母の葬式
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母の葬式
その扉は小学校にあった古いエレベーターに似ていた。
昔、給食を運ぶ為に使われていたというそのエレベーターは当時すでに使われておらず、くすんだ銀色で上開きの大きな扉と昇降機を呼ぶためのボタンには、それぞれ『触るな危険』と、マジックペンで乱暴に書かれた紙が剥がれかけたテープでとめてあった。何故ここまではっきり覚えているかと言うと、当時六歳だった私がどこへでもいける魔法のエレベーターの絵本がお気に入りだったからだ。幼い頃の私は無邪気にあのエレベーターもどこか素敵なところに行くのではないかと思っていた。同じ学校に通う一つ上の姉に『あの扉はどこへいくの?』としきりに訊ねて困らせた事を覚えている。
「それではどちらかにこのボタンを押していただきたいのですが」
くすんだ銀色の扉の前に立つ職員に平坦な声でそう言われ、私はノスタルジーに浸るのをやめた。隣に立つ黒いワンピースを着た姉と顔を見合わせる。
「ミナに押して欲しいな」
姉がそう言ったので私は一つ頷いて、「じゃあ、私が」と職員に返事をした。
扉の目の前に立つと、その隣に四角いボタンが二つあるところも含めてあのエレベーターにそっくりだと改めて思う。これと全く同じ扉だって私は過去に一度見たはずなのに、何故かその時の事は少しも浮かばなかった。
「ではこちらの上のボタンを」
私が促されるままにボタンを押すと扉の中からは昇降機が移動する音ではなく、ごぉっと強い風が吹いたような音が聞こえる。それは中で炎が燃える音だった。
この扉を一枚隔てた向こう側で、母の体が燃えている。
「それでは、火葬が終わるまで一時間ほどお待ちいただきます」
もっと何かあるのかと思いきや、もうこれで終わりらしい。あまりにもあっさりしていて拍子抜けだった。前に来た時も同じだったのだと思うが最後に火葬場に来たのはまだ小学生の時で十年も前の事だからかあまり記憶に残っていない。
「あちらの待合所をご利用ください」
そう促されて私と姉は火葬場から数メートル離れた待合所に向かう。そこは独立した二十五畳程の広い和室に給湯室とトイレがくっついただけの建物だ。
「やけに広いね、この部屋」
姉の声ががらんとした畳の部屋に大きく響く。
「うん、そうだね」
返した私の声も同じように響いて聞こえた。この薄暗い部屋に姉と二人きりで過ごすのはなんだか寂しかった。せめてこもった空気を入れ替えようと、手近にあった障子戸に手をかける。開けると縁側になっていたので、私はそのままそこに足をのばして座った。気の抜けた姿が外から人に見られる可能性があったが、薄暗い畳の部屋にいるよりもずっと良いと思った。空は良く晴れていて、吹き抜ける風が気持ちが良い。目の前に火葬場のくすんだ白くて四角い建物が見えて、そこから伸びる背の高い煙突からはゆらゆらと煙が出ていた。女手一つで私たち二人を育ててくれた、私たちの大好きな母親で作られた煙だ。母は小柄で痩せていたからきっとあっという間に骨だけになってしまうだろうと思った。
昨日の夜私が病院に駆け付けた時、母は意識がなく体の至る所に機械が繋がれている状態だった。 自宅で突然倒れ、一緒にいた姉がすぐに救急車を呼んだのだそうだ。母の意識はそのまま戻らなかった。
ぼんやりしていると、突然頬に温かいものが触れる。驚いて振り返れば、姉が「びっくりした?」と、私の顔を見て小さく笑っていた。手に持っているのは馴染みのある黄色いラベルの貼られたペットボトルだ。
「レモネード、ミナ好きでしょ? そこの自販機にあったから」
私も笑みを返すと「うん、ありがと」とペットボトルを受け取った。
「そこ、寒くないの?」
「今日は晴れてるし案外大丈夫」
