第12話

 連日の晴天に恵まれ冴え渡る湖畔は、愛宕湖のすく東に隣り合うくぐい湖である。煌めく水面を左に見据え街道を歩くうち、のどかな陽気に志弩は眠気を催した。

 昨夜は一睡もできなかったのだから、当たり前だった。

 冷える夜更けに、同じ布団の中で突飛ない考えを打ち明けた。急な同伴を求められた栞菜は振り返って目を丸くし、そして少し考えるとだけ言って、また背を向けた。

 安直に二つ返事を貰えるものと思っていたから、栞菜の寄越した返答に激しく動揺した。

 それから如何ほどもせず彼女は寝息を立て始めたが、その心情を見透かせないことに密かに怯えた。また自害でも図るのではと考えると、どうしても眠ることができず、やがて夜明けを迎えた、というわけだ。

 遠くの火神岳ひのかみだけより陽が昇ってからも彼女はろくに口をきかず、底意を見通せぬ焦りばかりが募った。

 何も愛の言葉を述べ連ねたわけではない。だからこちらがあれこれ思案する必要もない。だというのに、性急な仕草を男が見せるものではないなどと、武士のような古臭い意地が頭をもたげて、こちらから声を掛けることもしなかった。

 久しい静かな旅路は当初の予定通り。目的地の躑躅町へは、何もなければ夕刻前には到着し、栞菜とはそれでお別れとなる。

 やることはやった。それをどう捉えるかは栞菜の自由だ。彼女の気持ちを大切に、断じて強要などがあってはならぬ。

 だからこの先、どのような結果に帰納するとしても、彼女の決断を覆すことは許されない。

 胸中をひっきりなしに掻き乱す焦燥を、そんな正論じみた理屈で鎮める。屈服させた、というべきか。

 だがどんなに強固な理屈のもとに押し込めたとしても、しばらく経つと、ではどうするのだと再び苛む。この繰り返しだ。

 心の矮小さばかりを思い知らされる、無言の時間が流れていく。

 そうしたこちらの都合を考慮するでもなく、おもむろに路肩に跳ね捨てられた岩やら砂利が結束して、巨大な人を象った。

 骸霊の出現も、今や日常である。いったん受け入れてしまえば、順応するのに時間は必要ない。面倒といえば面倒ではあるが、小銭であれ稼ぎになるのは確かだから、面倒などと言ってもいられまい。

 それに苛立ちをぶつけられる、正当な相手が欲しかった。

 硬く冷たい剛腕を振り回し暴れる骸霊。栞菜に周辺の非難誘導を任せ、安全を確保した頃合いを見て、食い扶持たる石の巨人に正対する。

 造作もなく屠れると踏んでいたものの、いざ致命の刺突を繰り出そうとしたその刹那、文字通り岩をも砕く鉄拳が骸霊を貫き、その手で精霊球を抜き取った。

「よお、相変わらず周りが見えてねえな」

「旦那もしぶといな。大人しく横になっといたほうが良いんじゃないのか」

 毎度毎度、でかい図体にそぐわぬ巧みな気配の消し方をする。彼の言う通り、背後に疎いのも確かだったが。どのみち黒服の監視は続いていようから、気にするだけ無駄だという開き直りもあった。

