第7話

「ね、そっくりだよ」

 上空を見上げた栞菜が独り言ちて、志弩も確信した。

 千鶴と自分を弱体化させた、大槍の音と似通っている。

 ああ、と相槌を返しつつ、志弩は栞菜の冷静さと本質を見抜く慧眼けいがんに驚かされていた。

 人間は、その感覚の大部分を視覚に頼っているのが普通で、この場合、どうしたって目立つ光の輪という視覚情報を差し置いて、放たれた音のほうへ反応、大槍の記憶と結び付けたのだ。

 まあ単に、それほど恐ろしい目に合わせてしまったことが原因かもしれないな、などと考えていると、光の輪が内側に集束を始めた。

 急速に小さくなっていった光は出し抜けに、今度は外側へ向け勢いよく炸裂した。空が一面、光に染まって、直後にどおん、と誰が聞いてもそうと分かる爆発音が轟いた。

 目蓋と耳を塞ぎ、顔を背けた栞菜を胸元に抱きすくめ、志弩は自らも頭巾を目深に、背を丸めた。

「え、ちょっと何?」

「爆風が来る。口も閉じてろ」

 埃及エジプト木乃伊ミイラみたいにされた斧槍を突き立て、その影に身を沈める。ややあって嵐のような暴風が、砂やら桶やらを伴い吹き抜けた。

 風の過ぎ去ったのを確認して、栞菜を解放する。光の輪に負けず劣らず人目を引く身なりの彼女は、ひとしきり衣服の埃を払い終えたのち、再び牡丹城の欠けた空を見上げる。

「早めの春一番だったな」

「え、つまんないんだけど」

 服を汚されたのが気に食わぬのか、彼女の声には不満が滲んでいた。

「やっぱり、あの時の?」

「少なくとも、駆動原理が同じ何かだ」

「じゃあ、あそこに骸霊がいるってこと?」

「いや。それはない。骸霊が出れば、俺も斧槍も感知する」

「だったら、どうして」

「……あくまで推測だが、実験だと思う」

 意味を理解し得ない栞菜が、訝しげに視線を流した。まだ機嫌は戻らぬらしい。この数日で、彼女のおおよその性格は把握できている。一度関心を示したことには、理解するまで説明してやらねばならず、納得するまで絶対に譲らない。割り合い適当で雑に見える彼女はしかし、知的探究心や好奇心が満たされぬことを何より嫌った。

 逆に疑問を解消してやりさえすれば、彼女のころころと変遷する気分も上向く、というわけだ。

 鬱陶しくはあるが、下手に隠し立てして、後々の面倒を呼び込むほうが厄介だった。それに、彼女の怜悧さは認めるところなのだから、差し障りない情報は共有しておくに越したことはない。

 機嫌を悪くされたままなのも気分が良くないので、宿に着いてから説明してやると告げると、早くも栞菜のしかめっ面がわずかに弛緩した。こういう態度は子供そのものだ。

 集まり始めた野次馬を避け足早に宿へ帰ると、栞菜はすれ違った仲居に、煮えた湯を自室へ持ってくるよう言い付けた。

 部屋へ入る。斧槍を立て掛けるより早く、先刻の続きを急かす彼女に期せず失笑してしまう。

 座卓に向かい合って腰掛ける。

「俺の勘だと、あれは神道管理局の装置だな」

「ふうん。神道管理局って?」

「日本古来よりの神々を祀る、全国神社の総本山、といったところかな」

「そんなのあるんだ。知らなかった」

「人民を効率よく統率するには、こういう組織も必要なのさ」

「なのに仏教イジメはするのね」

 ずいぶん古い話を持ち出すものだが、近代の歴史もしっかり学んでいるらしい。

「で、どうして神道ナントカがそんなものを作って、実験してるの?」

「神道管理局にも派閥があるんだ。といっても、概ね招霊おがたま派なんだが」

「あ。招霊って聞いたことある。でも、この辺りは神門派っていう人たちの本拠地なんだって、前に父親が言ってた」

「その通り。大国主命おおくにぬしのみことを祭神に加えることを主張した神門派は招霊派に敗れて以降、管理局内における主軸から外された。さぞかし苦渋だの辛酸だのを舐めさせられたんだろうな。それを恨んでる輩も多い」

