ドジっ子介護福祉士ヨリコさんのデイケア

水原麻以

第1話

 某月某日。都内のある介護施設で「介護職員処遇改善加算の施設職員研修」が行われた。

 これは厚生労働省が補助金を出して職員の資質向上を目指すものだ。義務ではないが、施設が職員のために毎月一回の講習を開催すると得をする。得られた収入は維持費や給料に上乗せされる。これがすずめの涙と思いきや結構な金額で1時間分の時給ほどある。講習と言っても仕事上に必要な知識のおさらいといった内容であるし、お菓子をつまみながらビデオやテキストを見て、おためごかしのレポートを提出するだけである。

 口の悪い人は税金でお茶会しているという。

 とはいっても、介護職じたいが3Kの薄給である。月に8回夜勤して手取り15万円に届かない。それぐらい許されたっていいじゃないか。

 さて、その施設。仮の名前を「グループホームぱやぱや園」としよう。非常勤職員の頼子は研修の宿題を申し渡された。次回の研修テーマは「前頭側頭葉変性症患者の問題行動」だ。

 遅番が明けてスーパーで見切り品3個60円のコロッケを買ったあと、頼子はブックオファーに寄った。夜遅くまで中古DVDやゲームなど見積もり査定を待つ客でにぎわっている。

 頼子は専門書の棚から介護福祉士試験の過去問題集を取り出した。合格から5年も経つと記憶があやふやになる。

 ページをめくると医学に関する分野にたどり着いた。

 前頭側頭葉変性症というのはアルツハイマー型でも脳血管性認知症でもない第三の認知症と言われる。

 端的に言えば何らかの理由で脳が委縮してスッカスカの状態になる。MRIで患者の大脳を撮影すると?せ衰えた脳細胞の間に蜂の巣状の空洞が広がっている。これは死ななきゃ治らない脳の難病で現代医学では進行を遅らせることは可能でも食い止める事が出来ない。