「何だ、まだ機嫌悪いままかよ——って、お嬢ちゃんは元気ねえな。どした、志弩に優しくして貰えなかったか」

「こんにちは下衆の熊オジサン。言っとくけど昨日のこと、怒ってないわけじゃないから。そこは忘れないでね」

「そうさな。予定外たぁ言え、お嬢ちゃんには済まねえことをした。とてもそうは見えねえかもだが」

 ガニ股で顎を突き上げた巨漢は、昨晩の敗北など微塵も感じさせぬ太々ふてぶてしさを纏っていた。

「何の用だ」

 不信感から、握る斧槍にも力が籠もる。

 それを灼道は嘲った。

「今日は揉め事はなしだ。長物もしまおうや、な?」

 精霊球を横取りしておきながら、よくもまあそんな勝手が言えたものだ。だが荒事を良く思わぬのは、こちらも同じだ。

 昨日の勝利に浮かれることはなかった。勝ったのは鬼人としての力であり、自分ではない。まして能力を排した肉弾戦で、灼道に敵うべくもない。

 武器に晒木綿を巻いたのを検め、ようやく灼道は不動明王のような眼光を和ませた。

「おし。じゃあ、その、な」

 横柄な態度のわりには上機嫌とみえる彼は、似つかわしくもなく言い淀んだ。

「あれだ、あれ。俺もよ、おめえらに着いて行ってやることに決めた」

「はあ!?」

「えーやだあ」

「んなこと言うなや、まず聞けって。話をよぉ」

 灼道へ向かってずい、と栞菜が進み出た。大人と子供ほども違う体格差を意にも介さず、仁王立ちする彼女は毅然と言った。

「怒ってるって言ったよね。見た目ほど莫迦じゃないでしょうから、物の言い方も考えたらどうかな?」

 歯に衣着せぬというか、それはもう悪口だろう。彼女がされたことを思えば、この程度の悪態ではとても足りぬだろう。だが、相手はあの灼道である。

 物怖じせぬ態度に心の内で拍手喝采しつつも、いつ灼道が激怒するかと肝を冷やした。

 女に手を上げる男かは知らぬが、万が一の時に止められる位置にいなくては。

 しかし、どんなに斬ろうが叩こうが屈することを拒み続けた灼道は、たかだか小娘の罵倒にもならぬ一言に膝を折って、巨体を傾いだ。

「え——」

 土下座だった。

「本ッ当に済まなかった。どんだけ詫びたって取り返しようのねえ真似をしたと悔やんでる。でもよ。そう思えばこそ、俺はお嬢ちゃんに着いて行きてえって決めたんだ」

 いったい何が。目の前の光景が信じられなかった。小さく細い小娘に、脂ぎった熊が跪いている。やはり昨日の敗北がこたえて、心を病んでしまったのではないか——そんな心配をよそに、灼道の語りは能弁さに拍車を掛ける。

