ドロップ
望月あん
ドロップ
雨が降りしきる夜だった。電話越しの上原の声は激しい雨音に途切れがちになった。
「先生、全部捨ててくれよ」
なぜはもとより、何をとも言わない。
「後生だからさ……」
「勝手なことを言うな。いまどこにいるんだ」
「大丈夫、どこも怪我してないから」
「質問に答えろ」
上原はいつだって一方的な男だ。凛一郎もこんなやりとりには慣れてしまっている。だがこの夜だけは胸騒ぎがやまなかった。
「先生、あんたはカタギだし、いのちを救うことのできる立派な人だ。これからはまっとうな人たちのためにその右手を使ってよ」
「そもそも誰のせいでそっちに片足突っ込むはめになったと思ってる」
凛一郎が毒づくと、上原はなぜか満足げに笑った。
「ほんとごめん。巻き込んじゃって」
素直に謝られるとかえって落ち着かない。
「俺は医者だ。患者にやくざも堅気もない」
「だったらなおさら、患者の最後の願いを聞いてやって」
小声でぼそぼそと呟くので、聞き取るだけで精一杯だった。上原はそんな凛一郎の沈黙を了解と受け取った。
「じゃあね先生」
「おい、上原!」
これまで何度この男を呼び止めたかしれない。傷も塞がらないうちに動こうとしては、ぶっ倒れたらまた先生が治してよと無邪気に笑う。医者の言うことをまったく聞かない男だ。
だがいま上原は何と言った。
「じゃあね、だと」
凛一郎は立ち尽くしたまま、静かになった携帯電話を握りしめた。
頼みなど聞いてやるものかと思っていたが、時間が経つにつれ決意は弱くなっていった。結局この数年で上原が持ち込んだ段ボール箱や紙袋を車に積み込んで港へ向かった。
荒れ狂う夜更けの港に人気はない。凛一郎は傘もささずに荷物を運び出した。型の古い携帯電話、何種類ものパスポート、運転免許証、大量の記録メディアなどを暗い海へ投げ込む。ひとつひとつは重くはない。だが繰り返しているうちに腕は痺れていくようだった。最後のひとつを持ち上げようとするが、思うように力が入らない。強引に引っ張ると紙袋が破れて中身が辺りに散らばった。かつて上原に頼まれて書いた死亡診断書の写しだった。
「くそ、なんで俺がこんなこと」
ずぶ濡れになりながら這い蹲って掻き集め、そのまま海へとなぎ払う。破れた紙袋を掴み取ると夜目にもあざやかなドロップ缶が転がり出てきた。振ると飴玉よりずっと硬質な音がする。上原は食らった弾を貯めていた。
手のひらに出すと、いくつかがこぼれて闇へと消えていった。残った弾を強く握る。雨に濡れた鉛玉はいっそう冷たかった。
一度目の出会いを凛一郎は覚えていない。上原が親父と呼ぶ男の手術を当時大学病院に勤めていた凛一郎が執刀した。手術自体は覚えているが、家族や付き添いの顔までは記憶にない。そのころ母が癌で亡くなり、それを機に父は長年続けてきた診療所を閉めた。父は継げとは言わなかった。だからこそ凛一郎は診療所を引き継ぐことにした。
二度目の出会いは夜だった。父は腰を患い半年前から施設で暮らしていた。独り身の気儘さを味わいながら近くのコンビニから帰ってくると、診療所の壁際に男が倒れていた。声をかけるも返事はない。凛一郎は男を中へ運び込み処置を始めた。服を破った瞬間、肩口の龍に睨まれる。傷口は銃創だ。凛一郎はなぜうちに、なぜ、と胸のうちで繰り返しながら治療を終えた。
「やっぱり佐田先生だ」
目を覚ました患者は開口一番そう言った。
「事情は聞かない。痛み止めもやる。だからはやく帰ってくれないか」
「病院の名前が見えて、先生じゃないかと思ったんだ。よかった、先生で。先生は親父のいのちの恩人だから、先生ならきっと俺のことも助けてくれるって信じてたよ」
意識がまだ朦朧としているのだろうと、凛一郎は取り合わなかった。
「先生は右利きだね」
男は隈のある目元を人懐こく細めた。凛一郎より年若い。まだ二十代のように見えた。
「いまいる俺は先生の右手で作られたんだ」
「作るなんて大げさな」
「ありがとう先生」
腹に巻かれた包帯をまさぐり、傷口を上から撫でる。そうしてもう一度ありがとうと微笑った。
男は上原悠と名乗った。悠という響きが似合わないから下の名では呼ばないでくれと言う。凛一郎は、お前の名など上も下も呼んでやるかと翌朝家から放り出した。しかしそれからというもの上原は怪我に関係なく診療所に出入りするようになった。不思議と邪魔にならない男だった。ずっと前から友人であったように錯覚する。話しているときも無言であるときもそこに居ることが自然で、荷物が増えることも、触れたこともない患者の死亡診断書を書くことも、凛一郎には違和感がなかった。
「先生は結婚しないの」
上原はスマートフォンをいじりながらさらりと言い放つ。
「おまえはお隣のヤスばあさんか」
「医者だしかっこいいしモテそうなもんなのにね」
「最大限褒められたと思っておくよ」
「俺さ……」
珍しく言い淀んでそっぽを向く。先を促すと前髪をがしがしと掻き乱してようやく口をひらいた。