「それはそうよね。神門派が幅を利かせていられたなら、ここいらももう少し発展してただろうし。鉄道だってもっと早くに開通してたかもしれない」

 そういう視点なのかと思うが、話が逸れてしまうのは避けたいところだから、そこは無視する。

「そんなだから、中には神門派の復権を掲げ、過激な思想を持った危ない連中もいる」

「へえ、壮士みたい」

「まあやってることは同じか。で、今回のことは、そうした奴らの仕業だと俺は睨んでる」

 栞菜の表情に生き生きとした輝きが灯る。

「根拠は?」

 食い入るような瞳。知り得ないことを知ろうとするのは、ひとえに若さゆえのものか。こんなことを思う自分は、よほど老いてしまっているのだろうか。あまり実年齢に差がないことを踏まえると、漠然とした不安というか、妙な焦燥を抱いてしまう。

「消去法。あの大槍を開発し運用して、一番得をするのはどこか。その観点からすると、まず鬼人衆に利点はない」

「そうだね。利点どころか迷惑だよね。陸軍は?」

「可能性はある。ただもし陸軍の兵器だったなら、千鶴の逃走を許したのは合点がいかない。作戦行動として機能していないことになる」

「新兵器なら、運用に慣れてなかったとか」

「そんな生ぬるい組織じゃないな」

「そっか。でも、他に怪しいところはないの? その神道ナントカ以外に」

 管理局、と念を押すと、栞菜はぺろりと舌を出してはにかんだ。

「俺の知るかぎりでは、神門派が一番疑わしいっていうだけさ。無いわけじゃない」

 開発に掛かる資金繰りや人材集めを行なう上で、相応の組織力が求められ、その中から大赤字をこうむる危険も顧みず、骸霊を倒す強固な動機を持つ組織となると、自ずと限られてくる。

 その数少ない急先鋒が神道管理局、神門派だった。

「その神門派の人たちが、権力闘争で優位に立つために大槍を作った、そういうこと?」

「ああ。この国は骸霊の対処を陸軍に任せちゃいるが、その陸軍が保有する装備の大方は骸霊に有効打を与えられない。それで仕方なくアメス神教と鬼人衆の国内活動を許したわけだが、政府も皇族も心中穏やかじゃない。日本の神々と、その子孫と謳われる皇族の無力を認めたようなもんだからな」

「はは、確かに。富国強兵なんて煽っておいて、骸霊の討伐を外来の鬼人衆に委ねるしかないんじゃ、カッコ悪いか」

 そんなこと気にしてないで、使えるものは使えば良いのにね、とする彼女は正しい。正しいが、世界の列強と肩を並べることしか頭にないこの国が、その考えを容認できるようになるには、まだまだ時間が掛かる。

 仲居が部屋に入って、会話が途絶えた。白湯の入った小ぶりな鉄瓶を卓へ置き、栞菜が礼を述べると、会釈を返す仲居はそそそ、と慣れた足取りで退散した。

 おもむろに栞菜がぽん、と手を打った。鉄瓶を受け取る間さえも、考察を続けていたらしい。

「なるほど。大槍の力で神道の勝利をお膳立てして、皇族と神門派の地位を確立しつつ、招霊派を失脚させられるってことか。一挙両得じゃん。やるなあ」

 本当、話が早い。知識ばかりで世間を知らぬ連中とは一線を画す思考速度だ。まったく、無一文で家出するだけのことはある。あの日、骸霊に遭遇しなかったなら、どこへでも行って上手くやれたに違いあるまい。

