第11話

「……志弩。どうしたの」

 薄く開いた瞼から覗く瞳は虚ろ。寝おびているようだった。

「遅くなってすまない。今、縄を解くから」

 そう言いながら、栞菜の目が徐々に大きく見開かれるさまを見て、志弩は己の失策を悔いた。

 栞菜は自分の肩越しに、項垂れる簀巻き男の姿を捉えたに違いなかった。

 縄を解く手で栞菜を抱き寄せる。彼女の顔を泥まみれの胸にうずめて視界を封じると、彼女はじたばたと暴れた。

「すまなかった。もう……大丈夫だから……」

 解けかかった縄を力づくで切ったのだろう、栞菜の両腕が躰を押し返した。

 現れた彼女の顔は疲弊した上に泥だらけ。

「ありがとう。助けに来てくれるって信じてた」

 だのに、彼女は気高く笑って礼を述べた。弾ける篝火のほかに何も聞こえぬ静寂に、彼女の声が柔らかに響き渡って、その途端に胸の奥から何かが込み上げた。

 視界が滲む。篝火の炎も、栞菜の顔も。

 こんなにぼんやりとした世界が真実だったなら、誰しもがつらい思いなど抱かずに生きられただろうと、そう思うと悲しかった。

「え、やだ。何で泣いてるのよ。何かひどいこと言ったっけ?」

 栞菜の明るい声に、もしや勘違いだったのではという考えがよぎった。どんな勘違いかは分からぬが、実は何もされていなかったとか。

 そうであったなら。

 どうかそうであって——。

「あ、分かった。寂しくなったんでしょ。もう、しょうがないなあ。もう泣かなくて良いから……あれ?」

 笑顔を崩さぬ彼女の、両の瞳からも涙が溢れた。あれ、可笑しいな、と拭うそばから止め処もなく零れた涙が、黒ずんでしまった顔を洗った。

「どうして……あ、きっと志弩のが移ったんだ。貰い泣きっていうやつ」

 暴行の際、きっと抵抗したのだろう。涙をすくう指は砂と傷だらけで、手入れされた爪も折れて黒く汚れてしまっていた。

 汚れた顔を汚れた手で構うものだから、涙と泣き顔も相まって、彼女はぐしゃぐしゃになってしまった。

 きっと自分も同じことになっている。

 いたたまれぬ疼きは、かつてのあの日、千鶴を埋葬した時と相似していた。

「ごめん……本当に悪かった」

「だから何も……もう、顔がぐちゃぐちゃだよ志弩。ほらもう泣かないで……泣かないでよ」

 にわかに語尾を荒げた栞菜に、両腕を掴まれた。力強く握り締められた両手から、ありったけの矜持と、隠し立てできぬ憤りが窺えた。

 それは物言わぬ自白だった。

 もう一度、彼女を抱き留める。何かから隠すためではなく、文字通り彼女を受け止めようとする、己の衝動からのものだった。

 なおも気丈に振る舞う気高き彼女に、ことの仔細を語らせるのがどれだけ酷であるか。

 彼女が何もなかったと言うなら、今はそれで良いのだと、そう自分に言い聞かせる。

「分かった。何もなくて、安心した」

「うん……ありがと。だから平気だよ、わたし」

 後は二人して声を上げ泣いた。すまないとごめん、平気、ありがとうが何度も交差し繰り返される。

 灼道は微動だにせず、黙って俯いたままだった。発端は彼にあるのだから、もとより野次の挟みようもあるまい。

 どんなにそうしていたわけでもない。ひとしきり泣きじゃくってしまえば、互いに少し落ち着いて見えた。

 男の処遇など、この際どうでも良かった。一刻も早く宿へ戻り、身を清めよう。

 肩を貸して栞菜を立ち上がらせた時だった。

「なるほどな、やっぱりそういうことだったか」

 灼道とは異なる、男の声。いやに甲高く、耳に障る残忍な声色は、簀巻きの男——栞菜の婚約者——のものだった。

 いひひひ。いびつな叫声は、笑っているのか嘆いているのか図り兼ねる。

「やっぱり男がいたか。それであんなに……ぶうっ」

 前置きもなく爪先で男の顔を蹴り付ける。すでに灼道の手下にこっ酷く甚振られた様子で、その顔もボコボコに腫れ上がっていたから、今さら多少の追い討ちを受けたからといって、さしたる変化もあるまい。

