第10話
「やっぱり旦那か。最近よく会うな」
「ああ、今日はその続きといこうや」
とはいえ、こちらに付き合う理由はない。まあ無理くりこじつけるならば、理由は枚挙にいとまがないのだが。
「悪いな。邪魔してる連れを迎えに来ただけなんだ」
「相変わらずノリが良くねえな。ま、それならそれで構わねえけど、よッ!」
灼道の繰り出した岩のような拳骨を、斧槍の腹で受け止めると、反動で後ろへ飛ばされる。
灼道の姿は遠退いていくのに、斧槍には彼の拳打の衝撃が執拗に繰り返されていた。
同じ強さ、同じ律動で。
拳打の衝撃を、命中させた箇所に幾度も反復して与え続ける。これが灼道の授かった一級能力『Lady Go Round』である。
粘着質な性分にはお似合いの能力だ。
背後に迫る黒い骸霊を足蹴にして、灼道へ跳ぶ。彼の能力は継続しているが、挨拶代わりのようなもので、斧槍を破壊するだけのものではないから無視して突っ込む。
誰かが火をやったらしく、篝火台が煌々とした。視界が明るむのは好都合だった。すでに右上体を奥に捻り、待ち構える灼道は次撃を放つ。
その拳を目一杯に『跳ね返す』。
「うおっ!?」
今度は灼道のほうが後ろへ飛ばされる。が、そのまま栞菜の監禁されている部屋に突っ込みそうになって、慌てて『引き寄せる』。手前に引き寄せられる熊の巨体の腹を容赦なく串刺しにしてやろうとするも、太刀筋を読んだ灼道の掌打が逸らし阻む。
二人はしばし、宙に向き合い滞空した。
「へっ。ノリが悪いわけじゃなさそうだ」
「機嫌は悪いぞ」
「そうかい。なら特級の志弩サンの本気を、ようやくお目に掛かれるってことだな」
「……あの骸霊は、旦那の仕業か」
「ご明察。今日は莫迦じゃねえのな」
「ゴロツキだけじゃ飽き足らず、今度は骸霊を手下にするのか」
「けっ。やっぱ莫迦のまんまかよッ!」
着地を待たずして放たれた灼道の蹴足。防御はするものの、体格差は歴然。後方に仰け反った分、着地が遅れてしまう。その間に、灼道は体勢を整えていた。
「俺たちゃ陸軍の大部隊でも手を焼く化け物を、単身で殺す力を持ってんだぜ」
しかし、彼は追撃して来なかった。
いったん休憩といったところか。だが、気を抜いてはならぬ。戦闘経験も技術も遥かに
「この能力は優れもんだけど、一つ欠点がある」
「骸霊呼応機構か」
能力解放には、骸霊の出現が必須。それを厄介と思ったことは一度や二度ではない。かといってこの縛りがなければ、何をしていたか分かったものではなかった。崇高な意識と正義の心を
「莫迦なのか莫迦じゃねえのか、はっきりしろや」
結局は莫迦扱いするのだろうに。さっさと続けろと促すと、灼道はにやりとした。
「もう分かってんだろ。これだけの力を骸霊にのみ用いるってのは、面白くねえ」
「この仕組みがなくなれば、鬼人衆は骸霊以上の脅威になってしまう」
「それがどうした。関係あるめぇ」
「なあ旦那。餓鬼みたいなことは、もうやめよう」
「餓鬼に餓鬼呼ばわりされるたぁ、皮肉にもならねえ」
力がありゃあ何だって叶う、誰にも止められねえ。この制限さえ無くなっちまえばよ。
「しこたま金を突っ込んだ甲斐あって、ようやく目処が立った」
「それが、この骸霊もどきか」
おおよ。精霊球ってのは、死んだ精霊の寄り集まった塊みてえなもんでな。活性化すると周りにある万物を、のべつ幕なしに取り込んで肉体にする。いわゆる骸霊化だな。これが完了するまで、鬼人は焼印に刻まれた能力を開放できねえ。さりとて骸霊になっちまえば襲って来るに決まってる。だから骸霊化を済ませながらも、骸霊としての活動がまったくできない、骸霊のなり損ないが必要だったってえわけだ——。
