第8話

 貴様が三鴨正介だな——。階級は知らないが、そいつは極めて厳顔な物言いだった。

 それに苛立ったのもあるが、ともかく動揺を見せてはまずいと思った。冷静かつ紳士的に振る舞わなくては、何やかんや難癖を付けられた挙げ句、聴取のために連行されるか、悪ければ逮捕だ。起訴されて有罪が確定すれば、おそらく当分は陽の目を見れぬ生活で、それでは千鶴に会えなくなってしまう。

 生まれて初めての緊迫感に血の気が引いたのは、引き戸から滑り込む冷たい風のせいではなかった。

 表で話そうという俺の提案は、単に千鶴の前で情けない正体を暴かれることを危ぶんだからだった。

 それを看破してか、官憲はそれに応じた。俺の逮捕が目的なんだから、自ら外へ出るという恭順に異論のあろうはずもない。

 俺はといえば、公僕の一人や二人なんざ物の数じゃない。縄を掛けられる前に、隙を突いて巻いてしまおうなんて考えていた。だから店を出る寸前、固唾を飲む千鶴へ軽快に笑ってみせたのは、ただの強がりだった。頭の中は、何とかこの場を切り抜けようと必死だったのに。

 酒で上気した気分も、明るい未来の展望も、凍てつくような北風に吹き飛んでしまった。

 嫌なことや、不安を抱えたときに見上げる空ってのは、いつも綺麗なんだな。その晩も寒空は澄み渡っていて、瞬く星々を統べる見事な満月が目に飛び込んで来た。

「え……」

 身が竦み手先の震えたのは、偶さか目に止まった月の美しさでも、まして突き刺すような外気のせいでもなかった。

 ぱっと見えるだけでも七人か八人。店先の通りは、警官の群れに左右を封じられていた。ご丁寧にも、最初に現れた官憲が引き戸を閉めてくれたおかげで、狼狽するさまを千鶴に見られずに済んだのは幸運だった。

「三鴨正介。貴様を連行する」

 罪状も何も語られることなく、両脇のそれぞれに警官が腕を絡めた。


「それで? どうやって逃げたの?」

「あ、ああ」

 逃げ出した前提でいるのは可笑しかったが、当然そうなる流れの語りだったようにも思う。喋りが下手になったのだろうか。

「強引に振り切った。帯剣してるとはいえ、よほどのことでも抜けやしないのを知っていたからな」

「ああ、お飾りなんだ」

 実際は厳しい訓練を積んでいるし、士族の流れを汲む輩も多いから、絶対に抜かないとも言い切れないが。

「簡単に振り切って走り出せたもんだから、ただの警官だと舐めていた」

「違ったの?」

「誰の指示でそうしたかは知らないが、まんまと逃走した俺に、警官の一人が発砲した」

「警察は銃を持ってないでしょ。軍隊の間違いじゃない?」

「分からないな。でも軍部寄りなのは確かだろう」

 初めて受けた銃弾は重く熱く。貫通したらしく、背中と左脇腹の両方からしとどに血が溢れた。

「痛みに意識が混濁して、卒倒しそうになるのを支える手があった。千鶴だった。発砲音を聞きつけたんだろうな」

「凄い。千鶴さんって勇敢でもあるんだ」

 拳銃どころか、鉄の骸霊と女皇を前に、同じことをしたのを栞菜は見落としている。


 千鶴の胸を詰まらせるような懸命な声が聞こえて、すんでのところで俺は意識を保った。

 銃を撃った官憲へ彼女は何かを叫んだけど、連中が女の言葉に耳を貸すわけがない。それどころか、このままでは彼女も共犯と見做されてしまい兼ねなかった。そう思い至ったとたん、力が漲った。

 惚れた女が成り行きも知らず俺を庇い、窮地に陥ろうとしているのに、自分はいつまで女の手に縋っているのだと憤った。

 撃たれた箇所が良かったものか。気力を振り絞ったなら、造作もなく足腰が立った。

 さて、どうしたものか——なんて思考を巡らせ始めた矢先、俺の手を引いて千鶴が走り出した。

 目を見開いて慌てたものの、さりとて足を止めるわけにもいかない。警官の反応は迅速だったが、銃弾を受けた時点ですでに包囲網を突破していたから、新たな銃撃さえ喰らわなければ、あとは脚力の勝負だ。厚手で硬い制服と長物のサーベルは、逃げる容疑者を追い掛けて走るには不向きで、彼我の距離はどんどん広がっていった。