 一通り喘いだ男は、それでも口を閉じようとはしなかった。

「も、もういらねえよ、そんな女。お前みてえな化け物、こっちから願い下げだ!」

 悪魔の呪詛を、醜く腫れた男の唇が吐き出す。願い下げなどと言いつつ、することはきっちり済ませたのだろうと言おうとして、慌てて口を噤んだ。

「早く、脱いで見せてやれよッ。躰に巣食ううじみてえな痣——おぶう!?」

 もう一度、顔を蹴ってやる。それでも男は怯まなかった。痛みの感覚が麻痺しているのか。

 仕方ない。睨みを効かせ、隠し立てせぬ殺気に晒すと、さすがの男も短く嘆息を上げたきり押し黙った。

 救いようのない下衆だったとはいえ、骸霊から守るべき一般人を威圧するなど、許される行為ではない。が、この激情に服うことに何の躊躇いも湧いてこなかった。

 いっそ殺しておこうか。

「駄目だよ」

 納まりを見せぬ殺意をいち早く制したのは栞菜だった。もう十分だと言わんばかりに、袖口を引っ張って首を横に振る。

 しかし、剥ぎ取られた衣服を手早く履き終えた彼女は、これまで見たこともない鋭い眼差しを男へ向けた。

「その顔じゃ、当分は女も抱けないわね。わたしも二度と顔を見たくない。分かった?」

 反論をしようとした男を一睨みして黙らせると、栞菜が「行こう」と告げ手を引いた。

 覇気なく座すのみの灼道を横切り、かび臭いあばら家をあとにする。

 茫然と立ち尽くす黒い骸霊の柱。そのすぐ脇を通っても、何の反応もしない。本当に骸霊なのか、と疑わしくなって、遥か高みの顔を見上げる。

 つぶらながらも赤く輝く妖しい瞳が、憐れむふうに、二度瞬いた。

 星のようだと、なぜだかそう思って、また泣き出しそうになった。

 帰路は二人とも無言だった。冷静になればなるほど、どう声を掛けるか分からなくなっていた。

 日付が変わる少し前にようやく宿に戻ると、帳場に佇む女将があらまあ、と驚いて、しかしすぐさま風呂を沸かし、案内してくれた。

 木の板を貼り合わせて組み上げた衝立の向こう側に、露天の五右衛門風呂が姿を現す。客向けのものではなく、住み込みの丁稚でっちなどに使わせるものだろう。

 大きな窯だし夜更けだから、もう二人いっぺんにどうぞ、夫婦なんだからと言われれば、厚意に甘えている手前、従うほかない。

 互いに脱衣を済ませると、嫌でも気まずい空気が張り詰めた。

 髪色から靴の先まで突飛な栞菜も、裸になればただの女だった。

 衝立の隙間に干された手拭いを取り、一つを栞菜へ、もう一つを自分に宛てる。

「ありがと……何だか恥ずかしいね。あまり見ないようにするから」

 手拭いで下を覆い、見掛けよりも豊かに映る乳房を腕で隠し恥じらう彼女の肌は、前も後ろも薄墨を敷き詰めたような灰色に染まっていた。

 化け物。廃屋での、男の高い声が蘇った。

 釜は大きくとも洗い場の桶は一つきりだから、交代で湯を掬って泥を流す。桶を渡してから、また桶が手元に返ってくるまでの間が手持ち無沙汰で、それを悟られまいと空を仰ぎ見る。

 やり場なく見上げたわりには、露天にお誂え向けの星月夜。平穏な日常の締め括りに目にしたのならともかく、今日ばかりは何の感慨も起こらなかった。ただの動かぬ景色の一つでしかないから、栞菜の存在を打ち消せたのは、ほんの束の間にも及ばなかった。