私はレモネードのボトルを開けて中身を一口、口に含む。強い甘みがどこかぼんやりしていた意識を引き戻してくれたような気がした。
「そっか、それならいいけど」
姉は私のすぐ隣に座った。
家族を火葬する日は、どうしても気持ちが落ち込む。姉が傍にいてくれて良かったと思った。
二人して暫く黙って、煙突から出た煙が雲一つない青空に消えていく所を眺める。 雲は魂が天国へ向かうための階段なんだと聞いた事がある。雲がない今日は母の魂はどこへ行くのだろう。
「落ち込むね」
ぽつり、と私が呟くと姉も「うん、落ち込む」と頷く。
「こんなに悲しくなると思わなかったな。別にお母さんが居なくなるわけでもないのに」
そう言って膝を抱えた姉はいつもよりもずっと小さく見えた。
姉の言うとおり、母はすぐに戻ってくる予定だった。昨日の朝、私を見送ったのと同じ姿で。
「身体が機械になっても、何も変わらないよね」
膝を抱えた手に力を込めて更に縮こまると姉は言った。
十五年ほど前から、人間の脳の情報をそっくりそのまま人型の機械に移し替える技術が普及した。身体が生きる機能を失っても機械の身体に乗り換える事ができるようになったのだ。それは昔なら死亡とされていた人達を救う治療として今やごく当たり前に行われている。私たちは母の意識が戻らないと聞かされた時に、その治療の同意書にサインをしていた。保険がおりたのでお金の心配をする必要もなかった。
「大丈夫だよ」
私は姉の小さな背中を摩った。しかし気休めにでも『変わらないよ』と言い切る事は私にはできない。機械でできた身体に記憶をすべて移したとして、それが以前の人間と同じと言い切れるかどうかは現在も意見が分かれていた。この治療には反対派も多い。
「不安なの。私がそう思うのもおかしな話だとは思うけど、それでも怖いんだ。お母さんがお母さんじゃなくなっちゃうんじゃないかって」
姉がこうして不安に思うのは意外だった。姉は当然のように受け入れられるものだと思っていたから。
「私は戻ってくるお母さんは以前のお母さんと同じじゃないって思ってるよ」
私は姉にきっぱりとそういった。
実際治療をすることで変わってしまうところがたくさんあるのを私は知っている。笑い方だとか、話し方の癖だとか、歩き方だとか、そういう些細だけれどその人らしい大事なところが。長年生活を共にした母のそういう些細な部分が変わってしまえば、それに違和感を感じるであろう事を私はわかっている。
「じゃあ、なんでミナはお母さんの治療に同意したの?」
姉は私の言葉にひどく驚いたようだった。私のように考えるのならば普通はこの治療には反対するものだからだろう。
「お母さんに戻ってきて欲しいからだよ」
「帰ってくるのはお母さんとは違うって思うのに?」
姉はじっと私の顔を覗き込んだ。私の心の中をどうにかして探ろうとしているみたいだった。真っ黒でつやつやしたガラス玉の瞳に光が反射してキラキラ光る。
「お姉ちゃんは、後悔してるの? お母さんの治療の同意書にサインした事」
私が姉の疑問には答えず、逆にそう質問すると、姉はすぐに「してない」と答えた。
「してないよ」
もう一度囁くように言った姉はその言葉を自分に言い聞かせてるように思えた。そして抱えた膝に顔を埋める。
私は冷めてしまったレモネードを飲みながら、よく晴れた青空の中から母の魂が天国へと昇る為の階段となる雲を探した。母が天国に行けないとすれば、それは私のせいだった。
「ねえ」
私が雲を見つけ出す事ができる前に、姉は顔は上げないままくぐもった声で言う。
「私の身体を焼いた時も悲しかった?」
私の姉は丁度十年前に交通事故にあった。 十一歳の時だった。
「悲しかったし、むちゃくちゃ泣いたよ」
「私の事も以前のミナのお姉ちゃんとは別のものだと思ってる?」
姉の身体がトラックに轢かれたあの日、私の姉は間違いなく死んだ。
「うん。思ってる」
