狼たちの夜
望月あん
狼たちの夜
一九九七年六月三〇日、時計の針が午前〇時五分を指す。
明日七月一日、およそ一五〇年におよぶ英国の香港統治が幕をおろす。
訪れるその瞬間は、はたして夜明けか日没か。こたえはまだ誰も知らない。
* * *
みずからの手や髪に染みついた、枯れ草のようなにおい。
いましがた店に入ってきた男からおなじにおいがして、ロンはわずかに顔をあげた。
深夜、裏通りの茶餐廳に客はロンだけだった。狭い店だが他にいくらでもテーブルは空いている。にもかかわらず男はロンの真後ろの席に落ち着いた。連れでもない男と背中合わせで座るのはあまり気持ちのいいことではない。ロンはひとこと言おうとして振り返る。だが先んじて男が口を開いた。
「ここのおすすめってなに」
仕立てのよいスーツを着た青年だった。言葉にはかすかに訛りがある。前髪の奥の額はまだあどけなく、ロンより若い。ただ、やわらかく笑んだ目元には隈のような翳りが見え隠れした。
ロンは瓶入りのビールをぐっとあおって追い払うように手を振った。
「こんな場末にそんな大それたもんはないよ」
「だったらそれとおなじものにしようかな」
ロンのテーブルには食べ終えた皿がそのままになっていた。
「おれが何を食ったかも聞かないで?」
「そう」
青年の笑顔に呆れながらロンは厨房へ声をかけた。だが中にいるやや小太りの男はテレビに夢中で聞こえている様子はない。ロンは怒鳴るように声を荒げた。
「おい、ホウ! 燒味飯を叉焼と鴨で!」
「ええー? なんだってー?」
「いつもの燒味飯だよ、ばかホウ! さっさとしやがれ」
「せっかくいいところなのに。まったく、ロンは人使いが荒くてしょうがねえ」
「てめえの店だろうが、働け。青菜と白葱はケチるなよ!」
ホウはぶつくさと文句を言いながら重い腰をあげる。それでも振り返ってテレビを見ようとするので、ロンは額を押さえて大きくため息をついた。
そばからくすくすと笑い声があがる。
「仲がいいね」
「ガキのころからの付き合いさ」
ロンはテーブルにあった煙草の箱を掴んだが、いつのまにか空になっていた。
「うらやましい。おれは親が転勤ばかりで、なんでも話せる友人に憧れる」
青年は煙草を取り出し、ロンへ向けた。
「おれはラルフ・リー。よろしく」
「ロンだ」
ロンは体をひねり、目で礼をしながら一本抜き取った。火をもらって煙を吐く。
「あんた、ここへは出張か何か?」
「いや。ああ、訛りか。こっちへ来てもうすぐ一年になるんだけどな」
「もとは?」
「子どものころはカナダで、ハイスクールから英国に。父の故郷がこっちで何度も遊びには来ていたが、いつかここで暮らしたいと思ってた」
頑ななまでに朗らかな目をして語るラルフを、ロンはじっと見つめた。小さな星のようにちかちかと輝く翳りが、かえって彼を美しく清廉にする。翳りは強い決意、覚悟のたぐいだ。
あまりの目映さにロンは失笑めいたため息をこぼした。
「暮らしたかった街は返還前じゃないのか」
「さんざん言われた」
ラルフは天井へ向かって煙を吐き出しながら、もう聞き飽きたと言って続ける。
「七月一日以降の香港に何があるのか、ってね」
へいお待ち、とホウが料理を運んできて会話は途切れた。炙った豚肉と鴨肉が白米を覆うように盛り付けられ、脇には炒めた青菜と刻んだ白葱のソースが添えられている。ラルフはよほど腹が減っていたのか礼を言うやいなや黙々と飯をかきこんだ。
ホウがロンのテーブルに新しいビールをふたつ、ひとつはロンの前、もうひとつは誰も座っていない対面に置いた。
「飲みすぎるなよ」
優しく肩を叩いてホウはテレビの前に戻っていく。ロンは瓶を弱々しく打ち鳴らしてビールを喉に流し込んだ。
ほんの数時間前まで、ここにはラルフよりも若い弟分フーが座っていた。丈夫なだけが取り柄だとよく笑う、誰からも愛される少年だった。かつてロンとおなじ唐楼に住んでいたが、母親が大陸へ送還され寄る辺もなく街をふらついていたので一家へと誘った。半年前に亡くなった先代から孫のようだと可愛がられていたので、ロンは自分の行為を悔いたことはなかった。