 煉瓦れんが家屋の並ぶ表通りを抜け、俺たちは京橋の橋桁の下に身を潜めた。息の切れるほど駆けただけあって、汗と出血で衣服はぐっしょり濡れていた。

 千鶴が着物の裾を破って腹に当てがってくれた。そんなもんで止血もあるまいが、その気持ちが嬉しくて、ありがたくて。なのに俺は詰め寄った。どうして店から出たんだって。

 千鶴はそれには答えず、代わりに橋桁のアーチと橋脚の僅かな隙間に差し込む、青い満月を眺め言った。

「あんまり月が綺麗で、それで外に出たの。そうしたら正介が撃たれたのが見えて」

 見え透いた嘘だった。気取ったふうな語りといい、女ってのは妙なところで妙な男気を発揮するものらしい。どのみち俺に彼女を責める資格などない。元を質せば、すべての発端は俺にある。それを棚上げにして、俺を逃がしてくれた千鶴に感謝こそすれ、さかしまに罵ることなどできるはずもない。

 差し当たり、どう納めるかを早急に考えなくてはならなかった。

 俺が出頭して、千鶴が無関係だと供述——いや、それは甘過ぎる。獄中からでは千鶴の無事を確かめる手段もない。それは最後の手段というやつで、まだ他にやりようはあるだろう。

 あれでもない、これでもないと気を揉んでいると、千鶴が形の良い唇を婉然と歪め、笑った。

「正介も笑ってよ。そのほうが良いって」

 鳥肌が立った。満天の星と、凪いだ川面に耀う月光。その狭間に佇む幽玄なる千鶴が、例えようもなく美しく尊く見えて、俺の中のものが焦点を結んだ。

「なあに、もう。いやだわ」

 言わねばならぬ。信義なもとると言うのか、信義も何もあったものじゃないのにな。ともかく、そのときばかりは話さなくてはと決意した。

「俺はさ。本当は、お前に顔向けできるようなにんげんじゃないんだ」

「……正介」

「お前のいう笑顔にしたって、誰かに取り入って騙すために磨いたもので——」

「そんなこと言うもんじゃないわ。ことの発端なんて、誰しもそんなものよ」

「違う、そんなんじゃ」

「それとも、私があなたに騙されていたとでも? 私の目が節穴だとでも?」

「そんな意味では——」

「あなた、大切にされたことがなかったのよ。誰にも。そして誰も大切にしてこなかった。違って?」

「……それは」

「だから、特別に教えてあげる。正介。私はあなたを大切に思ってる。あなたが大切。だから、あなたも私を大切にしてくださるかしら」

「え」

 突然の告白に唖然となる。しじまのみぎわにとよむほど鼓動が高まり、わなわなと手足が震えて、脇腹が出血を増した。

「そうすれば、あなたはあなた自身も大切にできるわ」

「千鶴……」

「だから笑ってよ。お願い」

「話の脈絡が」

「あら、脈絡ならあるでしょう? 正介の笑った顔が私は大好き。とても優しげで可愛らしくて。それだけではご不満かしら?」

 干魃かんばつでひび割れた心に、染み入るような甘い疼き。といっても、このとき初めて自分の心が枯れていたと知ったんだが。

 泣き出しそうになるのを堪えて、代わりに笑った。間をおかずそれは哄笑になって、腹の傷が痛んで今度は呻いた。それを見た千鶴も声を上げて笑った。本当に気丈な女だった。そこに憧れたんだな。

 もう迷うことなどなかった。俺は千鶴に、一緒に逃げようと告げた。落ち着いたら夫婦になって欲しい、今度こそ真っ当に生きる。お前のことも、自分のことも大切にする、約束するから——って。