 いったん見隠すと決めたのだから、力不足の夜空でも言い訳くらいにはなったはずだった。しかし、見ていながら知らぬふりというのも、逆に白々しくはあるまいか。

 桶を受け取り、冷え切った躰へ熱い湯を浴びせる。

「冷えるね。こんなに寒くなるなんて」

 桶を返す。栞菜が湯を汲む短い間に、温まった皮膚の熱はみるみるうちに奪われていった。

「そうだな、先に浸かって温まれ」

「え、でも汚いよ」

「構わんさ。風邪でも引かれるほうが困るから」

「……うん、ありがとね」

 妙なものである。ぎこちない空気を打ち消せない。普段の軽口も嫌味も、冗談で薄めた皮肉も出てこない。互いの間に差し渡された、目に見えぬ壁に阻まれている。

 いつもどんな話をしていた。どんな会話で盛り上がっていただろう。思い出せない。

 もっとも栞菜の心情をおもんばかるならば、このくらい慎ましやかなほうが良いのかも分からぬが。

 ついに沈黙が訪れる。湯が洗い場を打ち付ける音と、湯舟の栞菜が時折り立てる、淑やかな水の音のみが世界を支配していた。

 洗い終わって、栞菜と交代。胡散臭い仕草で美しいばかりの夜空へ目をやる。その所作のほうが、やはり何倍も如何わしいのではと怪しんだ。

 幾らか温まったのだろう、栞菜が手際よく躰を擦り始める。灰色に侵食されていない胸から上の肌が、物柔らかに月光に映えた。

「気になるよね、やっぱ」

「ん」

 風呂窯がなければ隠し通せぬほど狼狽した。

「大きくなってるんだ、このまだら」

「……病か? 薬はそのために?」

「うん。気休めにもならないけど」

 相手が切り出すのを待つ癖は、本当に良くないと思った。

「祟りなんだ」

 と、そう栞菜は述べた。得体の知れぬものを祟りだとする古惚けた風習は、前衛的な彼女の放つ言葉には不似合いだった。

「原因不明なのか」

「ううん。原因は分かってるみたい。でも、治しようがないんだって」

 そう言って乾いた声で笑う。千鶴といい栞菜といい、絶望を吐露する時、どうして人は明るく努めるのだろう。余計につらさを引き立ててしまうと、それが分からぬわけもあるまいに。

「ねえ志弩」

 出し抜けに栞菜が起立した。覆い隠す手拭いもなく、柔くすべやかな女の肉体が晒け出される。

「何を——」

「お願い、ちゃんと見て。これがわたしなの」

 懇願するようなその声は穏やかにも、どこか抗うことを許さぬ重々しさを孕んでいた。

 渋々、上目遣いに目を向ける。叱られた子供じゃあるまいに、何でこんなことに。

 栞菜の躰を侵すものは、彼女のへそを中心に広がっていて、下は腿の付け根あたりまで、上はそれぞれの乳房の上まで覆い隠していた。腰や尻は染まっていない反面、背中は脇下を通って肩甲骨の下まで伸びている。理由は知らぬが、比較するに上半身への影響が大きいらしかった。