 とても恐ろしい病気だ。

 頼子はブラックホールのようにどす黒い参考写真を見て身震いした。

 空洞化した大脳は日常の生活動作に支障をきたす。症状が進行すると命の危険すらある。

 そこまで読んで頼子は裏表紙を見た。

「んーっと、500円かぁ。高っか~」

 ワンコインがあればファミレスのハンバーグランチが食べられる。隔月に一度ぐらいの贅沢だ。頼子は目を皿のようにして記事を暗記した。

 二つ折り携帯を開いて忘れないうちにメモする。すると未読メールが溜まっていた。

 投稿サイト「書くぞ次郎」(通称次郎)の新着情報だ。お気に入り登録してある凌辱ショタ作品の更新状況がいくつか。

 そして普段は見慣れない通知が届いている。

新機能違反者速報実装のお知らせ? うぅわ! 次郎も平常運転だなあ」

 次郎運営の規約違反に対する情け容赦ない断罪っぷりは幅広い反感を買っているが、違反者を晒し上げる機能は炎上の燃料になるだろう。

 名指しされている会員は既に過去の人だ。しかし、違反の事実と理由は半永久に刻まれる。これはキツイ。

「でも、何をやらかしたんだろ~」

 頼子も下衆の子である。いわゆるメシウマのたぐいに目がない。怖いもの見たさにリンクをクリックした。

 出るわ出るわ、違反者速報のページを辿ると山のように処罰されている。最も一般的な理由が盗作だ。次に多いのが画像の著作権侵害だ。

 悪質なケースになると次郎運営から再三再四警告されたにも関わらず除名処分されている。

「いい大人が何をやってるんだろうね~」

 頼子は半ば呆れつつ携帯を閉じた。壁の時計を見ると23時を回っている。ワゴン車が店の前の駐車場に大挙して、民度の低そうな層の家族が降りてきた。

「やっばー」

 頼子は足早に店を去った。

 日付が変わるころ、頼子は机に向かって唸り声をあげていた。

 前頭側頭葉変性症の身近な事例を挙げよという宿題を課されたので、その資料作りに苦心さんたんしていた。

 頼子の両親は健在で介護保険のお世話にもなっていない。現場で知り得た症例は個人情報保護の観点から流用できない。

「困ったなー、おあつらえ向きの症例ってないよー」

 いっそのことネットのブログを切り貼りして捏造しようかとさえ思った。

 しかしそれでは次郎の違反者と同じレベルだ。人間として恥ずかしい。

 頼子はもう一度違反者速報を眺めて自分を戒めた。すると、天啓がひらめいた。

 注意を聞き入れず問題行動を繰り返す人物は医学的に病的と言えるのではないか。携帯メモを読み返すと、素晴らしいヒントが埋もれていた。


 ピック病である。

 前頭側頭型認知症患者いわゆるピックの特徴は前頭葉や側頭葉が委縮して人が変わったようになったり、不可解な行動を繰り返すようになる。

 記憶喪失や判断能力が低下するアルツハイマー病と比べて、ピックはうつ病や統合失調症の症状と間違われやすい。

「思い出した、思い出した。確かアラフォーから還暦の働き盛りに多く見られて、急に怒りっぽくなったり、決まった時間に同じ行動を繰り返したりするんだよね」

 頼子は背後の本棚から介護福祉士試験のテキストを取り出した。よれよれになっているが、一発合格を叶えてくれた功労者だ。

 出題範囲には看護師並みの医学知識が盛り込まれている。介護福祉士は医療行為の一部が許されているし、高齢者が急変した場合に救急車が到着するまでに症状を把握して救急処置を行わねばならない。

 頼子はテキストを読み進めた。

「えーと、ナニナニ。初期のピック病患者は一日のうちでも、日常生活動作を普通に行っているように見える時間帯と期間限定でで問題行動する時間帯があります」

 怖い病気だなと改めて認識した。解説によると、一般的に人格者とされているようなベテラン学校教師が万引き常習犯として逮捕された際にピック病が発覚した例もあるという。

 その他、夕方に決まって家庭内暴力をふるったり、同じメニューの外食を続けるような場合に発症が疑われるという。

 ところが、病気に対して周囲が無理解なばっかりに、モラルの欠如や反省の色が足りないと誤解する例が多数ある。

「じゃあ、違反者速報で晒されている人の中にもピック病の患者が潜在しているのかも。病気のせいかも知れないのにね」

 ピック病は中高年層の性差に関係なく誰でも発症する。そして何よりも恐ろしいのは発生のメカニズムや検査方法が確立されていないことだ。

 これといった自覚症状もなく、本人が知らないうちに問題行動を起こしてしまう。財布に高額紙幣が入っているにもかかわらず、無意識に万引きしてしまうこともある。

 病状が進むと言語障害や健忘が激しくなり、最後には重い認知症に陥る。

 頼子はレポートをまとめ、翌日の研修でインターネット投稿サイトにおける画像の無断転載について発表した。


「注意を聞き入れず、画像を無断転載をくりかえす人の脳をMRIで撮ると同様の空隙が発見される可能性があります」

 頼子が締めくくるると拍手が沸いた。

「全ての人がそうであると断言できないけど、問題行動はピックの早期発見につながるかも知れない。介護職員は予兆を見落としてはいけないね」

 リーダーがすかさずフォローする。

「そうです。いたずらに不安を煽ったり、モラルの欠如だのや知能指数の不足だのや性格の問題など的外れな指摘で患者を貶めてはいけません。病状を広めて正しい理解を得ましょう」

「そうだね。頼子さんの言うように、心ない暴言や病気に対する悪印象の植え付けで一番苦しんでいるのは本人だ。病気にモラルや自己責任論を当てはめたら、病人は早く死ねっていう暴論に行き着く」

「はい。また逆に病気でもないのに要注意人物をピック病認定して患者に対する誤解と偏見を招くことがあってはなりません。病気と個人の評価は無関係です」

「職員のみなさん。介護福祉士の責務を覚えていますか?」

 リーダーが抜き打ちテストを仕掛けた。有名無実化した講習会だと高を括っていた職員はコーヒーを噴出した。

「はい、奥野さん」

 すかさず、リーダーが名指しする。

「え、えーとスキルアップを怠らず、地域の介護保険が巧く回るように工夫するとか何とか」

 何とも心もとない奥野。

「大丈夫ですか~。資質向上の責務ですね。介護福祉士法の最初を読み返してくださいね~」

 リーダーがくぎを刺す。

「えーと、リーダーのおっしゃる通り地域の人々にもピック病について知識を広めることが大切です」

 頼子が調子に乗っていると、足元にムズムズした視線を感じた。

「頼子さん!」

 打って変わってリーダーは厳しい口調で責めた。

「って、はい?」

「あなたはトイレのスリッパを履いたままにしてますね。これで三回目ですよ」

 頼子はぎょっとして視線を落とした。

「す、すみません。さっきヒラカワ様のトイレ介助をした時に……」

 ドジっ子の頼子さんなのであった。

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