「俺は目が醒めた気分なんだ。あんな酷え目に合わされておきながら、あの小僧や俺に怒り狂った志弩をお嬢ちゃんは止めた。殺されたって文句は言えねえってのによ」

 さすがに殺すつもりはなかったが、そうすることができたのは確かだった。こんなおかしな状況になると分かっていたなら、灼道だけでも殺していただろうに。

「あの瞬間、俺は何か凄えもんを見せられた気がした。てめえのことはさて置いて、人が人を思う気持ち……っていうか、ああ、もう! じれってえ!」

 人目も気にせず身を丸め額づこうが、熊の存在感に遜色はない。

「上手いこと言葉になりゃしねえが、ともかく俺の心が躍動したんだ。この感動の正体を、俺は知りてえ。だから頼む、俺も連れて行ってくれ!」

 人に服う熊など、お伽話か。勢い任せの謝罪は灼道らしからぬと思うが、ことのついでに要望を織り交ぜるあたりは、如何にも彼らしくあった。

 とはいえ栞菜の返答次第で、このまま腹を裂くのではと不安になるほどの迫真ぶりである。

「もちろん俺の都合ばかりじゃねえ。どうしてだか頻繁に出食わす骸霊に、志弩のやつも辟易としてる」

 そんなことはない。お前のほうが厄介に決まってる。

「特級能力を授かったとはいえ、まだまだ頑是がんぜ無いガキンチョだ。俺なら力もあるし、少なからず助けになれると思うんだ」

 もっともらしいことをペラペラと。真っ向から否定しきれぬというのも、余計に腹立たしい。

「うん、じゃあ良いよ」

 栞菜はけろりと抜かした。その口上にほだされたのか。騙されるな。

「おい」

「良いでしょ別に。下衆のオジサンは志弩にじゃなくて、わたしに着いて来るって言ってるんだし」

「でも——」

「それにさ。こんなことでもないと、全然話してくれないし」

「それは、だって」

「とにかく。躑躅町までだけど、よろしくね。下衆のオジサン」

「さっすが器がデカい。恩に着るぜ。だけど、俺は下衆だがオジサンじゃねえ」

「下衆じじい?」

 ははっ、と灼道が吹き出した。

「口が悪いぜ、お嬢ちゃん。まあ良い、好きに呼びな。それより——」

 何で躑躅町までなんだ。彼の口にした疑問は核心を突いていた。

「お嬢ちゃんの呪いはどうなる」

「呪いじゃなくて、祟り」

「どっちでも良いじゃねえか。俺はてっきり、その祟りをどうにかするもんだと思ってたが。何だ、お家に送って貰うだけなんか」

 無視して先を歩き出すと、栞菜が小走りに近寄って来たが、灼道の一言に足を止めた。彼女は灼道の追い付くのを待って、彼の隣に付いた。

 針先ほどの僅かな苛立ちを覚えた。躑躅町まで幾ばくもない。それまでに栞菜の翻意を促さなくてはならぬのに、灼道の介入はいちいち邪魔だった。

「……?」

 栞菜の気持ちを大切にするという大義名分を、いつの間にか反故にしている自分がいた。初志貫徹し得ぬ己の弱さを、心の内で罵った。

 なぜだか今日は、こんな気持ちに陥りやすい。いや、このところずっとか。

 躑躅町で栞菜と別れたら、こうした胸の疼きも治まるだろうか。

「うん、志弩もそう言ってくれたんだけど」

 いささか声をひそめたらしかったが、残念ながら丸聞こえである。

「でも、保留中なんだ」

「どうして」

 そうしてはならぬといさめてみても、どうあっても聞き耳を立ててしまう。これでは自分も下衆の仲間入りだ。

「うん……何だろう。いろいろ複雑で」

「聞くぜ、話してみなよ。お嬢ちゃんの悩みは、俺の悩みも同じだからな。力んなるぜ」

「オジサンに?」

「そうさな。伊達に年食ってねえってことだ」

 打てば叩くように弾む掛け合いも、自分との会話ではあまりなかったことだ。そういう見方をしていれば、嫌でも苛立ちは膨らんだ。

 千鶴といた頃に抱いた焦燥に、どこか似ている。

 あくまで感情の向きが同じであるというだけだ。

 千鶴も浮世離れした女だったが、彼女には裏と表があった。悪く言うのではない。銀杏亭で来客に愛想を振り撒く看板娘が表の顔なら、自室で自分の世界に没頭する絵描きが裏、ということである。

 普段と別人のように、社交性の欠片もない彼女の裏側を知る、数少ない男としての自負はあった。千鶴の人となりを知っていたからこそ、彼女目当てに足繁く通い詰める男どもに、いちいち目鯨を立てることも少なかったように思う。

 身勝手な勘違いだったかも分からぬが、千鶴にとって、自分が特別な存在になりつつあることを肌で感じていられたことは大きい。それが自信にもなり、瑣末なできごとに神経を尖らす必要もなくなった。

 栞菜との間に足らぬのは、まさにそこであろう。誰に対するにも明け透けで隔たりがない彼女は、言い換えれば誰も特別視していない。例えば女皇に殺されそうになった時、彼女は身を呈し庇い立ててくれた。それには感謝しかない。が、殺されかけていたのが自分でなく、他の誰かであっても同じことをしたと思う。人として、それが当たり前の行動、善性であるからだ。

 薬師山の一件もそう。彼女は自身を常識外れのように見せながら、その実、誰より物事の本質を看破するのに長けており、何にも揺らぐことなく冷静に考察し、当たり前に対処してきた。見ようによっては冷酷とも取られ兼ねない彼女の行動は、世に言う常識人などよりも遥かに的確で当たり前だった。

 しかしこれらの当たり前は今、栞菜に近付くことを阻む御簾みすとなって差し渡され、その向こうに彼女の真意を覆い隠してしまっている。それは人間の身にありながら、思考や行ないのひとつひとつが公明正大で博愛的な、彼女の思想によって培われた弊害であろう。