ほんの、二時間前までは。
大騒ぎするテレビの音、店の外から聞こえてくる酔っ払いの歌声、人々が道を行き交う気配、ロンにはそれらが遠い世界のことのように思えた。まるでひとり水のなかにいるような感覚だった。目には見えない水が肺へ流れ込んでくる。息苦しさばかりが増していく。
椅子の背にこつんと何かが当たって、ロンは短く息を吸った。ラルフが席を立ったのだとすぐ気づく。ロンはテーブルに両肘をついたまま顔をあげなかった。視界の端にラルフのスーツが見える。
「待ちぼうけ?」
「いや……、もう来ない。さっき死んだ」
ラルフはすこし黙り、ややしてから瓶の横に煙草を置いた。
「実はおれもさっき上司を亡くした。父の学生時代からの友人で、この街で働けるよういろいろと世話をしてくれた人で……、たぶんこれから父親みたいな存在になるはずだった」
「そうか」
ロンは驚かなかった。すぐそばに立つラルフからは、やはり自分とおなじにおいがする。
顔をあげると先にはラルフの冷たい目があった。それはいつか映画で観た、闇夜で閃く獣の眼差しとよく似ていた。
窓際のソファに寝転んでくすんだ窓から夜明けを見つめる。朝から晩まで話し声や物音の絶えない街も、夜明けの瞬間だけは不思議な静寂に包まれる。ふと自分以外の人間はみなどこかへ行ってしまったのではないかと不安になる。ロンははじめてこの街へ来た日の朝を思い出す。ともに故郷を飛びだしてきた幼馴染はたどり着く前に高熱と嘔吐で死んだ。ほかにもロンとおなじように未来を求めてここを目指した少年少女がいた。ひとりで過ごす夜は悲しいからと身を寄せあった。彼らがはたしていまどうしているのか、そもそも街までたどり着いたのかロンは知らない。ただ、あの日の朝の、海から吹きつけてきたすこしぬるく湿った風だけは忘れない。
夜はみるみる色褪せていく。静かな夜明けが喧騒に飲まれる。返還前最後の朝はいつもと変わらず訪れた。
目を閉じるとまぶたの裏に朝焼けの残滓が漂う。ほんのり赤みを帯びた影は大きくなったりやわらいだりして鼓動のように滲んでちらつく。ロンはひとときまどろんだが、すぐに蒸し暑さで目を覚ました。眠りなおすことはせずシャワーを浴びて仲間がいる旺角へ向かった。
早朝とはうってかわって、いまにも降り出しそうな曇り空が広がっていた。湿度の高い、いやな暑さが首筋にまとわりついてくる。ロンはジャケットを脱いでシャツのボタンをひとつ外した。
バスに乗り、乗客が読んでいる新聞をちらりと見やる。返還関連の記事のほかに、昨夜の旺角での事件について組織犯罪対策課の警部補が殉職したことを大きく報じていた。一方、ロンたちクワン一家とジャン一家の死傷者については多数との記述のみだった。
フーの遺体は警察に回収された。おそらく骨は警察から直接、母親のいる深?へ送られることになる。香港生まれで香港育ちのフーは骨になった途端この街を去る。
バスを降りるころには小雨が降り出していた。ロンは濡れながら彌敦道の西、花園街に向かって歩く。動き出した街は人でごった返していた。道にずらりと並んだ露店では客との値段交渉に暇がない。カゴを担いで商売をする老女もいる。街角では新聞売りが声を張りあげ、似顔絵描きが鳩に餌をやりながら煙草をふかした。
花園街の手前で露天の間をすり抜けて奥の建物の階段をあがる。狭く薄汚れた通路の先に見慣れた顔があった。
「ロン兄貴」
先日二十歳の誕生日を祝ったばかりのヤウが泣き腫らした目をして駆け寄ってくる。
「兄貴、レインも腹を撃たれて意識がないって」
「ボスはまだ警察か」
「ああ。病院には姐さんが」
「そうか」
ロンはヤウの肩に手を置いた。ヤウは顔を歪めて唇を噛む。
「なあ兄貴、昨日は何があったんだ」