ゆっくり顔を上げた姉は目から涙を流すことはなかったが、泣いているように見えた。私はその身体を抱きしめる。十一歳の時から成長しない姉の機械の身体はとても小さかった。
姉が治療を終えて帰ってきた日、こうやって姉を抱きしめたことを思い出す。顔を上げて『おかえり』と言うと『ただいま』と綺麗に笑った姉。その笑顔が綺麗すぎて、私の知っている姉のものとは違って、ぞっと鳥肌が立ったのを覚えている。姉によく似た別の物が目の前にいる違和感。私の姉は死んだのだと、その時に理解した。
「でもさ、それがなんだっていうの」
姉に似た別のものだと理解してしまえば違和感がなくなるのに時間はかからなかった。すぐに、姉の双子の姉妹がやってきたみたいに感じるようになった。
「よく似ているだけの別のものだとしても、私はお姉ちゃんが傍にいてくれてよかったし、お姉ちゃんのことが大好きだよ」
勉強を見てくれた事、好きな人ができた時相談に乗ってくれた事、母と喧嘩した時に諌めてくれた事。全部、今の姉との思い出だった。今日だって、隣にいてくれてよかった。
「昔のお姉ちゃんとは違ったとしてもさ、姉ちゃんはもう私のお姉ちゃんだよ」
本当の姉は十年前に死んでしまったとしても、今私が抱きしめている姉が私と過ごした十年だって本当だ。
「だから、お母さんも同じように傍にいて欲しかったんだ」
本当は私は姉の死も母の死も受け入れるべきだった。でもきっと二人がいなくなることに私は耐えられない。
「お母さんだって、ちょっと違うところがあっても、これから家族になればいいじゃない」
姉には話さない方がいい話だったのかもしれない。でも私は治療後の母に不安を抱く姉とこの気持ちを共有したかったし、共有するなら今しかなかった。
私は姉の顔を見ることができなくて、ただ抱きしめた腕に力を込める。傷つけたかもしれないと思った。
びゅう、と強く冷たい風が吹く。抱きしめた姉の身体は暖かかった。それは体温ではなくて機械熱だと私は知ってる。
姉は私を強く抱きしめ返すと頭を撫でた。
「……死んじゃって、ごめんね」
姉がいろいろな事を考えて口にだしたであろう言葉は、優しかった。そんな事を言わせてしまった事を申し訳なく思う。私も「ごめん」と謝って姉の肩口に顔を押し付けて、少しだけ泣いた。泣きたいのは姉の方だったかもしれないが、姉は優しく私の頭を撫で続けてくれた。
そのままそうしていると、遠くで「キィーキキ」とモズの鳴く声が聞こえる。この声を聴くたびに、私は今日の事を思い出すのだろう。
「ねえ、そういえば」
姉が顔を上げない私に明るい声で話しかける。そうやって無理に明るく振舞って妹を慰めようとするところはずいぶん昔から変わっていない。
「小学校にあった古いエレベーターを覚えてる?」
私は姉がそんな事を言い出した事に驚く。それは姉が死ぬ前の、今となっては随分古い記憶のはずだ。
顔を上げると、すぐそばで姉がとても綺麗な笑顔を作って私を見ている。最初はぞっとしたはずのこの笑顔が今は好きだった。姉が私を安心させようとするときに作る笑顔だと知っているから。
「あの火葬用の窯ね、あのエレベータににてない?」
機械でできた頭には容量があって、自分で覚えているべきこととそうじゃないことを選択して記録として残していくのだそうだ。
「覚えてるの?」
必要ないと判断された記憶は消えているはずだった。
「当たり前じゃない。『このエレベーターはどこへ行くの?』って何回も聞いて私を困らせたくせに」
姉はあのエレベーターの事を覚えていてくれた。あんなくだらない事を、大切な思い出としてとっていてくれた。
「あたしも、ずっとそう思ってた」
私達は顔を見合わせると小さく声をあげて笑う。
私の姉は機械でできているけれど、それでも正真正銘私のお姉ちゃんだった。
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