「どうせ荒唐無稽な夢物語か、与太話を始めやがったんだろ、アイツ」

 要は、自分を特別扱いしてくれぬ栞菜の振る舞いに自信を持てず、餓鬼みたく駄々をこねているわけだ。同じ咽ぶにも、餓鬼より理屈っぽい分、始末に悪い。

「そうなの! 凄いね、志弩のこと分かってるじゃん」

 そういえば、なぜ自分は千鶴と栞菜を比べているのだろう。

 そもそも、どうして栞菜相手にこんな気持ちを抱かねばならぬのだ。彼女がしたいようにすることの、いったい何が気に食わぬというのだ。

 ばかばかしい。偶さか寝食をともにしたからといって、そこまで肩入れするものでもあるまい。

 死ぬも生きるも、すべては彼女次第。子供じゃないのだから、それくらい自分で決められなくてどうする。

「無駄に付き合い長えからな。アイツはよ、オツムがちっとばかり『ふぁんたじい』なんだよな」

「そうそう! 妙に思い詰めて、一人で重く考えちゃうし。考えるわりに、答え出てこないし」

 炯々けいけいとした高い声。そして笑い声。

 このまま離れて行って、消えてしまうか。躑躅町まで送り届けるのに、覚醒した灼道が力不足であることもあるまい。

 栞菜といる必要性がない。

 自分をダシにした会話が盛り上がるのも、面白くなかった。これもまた餓鬼の考えだろうが、嫌なものはどうしたって嫌だった。

 苛立ちが我慢を突き抜けて、叫び出してしまいそう。だが、男の感情的なさまは醜態でしかない。

 そうなる前に、もうどこかへ消えてしまおう。

「で、何て言われた?」

「……えっとね。女皇に会いに行こう、って」

 考え抜いた僅かな可能性を、灼道は一笑に伏した。そんなに変な提案ではなかったと思うが。

「女皇って、あれだろ。志弩の野郎をボコボコにしたっていう」

「ボコボコにしたのは、女皇の配下の骸霊だよ」

 まあ、もう関係ない。笑たくば気の済むまで笑え。

「でも彼女はね、瀕死の志弩を見る間に癒してあげたんだよ! カミサマのミワザみたいに」

「そりゃ凄え。けど何で敵を治したんだ、そいつ」

「それがね。女皇は千鶴さんっていう、志弩のむかしの知り合いだったんだ」

 灼道が鼻を鳴らして、また笑った。

「骸霊と知り合いとか……やべえ、笑いが納まんねえわ」

「笑っちゃ駄目だよ。志弩の大切なひとだったんだから」

「……だった、ねえ」

「うん。そういうこと」

「そうか。でもまあ、むかしほどじゃねえとはいえ、それでも珍しい話じゃねえ。特に俺らみてえな稼業はよ」

「それオジサン発言。死に別れたんだから、論点は珍しいかどうかじゃないでしょ」

「ああ、済まねえ。今のはオジサンが悪かった」

 少しずつ彼我の距離が空いて、大きめの密談も徐々に小さく遠くなる。

「でね。千鶴さんだったら、わたしの祟りも治せるかもしれない。だから一緒に千鶴さんを探そうって言うのよ」

「良いじゃねえか。どうせ家にいたって面白くねえんだろ。暇潰しに付き合ってやれよ」

「そこなんだよえ……気持ちは嬉しいんだけど、何かね」

 肝心なところを栞菜は濁す。度重なる冗長なやり取りに、苛立ちのほむらが立ち昇る。

 もう良い。誰も救えぬ人生は、鬼人になったからといって変わるものではなかったのだ。不特定多数の人々を骸霊から守ることはできても、力を貸したいと思える誰かの助けにはなれぬのだ。

 そんな資格は自分にはないのだ。よくよく考えてみろ。お前の出自は犯罪者であろう。人から奪ってなんぼのお前が、よもや人に与えることなど、どうしてできようものか。

 誰に与えるでもなく、与えてくれた誰かから奪い続けるほかないのだ——。

「わたしにも考えがあるんだ」

「ほお、どんな?」

「志弩に、鬼人衆を抜けて貰う」

「そりゃまた、傑作だな」

「うちで仕事を探して、一般人として暮らして貰うの」

 ふぁんたじいだの何だのと、人のことをさんざんこき下ろしておいて、何だそれは。三鴨正介を憎悪する、彼女の両親に見咎められるわけにはいかない。荒唐無稽な夢物語はどっちだ。