「ジャンだ。あいつらに取引現場を襲われた」
昨夜の取引では店の奥にクワンとロンが、入口付近にはフーのほか数人がいた。そちらから声があがったと思うと続けて銃声がして、フーが駆け込んできた。
『ボス、兄貴、逃げてください! ジャンのやつが襲ってきやがった!』
さらに何か言おうとしたフーの胸から乾いた音とともに血が飛び散った。ロンはそのときのフーの驚いたような顔が忘れられない。弱々しい蛍光灯の下、いっそ黒いような血が床に広がる。ロンはフーを撃った男にありったけの弾を食らわせた。それでも収まらないので表へ出て行こうとすると、クワンに取引相手を逃がすよう命じられた。
話を聞き、ヤウは声を殺して泣いていた。
「なんでだよ。なんでフーが、あんないいやつが死ななきゃならない。だっておれは、まだあいつに借りがあるのに……」
ふたりは年が近かったこともあり本当の兄弟のように支え合っていた。ロンにはかけてやれる言葉がない。ただ、ヤウの震える肩を強く掴んだ。ヤウの口から何度もちくしょうとこぼれる。そのたび彼の握りしめた拳の上に涙が落ちた。
ひとしきり吐き出したのか、やがてヤウの体からふっと力が抜ける。
「でもなんで、ジャンはこっちの取引のことを知ってたんだ」
「それはまだわからない」
半年前、先代はあとのことを息子のクワンに託して逝った。だが甥のジャンがそれを不服として数名の配下とともに新しい一家を名乗るようになった。これまで何度も取引を妨害されたり店を荒らされたりなどしていた。
クワンはジャンを咎めることはしなかった。血の繋がりがそうさせた。なんの保障もない街で頼れるのは血と絆だけだ。それがわかっているから、ロンもクワンを責めはしなかった。
だがもう一度は、ない。
取引相手を船着場まで届けるとロンはすぐに取って返したが、店の周囲には思いのほか多くのパトカーがすでに集まり近づける状況ではなくなっていた。茶餐廳でラルフと会うのはそれから一時間ほどあとのことになる。
あのときの硝煙のにおい。あれはきっとロンとおなじ場所でついたものだ。確証はないがロンはそう思っていた。はたしてラルフのような青年がジャンのもとにいただろうか。ロンの頭の隅には引っかかるものがあった。バスで見た新聞を思い出す。組織犯罪対策課の警部補が殉職したという記事を……。
携帯電話が鳴る。出るとクワンからだった。
「今晩やつらのほうで取引がある。場所はあとで使いを出す。人数を集めておけ」
「わかりました」
用件のみで電話を切る。ヤウを見やると、もう泣いてはいなかった。
香港島であがる花火が車のサイドミラーに映る。
コンテナターミナルの近くで車を降りると、ふたたび雨が降り出した。傘などない。いくらも歩かないうちに、みなずぶ濡れになった。濡れたジャケットが実際よりも重く感じられて、ロンはふと笑みを浮かべた。
雨音に混じってコンテナの向こうから話し声が聞こえた。ロンはその場で立ち止まる。聞き覚えのある声だ。ジャンに間違いなかった。ロンはヤウたちと目をあわせた。ベルトに挟んでいたグロック17を引き抜く。銃身を額に寄せて深呼吸をする。穏やかな心地だった。ロンは身を翻し、漫然と振り返った男の頭を撃ち抜いた。
ほんの短い沈黙ののち、わっと人が入り乱れた。怒号と銃声が飛び交うなか、ロンは逃げていくジャンの後ろ姿を見逃さなかった。追いかけようとして視線を逸らした瞬間、脚に強い衝撃を受けた。撃たれたとすぐにわかった。だがロンは痛みに構うことなく足を引きずるようにして走った。
追っているとジャンの去った方角から銃声がした。続けて何度も響き渡る。ロンはコンテナの陰に身を隠しながらじりじりと音のしたほうへ近づいた。か細い声でジャンの命乞いが聞こえる。相手は何も言わなかった。ひとつ銃声がして事切れる気配がした。ロンは銃を構えて飛び出した。
「誰だ」
相手はすぐに気づき、すかさずロンに銃口を向けた。互いの銃口を左目で見つめながら、揃って驚駭の息を洩らした。