「でも、あの様子じゃ実験は失敗よね」

「どうかな。千鶴も俺も、力を奪われたのは確かだし、完成してると見るべきかも」

「じゃ、あの爆発はなに?」

「……邪魔が入ったとか」

「うーん。まあ無理があるのは目を瞑るとして、いったい誰が? 招霊派?」

「神門派の捲土重来を、阻止したい奴ら」

「鬼人衆もそうよね。お仕事取られちゃうわけだし」

 骸霊に呼応して発せられる鬼人の力をも消滅させるのだから、そりゃあ厄介だ。

「じゃあ——」

 宣伝効果は抜群だったってことになるわね。その栞菜の言葉の意味が分からず、まじまじと彼女を凝視する。

「どういうことだ?」

「え。ああ、そこまでは読み解けてなかったの? 簡単だよ。神道ナントカが——」

「管理局な」

「あーはいはい。で、それが鬼人衆とも陸軍とも手を組んだ形跡なく、骸霊を失活化する兵器を実戦投入した理由なんて、宣伝しかないじゃない」

「皇族たちに対して? だったらこんな田舎でやるよりも」

 天皇の移り住んだ東京なり京都なり、それなりの根拠ある土地でしたほうが。

「東京でやったって、神門派が発信したとは取られにくいでしょ。神門派の根差す、この地で行動を起こす点に意味を含めたのよ、きっと」

 なるほど、宣伝とは思い付かなかった。確かにそう考えると、あちこちに空いた虫食いが埋まっていく。

「実験の失敗は、声明が上手く行き過ぎて、アシが着いちゃった結果、襲われたとも取れるし」

 宣伝効果が抜群とはそういう意味か。それにしても、栞菜は少し冴え過ぎてはいまいか。

「でも、いくら襲撃したってもう遅い。設計図と技術者、不可欠な最低限の材料は、もう東京へ向かっているはずね……っと」

 栞菜が自分の鞄から乾燥した葉の入った袋を取り出し、鉄瓶へ落とす。しばし待って湯呑みへ注がれた、その香りは紅茶だった。そこへ紙包の砂糖を溶いて、ふうふう息を吹き掛ける。

「ごめん、頭使うと甘いもの欲しくなるんだ」

「……」

「ああ、美味しい。やっぱ珈琲より紅茶よね。苦くないし。でもそう考えるとだよ」

 自分だけ一息入れた栞菜が、神妙な面持ちをこちらへ向けた。

「あの槍が向けられる相手って、骸霊じゃないのかも——え、なに?」

 俺の分は淹れてくれないのだな。そう口に出したわけではないが、物欲しそうに映ったのだろうか。こちらの意図を見抜いたらしき彼女が、含んだ紅茶を吹き出して高笑いした。


 ねえ、と細い声が月明かりに浮かぶ部屋をこだまして、志弩は布団の中でびくりとなった。

「起きてるんでしょ」

 隣に敷かれた布団の上に座し、今夜も彼女は月へ涙を捧げていた。薄目に窺っていたのが露見したのは、月光を瞳が照り返したからに違いなかった。

「ねえ志弩」

 昼間とは別人のように大人びた声。嫌な予感がした。

 千鶴さんと、どういう関係だったの。

 その問いに、答えるべきでないと思った。面白くもない昔語りを聞かせる行為が、自己弁護のための言い訳にならぬという保証はなかった。

 しかし、いずれ訊かれてしまうことであるのも、芒洋と分かっていた。

「志弩——ねえ」

 柑橘のほのかな香りが芳しい。

 記憶の情景は、己の内で幾万の反芻を経るにつれ、徐々に美化されていくものらしい。干し肉が熟成されるように、舌触りも味わいも深みを増す。楽しかったことをより楽しく。悲しい出来事を心揺さぶる悲劇へ。理由なきあまたの所作に動機と推察を付け足して、聞かされた者の情緒を掻き立てる珠玉の物語へ昇華する。

 そんなことが許されて良いはずはなかった。そうなる前に、完全なる美談に作り替えてしまう前に、あるがままを口にしておくというのは、必要なことのように思えた。

 千鶴との真実が歪んでしまうのを、恐れていた。胸の内に秘めながらそれを阻止できぬということは、誰かに伝えるか書き記すほかない。

 手記を綴るというのは気恥ずかしいし、どこで誰に読まれるかも分かったものではない。

 幸いというべきか、明日に焼印を更新できれば、明後日には躑躅町に栞菜を送り届けられよう。

 栞菜が問うて、聞きたがった。だから話した。詳らかにする理由として、これ以上の言い訳もあるまい。軽蔑されようと罵声を浴びせられようと、それを聞いた彼女がどう捕らえるか、それはこちらの知るところではなかった。訊いたのは彼女だから。