珍しく灼道が興奮している。語る口調ほどには熱くならぬ、ただただ相手の敵意と害意のみに応ずるのみの、虚しき男だとばかり思っていたが。
「精霊球を人為的に活性化する技術は古くからあるそうだが、人工的な骸霊ってのは、未だ本国のほうでも成功してねえそうだぜ」
もとより興味のそそらぬ話だから、そうだぜ、とか凄まれても反応のしようがない。そんなこちらの腹の内を意に介するふうもなく、彼は能弁に拍車を掛ける。
「それを世界で最初に成し遂げたのが、俺様ってことになるんだが。まあそれはどうでも良い」
別に仏国だって、それくらいのことをやれぬわけではあるまい。やる必要がないだけだ。
「手短かに頼む。お互いに無駄は嫌いだろう」
「まあ、そう言うなや。んでな、骸霊を作ったからって、何になるもんでもねえ。肝心なのはここからよ」
「勿体ぶらないでくれ」
「おめえと話すと、どうも盛り上がりに欠けるが、仕方ねえ。教えてやる」
「別に……だいたい分かるんだが」
「鬼人の力を開放するための骸霊、名付けて鬼放霊柱ってのはどうだ?」
名前の良し悪しはさておき。骸霊を無力化する槍にしてもそうだが、似たような時期に似たような物が現れるものだ。
「目下の課題はこの図体だな。これじゃあ、ここで悪さしてますって宣伝してるようなもんだ」
「そうか、頑張らなきゃな。で、旦那の話はお終いか」
「けっ、つまんねえヤツだぜ」
「次は俺の質問に答えろ。旦那の力作と、栞菜を攫ったことに何の関係がある」
「ははっ。そうだよな、おめえは女を取り返したいだけだもんな——だけど、悪いな」
揶揄する口振りに残虐な笑みを添えた灼道が、右足へゆるりと荷重を寄せる。
「おめえの大事なお嬢ちゃんな。あの娘なあ——」
心臓に焼けた刃を刺し込まれたような、そんな不安が滾る。
「済まねえ。慰みもんになっちまったんだ」
「——ッ」
頭の中でぶつり、という音がして、気付いた時には躰が動いていた。挑発が彼の
斧槍を思い切り投げ付ける。幅広の刀身を正面から受ける灼道の視野を刹那ほど遮る。その一瞬のうちに急接近し、斧槍ごと灼道を殴打。斧槍に接触していなければ『Wicked Beat』を発動できない反面、触れてさえいれば、こんな奇襲も可能だ。
不意打ちに上半身を反らした灼道は、しかし踏み留まる。が、さすがにこれで仕留められるとは思っていない。
「捻じれ」
メリケン粉まみれにされた哀れな骸霊との戦いから茫洋に閃いていた、新技というヤツである。
異なる方向へ、同時に力を加える。
能力の拡張。これを覚醒と呼ぶそうだ。すなわち、鬼人の能力は成長する。
それを確かなものと認めるに至ったのは、先刻の木の骸霊戦からだ。つい昨日までは、薄れた焼印に起因したのか実力不足のせいか、骸霊戦において何度試そうが成功しなかったため、半ば諦めていたのが本音である。
もとより覚醒を成した事例は数えるほどしかなく、むかし見た鬼人の登録情報によれば、能力覚醒者は全国に三人しかいなかった。そんなお伽話のようなものに、さして熱心に鍛錬や試行錯誤を重ねたわけでもない。
だが、木の骸霊の一戦のさなかに能力の拡張を感じ、今ならあるいはという思いに駆られた。
果たして、上半身を右に下半身を左に、相反する水平方向の荷重は、ものの見事に灼道を捻り上げた。
「ぐっ……あぁ、てめえ……ッ」
この土壇場で試みを成功させたのは、偶然ではない。焼印の再交付は無論、きっと感情の抑制を解き放った、非日常の特殊な環境下に置かれたからだろう。そう思っても、だからといって灼道への感謝などあろうはずもない。
こいつだけは、持てる力を吐き尽くし殺す。
知らぬ者に小ぶりの骸霊だと唆したなら、ああそうかと信じてしまい兼ねない巨体が、雑巾みたく絞られていく。