「あんたか……」
そこにいたのはラルフだった。ロンはラルフの足元を一瞥する。ジャンの体はぴくりとも動かず、血は雨に滲んで儚くなっていた。
「どうしてあんたが」
「たぶん、おなじ理由だと思う」
ラルフは不自然なほどさわやかに笑う。それはひどく寂しげな微笑みだった。
「おれたちはおなじ因果に導かれて、昨日、そしていま言葉を交わしてる」
「あんたデカだろう」
「気づいてたか」
「こんなことしてどうするつもりだ」
「報告書を提出するさ。審議になるだろうけど、大丈夫、正当防衛は認められる」
本気かと問いかけようとして、ロンはその愚かさに気づく。
「思いのままか。まるで神だな」
「神ならもっと全能でありたいけれどね」
「おれをつけてきたのか」
「クワンからはなにも?」
「どういうことだ」
「彼にこの取引のことを教えたのは、おれなんだ」
「なんだって」
「うちの上司は昔からジャンと繋がっていたようで、昨日のクワンの取引情報を流したのも彼だ。ただ警備体制が強化されてるせいでジャンの想定より警察の到着が早かったんだろう。はめられたと思ったみたいだ。脚に二発ほどぶち込んだらすぐにべらべら喋りやがった。自分が撃った、と」
鼻すじに皺を寄せ、ラルフは奥歯を噛みしめる。ロンのもとにまでその音が聞こえてくるようだった。
「この取引の情報はどこから仕入れた」
「昼間、ジャン本人から。おれが警部補のあとを継ぐと言ったら縋るような声で、この辺りにはパトロールを回さないでくれと」
ラルフは冷たい目をして口を歪めた。
「最後までおれに命乞いをして、無様な」
彼が抱く憎しみを、ロンはむしろ好ましく思った。それは剥き出しで飾るところのない獣の牙であり、また、ただ切実にかなしいと嘆く遠吠えでもある。どこまでも実直でうつくしい姿だった。
視界の端で動くものがあった。ロンはラルフの体を押しのけて暗がりに向けて銃を撃った。片足を一歩後ろへひいてこらえる。雨で煙る道先にジャン配下の男が音を立てて倒れた。ロンは肩で息をした。あいた手で脇腹を撫でる。濡れていた。雨ではない。あたたかかった。
こめかみに銃口が押し当てられる。ロンは目だけを動かしてラルフを見つめ返した。銃を伝って降る雨はいっそう冷たい。
「撃たないのか」
「撃つはずがない」
どういうことか訊き返そうとすると、後方からヤウの声があがった。
「てめえ……! 兄貴になにを!」
そのときロンはラルフの思惑に気がついた。銃を向け合うふたり、足元のジャンの遺体、互いを行き交う冷たい視線。ヤウにはまさか二四時間前におなじ火で煙草を吸っていたようには見えないだろう。
「兄貴を撃ってみろ、すぐさまおれが殺してやる!」
ヤウは両手で銃を構えて声を震わせていた。
「やめろ、ヤウ!」
ロンは前かがみになっていた体をゆっくりと伸ばし、もう一度ラルフに銃口を向けた。一歩、また一歩ラルフから離れる。
ふたりはおなじ世界に住みながら異なる群れの狼だ。互いに共感することはあっても、決してともに生きることはない。
激しい雨音に混じってパトカーのサイレンが鳴り響いた。ラルフの視線がそちらへふと逸れた瞬間に、ロンはヤウの腕を掴んだ。
「行くぞ」
「兄貴、怪我を」
「掠っただけだ。まだ走れる。先生のところへ行こう」
「わかった」
ヤウを先に走らせてロンは後ろを振り返った。ラルフが厳しい声を張りあげた。
「今日の借りは必ず返すぞ、ロン!」
ロンは微笑みには至らないやわらかさを口もとに浮かべて、ヤウの運転する車に乗り込んだ。時計を見ると、すっかり日付は変わっていた。
ワイパーに押しやられた雨がフロントガラスの端を滝のように流れる。街にあふれるネオンを吸って、雨は金色に染まっていた。
狼たちの夜 望月あん @border-sky
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