 素肌と灰色を別つ淵の部分は、なるほどたくさんの蛆のようなものが、ぬらぬらと蠢いている。

「わたしの感情が大きく揺らぐたび、この灰色が上に伸びてくるんだ」

 こともなげに言ってのけるが、そんなに軽い話でもあるまい。そして彼女の弁が嘘でないなら、自分もまた彼女の『祟り』の進行に深く加担したことになろう。

 泣かせ、自決させ、恐るべき女皇に対峙させた。

 知らぬこととはいえ、数える気も起きぬほど彼女を悲しませ、心を乱した。

「あ、そういう意味じゃないから。あんま気にしないで」

 そう言われたって。ならば気にせず済む方法も、併せて教えるべきだろう。

「広がり続けて、最後はどうなる?」

「全身が灰色になる、のかな?」

「のかな、って。知らないのか」

「ううん、知ってるよ。兄様も……って、ずいぶんむかしのことだけど。兄様も、大きな鼠みたいになって死んだから」

「お兄さんも、同じ病に?」

「うん。わたしの一族は、代々この病を受け継いでいるから。だから祟りなの」

「……あの父親もか」

「うん。でもパパ——お父様は、祟りの進行を抑える薬を開発させた。感情の起伏をなくす薬らしいけど。それが良い具合に効いたみたいで、今じゃほとんど普通に暮らせてる」

 でもパパには効いたその薬は、兄様とわたしにはあまり効果がなかった——やはり声をひとつ高め、栞菜はつらいことを言った。

「パパは一族相伝の祟りをひた隠しにしてきた。誰にも知られないために、わたしが心を動かして侵食を早めてしまわないように、わたしを屋敷に閉じ込めた」

「学校は?」

「行ったことない。代わりに先生が屋敷まで来て、勉強を教えてくれた」

 なのに余計な会話は許されなくて。すると叱られるんだ、先生が。そんな感じだから、友達もできたことなくて——栞菜の語りによれば、跡取りを亡くした両親は、籠の鳥の栞菜へ婿養子を宛てがう算段でいたのだという。

「それがあいつか」

「そ。あんなでもウチより立派な家の末っ子でね。莫迦だけど、結構良いヤツだったんだ」

 あんな屈辱を受けながら、まだそんなことを言う栞菜が莫迦なのではない。優しいわけでも、情に厚いわけでもあるまい。

 孤独な人生に生じた、他者との繋がり。彼女はそれを何より愛おしみ、守りたかったに違いない。

「感動も落胆もない水平線みたいな生活だったけど、それも家のためだと、そう言い含めて我慢してた。でも、駄目だった」

 心はそうじゃなかった。

「上がりも下がりもしないわたしの心は、気付いた時には絶望していた。祟りそのままに、蛆が湧くような緩慢さで腐敗していたのね」

 分かる気がした。心を無理に押し籠めようとしても、普通は予期せぬところから噴出してしまう。

 心とは常に動き続け、ひとところに留まらぬものだからだ。

 それさえ許さぬ環境をあらしめんとする思想は、およそ常軌を逸していよう。例えるなら、水を縄で縛り上げるような愚行。もしそんなところで生涯を生きろと強要されても、数日も持たず暴れ狂うはずだ。志弩は胸が悪くなった。