勝てる。
にわかに勝利を確信し出す。しかし手を緩めることはしない。どうせあちこちで恨みを買っているのだから、ここで殺したって構うまい。
真っ二つに引き裂いてやる。激情に服うまま、力を加え続ける。だが——。
惨めったらしい格好をした灼道の、血の垂れるその口の端が笑っていた。
「……爆ぜろ『運命の輪』」
吐血の混じりの掠れた文言が途絶え、彼の指先が斧槍の刃に触れるや否や、自身を拒絶するかのような衝撃が奔り、突き飛ばされる。
「これは……!?」
どん、どん、と、大玉の花火が目の前で炸裂したような、重く強靭な力が執拗に斧槍を撃つ。
まさか。灼道が宿すのは一級能力ではないのか。拡張を経た特級能力を凌駕するほどの力を、どうしてこいつが。例によって、ブラフに嵌められた——いや、灼道の登録情報には、確かに一級と記されていた。
「惜しい、おめえはいっつも惜しい!」
あんたはいつも五月蝿いがな。五月蝿いわりに、肝心のところを煙に巻いて語ろうとしない。
あっという間に黒い骸霊まで押し戻され、やっと見えない掌打が途絶えた。
「ま、面食らうわな、そりゃ」
自信満々の態度に苛立つが、これ以上昂っても力押しでは灼道には勝てまい。深呼吸を繰り返して気を静めることに専念する。
「また騙していたのか」
「騙しようがねえだろ。能力は教会本部が開示してんだぞ?」
ならば、これは何だというのか。怒りに歯を食い縛る。
「本当に残念なオツムだよ、おめえは。あのな、おめえが思い付くんだぜ? 俺が同じ考えに至るとは思わねえのかよ」
特級を引き当てた強運は認めてやるが、所詮おめえはそれだけだな、と灼道がせせら笑った。
「覚醒だよ。あの日おめえがそうだったように、俺も同じ閃きを得たんだよ。戦闘の才覚は俺が遥か上なんだから、おめえに先んじて覚醒に至るのは、ごくごく当たり前と思わねえか?」
「覚醒後の能力拡張は報告義務が——」
「マジメか。そんなだから残念だってんだよ」
それを騙していたというのだが。そんな無意味な罵声を掛ける間もなく灼道が駆け出し、間合いを詰めて来る。灼道の能力は、彼の拳打の間合いに準ずる。過度な接近を許しさえしなければ、それほど恐れるものではない。迫る巨体に掛かる荷重を『Wicked Beat』で反転し、押し返す。
直後、懐から小石を取り出した灼道がそれを放り、拳頭で小突いた。
「爆ぜろ——」
運命の輪。彼がそう囁くと、膨張した空気が唸るように躍動して、小石を弾いた。
「ぐ……うっ」
急加速した小石に胸を撃たれ、激痛に息が詰まった。だが、怯むわけにはいかない。
一方の灼道も後ろによろめき、互いに尻餅をつく。
ここは相打ち。総合的な負傷の度合いは灼道のほうが大きいとみえるが、このままではこちらの敗色が濃厚だろう。ともかく、運命の輪とやらの秘密を暴かぬことには。
「運命の輪とは、何のまじないだ」
覚醒した灼道の、力の秘密がそこにあるはずだった。
「聞こえちまったか。かくいう俺も、覚醒に至って日が浅いもんでな。詠唱なしだとまだキツいんだわ」
日が浅いも何も、あれからまだ数日である。よほどの天啓でも降りて来たのだろうか。まあそれを実現し、実戦で通用する域まで磨いた灼道の、非凡な才覚は認めなくてはなるまい。
しかし鬼放霊柱と命名された支援骸霊といい、力と強さへの執心ぶりは狂気じみてはいまいか。
「詠唱……それで力の大きさと方向を、決めているというわけか」
「しつけえな。おめえにゃ無理だよ、この糞餓鬼がッ」
またも灼道は接近を試みる。石を弾き飛ばすのには警戒しなくては。石は重いから、そう幾つも忍ばせられるものではないが、そうでなくとも、落ちている物を撃ち飛ばすくらいのことは考えていよう。
