第9話
先刻の黒服の追跡を併せ呑むまでもない。
栞菜は拉致された、そう考えて相違ない。
肺の潰れるほど溜め息を吐き尽くした途端、心が屈する音がした。
怒涛のような焦燥に駆られる一方で、覆い被さる絶望の二文字が、沸き起こる膂力を根こそぎ奪い去る。心、いや魂か。魂が躰から零れ、気も遠のく果てしない茫漠の重力へ絡め落とされる。
永劫の焦慮を、無間地獄だと思った。それか、
ぴくり、と僅かに指先が痙攣して、志弩は
「……」
どれほどの時が過ぎたわけではない。差し入る陽の傾きも、室内の空気も同じ。せいぜい
栞菜と、意図せず呟いた。
「……助けないと」
助けに行かねば。そう思い至ると同時に今度は感情が息を吹き返して、かつてない憤怒が全身に漲り
「大概にしやがれッ。次から次によおッ」
喉が裂けるほどの声で叫んだ。そうしなくては、肚の底から巻き上がる
「もう……」
もう良い。心に枷などいらぬ。感情を制御する必要がどこにある。そんなものに
許さん。何者であろうが、細切れになるまで切り刻んでやる。
迸る怒りの一方で、頭のほうは冴え渡っていて、手掛かりを得るため現場の観察と分析を始めている冷静さに、妙なちぐはぐさを抱いた。
まずは敵方の目的。栞菜を連れ戻したい両親の仕業、というのが最有力だが。そこにばかり囚われていては、ほかの可能性を見落とす危険性もあった。もし栞菜の両親が糸を引いているのだとしたら、薬師山の時のように刺客がやって来るはずだから、最終的な判断はそこで着けられよう。
次に、賊の侵入経路。宿側が拉致の事実を知らぬところからも、迅速な犯行だったのに疑いはない。となれば、広縁から直接この部屋に入り込むのが最短か。人目に触れぬ犯行は手練れのものと窺える。速やかな遂行には囮役が一人、背後から栞菜の口と動きを封じる実行犯が一人、見張りと逃走時の誘導に最低一人が必要。つまりこれから捜索するのは、三人から四人ほどの集団に絞られよう。あくまで逃走途中の引き継ぎなどがなければ、だったが。
最後、敵の行く先。黒服は栞菜の両親の手先だから、躑躅町というのが真っ先に浮かぶが、先入観は捨てたほうが賢明だ。
いずれにしても、もうじき日が暮れる。夜の街道を進むのは如何にも賊らしいとはいえ、栞菜を連れたままでは足取りは鈍い。こちらに追い付いてくれといっているようなものだ。すなわち、どこかに
ともかく東か西か、はたまた南か。こればかりは部屋に留まっていても知りようがあるまい。明るいうちに聞き込みをすませ、情報から敵方の動向を掴み、その素性と目的を修正していく。
志弩は立ち上がり部屋を出た。今夜の帰りが遅くなることを帳場へ伝えていると、折悪しく暖簾の奥から顔を出した女将の顔が、一瞬だけ引き攣った。
気まずさを、むかしのようにインチキな作り笑顔で取り成し、表へ向かう。
沸々とする胸の内を冷静に抑え込んでいるつもりでいたが。これから聞き込みなのだから、態度と口調には注意しなくては。相手を威圧しているようでは、出てくるものも引っ込んでしまう。
宿の周辺では芳しい情報は得られなかった。往来する人間が少なく、こればかりはどうしようもなかったが、宿を離れるにつれ、恰幅の良い数人の男が、ぱんぱんに膨らんだ風呂敷を担いで街道のほうへ歩いていた、という話が異口同音に上がった。
賊が気を緩めたか、茜を帯び始める時刻に増えた人出が奏功したか。拉致現場から遠のくほどに目撃情報が増すのは、賊側からすれば皮肉な誤算だろう。
しかし情報によれば、賊の出立ちはいずれも黒服でない。目立つことから変装したのかと考えたが、