 もっとマシな口説き文句はなかったのかと思うほど、あまりにつたない条件提示だった。が、張り詰めた外気に冴え渡る寒月は悪くなかったから、それで帳消しだ。

 その月明かりへ視線を戻した彼女は、何を思ったんだろう。よもや気を持たせたわけでもあるまい。

 どれほど長くそうしていたわけでもなかったが、とても長い間に感じた。

 すべてを晒し祈り、禊ぐような沈黙を経て、出し抜けに千鶴が口を開いた。

「そういえば今日、確か伴天連の祝日だわ」

 ちょうどイエズスの生誕だか降誕だかで、ハイカラな連中は聖夜と呼ぶ晩だった。

 苔生す緑に、煌めく数多の星。それに血の赤。

 笑っちまうけど、俺も聖夜ってのを信じてみようなんて気になったんだから、不思議だよな。

 今日のこの夜に誓ったのだから、きっと叶う。その勇気ときっかけを与えてくれた。今日はそのための日だ。

 聖夜に違わぬ、心温まる静謐な時間が訪れた。

 千鶴と心を通わせられたと実感したのは、これが初めてだった。本当に一瞬だったが、満たされた時間だった。幸せを噛み締めたんだ、何もかも許されたつもりになって。

 終わりは唐突に始まった。

 彼女に近いほうの橋脚の向こうに、薄い人影が揺らいだ。

「……ッ!」

 不覚にも、先に反応したのは千鶴のほうで。俺が動くよりも早く、彼女は俺の前に身を滑り込ませる。ほとんど同時に起こった銃声に、清し水面が幾重に波紋を刻んだ。

 仰け反った千鶴が川に落ちて、それを見て飛び込んで。そこからはあまり記憶が定まらない。

 気が付くと、どこかの河原へ打ち上げられていた。ゴミだらけの汚い、腐臭に肺の潰れそうな岸辺に。


「対岸の街明かりに照らされていて、仄明るい河岸だった」

「千鶴さんは」

「どんなに声を張って名前を呼んでも、千鶴からの応えはなかった。それで川辺を下流へ歩いて、少ししたところに、千鶴が寝ていた」

「……それって」

「一目見て、もう」

 栞菜が息を呑んで身を固くした。臆すような仕草は、これ以上聞くことを拒むふうにも見えた。

「もうやめよう。つらそうだ」

 無理強いして語るものではない。栞菜に己の悲しみを背負わせることが目的ではないのだから。

 しかし彼女は、かぶりを振った。

「ごめん、話して。最後までちゃんと聴くから」

 柔い月下の儚い彼女の声は、力強かった。

 何でコイツは、どうしてそんなに。

 なぜ俺を突き放さない。拒絶しない。むしろ受け止めようとするのだ。小さな躰と腕を、精一杯に拡げ伸ばすようにして。怖がりで泣き虫のくせに。

 コイツはいったい、何者なのだ。


 目を疑った。血の気の引いていくのは失血のせいじゃない。

 岸辺に俯せた千鶴の顔は、水面に浸かっていた。震える指先を伸ばし、彼女の躰に触れ、ひっくり返した。その顔は壮絶な苦悶を浮かべたまま、石膏みたいに固まっていた。

 千鶴を抱え運び、ゴミの敷き詰められたおかに寝かし置いた。

 もう、分かっていたことだった。呼吸のないだけじゃなく、彼女の胸の真ん中に、真っ黒な染みが滲んでいた。衣服をはだくと胸が顕わになって、両の乳房の中心に、強かな銃創の穴があった。

 何度も名を呼んで、そのうちに心のせきが切れた。あらん限りの言葉を無秩序に投げ掛けて、胸骨圧迫した。人工呼吸も。柔らかく温かだった彼女の唇はもう冷たくて、時折り泥臭い露の味がした。

 でも、たわわに揺れる彼女の躰に生気の兆しはなく。胸の穴から、どす黒い血が僅かに漏れ出たくらいのことで、何の変化も訪れはしなかった。

 そう。何も変えられなかったんだ。俺を大切だと言ってくれた彼女は、俺のせいで撃たれたのに。

 俺は彼女を救えなかった。貰うだけ貰って、何ひとつ返せないうちに。聖夜だなんて、ガラでもない希望だの幸福だのを身勝手に描いて。

 その顛末が、この絶望だった。

 泣くだけ泣き、しわぶいた。泣いてどうなるものでもないし、泣く資格さえなかっただろうが、あんなに泣いたのは初めてだった。二親ふたおやの処刑を聞かされた時さえ泣かなかったのに。

 胸の底から沸き起こる慟哭もまた、久しく忘れていた喪失感だった。かけがえのないものを知り、それを亡くした俺の胸にもぽっかり空虚な穴が空いて、どうにもならぬほど俺を責め立てた。