人を欺く手管にも長けた彼が、無策の突進を仕掛ける道理もない。どう出るつもりだ。
しかし——。
覚醒した『Lady Go Round』は、どことなく『Wicked Beat』に似ている気がした。
自身が生んだ衝撃を繰り返す能力と、周囲の慣性を操る能力は、元来の性質においても重なる部分は多い。違う点といえば『Wicked Beat』の干渉できる力の広範さと、干渉した力を多彩に変換できることくらいか。
この程度の相違で特級と一級の線引きを為されたのでは、堪ったものではない。現に覚醒した灼道の一級能力に、自らの特級能力は力負けしている。
こんな些細な違いで、自分は妬まれ続けていたのかと思うと、無性に苛立った。
女皇に首を刎ねられた、あの可哀想な鬼人もそうだ。好印象に見えていた彼が、瀕死の自分に浴びせた悪辣な言葉は、周りの者が自分をどう見ているかの縮図ではあるまいか。
好かれようとしたわけでないにしろ、少なくとも嫌われるふうに振る舞ったつもりはない。だのに、どうしてこうなるのだ。
金で買った偽りの名の頭に必ず付けられる、特級の二文字。好意的なやつも、あからさまに剣呑なやつも、すべからく枕詞のように。よしんば特級でなかったならば、自分は何者でもないというのか。
「考えごとたぁ余裕だな。特級は格が違いますってか?」
拳と斧槍がぶつかる。灼道は己の拳打を増幅し、それを反転させ跳ね返す。
目に映らぬせめぎ合いは、圧縮された力の奔流となって、雷雲のように周囲を所構わず迸る。
漏れ出た衝撃波の一つが、地面に稲妻そっくりの亀裂を走らせ、すっかり野次馬と化したゴロツキどもを巻き込んだ。
「ひとつ教えてやる」
乱流のさなか、おもむろに灼道が口をきいた。
「他人に問わにゃあ自分のカタチを留められんうちは、俺に敵うはずもあるめえ」
肉親のような語りだった。親の面影も曖昧だったが。さしずめ吞んだくれの駄目親父か兄貴が酔いしれに放った、偶さかの格言のようだと思った。
腹の底より沸き起こる憤怒は、灼道の弁が如何に的を得ているかを示していた。
「いつも軽薄な連中ばかり引き連れた旦那が、よく言う」
「使えるもんは使うさ、使えなくなるまで。他ならぬ俺のためにな。割り切る覚悟も持てねえ言い訳ばっかの『るさんちまん野郎』が、舐めた口叩くもんじゃねえ」
理屈ではなく、行動を起こす原初たる心の在りよう。それ次第で、同じ行動であっても意味は変わるのだと、柄にもないことを灼道は言った。
「おめえに才能がねえとは思わねえが。俺を相手取るにゃあ、ちっとばかし若すぎるぜ」
「年寄りの冷み……」
「五月蝿え糞餓鬼——爆ぜろ『運命の輪』」
彼の呼び掛けに応じるように、捻じ曲がった慣性の渦がいっせいに雪崩れ込んで、志弩は吹き飛んだ。
「ぐっ」
鬼放霊柱に背中を強かに打ち、地に落下する。
「おめえは誰だ。与えられたもんで何を為す。過去から逃げるか?」
時交わさず立ち上がり跳ぶのは、追撃を許さぬため。そして反撃のため。
空中で斧槍を胸元に携え、灼道へ迫る。
灼道は仁王立ちに、それを待ち構える。
「逃げるのも、そらはそれで有りだと思うぜ。だがおめえは、逃げることからも逃げてるよな」
「黙れ、黙れよッ」
横に薙いだ大振りを、身を低めて躱した灼道の拳が、顎を突く。視界に星が飛んだ。
「死なねえから生きるなんざ、おめえ何様だよ。そんなに死にてえなら、俺が引導を渡してやらあ」
重く執拗な連撃を顎に食らい、意識が朦朧とする。膝ががくがくと笑って、
「生きてるヤツはよ、死んだ人間の魂を背負って生きてんだ。それが大事なヤツだったってんなら、尚更だ」
がら空きになった横腹に鉄拳が食い込む。内臓が揺るがされ嘔吐しても、殴打は止まなかった。