誘拐に黒服は感知していないのか。はたまたアシの付かないよう、地元のゴロツキを使ったか。栞菜の素性を知った第三者による、身代金目的の犯行というベタな線も、まだ捨てきれぬが。
警戒していた襲撃もないまま、尾行されている気配もない。八方塞がりの状況は、否応なく焦りと苛立ちを募らせる。
だが情報の信憑性は揺らいでも、ほかにこれといった話もない以上、追跡を継続するしかない。
そして、街道を南へ外れる山道を上がったところで、ついに人に会わなくなった。日没近い山道なのだから当たり前といえば当たり前なのだが、情報源に出会えぬのは、情報がないことよりもずっと悪い。人の往来があるのなら、情報が出ないこと自体も情報になり得るからだ。
とはいえ、賊がこの通りに入ったのに間違いはない。どうやら日中の人通りもまばらな山道らしいから、悪党の塒にはお誂え向けであろう。
急ごう。このところの恵まれた天候のおかげで足跡を辿ることも叶わぬうえ、夜間の山中捜索は困難を極める。
陽の沈みきるまで山を上がって、さすがに通り過ぎたことを危ぶみ、振り返った。
ここまでの道のりに脇道はなかった。一本道である。しかし、あまり標高が高くなると積雪が残る。足跡などの痕跡を雪に残してしまう懸念に加え、冷える分だけ暖を多く取らねばならぬから、それだけ外に漏れる明かりは強くなる。
どこかに隠し道はなかったか。何か手掛かりはなかったか。草木で覆われた、それらしい箇所。
もはや視界も覚束ぬ。猶予は少ない。急げ。
行くか引き返すか。どうする——。
いきなり左手の枯れ木が大きく揺れた。反射的に足を止めると、揺れも収まった。
風は無い。熊か、猪だろうか。
「危ない! 離れて!」
正面つまり麓のほうから男の声が聞こえて、その鬼気迫る雰囲気に押され、志弩は後ろへ跳び退いた。
それまで自分のいた場所を、暗がりにも分かるほど無数の大蛇が、互いを絡め合いながら横切った。声に従っていなければ、まともに食らっていただろう。
「……こんな時に」
またか。苛立ちに任せ、手早く斧槍を抜き身にして構える。手に馴染む得物から伝う、滾る感触が骸霊の存在を示していた。
「やば——たっ助け」
男の声。まだ見ぬ骸霊は、標的を変えたらしかった。今度は麓へ向かい跳び、男のほうへ。
再び蛇の束が繰り出される。自分にではなく、男にだ。
「引き寄せろ!」
獰猛に唸る蛇の群れを『Wicked Beat』で手前に寄せる。不自然に進路を歪めたそれを間合いへ引き込み、一閃のもとに斬り伏せる。ぼとりと地に落ちたそれは、蛇ではなく木だった。湿り気のあるしなやかさは、枝とするよりは根のそれに近い印象。
経験上、こうした種類の骸霊は、本体を忍ばせながら攻撃してくる。末端をどんなに切断しようと、再生を繰り返すのみで埒があかない。本体を如何に速く見付け出せるかが、手短かな討伐に直結する。
闇に沈み、かつ木々に紛れているであろう骸霊の本体の場所は分からない。対して『Wicked Beat』の能力を生かすには、敵の目視が必須である。
しかし今しがたの一合で、敵の力量の想像はついた。完全となった焼印の恩恵だろうか、あるいは骸霊の階位が低いのか、敵本体の位置さえ把握してしまえば、易々と屠る確信はあった。
鉄骸霊の時のような過信はない。むしろ、骸霊にいっぱしの知能が宿っている疑惑がある以上、攻防には慎重を期す。
思うに『枷』と『過給』の恐るべきは、本体の実力を隠匿してしまう点にこそある。何を『枷』としているかは知らぬが、その対価で単純な火力増強を図るのでなく、知能を獲得しているとするなら、敵の戦術の幅はこれまでと一線を画したものとなろう。実力に変わりはなくとも、実力を効果的に扱えるようになるわけだから、脅威度は上。安直に格下と侮るのは危険だ。
