかりとあつらえた馬車の中で過ごしたが、何故か姫だけは黒豹と一緒に馬に乗ることを望んだ。
いつもの調子で押し切られた黒豹は、自分の馬に姫を乗せ、彼女の他愛のないおしゃべりに一日付き合わされた。嘘がバレて結局同行することになった石亀たち三人は、その様子を見ては顔を見合わせてニヤニヤと笑った。
道中は順調に進み、三日目には無事、阿耆尼の王都に着いた。
黒豹は懐から驪龍から託された封書を開けてみた。と、中からけたたましい音楽とともに十数騎の兵馬が出てきた。
その音色を聞いて胡服の男は歓声を上げた。
「秦王破陣楽じゃないですか。これ」
嬉しそうに言う彼に、黒豹は冷ややかな視線を浴びせた。
「え? 何か変なこと言いました?」
「お前、唐軍抜けたくせにこんなの好きなのかよ」
「良いじゃないですか、好きなものは好きで」
馬車を付け替えながら言い合っている二人のところに、姫が駆け寄ってきた。
「ああ、お嬢さん。もうちょっとで終わるから待っててくれ」
「――お嬢さんじゃありません」
姫は、自分の腕輪を外すと、黒豹の腕にはめようとした。しかし、彼女の腕は細すぎて、黒豹の腕はたくましすぎて、どうしたってはめようがなかった。
それはかみ合わない彼女の恋そのもののようだった。
姫は腕輪をはめることを諦めると、それを黒豹の掌にギュッと握らせた。
「これ、絶対、ずっと持っててくださいね」
半べそをかきながら彼女は言った。
「それから、私の名前はチャンドラマーラー。忘れないで。絶対」
「お、おう」
「だから、私のこと、ちゃんと名前で呼んでください」
「お嬢さ……」
「名前で!」
「チャンドラ……マーラー」
姫は、自分の名を呼ばれて、にっこりと微笑んだ。でも両目からはポロポロ涙が溢れていた。
「ありがとう、黒豹」
彼女はもう一度、ギュッと黒豹の手を握った。
「忘れないで、絶対……もし、この周辺であなたの身に何かあったら、この腕輪を示して私の名を呼んでください。絶対に、あなたのこと、助けますから」
「ありがとうな、おじょ……チャンドラマーラー」
彼女は、黒豹の指に口づけをすると、急いでアイーシャの待つ馬車に乗り込んだ。そしてアイーシャに抱きつくと大声で泣いた。
「姫様……」
アイーシャは彼女の背中を優しく撫でた。
「アイーシャ、解ってるの。解ってる。自分の役割。でも……」
「いいんですよ。所詮、私たちは国の政(まつりごと)の手駒。でも、気持ちは別ですから」
「いいよね、この気持ちずっと持ってても……」
「ええ、もちろん」
姫はアイーシャの腕の中で思いっきり泣いた。
やがて馬車は動き出した。阿耆尼の王都に向かって。
その後、姫は、後嗣にこそ恵まれなかったが、神兵に守られた姫として婚家に大切に扱われ、短いながらも幸せな生涯を閉じた。
「初恋ですね、あれ」
王都へ向かっていく亀茲の姫たちを見送りながら、胡服の男は黒豹に言った。
「もうちょっと、こう、良い感じにできなかったんですか?」
「るせー、バカが」
黒豹はフンと鼻を鳴らしながら言った。
「相手にするにはガキ過ぎるよ」
黒豹は、姫がくれた金の腕輪を握りしめた。
「おい、“忘れん坊”、そういやこの呼び名、何とかならないか」
「何とかって……あんたが勝手にそう呼んでるでしょうに」
呆れた様に胡服の男は言った。
「こう、何だ、うん、盗賊らしいな、言い感じな名前にしないか」
「は? 盗賊って?」
「え? これから行く
「いや……ないです」
「じゃあ、戻るしかないだろうに。いくぞお頭が待ってる」
「……え?」
胡服の男の返事を聞かぬまま、黒豹たちは“忘れん坊”の新しい名前について馬鹿馬鹿しい議論を始めた。結果として、彼は女狐の「最後の手下」として彼女から紅雨という名前をもらい、のちに雪豹とともに黒豹の良き片腕となるのであるが。
貞観20年(646年)、唐は亀茲王国を滅ぼすと安西都護府を高昌から亀茲へ移し、広大は西域諸国は、唐が支配するところとなった。
その頃には、もう人々の記憶から女狐の名前は消えていたが、その代わり黒豹と雪豹が西域中にその名を轟かせていた。彼らは唐軍相手でも義を貫き、女狐の魂を唯一受け継ぐ盗賊団として、天山双盗――義盗の黒豹と知盗の雪豹と、畏敬の念をもって呼ばれるようになった。
鎮綏椀傳奇 るりゆうり @iroiro_ruriyuri
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