「なんか子ども生まれるらしい」
「いつのまに結婚してたんだ」
「してない。昔からの腐れ縁で、なんか……来てないらしくって」
「病院には」
問いかけに、上原は子どものようにそっけなく頷く。
「そうか、おめでとう」
「いいのかな」
「なに言ってんだ」
「だって俺こんなだし、それで生まれてきて幸せなのかな」
「ばかなことを」
凛一郎は空になった煙草の箱を握り潰して上原に投げつけた。こつんといい音がして床に落ちる。上原はそれをじっと見つめていたが、やがて妙に静かな声で先生、と呼んだ。
「先生はどうして先生になった?」
「まあ……いろいろあるが、結局は父親が医者だったからかな」
「だよね。俺もそう。親がやくざだった」
凛一郎は上原の言わんとしていることに気づいて鼻で笑った。
「選ぶのは本人だ」
「やくざなんて嫌だ最低だと思ってた。なのに気づいたら俺もおんなじクズになってて」
「だったら子どものために堅気になれ」
「はは……」
力なく笑って上原は腰かけていた処置台から降りた。足元の煙草の箱をごみ箱へ投げ入れる。上原の背中には肩と対になる龍が棲んでいた。二匹は上原の過去と未来をじっと見据えていたが、上原自身はどちらからも目を逸らしているようだった。
「もし俺が死んで、なにかの間違いでまた人間に生まれ変わることができたら、今度は先生みたいになるよ。その代わり次は先生がやくざになって」
真新しい包帯の上に血まみれのシャツを羽織って上原はいつものように笑おうとしたが、顔が歪むばかりで笑顔にはならなかった。
翌日から長い雨になった。
目の前に座る人が白い靄のようにぼんやりとしか見えなかった。凛一郎は目をこすり、額を押さえた。
「大丈夫かい、顔色が悪いよ」
診察中のヤスばあさんが皺々の手を伸ばして白衣を引っ張った。
「まるであんたのほうが病人だね」
「すみません、すこし眩暈がしただけです」
「医者の不養生っていうからね、気をつけるんだよ」
ヤスばあさんはブラウスの袖を戻しながら、そういえばと呟いた。
「最近あの若いの見ないけど元気かい」
「え」
「ほら、ちょっと猫背のひょろりとした子だよ」
「あ、ああ……、さあ、どうでしょうね」
「あの子ねえ、私が雨戸で難儀してたら、ひょっこり現れて閉めてってくれたんだよ。次来たら夕飯でもごちそうしようと思ってたんだけど」
凛一郎は処方箋をヤスばあさんの前に差し出した。
「なんか転勤とかなんとか言ってましたよ。これ、いつもどおり二週間分です」
「そうかい。じゃあ、あんたから礼しといてよ。はいはい、ありがと」
ヤスばあさんを玄関先まで見送って、凛一郎は休診の札をかけた。かつての癖で門扉を開けたままにしていたので、それもそっと閉める。
空は高く淡く澄み渡っていた。ため息のように滲む夕景を目で辿って、膨れあがった太陽を家々の隙間に見つける。真っ赤に熟れた果実のようだった。今日という日を抱えきれずに垂れ流しながらゆっくりと朽ちていく。かち割ったなら、きっとぐずぐずになった光があふれ出てくる。凛一郎は、ならば自分のなかからは何が出てくるのかと想像した。だがすぐに、自分には何もないことを思い知る。すべてあの海に捨てたのだ。凛一郎はジャケットに着替えて港へ向かった。
上原の荷物を捨てたことがどこからか露見して、見知らぬ誰かに殺されるのではないかと思っていた。だがそんな誰かはついぞ来ない。上原もまた凛一郎の前から消えた。生きているのか死んでいるのか。いまとなっては上原悠という男がいたかどうかも定かではない。ただあの雨の夜の電話から時間の流れが歪んだようだった。どれだけの月日が経ったのか凛一郎にはわからない。一日一日を過ごすことはできる。だがそれらを繋げて日々にするには不足だった。
傷だらけになって、いのちをすり減らして、厄介事ばかりを持ち込む男だった。自分とは真逆の世界に生きる、関わり合いになるはずのない男だった。だからこそ思い出は日に日に美しくなっていく。
港についたころには、空は青く染まっていた。街灯が港のレンガ壁を照らしている。海は嘘のように凪いでいた。
ベンチに腰かけ煙草をくわえる。ライターを探してポケットをまさぐると爪に小さく硬いものが触れた。摘まみ出せば押し潰された弾丸だった。凛一郎は息をのんだ。あのとき手のひらからこぼれたものに違いない。そっと手のなかに握る。不思議とあたたかかった。
すぐそばに人の立つ気配があった。視線の先に火が差し出される。
「煙草吸わないの、先生」
顔をあげると、片腕を吊った男が立っていた。
「弾、残ってるんだ。取ってくれる?」
彼は少年のように無邪気に微笑う。
「医者だからな」
凛一郎は顔を傾けて差し出された火を煙草で吸った。
ドロップ 望月あん @border-sky
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