 どのみち明後日にはお別れである。両親にはすでに憎まれているのだから、今更その娘に嫌われたとて、さして懊悩おうのうする必要もない。

「恋仲だったのよね」

 わざわざ栞菜が口火を切るまで返答しない自分は、やはり卑怯者だった。

「……少なくとも俺はそう思ってた。身勝手にも」

 栞菜をにえとして語る以上、嘘偽りは一片たりともあってはならない。

 予期せず胸を刺した鈍い疼きは、栞菜への罪悪感ゆえか。はたまた己の腑抜けを戒めるゆえか——。


 あれは北京議定書が調印された年だったかな。

 だからもう、三年も前の話だ。

 きっかけは千鶴のほうからだった。仕事を早くに仕舞った日や、懐の温かい時に通っていた洋食屋があって、そこで彼女は働いていた。だから顔は見知っていて、住み込みでこき使われているのも知っていたが、特段こちらから声を掛けたためしはない。

 ある晩、何を頼んだかは覚えちゃいないが、飯を運んできた彼女に、ありがとうと言った。別にその晩だけじゃない。いつもそうしていたんだが、たまたまそういう気分だったのかな。千鶴はにこりとして、いつも素敵な笑顔ですね、と囁いた。

 正直、面食らった。笑顔は仕事柄、頻繁に作っていたんだが、彼女へ向けた表情はそういうものとは違う。相手に取り入るためのものではなくて。何というか俺の地の、味も素気もない愛想もない笑顔だったと思うんだが。なのに、千鶴はそれを見て微笑んでくれた。出生は人並みでも育ちの悪い俺は、あの時、初めて他人に温もりを貰った気がして。

 今になって振り返れば、たまにやって来る客へ挨拶ついでに世辞を言ったくらいのことだったろうに。その世辞を真に受けた俺は、翌日から毎日その店——銀杏亭だったかな——へ通い詰めた。

 そうは言っても彼女は仕事中だから、あまり引き止めても迷惑になる。だから少しずつ親交を深めていった。小っ恥ずかしいんだが、忙しくて話せない日は置き手紙を残したりして。なるたけ穴の空かないように、千鶴のところへ顔を出した。


「想像と違うね。志弩って、もっと奥手だと思ってた」

 栞菜が遮った、その声がいつもの彼女のもので、なぜだかそれに安心した。

「むかしは真逆だったな。若気のいたりというやつかな」

「へえ、何か男の子ってカンジ」

「それで彼女を死なせたんだ。若気のいたりじゃ済まされんよな」

「……」


 あれやこれや、思い付くかぎりの行動を起こした俺を、千鶴は概ね好意的に捉えてくれたように思う。

 だが当時の俺はとてもじゃないが、お天道様に顔向けできる生き方をしていなかった。そうした輩ってのは、本人の好む好まざるに関わらず、相応の顔付きになっていくもので。だから普通の人間は、俺を初見で怖がる。そうでなくとも、思い切り警戒する。笑顔を作るのも、そうしたいきさつからだったんだが。

 どうしてかな、千鶴は俺を怖がりも警戒もしなかった。普通の人として扱ってくれたんだ。それが救いに見えたのは確かで、俺はいよいよ千鶴にのめり込んでいった。

 店を仕舞ってから長々と居座って、遅くまで談笑するようになって。仲の深まる実感とともに、あれほど感激したはずの『普通の』扱いにも不満を覚え始めるようになった。

 そばにいて欲しい、自分だけを見て欲しい。次第に欲張りだす心を、どうにも御しきれなくなっていた。

 でも、それまで誰かを好くということのなかった俺は、彼女をどこか神聖視してる節があった。

 神のごとき彼女の心へ、不躾に踏み入ることに怯えていた。それはつまり彼女を通して、自分が如何に下賤で汚れた人間であるかを自覚した瞬間でもあった。

 千鶴には俺の稼業を知らせていなかった。いつも有耶無耶にしてはぐらかした。彼女と対等に向き合うためには、夫婦めおとになるには、最低でも真っ当な働き口は要ると考えた。日増しに、今の稼業から足を洗わなくてはという焦りは募っていって。

 ただそれだと実入りは激減するから、節制も貯蓄もしなくちゃならない。そういう覚悟が、俺には足りなかったんだな。ここらで一丁、荒稼ぎで金を溜めて、それから職探しだなんて浅知恵をはたらかせた。

 そうと決まれば張り切って、ってのも可笑しな話だが。ともかく仕事を増やして、危ないことにも手を出すようになった。

 