 まあ、そんな無茶を強要された時点で暴れるのだが。

 生きることが心の脈動であるならば、栞菜のおかれた環境は、生きながら死んでいるのに等しい。ましてそれに拍車を掛ける薬物まで服用していたとあっては。

 彼女の両親は、決して縛ることのできぬ水に縄を掛けるため、水を凍らせたのだ。

 生命を凍らせるおぞましい行為を、栞菜はほかならぬ肉親から受けていたのだ。

 まるで祟りを鎮めるための人柱のよう。祟りは神々の怒りだが、それに怯え生贄を供ずる、人の行ないは呪いであろうに。

 にわかに震え出した栞菜へ、手を差し出す。

「入れ」

「え、本気で言ってる?」

 眉根を寄せて困惑する面差しは悩ましく艶やかで、実際よりもずっと大人びて見えた。

「いいから。嫌なら俺が出る」

「もう、言い出したら聞かないもんね。分かったよ」

 手を取った彼女は、窯の淵を乗り越えて湯に浸かる。代わりに、勢いよく湯が溢れた。

「いま」

「ん」

「湯舟を跨いだとき、見たでしょ」

「はあ? いや見てない、断じて見てない」

「嘘」

「むしろそれは、お前の入り方の問題であって——」

「サイテー」

「だから見てない」

「サイテー」

「五月蝿い。で、話を戻すと」

「あ、話題を変えたな」

「家を出たのは、それが理由?」

「……二歳になる弟、洋太っていうんだけどね——」

 今になって裸を思い出したか、あるいは語らう饒舌さを恥じ入ったか、顔を上げた栞菜は歯を見せ、まどかに笑った。

「洋太のほうは症状の進行も穏やかで、あまり心配いらないみたいで」

 父親の薬が上手く適合したのだと思う、と栞菜は注釈を挟んでから告げ、今度は真顔になった。

「だから、わたしはもう良いかなって」

 後を継ぐ弟が安泰であるなら、自分はもう必要ない。そんなふうに聞こえた。

「パパや先生の言う、広い世界っていうのを見てみたかった。誰かの何かじゃなくて、わたしがこの目で見たいと思ったの」

 家に縛られることもなく、自由になれた。きっと彼女はそう言いたかったに違いない。だが真剣な栞菜のいずまいは、思いがけず可笑しかった。

 つまるところ広い世界も何も、一念発起し家出を試みた彼女の願望は、まあ驚くほど早く潰えたわけだ。そう考えるほど、無性に笑いが込み上げた。

 震える口の端を咄嗟に引き締めるものの、鼻から笑いが漏れ出てしまう。

「あ、笑った! どうせ、すぐに頓挫したくせに、とか考えてたんでしょ!」

「笑ってない。笑ってないし、考えてもない」

 とはいえ互いの肌が触れるこの距離では、さすがに誤魔化しようもないように思えた。

「志弩のそういうトコ、ホント良くないよ!」

「いや、すまんすま……ふ」

「もう、だから謝りながら笑うな!」

「分かった分かった、もう大丈夫」

「大丈夫って何なの。もう良い、お友達の熊オジサンに言いつけてやるから。一緒にお風呂入らされたって」

「本気でヤメロ」

 ただの冗談だとは思うが、栞菜の性格を考えると心許ない。厳に口止めしておかねば、鬼神たちの笑い種にされてしまう。

「……」

 人目を憚り精霊球を換金する自分を想像して、その情けなさに失笑した。

 直後、目を三角に吊り上げた栞菜に肩口を殴られる。

「イイカゲンニシロッ!」


 女将に厚く礼を述べ部屋に入るころには、もう日付けが変わっていた。

 部屋の中は綺麗に整えられ、布団も敷かれていた。腹は減っていたが、これ以上厄介になるのは憚られた。仕方なく、二人で乾パンを食って飢えを凌ぐ。

 明日は宿を引き払い、躑躅町である。

 栞菜の受けた苦痛を自分なりに考え、もう一泊しようか、とそれとなく伝えてみたが、彼女は大丈夫と構わないを繰り返した。最後にはありがとうと殊勝な礼まで言われる始末で、どちらが気を遣われたのか分からなかった。

 いつものように我儘わがままを喚き立て、悲しければ泣き、嬉しい時に目を輝かせ笑って欲しかった。

 妙に大人びてみえる彼女が気になった。

 疲れていたのは確かだが、これは今夜は眠れぬな、などと覚悟した時だった。

「ねえ」

 明かりを消した室内には星と月の光のみ。針の落ちる音すら聞き逃さぬだろう神秘のしじまを、栞菜の声は鐘楼のように破った。

「一緒に寝ても良い?」

「……どうした、眠れないのか」

 暗闇に上体を起こした彼女がこくり、首を立てにした。あんなことの後では男の匂いを忌み嫌いそうなものだが。あるいは、一人でいるのが堪らなく恐ろしいのかもしれなかった。

 承諾の言葉の代わりに掛け布団の端を捲ってやると、栞菜がするりと滑り込んだ。

 同じ風呂に浸かったはずなのに、彼女の髪からは柑橘が香った。

「何か話して」

「子守唄とは、まるでお子様だな」

 とはいえ、背を向け身を丸めた彼女に問うべきことは多い。

「さっきの続きでも良いか」

 鈍い月光に、きめ細やかなうなじが青く照った。

「……うん」

「あ、それじゃあ……」

 尋ねておいて、いざとなると何をどう訊いたものか、まったく考えていなかった。

 まあ、彼女に複雑な搦め手はあまり必要ない。迂遠な物言いをするほうが、かえってあらぬ齟齬そごを生んでしまい兼ねなかった。

 心の繋がりを強く発するふうな節は感じていたから、無駄に傷を抉るような言動さえ気を付ければ、きっと明け透けに答えてくれよう。

 腹の中の思いを口にしても許されると思えるくらいには、懐かれているはずだった。

「その。今更っちゃ今更なんだが、栞菜の姓は?」

「失礼だな。これでも女ですわよ」

「そうじゃなくて。姓名、氏名。苗字のほう」

「ああ、秘密にしてたもんね」

 秘密にしていたのか。

「それなりの家だと思うんだが」

 灼道は、栞菜の婚約者からの羽振りの良い依頼だけに留まらず、栞菜の実家からも金を毟り取ろうとしていた。つまりそのほうが、婚約者の男と今後付き合っていくよりも稼げると、そう算盤を弾いたからに違いなかった。