 身を焦がす責め苦は、瞬く間に憎しみへと変異した。千鶴を撃った官憲にじゃない。俺自身を、俺は恨んだ。

 俺が千鶴を殺したに等しかった。俺がいなければ千鶴は死なずに済んだし、俺じゃない誰かと幸せな家庭を作ったに違いなかった。彼女のその未来を、俺は奪った。何もかも全部。俺の存在が千鶴を殺した。

 陶酔に過ぎるよな。でも凄惨な表情をした彼女の死を、何の寄るなく受け容れることなど、俺にはできなかった。いや、結局は受け止められずに、その場で死のうと考えた。運良く拾い上げた錆びた包丁で首を引っ裂き、千鶴の傍らで後を追おうとした。他に詫びる手立てなぞあるわけもないし、何よりも、俺がそうすることを望んだ。

 千鶴のいない世界に、何の希望も未練もなかった。

 なのに。首に押し込んだ赤茶の切っ先を、俺はどうあっても引くことができなかった。もう生きていたくないのに、自らを終わらせる勇気さえも俺は持ち得なかったんだ。

 一瞬のことだ。痛みと出血に冷たい川を流され、呼吸さえ奪われた彼女と比べるまでもないことのはずだと、何度も言い聞かせるものの、刃は一寸たりとも微動だにしなかった。その事実を突き付けられるほどに昂り、さあ死ね今死ねと神のごとき声が叫び続けようとも、それでも俺は自らに始末を付けられなかった。

 いっそのこと、雷でも落ちてくれたら。地割れでも何でも良い。

 神でも仏でも、イエズスだろうと関係ない。

 そんなものが、真に存在するのなら。

 頼む。今すぐ、俺を殺してくれ。


 でも、と言いかけて口をつぐんだ栞菜を、志弩は引き継いだ。

「そうだ、死ねなかった。情けなくも」

 震える包丁を取りこぼしたが、拾う気も起きずに、千鶴の亡骸の横へ子供のように座して、川を眺めた。

「痛みを伴わぬ死は、俺には許されないのだと知った。そんな生易しい死は、相応しくない。苦しんで、苦しみ抜いて死ぬ道しか、俺にはないと」

 死ねないなら、生きるほかない。生きて、死ぬまで償う方法を探そうとした。

 千鶴を手掘りの雑な墓穴に埋葬し、墓標代わりの棒切れに懐中時計を括り付けた。穢れたゴミの溜まり場に彼女を眠らせることに、何ら抵抗がなかったわけではない。だが屍を担いだまま、迫り来る追っ手から逃げるのは不可能だった。だからこんな地であっても、千鶴の在り処を残しておくほうを選んだ。

「大人しく出頭して、死罪になっても良かったと思うが。どうしてだか、それは嫌だった」

「それで、どうしたの」

「年末まで東京に潜伏して、除夜の鐘に合わせて西へ向かった」

 人通りが多い分だけ発見されにくく、仮に見付かったとて、追跡は難儀するはずという考えからだった。

「京都へ着いて、金が尽きた。身の回りの物——といっても盗品なんだが——を売り捌いて、しばらくはそれで暮らした」

 気力もなく、死ぬにも生きるにも精魂尽き果てていた。

「餓死しようともしたんだが、やはり苦悶に耐えられずに」

 生きるためには食わねばならなかった。食らうのみではない。人ひとりが生きるということは、膨大な量の資源を消費するということだった。

 自害できぬ根性なしでも、誰の役にも立たぬ能無しでも、それは何ら変わりない。

「そんなんで、どうやって立ち直ったの」

「二月の頭だったな。ゴロツキに絡まれて殴られた。咄嗟に殴り返して喧嘩になった」

 死ぬことを切望しながらも、己の行動はその都度、矛盾していた。心が機能しなくなっていても、躰は生存のため的確に反応した。

 人は己の意思だけでは死なぬのだと知った。

 だとすれば、桜花の最期は何だったのだろう。磔のまま火を掛けられ、声ひとつさえ上げることなく、黒い炭になってしまった。

 自分と桜花とに、如何なる隔たりがあったというのだ。

「全員を叩きのめして、警官の来る前に立ち去ろうとした時、声を掛けられた」

「もしかして、オジサン? シャクドウとかいう」

「ご明察。まったく感服させられる」

 馴れ馴れしく歩み寄った灼道に誘われるまま酒を酌み交わし、鬼神衆に入らんか、と持ち掛けられた。

「そんなに簡単に入れるの?」

「強いことと多少のオツムがあれば、後は不問らしい」

「ふうん。いい加減だなあ」

「まともな神経をしていて、アレの相手は務まらんさ」

 多少薄暗い生き方をしてきた者や、追い込まれて後のない人間のほうが、骸霊を相手取るには向いているといえた。加えて、そんな穀潰しは後を絶たぬから、幾らでも代わりが効く。