「そうやってッ」
掌打。
「死んだヤツの分までッ」
掌打。
「死ぬ気で生きるのがッ」
掌打。
「筋だろうがッ!」
ついに足腰立たなくなり、前のめりに倒れ込むところを、灼道の猛攻に打ち上げられてしまう。
またも鬼放霊柱に背をぶつけてしまうものの、再び立ち上がる気力は残されていなかった。
「おめえが生者の責務を果たそうとしねえ限り、覚醒なんかしねえし、俺にも勝てねえぞ」
だのに、どうして。
己の意思に拠らぬ何かが、この躰を立ち上がらせる。にわかに膝を屈め、性懲りもなく跳んだ。
「殴られてんのにスカしやがって。無敵気取りの、そういうとこがムカつくんだよ!」
再び交わる拳と刃。灼道の口が詠唱を刻んだのを見計らい、増幅される打撃を横へ反らす。何度も食らい続けたおかげで、力に任せるのみの単純な拳打の軌道は、今や完全に見切っていた。
しかし灼道の拳は曲がらない。斧槍を押し退けて、大砲の弾みたいな剛拳が右のこめかみを掠めた。
「くそッ」
怯むな。歯を食いしばって見据えるんだ。
初撃を当てた対象に、その衝撃を繰り返すのが彼の能力だ。
「……!」
そうか。そういうことか。
斧槍ごと腕を弾かれ、大きく空いた左脇腹を狙った灼道の一撃を、斧槍の柄尻で受け止める。
「爆ぜろ『運命の輪』」
「反らせ『Wicked Beat』!」
柄尻を押す衝撃を水平方向の回転力に変換し、その荷重に身を任せ右旋回する。腕が千切れそうな激しい加速を堪えて一回転させた斧槍が、未だ掌打を繰った姿勢の灼道へ
確かな手応えが腕を伝ったのち、短い呻き声を伴った灼道が背後へと退く。
彼の顔は歪んでいた。ようやくまともな損傷を与えられたらしい。が、斧槍が斬れ味に優れぬことを差し引いても、彼の痛がりようが、せいぜい木刀で打たれた程度にしか見えぬのはなぜだ。
「ちっとばかし当てたぐれえで、図に乗んなよ糞餓鬼ッ」
激昂した灼道は恐ろしかったが、この機を逸するわけにはいかない。彼の詠唱を待つことなく、追撃の『捻り』を加える。先刻は制御しきれず、押し負けた灼道の拳打から奪い去った荷重を二分割し、上肢と下肢で逆方向の慣性を加えることに成功したのは、彼が弱体化している何よりの証拠だった。
身を捩って絞られる灼道はなおも拳を、指先までをも伸ばし、必死に何かに触れようとしていたが、ここで同じ轍を踏むわけがない。
とはいえ、捻りの渦から脱する手立てが、まったくないわけでもない。よしんば彼がそれに気付いたとて、実行に移すかどうかは怪しいものだが——乱流に抗う灼道の拳が緩やかに上がり、自らの左肩に触れた。
「おらぁ! 爆ぜやがれ『運命の輪』ッ!」
その僅かな衝撃を、どれほど増幅したのかは分からぬ。だがそれが、自身を
「うおぉ! 痛ってえ、糞ったれが!」
窮地を脱するため、迷いなく己を殴る判断を下すあたりは見上げたものだが、これで彼は更に負傷したことになる。流れはこちらにあると思った。
左肩に手を当てた灼道は、仁王立ちして苦悶の表情を浮かべていた。元々がほぼ熊であるとはいえ、野獣そのままに涎を垂らし咆哮する彼を見たのは、これが初めてではないか。
しかし悠長に眺めてばかりもいられない。『Wicked Beat』の泣きどころは、溜めの隙を生じるだけではない。周辺の運動から慣性を取り込むこの能力は、効力範囲内に動くものがない状況において、ひたすら無力だった。
一方的な攻勢に出るためには、灼道の小石ではないが、仕込みが必要な能力なのだ。
追撃の構えを取り、動けない彼ににじり寄るものの、能力を使うか否か、彼の行動次第で打つべき手が変わる。こうした一連の判断の遅さ、これが灼道に比して決定的に劣る点なのだと思う。骸霊戦はおろか対人戦においても、経験値に天地ほどの差があるのだ。少し冷静になって考えてみれば、何を疑うこともないというのに。今更ながら、この思考の停滞が招いた苦戦と言えなくもなかった。