だが、この感覚は……。
大木の根を彷彿とさせる木の切り口が、本体へ戻ろうと収縮を始める。能力でその場に固定し、本体を辿っても良かったが、咄嗟に根を掴んだ。このまま本体まで引っ張って貰おうという算段だったが、そうそう上手く行くほど敵も莫迦ではあるまい。
暗いままでは能力が減衰を受ける。灯りが欲しいところだが、持って来た洋灯を点けることはしなかったのは、突然の光源に視界が焼き付くのを嫌ったためと、もとよりそんな
「気を付けて! 攻撃が!」
耳元を掠める風の音の間に、男の叫びが紛れた。直後、幾重にも絡み合った根が緩やかな
ほどなくして、樹齢ウン百年などと銘打たれていそうな、立派な幹周りの大樹に行き着く。
「……」
木の骸霊なのは、まあ分かる。が、この場違いな仰々しさでは擬態も糞もない。知能強化型ではないのかと半ば呆れ気味に見ていると、大樹の乾いた表皮がぬらりと動いた。どうやら擬態に頼るつもりはないらしい。
触手のような根の刺突を躱し、斧槍を向けると、大樹の内から鈍い光が漏れた。精霊球だ。
斧槍の切っ先に呼応しているのか。能力は馴染むにつれ成長することがあると聞くが。何であれ、探す手間も省けて助かるというものだ。
「そうか……そうだな」
どうしてだろう。『Wicked Beat』に認められた気がしたのは。そしてそれを鵜呑みに、喜ばしく感じる自分がいる。
こんな昂揚感を抱きながら戦って、どうして負けるというのだ。
するり。斧槍の先端が、堅い骸霊の表皮を貫く。
いやぁ、すっかり助けられた。洋灯が照らし出した小柄な男の顔は、声よりも老け込んで見えた。最近は独り言もとみに多くなっているから、他人の老化の具合を憂慮する立場でもないが。
「あんた特級の志弩さんだろう。お初にお目に掛かる——」
名乗った男はもう一度頭を垂れ、首元に痣のような焼印がおぼろに覗いた。
元々はアメス神教の教徒だったのが、鬼人衆を志したのだと、聞かでものことを男は語った。
「背中のモノで一目で分かりました。挨拶をしようと近付いたのですが、何やら慌ただしくされていたもので。控えるべきか迷っていたら、あとを尾ける格好になってしまった」
その弁をすんなり信じるわけにはいかぬ状況だ。こちらを疎んじる敵方が、仕事のない鬼人に金を掴ませたとしても、別段の不思議はなかった。
どちらにせよここでお別れだ。適当に相槌を打って立ち去ろうとすると、何かお探しですか、と男に先手を取られてしまった。
連れの女を探している、そう告げてから妙な言い回しになったと気付いたが、揶揄するふうもなく男は返した。
「なるほど、人探しでしたか。それならお役に立てるかもしれない」
「……何か知っているのか」
「いえいえ、まさか。ただ、私も鬼神の端くれですので」
言葉の意味が解せず、懐疑と焦燥の表情をしていたのだろう。男にまあ落ち着いて、と年寄りのように泰然と宥められてしまった。やはり、そこそこ齢がいっているようだ。
「支援種なんですよ、私は」
鬼人に与えられる能力の系統は、概ね三つに大別される。
まず、灼道のような攻撃種。前線で骸霊を攻撃する花形である。一方で防御種という分類もあって、骸霊の攻撃を防御ないしは無効化しつつ仕留める戦術が主体となる。まどろっこしくて、正直好きではない能力である。
そして支援種。防御種と似通っているが、骸霊の活動を阻害し無力化する能力。他の鬼人を強化するような能力もあるらしいが、目立たぬせいかあまり出会ったことはないように思う。だが、それが何だというのだ。
「ご存知でしょう。支援種には、さらに感知型という分類がある」
戦闘力としては鬼人の内で最も低いとされる感知型には、他にない唯一無二の能力が与えられていた。