 こんな田舎にも、むしろ田舎なればこそ、旧家だの名家だのと称される名門は多い。有名どころはそれなりに耳に入るものだが、新政府に遣わされた都会の華族崩れなども含めてしまうと、多過ぎて見当の付けようもない。

「知りたい?」

 背中越しに、栞菜のほくそ笑むのが伝った。

「降参だ、頼む」

「素直でよろしい。正解はねぇ、羽紋ばもん。聞いたことあるかな」

「ばっ……羽紋って、あの?」

 やんごとなき名を冠する一族を、志弩は他に知らない。

「あ、知ってるの——って、やっぱそうだよね」

「当たり前だろう。じゃあ父親ってのは、もしかして」 

「うん、羽紋友進」

 次の県知事と目される大物議員の名だった。

「やはりそうか」

 議員としての器はともかく、多くの黒服と暗殺者まがいの連中を擁するのは、そういうわけである。

「もう華族じゃないのか」

「うん。こっちに来る時に爵位は返上したみたい。だから今は平民だよ」

 黒服を町中に蔓延はびこらせる平民がいるかと思うが、羽紋友進と会話しておきながら、そうと気付けぬ自分も大概に間抜けであろう。

 灼道も灼道だ。県知事候補を相手に稼ぐ算段でいたのだから、何とも豪胆なことである。正気など、海の彼方のまだ先へ消し飛んでいるに違いあるまい。

「印牧家とも不仲になって。『祟り』がバレちゃったみたい」

「その『祟り』ってのは何だ。病とは違うものなのか」

 例え不治とされるものであれ、それが病であるなら、先進医療技術を有する欧州列強と通じるアメス神教を頼って、治療法が見付かるとも限らぬ。だが——。

「残念ながら、病気じゃないの。下手な比喩なんかじゃかくて」

 一縷の望みは、他ならぬ彼女自身の発言によって絶たれた。

「これはね、カミサマを怒らせた罰なんだって」

「カミサマ、ね」

 骸霊がいて、それを操る女皇がいて、死んだ千鶴が生き返る世界なのだ。神の罰を受けた者がいたところで、取り分け騒ぐこともあるまい。

「ドチャ……ドチャク?」

「土着神か?」

「そうそう。何か、敬意を払わずに建物を建てたとかで。その土地のカミサマを怒らせたんだって」

 いわゆる土地神とか地荒神と呼ばれ、その名が示す通り、土地に古くから根付く地域信仰である。多くの地にそうした伝承が残っているものの、いずれも自然現象をおそれよ、などという教訓めいたお伽話である。実在などしない。