「だってそうすれば、志弩は千鶴さんに会う必要がなくなるじゃない」

「——!?」

 びくりとした。息を呑んだ拍子に、思わず歩みが止まりそうになる。

 どうにか平静を装いつつ、話の続きに耳を澄ます。

「会わせたくないんか」

「それは……そうに決まってる。彼女は志弩をどうしたいのか分からない。殺そうとするかも」

「なるほど。それじゃ、祟りをどうにかして貰うどころじゃねえな」

 成りがむかしの女ってだけで、甘ちゃんのアイツは手ぇ出せなさそうだよな、とする灼道の弁は的確だと思った。しかし——。

 栞菜がそんなふうに考えていたとは知らなかった。自分の身を案じる人間など久しくいなかったせいか、むず痒いものが肌を這いずり回った。

 だが、不快ではない。

「でもよ。それだとお嬢ちゃんがマズイだろ」

「わたしは平気。新薬が開発されれば、蛆の進行を止められるもの」

「できなかったら? 志弩は阿保だがクソ真面目だぜ。そんなん認めやしねえだろ」

「大丈夫。こう見えてわたし頭良いし。志弩の一人や二人、言いくるめてやるんだから」

 例によって栞菜は、虚空を掴むようなことを明るく言い放つ。その妄言じみた語り草も、迂遠な思いやりも健気で、とても歩を進めることなどできなかった。

 自分を思ってくれる人間が、まだいた。

「まずはあの恣意的っていうか、偏屈な善意みたいなのを直してやんなきゃ」

「あー分かる。何か色男っぽく気取りやがるよな、アイツ」

 道理でも理屈でも打算でも、まして妥協などでもない。

 人が人に向ける、純然たる善意。それが自分へ向けられている。

 その事実ひとつで、たったそれだけで、くすみきった世界が七彩に色付く。芽吹き息吹き、脈動し、かぐわしく香り立つ。

「……チックショウ」

 顔がくしゃくしゃに歪んで、視界の滲むのを禁じ得なかった。

 どうも調子が狂う。こんなに心揺さぶられるというのは、歳のせいだけではあるまい。

「だとよぉ! 志弩ぉ! 良かったなあ!」

 品性を欠く獣そのままの怒号が、空に湖面に響き渡って、行き交う人々の好奇を集めた。

「五月蝿いんだよ、ジジイは声がデカくてかなわん」

 頭巾を被って、湖の照り返しをいっぱいに浴びながら二人を振り返ると、水辺に佇む白鳥の群れがやおら駆け出す。優雅な見た目に似合わぬ不恰好な助走ののち、白鳥は飛び立った。

「まったく、せっかくの景色が台無しだ」

「そんな気質タチじゃねえだろ、おめえ」

「あれ。もしかして志弩、泣いてる? どうかした? どっか痛い?」

「いや。これはあれだ……鵠湖。鵠湖が眩しくて」

 降り注ぐ陽光にいっそう強く晒され、夏のかかりを彷彿とさせる。散りばめられた湖面の光が、薄惚けた視界を絢爛に刺した。

「万華鏡みたいだろ。それか、昼日中の星空」

 言い終えると、たちまち二人の態度が急変した。

「きめえんだわ、おめえ。そりゃあ白鳥も逃げるわけだぜ」

「うん、今のはちょっと無理」

 もう良いから黙って歩け、そう告げて東へ向き直る。

 躑躅町まで——栞菜の翻意を促すのに——残された時間はあまりない。が、不思議と焦りは消え去っていた。先刻まで顎の痛むほどに歯を軋っていたのが嘘のようだ。

 空の白鳥たちがぐるりと旋回して、北へ針路を変えた。

 色のない世界は一瞬に色を帯びて、今やこんなにも美しく輝きを放っている。

 自分は、その中にいる。

 だから彼女を蝕む灰色も取り払って、同じ景色を見せてあげたい。そのために、もう出し惜しみなどしない。醜くとも不恰好でも、何としても栞菜を千鶴に引き合わせ、祟りを癒させる。

 栞菜だけではない。千鶴も、きっと救ってみせる。

 この感銘の続く限り、不可能ではないはずだ。

 だから歩みを止めるな。何があろうと決して立ち止まるな。映え映えし至高なる世界に甘んじることなく、己が有崖を賭し、為すべきを為すのだ。そうあり続けることこそが、この世界に自分が存在する何よりの意義となるであろう。

「志弩ッ!」

 鳥のいななくように、栞菜が叫んだ。

「骸霊だよ! 何かまた出た!」

 湖の水面がせり上がって、巨大な水柱に纏まる。次第に洗練されるそれは、やはり人の姿を象った。

 そうか。羽を休めていた白鳥の群れは、これをいち早く察知して逃げたわけだ。

「やっつけちゃえ!」

「俺もいるぜ。ぶちのめしてやる」

 ずいぶんと賑やかになったものだ。つい数日前まで、神門の孤塁と自認していたのが嘘のよう。

 骸霊の頭頂は思うより高くにあった。おそらく牡丹町の壁に比肩する。

 初手は骸霊からだった。その巨体に見合う半透明の右腕が緩慢に振り上げられ、落とされる。

 躱すのは容易くとも、それは上策ではあるまい。地面に叩き付けられた骸霊の拳が瓦解し、洪水と化して周囲を飲み込むおそれがある。加えて、敵が水を媒介とし続ける限り、無限に回復するものとみて相違ない。

 早めに湖面から引き摺り出すか、回復も及ばぬほどの強撃をもって、精霊球を抜き去るかだ。

「あ——」

 灼道が兎のように跳ねながら、骸霊の足元へ飛び込んだ。腰下まで浸かりながら、彼は一瞬だけ振り返った。

「おめえはそれを止めろ! 俺が股の下から突き上げる」

 一点への突撃力は、執拗かつ持続させられる『Lady Go Round』のほうに軍配が上がる。対して莫大な水を含んだ骸霊の拳を防ぐには『Wicked Beat 』のほうが適しているから、共闘の配置としては的確である。

 灼道のほうが骸霊により近い位置にいるから、今度こそ精霊球を奪われてしまわぬよう、くれぐれも注意しなくてはならないが。

 上空へ構えた斧槍を、さやかに青い拳へ突き出す。

「押し返せ『Wicked Beat 』!」

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