他の種が、骸霊の現出まで能力を行使できないのに対し、感知型だけはその存在に依ることなく、いつでも能力を扱えるのだ。
「感知型特級。名を『Calling』と言います」
嘘だと思った。虚言を並べ立て、この場に留め置く時間稼ぎのつもりだろうか。
だが、嘘にしても特級とは言い過ぎだ。
そうした反応に慣れているのか、男は静かに、しかし嫌味なく笑った。
「疑われるのも無理からぬことです。ただ先刻、敵骸霊の攻撃を予測したことは、お忘れではありますまい」
「骸霊の位置を把握するのか」
まがりなりにも特級を冠するのだ。それだけなはずがない。
「まあそうです。が、それだけではない」
緩慢な男の弁に焦れる。
「精霊球の脈動を感じ取ることで、骸霊の位置ならびに行動を把握する能力は、応用次第で骸霊以外にも転用可能なのです」
「だからどういう——」
「あなたの探しているお方を感知できるかもしれない、という意味です」
特定の人間から、果ては物品に至るまで感知による探索が可能なのだという。
「
物に宿る想いを辿る能力——正しく説明するならそうなりましょう、と男はもう一度笑う。
「探索できる範囲は?」
「日によってまちまちですが。今日であればざっと、半径百五十里くらいですかね」
なるほど特級に
しかし栞菜に所縁ある物品など。衣服をまさぐるものの、それらしい物は出て来ない。メリケン粉だの何だのと、宿に帰れば邪魔になるほどあるのに。
「あ」
指先に固く分厚い紙の感触。
「これでは駄目だろうか」
取り出した紙包を開き、男へ柑橘の簪を手渡す。昼間に購入したばかりで、縁も所縁もあったものじゃないが、と言い訳すると、男が失笑した。男のくせに良く笑う。
「どれ、ひとつやってみますか。対象者との繋がりはなくとも、あなたが発する想いは宿されておるでしょうから」
「頼む」
「そんな顔をなさらないで。特級の志弩ともあろうお方が」
好んで特級などになったのではない。二言目には特級特級とする周囲の声は、鬱陶しい妬みにしか聞こえなかった。
「私はね——」
簪を握り目を閉じる男は、穏やかに話し始めた。
「この土地で初めての特級能力保持者である、あなたに憧れたんですよ。感知型のようなキワモノなどでなく、純然たる特級を授かった、あなたに」
「……?」
「ですから、どうか強くあられて下さい。勝手なことを申すようで恐縮ですが、あなたはこの地の鬼人たちの憧憬であり、目標でもある。あなたが思うより、あなたの存在は大きいのですよ」
柔らかな物腰は変わらずだったが、最後のほうは懇願しているように聞こえた。
「大丈夫。特級能力を抜きにしたって、あなたは十分に立派な方だ。ですから、どうか鬼人衆を導いてやって下さい」
誰かにそんなふうに言われたことはなかった。それも鬼人衆に。どう返して良いか分からず無言でいると、男は構わず続けた。
「なに、さして難しいことではありませんよ。鬼人衆は強さがすべて。ならばやはり、あなたは強くあるべきという、それだけのことです」
「弱さを見せるな、と?」
「逆です。弱さを見せぬ人間など、誰が信じましょうか。弱い人間が、しかし強くあろうとする、人が惹かれるのはそういうところです」
寺で教え説かれている気分だった。
「逃げるなとも、期待に応えろとも申しません。あなたはただ強く、そして正しいと思えることにこそ、その力を用いて突き進んで下さい」
正しいこととは、何であるか。こればかりは、あなたがその人生で探し出す以外に——。
いい加減、五月蝿い。善意や善性のみで話されることが、こんなにも苦痛だったとは。