彼が屈する道理などない。気合いの咆哮を上げた灼道が前に一歩踏み出して、それを思い知らされる。
屈するまでは決して屈せぬ。それが灼道だった。
「舐めた真似しやがって。まだ……まだだ!」
日本人離れした巨躯の男が、鬼の形相で睨め付ける。鬼気迫るとはこういうことであろう。
だがその気迫に反し、彼の動きは鈍かった。さすがに限界。彼もまた自然法則の制約の内側に住む、一人の人間でしかないのだ。
能力を用いるまでもない。体力も仕込みも使い果たした彼の拳を避け、腹に斧槍を叩き込む。
二度、三度、四度。幾度叩かれようとも膝を折らぬ灼道の執拗さにうんざりとなるが、五度目の殴打がみぞおちに決まって、ついに彼は背中から倒れた。
今度こそ、灼道は動かなかった。
「はあ……はあ……!」
勝ったという実感とともに、どっと躰が重くなる。腰が抜けたのか、その場にへたり込んだ。
興奮冷めやらぬ心臓の鼓動がしんどい。浅い呼吸が苦しくて、胸を膨らませ深呼吸すると、心持ち落ち着く気がした。
本当に勝ったのか、あの百戦錬磨に。
多分、勝った。勝てたと思う。
嬉しさもないではないが、やっと終わったという安堵のほうが優った。後になって、どんな仕返しをされるのだろうかという不安も。
何より栞菜のことが気掛かりだった。
急げ。灼道が目を覚ますより前にずらからなくては、また面倒なことになってしまう。
幸いなことに取り巻きのゴロツキ風情は、敗れた大将を助けるどころか我先にと逃げ出してしまった。灼道とゴロツキ、双方の軽薄な関係を推し量るまでもない。そうした連中を従えた、灼道の落ち度だ。
「……」
だが担いで一緒に逃げるなり、簡単な手当てをしてやるなりあっても良いのでは、と思った。
栞菜は手を後ろに縛られて気を失っていた。見た目に大きな外傷がないことにひとまず安心するものの、首や胸元の無数の擦り傷が気になった。
前留めの白いシャツが開かれ、覗く肩口に下着がない。慰みもの、という灼道の言葉が蘇った。
まさか、あれはただの挑発。そう思いながら目を落とす。丈の短い『ぷりいつすかーと』は脱がされていて、彼女の脇に投げてあった。下着は着けていたが、横から見れば尻は丸出しで、誰かが後から履かせたようにも映った。
雷光のような怒りに打ち震える。しかしこの期に及んで、泥沼に転げた灼道を殺したところで、何の解決をみるわけでもない。
耐え難いまでの激昂をひたすら鎮めることに専念し、魂の抜けるほどの溜め息を漏らした。
落ち着け、まずは栞菜を安全な場所まで——。
「言い訳するつもりはねえが、やらかしたのは俺じゃあねえ」
灼道の掠れ声。彼は緩慢な所作で起き上がると、片膝をついてその場に座した。
この短時間で意識を回復したのか。しかし肩を上下に揺らして荒く呼吸するあたり、しばらくは満足に動けまい。
「やったのは、後ろのそいつだ」
血を含んだ唾を吐き散らしながら、灼道が顎をしゃくった。促されるほうを振り返ると、簀巻きにされた青年が寝そべっている。気を失っているのか単に寝ているのか、静かな寝息を立てていた。
髪も着衣も見窄らしくなってしまっているのは散々暴行を受けたからに違いなく、元はそれなりの階級の人間と見受けられた。
「そいつはお嬢ちゃんの
許嫁——そんな話、聞いたことはなかった。隠していたわけではあるまいが、その事実だけで無性に胸がざわついた。
「だけどお嬢ちゃんの隣にゃ特級鬼人が付きっ切りだし、自分が気張る度胸もねえ、と」
灼道の話す内容が頭に入ってこない。疲労のせいではなく、心の限界がもう近い。