「灼道は鬼神だけじゃなく、裏稼業にも手出ししていて。志弩秀礼の名は、旦那から買ったものだ」

 戸籍も家系図も、何もかも揃っていたことから、志弩秀礼が実在した人物であることは確かである。

「じゃあ本物の志弩さんは、今どこに?」

「さあな」

「え」

「俺は金を払って、志弩秀礼に成り代わっただけ」

「死んでるのかな」

「多分な。少なくとも、戸籍売買されるのは、大抵が行方不明者だろう」

「そうなんだ。知らなかった」

 そりゃ知るわけないだろう。知る必要のないことなのだから。

「さて。話は終わりだ。もう寝よう」

 栞菜の真意は図り兼ねたが、思いのほか暗くならずに話せたのは救いだった。

 こんなに長く語ったのは、ずいぶん久しいことだったから、さすがに疲れた。

 明日には焼印の更新を済ませ、その足で躑躅町へ向かう。骸霊の襲来も加味するなら、少しでも眠っておきたかった。

「でも凄いよね」

 布団に潜り込む寸前になって、軽い口調の栞菜が言った。声色に反し、その顔には翳っている。

「何が」

「……二人の、縁の強さ、かな?」

 かたや素性を変え、かたや人にあらざるものに生まれ変わって、それでもなお——。

「そこだけ聞くと、少し羨ましい」

「敵同士だし、千鶴をまた苦しませることになるなら、それは縁じゃなくて呪いだ」

「相反する二人だから、落としどころも見付かるんじゃないの?」

 適当な言葉に聞こえて、苛立った。落としどころなど、どこを探そうがあるはずもない。

 千鶴の形をしたものの内に千鶴本人を見た、と栞菜は語ったが、果たしてどちらが本物の千鶴かは怪しかった。殺そうとしたのも千鶴なら、命を繋ぎ止めたのもまた千鶴だ。

「物は言いよう、か。よく回る舌だな」

 考えあぐねた鬱憤を吐き出したのがまずかった。さっさと寝てしまえば良かった。

 栞菜が布団を捲って起き上がった。

「それは違うよ。どうするのか、志弩は決めてるのって聞いてるだけだよ」

「さあな、どうしたいかなんて、俺にも分からんよ」

 彼女のいざなうままに、命を捧げるだろうか。命を永らえた意味を噛み締めながら、生きようとするだろうか。悩ましいところだ。

 ふん、と栞菜が鼻白んだ。

「男の人って、心理的に追い込まれると脆いよねえ。そんなの、捉え方の違いなだけなのに」

「捉え方、ね」

 追い込まれて見られても仕方ない。そうでなくては、知り合ってどれほどもない女にする話でもあるまい。

「特に志弩はそう。道理だ道義だ、まるで縛りを課されてないと生きていけないみたい」

 それは言い過ぎだろうと言い掛けたのを、すっかり興味をなくしたらしい栞菜の、おやすみの一言が遮った。

 道理や道義のない世界の無秩序を、殺伐を、彼女は知らぬのだろう。

 年相応とはいえ、若者にありがちな月並みの言葉は、栞菜にはそぐわぬふうに感じた。


 焼印というのは俗称で、正しくは鬼神衆之証などと勿体ぶった名称が与えられている。だから本来の意味の焼印と異なり、肌の印は火傷によるものではないし、熱くたぎる鉄を捺されるわけでもない。当然、熱くもなければ痛みもない。

 アメス神教中国支部の地下研究所。その入り口の広間に臨時開設された交付所で、胸元に幾何学模様の浮かぶのを検めて、志弩は安堵の息を漏らした。

 これで能力を万全に扱える。ようやく、やっとだ。とても隣町までの旅路とは思えぬ、長い数日間だった。喜びもひとしおだったが、人前で浮かれるのは憚られた。交付所の角を曲がった階段の中ほどまで来て、被った頭巾の下でにんまりとした。真顔に戻って地上に上がり、受付に軽く会釈して外へ。