何を勝手なことを。義侠心からの行動が、必ず正しい結果に繋がる道理もない。正しくあろうとして足掻いた結果が、この人生このザマなのだ。それを知っても、それでもこの男は同じことを抜かせるだろうか。
……うん、何かと理屈をこねては、上手いこと丸めて来そうな気はする。
しかし今、誰かのために強くあろうとするなら。特級たる『Wicked Beat』で、己が正しいと感じることをするとしたら。
栞菜、彼女を救うために。夜ごと月を鎮める如く咽ぶ栞菜が、もう泣かなくて良い、そんな世界を彼女の視界いっぱいに広げてやりたい。一切の逡巡なく、そう答えるに違いなかった。
己のことも儘ならぬというのに、まったく身の丈にそぐわぬ願望である。千鶴を死なせた罪悪感からの代償行為と疑うこともできたし、この男のような善性に基づく感情とは、とても思えない。
だが例えそうであっても。今はそれで構わない。
贖罪に利用していようと、胡散臭い義憤からの行動であっても、それで彼女が笑える夜を迎えられるのであれば。
あいつを泣かせている、あらゆるものを退けたい。
「……」
そうか、と気付く。
正しいこととは、心から願うことなのかもしれない。
予言めいた説明にあった箇所には、確かに季節外れの草木が茂っていて、これを掻き分け漁った向こう側に、なるほど細い獣道が姿を現した。日中にこれを見つけ出したとて、およそ道だなどと考えはしまいが、男の助言の通り、獣道の半ば溶けかけた雪に、人の足跡が強かに刻まれていた。
大したものだと感心しつつ、獣道を上がる。
緩い坂道を駆け上がりながら、志弩は別れ際の男の言葉を反芻した。
距離を隔てていなかったこともあるが、あなたの想いの強さがお相手の行方を示したのでしょうな。
栞菜の位置を事細かに言い終えた男は、そう付け足してまた笑った。よもや他人の慕情を笑ったわけではあるまいから、きっと安心させるつもりだったのだろう。多少は呆れられたかもしれぬが。
額づくほどの謝辞を述べると、男は心底から恐縮したようだった。
「どうか頭をお上げ下さい。私としても、最後にあなたのお役に立てたのは、何かの縁だと思います」
最後、の意味に首を傾ぐと、老け顔を俯かせた男が言葉を継いだ。
「陸軍の引き抜きに応じましてな。来月には極東行きが決まっております」
前線で効率良く精霊球を回収できる攻撃種に対し、防御種や支援種の実入りが良くない実態は時折り耳にするところだ。風の噂で鬼人が陸軍へ流れる事態が頻発しているというのも、そうした理由あってのことなのかもしれなかった。
鬼人衆ひいてはアメス神教を抜けるとなれば、焼印の更新も受けられぬし、武器も返還しなくてはならない。
つまりこの男は、焼印の効力が失われるまでの残り時間を、陸軍と見知りもせぬ侵略地に捧げ、骸霊ではなく人と戦う決断をしたことになる。
職替えとはそういうものであろうが、必ずしも磐石な未来が用意されているとは限らない。
まして極東。戦地なのかと尋ねると、仔細については聞かされておらぬものの、この時世ですから恐らくは、と濁す。
妻子はあるかは訊けなかった。訊いたとて、それでどう返すのだ。
きちんと身の保証をされていれば良いが。男の帰りを待つ者と、いつかまた再会できれば良いが。過分な入れ込みようだという自覚はある。自覚はあるが、残された者のつらさは身につまされて知るところでもある。
そんなだからとても頑張ってなどとは言えず、再び厚く礼を述べて、祈るように頭を下げた。
回想に耽るうち、道ならぬ道の先、枯れ木が雪の玉水を滑らす上り坂の頂上に、ほのかな灯りが浮かんだ。
あれか。あそこに栞菜が匿われて——。