まあ落ち着けや、と灼道が宥める。この距離で見分けが付くほど顔に出ていたのだろうか。いやそれより、灼道は己の敗北に憤ってはいないのだろうか。
「そんな経緯で俺んトコに話が来てな。聞けばお嬢ちゃんを攫って引き渡すだけで、結構な金を出すっていうじゃねえか。乗らねえ手はあるめえ」
「黒服は……」
「あいつらな。鬱陶しいが、今回は無関係だそうだ」
なるほど。合点のいかぬところの多いのは、そういういきさつからだったか。
「ただ、そいつの無駄口から、お嬢ちゃんも大層な家の娘だと聞かされて。それで気が変わった」
男から金は受け取るが、栞菜は渡さず男を拘束。男とではなく栞菜の実家と直接交渉するつもりだった。聞かされてみればなんのことはない。如何にも灼道の考え付きそうなことだった。
「だけど、今日はもう寝るべって段になって、男が盛りやがった。合意の上でも、こんな場所でするかよって思うが、どうやらお嬢ちゃんのほうにその気はなかったみてえで。五月蝿えから口を塞いでたのが裏目ったらしい」
こんなことなら早めに拘束しときゃ良かったぜ、と顔を歪める灼道。その苦々しい表情が篝火に照らし出されて、ああ嘘ではない、栞菜は犯されたのだと実感した。
躰の芯が抜け落ちたかというほど身を屈ませて、よろよろと栞菜の隣にへたり込んだ。もたれた壁は半ば朽ちていて、今にも抜けてしまいそうだった。
また守れなかった。
嘆きも憤りも何も言葉にならない。出るのは魂を吐き出すような溜め息ばかり。自身への落胆も叱責さえもそう。ただ震える背中を伝って、腐った壁の板が止まり木の小鳥みたいに軋った。
やっぱり。結局こうなるのか。しょせんはこの程度の男。何をしたって、真っ当にこなせもしない。
情けなかった。自分を慕う女一人も守れぬ無能者。だというのに、飯は人並みに食らうし糞も垂れる。
生きる害悪。かかわった人間をみんな不幸にする。誰とも会うな。接するな。心を通わせるな。何だったら死んでしまえ。今ならできる。太平を望む新時代に、不幸と混沌をもたらすお前の居場所など、いったいどこにあろうか。
死ね。死ねって。ほら死ねよ。
お前なんかいらない。世界がお前を拒絶するというのに、厚かましく惨めったらしく、まだ生に執着するのか——。
「おい、悪い癖が出てるぜ。別におめえは悪くねえだろ」
大気を震わせる灼道の低い声が轟いて、我に返った。おめえのせいじゃねえよと、もう一度、彼は言った。
「真っ先に悪いのはそいつ。次が俺かな」
「誰が悪いとか、もうどうでも良い! どうすれば栞菜を救える! 俺が死ねばあいつの傷が癒やされる、なかったことになるってんなら——」
「そりゃ駄目だろ。お嬢ちゃんが目を覚ました時、そばにいてやるのがおめえの役目だろうに」
「五月蝿え! もう……もう!」
自らを
「何で——」
自分にはもう効かぬだろう。
栞菜に出会ってしまったから。
人を深く知ってしまったから。
誰かと何かを共にする喜びを感じてしまったから。
「いっつも能面みてえにスカしたおめえが、そんなにつらそうなんだ。大事なんだろ、お嬢ちゃんのことがよ。だったら——」
不意にうん、と漏れた吐息は栞菜のものだった。
目を覚ましてしまう。大声で怒鳴ったのがまずかったらしい。
どうする、何て言う。神妙にするのか、笑ってやるのか。いや、笑うのは違うだろう。
灼道に目配せし、どうすれば良いか問う。が、灼道のほうも知らぬとばかりに首を振る。
男とは慌てふためくばかりで、実のところ、何の役にも立たぬ生き物なのかもしれぬと思った。
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