 仮に実在したとするなら、人間は骸霊のほかに、どれだけのものに脅かされなくてはならぬのだろう。もしそうなら、とうのむかしに人類は壊滅しているのではないか。

「西洋のカミサマと違って、土着神ってすぐ怒るし、すぐ祟るらしくて」

 短気と分かっていながら、その言い方もどうかと思うが。

「なら、治しようがないってことか」

「許して貰えるまではね」

「どうすれば許される?」

「分かんないよ。知ってることは全部したみたいよ?」

「ほら、塚を築いてお供えしたり」

「むかしやったらしいよ。けど全然。けっこう根に持つタチなのね」

 三日四日で終わると思っているのか。どうやら、端から敬うつもりもないらしかった。

「触ってみる?」

 そう言った栞菜が、躰を密着してくる。腹に、彼女のくねる腰を感じる。

「別に移ったりしないし」

「莫迦か」

「あ、照れてる。恥ずかしいんだ」

 軽薄な行動と発言に苛立った。よもや婚約者の男にも、こんな無警戒に躰を寄せたのではあるまいか。それなら男だけを責めるのは筋違いであろう。

「寝る気がないなら戻れ」

 思い掛けず、説教するような口振りになってしまう。

 栞菜は躰を少し離して、掛け布団の端をぎゅっと握り潰した。

「……投げやりだって思うよね」

「……いや」

 嘘を吐いたと思った。普通ならこんな女、間違いなく面倒に思ったはずだった。まして同じ布団で男女の交わす睦言むつごとがこれでは。

 だが、話を終わらせようとせぬのはなぜだろう。

「死ぬなら、それはそれで良かったの」

 非日常の数日をともにしたからか。

 互いに生死をさまよったからか。

「志弩と最初に会った、あの時もそう。骸霊に殺されるなら、まあ事故みたいなもんだよね、って」

 それもあろう。それなくして、この状況は生まれまい。しかし、それだけではなかった。

「薬師山のことも。志弩に冷たく言われたから、ああこの感情で死ねるかもって」

 栞菜は、自分と同じだ。

「そういうものに頼らないと死ねないの。怖いから」

「頼る?」

「不幸で可哀想な自分の境遇に浸って、何倍も悲しい物語に膨らませなくちゃ、とても死ねないんだ」

「自己陶酔か。そうまでして——」

「志弩なら、分かるよね」

 やはり。彼女も同じ思いなのだ。だからこそ心の奥底に巣食った、薄暗い絶望を吐露する気になったのだ。

「まさか、そのために」

 死ぬ口実のために、栞菜が婚約者を誘ったのでは。そう訝しんだ。

 栞菜は首を振った。

「それじゃ駄目なの。分かるでしょ」

 死にたくないよ、でも——。栞菜が一つ、鼻を啜った。

「でも、この『祟り』に殺されるのはイヤ。汚らしい蛆に負けるみたいだもの」

 死ぬのなら、自分の意思で。死ぬということをこんなに強く心に焼き付けた、灰色の蛆に屈するのではなく。

 巨大な鼠になって死ぬのではなく、自分が認めるやり方で、綺麗に死にたかった。

「でもさ、怖いんだ。楽に死ねたら良いのに、堪らなく怖いんだね」

「そうだな」

「だけど、今は生きたいって思う。牡丹町で死にそうな志弩を見て、そう思った」

「……そうか」

「なのに——」

 なのに、広い世界で目を開いて生きようとするほどに、希望が心の絶望に光を差し入れるたびに、躰を這いずる蛆は侵食を早めてしまうのだと、栞菜は小声ながらに怒気を強めた。

「本当、人生って皮肉だわ」

 その一言が図らずも胸に沁みて、志弩も泣き出しそうになった。

「……同感だ。みんなが幸せに生きるための新時代だっていうのにな」

 ふう、と栞菜が息を漏らした。さも途方に暮れたと言わんばりの溜め息だった。

「どうしたら良いのかな。どうすれば、ちゃんと生きられるんだろう」

「……ひとつだけ」

「え?」

 それは妙案などと呼べるようなものではなく、深く心を痛める彼女を思えば、言わでもの夢物語でしかない。実現する見込みは、それこそ絶望的だ。

 だが、生きたいと言った彼女へ。絶望に抗う栞菜へ、例え気休めにしかならなくとも、どうしても伝えておきたかった。

「確証も何もあったものじゃないが。ひとつ考えがある。聞いてくれるか」

 産まれ落ちたその時から、緩慢に忍び寄る死に怯え続ける彼女に、生きる勇気を持って欲しかった。

 これが普通に知り合って一夜をともにした女だったなら、こんなことを言いはしない。あずかり知らぬ生にも死にも、首を突っ込むつもりはなかった。鬼人としての職務ならいざ知らず、それ以外のことで、わざわざ止めようのない死から誰かを救おうとも思わない。

 目の前の女が栞菜でなければ。

 何度も救われた、大恩ある彼女なればこそだ。

 だが義理ばかりでもなかった。

 いつの間にか心の中に居座って動こうとしない。何の因果か、彼女がそんな存在になってしまっていたと、そう気付いてしまったから。

 懺悔でも贖罪でもない。過去は関係ない。

 己が正しいと感じる、その意志からこうするのだ。

「俺と来ないか。親元には戻らずに」

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