坂を上がりきった平地には、荒む日本家屋が横並びに数軒あって、灯りはその一つから漏れ出している。どうやら、大昔に朽ちてしまった農村のようだった。周囲を夥しい常緑樹が覆っているばかりに日照に恵まれず、やむなく手放したのだろうか。
かつて畑だったのだろう、雪解け水に
それにしても厳しい静寂だ。半分あの世に足を踏み入れているのかと疑いたくなる。柔らかく湿った足場は泥水を多分に含んでいるらしく、足を上げるたびに水の跳ねる音がして、志弩は肝を冷やした。夏場であれば蛙や虫の音に紛れさせられるものを、この時期では望むべくもない。
ようよう屋敷の壁に取り付き、手頃な穴を見繕って覗く。屈むと背負った斧槍が壁に当たるので、中腰で背筋まっすぐの、間抜けな格好にならざるを得なかった。
灯りの中は、こちらを向いた男が座っている。黒服ではなく、品格の欠片もなさそうなゴロツキだ。部屋の左に、
が、それだけで事足りた。尖った爪先に、踵に柱を生やした見慣れない長靴を履く人間など、そういるものではない。
沸々と怒りが再燃したが、ここで感情に任せた突撃を掛けても勝算は見込めまい。ここでいう勝算とは、栞菜を無傷で取り返すことである。単純な一対多数の喧嘩ではないのだから、慎重さと冷静さを失してはならない。
そう自分に言い含め、もう少し敵方の把握をしようと歩き出した矢先、後ろでにわかな地鳴りが起こった。
「……くっ」
地震ではない。うんざりするほど繰り返されて来たこの感覚を検めるように、志弩は背後に翻る。
案の定、やって来た獣道を塞ぐように、漆黒の巨人がおぼろに象られている。珍しく明瞭な人型をしているが、デカい。デカいというか高い。高いが細い、黒い柱のような骸霊だった。
黒い骸霊には見覚えがある。そう、薬師山の荘雲寺の屋根を吹き飛ばした奴。あれとそっくりだ。
精霊球を体内に宿している他に共通点のない骸霊は、個体ごとに形態も大きさも異なるのが普通である。志弩も、これまで同種の骸霊というものに出会ったことはないし、そういう話を聞いたこともなかった。
同じような骸霊がまったく存在しないとまではいわぬが、しかし荘雲寺の件はほんの数日前である。存在どころか遭遇してしまうというのは、簡単にはあり得ぬ事象といって良いだろう。
それに、何やらいかがわしい。荘雲寺の時にも感じた違和感というか、キナ臭さ。
「……そういうことか」
荘雲寺と今回の共通項といえば。それはもう考えるに及ばない——。
背後で物音がした。腐った雨戸が泥濘みに躍り出て、直後に気合いの怒声。横目に窺えば、日本刀を大上段に構えた男が、まさに今飛び掛かって来るところだった。背後から袈裟掛けに斬り伏せるつもりだ。
声を上げては奇襲の効果も半減するであろうに。まあ幾ら気配を絶ったところで、結果に変わりはない。
鬼人の眼前に骸霊がいるのに、そこに常人が割って入るなど愚行の極みである。
跳ね返——刀を振り上げたまま、空中で横に吹き飛ぶ。『Wicked Beat』ではない。大きくも速い、巨躯から穿たれた一撃によるものだ。
「おめえに務まる相手じゃねえ。命は大事に、って教わらなかったか?」
暗闇においては、もう熊そのものだ。それか二足歩行の闘牛。いつか猟師の銃弾に沈められてしまえば良いのに。
騒ぎに反応したゴロツキたちが得物を手に、わらわらと出て来る。十人はくだらぬか。
「てめえらはすっこんでろ!」
一喝のもとにゴロツキを制した熊が、今度は狼のように高らかに笑った。
「よぉ、久し振り。お互い頑丈に産んでくれた両親に感謝だな」
鉄灼道。彼は、躰の内から漲るものに堪え兼ねるような身震いをした。
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