 今日も晴れ。春先を思わせる陽気と冷たい外気。もうとっくに昼を回っていて、宿に戻って一息入れた頃には西日が迫るだろう。

 昨日の雰囲気からそうなるかもと考えていたが、やはり更新に時間を食ってしまった。まあ牡丹町の壊滅は、己の不精に端を発するとして過言ないのだから、文句も愚痴も抜かせるものでもない。

 穏やかな風が肌を薙ぎ、陸軍の哨戒が続いているとはいえ、すっかり落ち着きを取り戻した街並みを吹き抜けた。

 昨夜、栞菜に過去を話したことは、心を軽くしたと実感する。人並み以上に悩み切望する人生なのはおぼろに自覚するところだが、それを意図して他者へ伝えたことはない。良いことも悪いことも、すべからく胸の内に仕舞い込み、誰にも何も語らぬ。そんな生き方だった。

 喜びも後悔も、何もかもを己だけのものとして整理し、片付かぬものは隅に寄せて見えぬようにした。生前の千鶴にでさえも。誰にも縋らぬ生き方は、最愛の女にさえ縋ることを許さなくなっていた。

 何かを変えてしまい兼ねぬ行為を恐れたのは、己の小心さゆえのこと。何年経てども、それだけは変わらなかった。それは相手の態度が変化したことを悲しみ、憤慨に傷付いてしまう己が心を、浅ましくも庇護していたのだ。

 ならば他者と深く関わろうとしなければ、心が悲鳴を上げることもないのではないか。その仮説は概ね正しく、誰とも心を通わせない孤独は、凪の水面のように心安らいだ。

 だがそれは、否定を排斥した臆病者の処世術だった。大っぴらに語れぬ生き方を負い目のように扱い、生き続ける限り誰にも打ち明けられぬ人生を積み上げた。原初すなわち人生における土台が真っ当でないのだから、その上に重ねられたものが真っ当であるわけもないという、捻くれた理屈が染み付いた暮らしをいつの間にか送っていた。

 人生そのものが丸ごと恥部であるかのように自分で刷り込み、それを受け容れた。自家中毒のように、自らを呪ったのだと気づいた時には、もう遅かった。外の世界へ出て、他の生き方を学ぶ度胸など、どこにも残されていなかった。

 そうして千鶴に出会って、彼女を死なせたことが呪いを決定的なものとした。

 死ねぬから生きる。畜生にも見劣りする生き方は、やはり心の矮小さに起因すると思えた。矮小の分際で独善的。欧州列強の軍艦に震え上がる、鎖国時代のこの国さながらである。

 だが、この国も変わった。良くなったのかどうかは知らぬが、国が変わるのだ。己ひとつ変えられぬとするのは、あまりに頑固が過ぎる。

 問答無用で他人に干渉する、まるで黒船のような栞菜には、素直に感謝するしかあるまい。彼女でなくては、罪を告白する勇気を生み出せなかった。

 その代わり、彼女を磔のイエズスに仕立ててしまった。懺悔し、罪の重荷を軽くするための聖者にしてしまった。

「ずいぶん——」

 ずいぶんと機嫌の乱高下する聖者だった。

 詫びとも礼ともつかぬが、何か買って帰ってやるとしよう。本当に明日には躑躅町へ到着するから、別れは近い。二度と、までとは言わずとも、当面は再開もないだろうし、万にひとつ顔を見掛けたとしても、こちらから声掛けようとはせぬだろう。

「……」

 なぜだろう、惜別の感傷に浸るのは。

 仕事柄いろんな人間と顔を合わすし、初対面の者と数日を共にすることも珍しくない。彼らとの別れをことさら惜しんだ記憶はなく、むしろ一人になるのを心待ちにしている節すらあった。

 栞菜がいささか風変わりな女であったのは確かではある。胸の内の罪を聞かせて、幾らか肩の重みから解放された気になったからといって、後ろ髪を引かれるほどのことには思えなかった。

 こちらの失態に始まったとはいえ、そもそもは面倒な後始末だったのだ。一度は殺してしまおうとすら考えた相手に、何の未練があろうものか。

「……」

 そんなふうに彼女を見ていたのだな、と知る。

 殺すどころか助けられ、救われ。

 傷付けたのに、暗に利用するような真似をして。

 悪いことをしたが、栞菜がそれに気付いた様子はなかった。だが仮に看破していたとしても、彼女は大口を開けて笑い、鼻を鳴らして怒り、夜には幽霊のように泣くに違いない。

 何につけ騒がしいヤツだったが、その分いじらしく思えて来るのが、どうにもむず痒い。

 気持ち悪い。

 奇妙な感情移入をしてしまったものだが、別れて数日もすれば忘れてしまうだろう。

 色とりどりの風車が目を引く土産屋の前で、志弩は足を止めた。

「いらっしゃいませ」

 気立の良い若い娘が、小走りに店の奥から出て来る。

「二十歳前の女なんだが、どんな物を喜ぶだろうか」

「さいでございますか。でしたら——」

「……!」

 背後に視線を感じた。反射的に振り返りそうになるのを踏み留まり、応対する女に耳を向ける体裁を装う。

かんざしなどがお薦めです。お若い方であれば、西洋の意匠の物が好まれるかと」

 受け取った青い玉の付いた簪。それを陽に透かし見る仕草で振り返り、気配のぬしを探る。

「そうか。柑橘の物はあるかな」

「はい。しばしお待ちを」

 黒い洋装。多分、男。まったく執拗なことだ。見える範囲には一人だけだが、彼一人に意識を向けさせ、伏兵を忍ばせている可能性は十分にある。

「お待たせしました。こちらは如何でしょう」

 鼈甲の細長い簪の頭に、大きな橙の玉が宝石のようにあしらわれていた。

「良いな、これを貰おう」

「まいど」

 不自然なく勘定を済ませ、紙の包みに入れられた簪を受け取って店をあとにする。

 相手に気取られるのは上手くない。平静の所作を崩さぬようにしばらく歩いたのち、おもむろに小路へ進路を逸らす。黒服の視界から外れた頃合いを見計らって、走る。

 その尾行技術からして、背後の黒服に尾けられたのはつい先刻だろう。しかしコイツが偽装ダミーだという懸念は残るから、黒服ばかりに気を取られてもいられない。

 こういう時、背中の斧槍はどうしても目立ってしまう。斥候や隠密行動を想定した武器でないのだから当たり前だ。灼道の得物の拳鍔けんつばなどは町中の取り回しにも優れていて、町中で警官に呼び止められることも少なそうだったが、反面、骸霊戦では懐深くに入り込まなくてはならぬわけで、それはそれでおっかない気もする。

 いや、そもそも尾行されていること自体が普通ではないのだから、武器がどうとかの話ではない——。

 迂回の時間を浪費したものの、軽々と追っ手を巻き宿へ戻る。

 部屋に入るなり、志弩は違和感を覚えた。

 一見してそうは映らぬが、僅かずつ、そして明らかに部屋が荒らされている。座卓の脚が畳縁を踏んでいるし、襖がきちんと閉められていない。栞菜の背負い鞄の中身が、半分ほど引っ張り出されたまんま、隅に放ってある。散らかすだけ散らかしたのち、それとなく整って見えるよう雑に片付け、繕ったふうに窺えた。

 栞菜は騒々しいヤツだが、年頃の女らしく綺麗好きである。加えて、興味のないものをわざわざ構う非合理をしない。珍しくもなければ玩具にもならぬ座卓や襖をいらっておきながら、元へ戻さずにいる理由はあまりない。

 あえてこじつけるなら、鼠か虫でも出て暴れ回った。それなら、まあ有り得るか。

「栞菜。おい、栞菜。どこだ」

 さっきから彼女の姿がない。本当に鼠が出て、どこかに隠れているのではと思い声を掛けるも、一向に反応はない。暴れた末に部屋を逃げ出したのか。

 だが仮にそうなら、宿に帰った時に栞菜と鉢合わせるはずである。これも辻褄が合わない。

 念のため、帳場へ栞菜を見なかったかと問うても、ここには来ていないし、外出の届けもないと言う。

 再び部屋に戻って志弩は、なすすべなく壁に寄り掛かった。状況はもはや確定的であろう。

 拉致された——。

 


 

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