「あのさ」

「何だ」

「はっきり言いなさいよ。稼業って何してたの」

「……殺し以外、ほぼ全部」

「泥棒とか?」

 言わねばなるまい。このために話をしているようなものなのだ。下手に溜めを生んでしまうより、さらりと述べてしまうほうが気楽だろう。

「暴力や盗みはもとより。素性を偽って金品を騙し取ったりして、それで生計を立てていた」

「……」

「大陸から流れてきた阿片アヘンを売り捌くこともあった。本当に、楽に金になるなら何でもした」

「……最悪」

 そんな侮蔑であっても、黙られてしまうよりは幾らもマシだった。

 今夜が満月でなくて良かった。月明かりに晒されていては、およそ正しく告げることは叶わなかっただろう。

「そう。最悪なんだ。お前の両親が目鯨を立てるのも、至極当然なんだ」

「あれ、そういえば。もしかして、志弩って京都にいたの?」

「いや、千鶴と俺は東京だ」

「じゃあ何でウチの両親は、志弩の過去を知ってるんだろう」

 他愛ない会話の端から、栞菜が京都の生まれだと聞き及んでいた。自らの過去と彼女の素性を照らし合わせれば、大まかな共通項に行き着いた。

「お前、印牧いまき家って分かるか?」

「うん。東京の、遠い親戚筋の——って」

 何事かに思い至った栞菜の目が、逆光にもそうと知れるくらいに見開いた。

「まさか」

「ああ。そのまさかだ」

「あなたなの。志弩が、印牧のおじさまを殺し——痛たたた!」

 感情を昂らせ声を震わせた栞菜はしかし、直後に呻いて身を屈めた。咄嗟に栞菜を抱いて支える己の行動を、志弩は疑った。

「大丈夫か、どこが痛む」

「平気、ちょっとお腹が痛くなっただけ」

 背中から肩に添えた腕を外した栞菜の、いまだ非難の褪せぬ涙目が、話の続きを促す。

「言っただろう。人を殺めたことはない」

「ならどうして、おじさまは」

「落ち着け、ちゃんと説明するから。信じるか否かは、その後で決めろ」


 無茶な仕事を繰り返すうち、俺の悪名は銀座を中心に広まっていたんだ。だが、同業者とも折り合いの良くなかった俺は、そんなことになっていようなどと露ほども知らず。一攫千金を求めて、ついには華族の邸宅に手出しするまでになった。

 警備は厳重、捕まれば死罪だ。でも、それを推してあまりある収穫に目が眩んだ。

 稼いだ金を持って、千鶴と東京を出よう。どこか遠くで人知れず過ごそう。そんな夢を見て、最後の仕事に選んだのが内務省書記官、印牧孝雅の屋敷だった。

 その当時は印牧という名前さえ知らぬ無知ぶりで、侵入と逃走経路の目星が付いたなんて理由から盗みに入った。

 いつものように使用人に扮して、金目の物を漁って回った。金持ちってのは、現金は金庫にしまっておくんだが、装飾品や調度品なんかはむしろ、人目に付く場所に、これ見よがしに置いておきたいらしいな。金庫破りのできない、単独犯行の俺にとって、嵩張る現金よりも小さな懐中時計なんかのほうが都合が良かったんだ。だけど。

 今になって思うのは、他所の邸宅に比べて手薄な外苑警備を怪しむべきだった。侵入には成功したものの、あっという間に見付かって、顔まで見られた。さすがにヤバいってなって踵を返すが早いか、屋敷の灯りが落ちた。

 何が起きたかは知るよしもないが、暗転したのをこれ幸いと、上手いこと逃げおおせた。最後と決めていた仕事に失敗したのは悔しかったけど。芸は身を助く、なんて矜持めいた感覚すらあったから、面が割れたのにも納得し難かった。

 ただ唯一、高そうな懐中時計だけは掻っ攫ってこれた。売れば当面の暮らしは安泰だろう、真鍮をあしらった時計だ。

 これで千鶴を養える。幸せにできるなんて、本当に考えてたんだから、莫迦だよな。

 薄汚れた金で女を買っただけのことだと、一心不乱なあの時の俺には分からなかったんだ。

 金さえありゃあ、何だって思い通りになると疑わなかった。

 幾ら金を積んだところで、千鶴に見合う器の男じゃなかったってのに。

 挙げ句、俺みたいな小悪党じゃない、本当の悪党の謀略に利用されていたことにも気付かず——。


「本当の悪党?」

「詳しくは知らない。政敵だとか、そういうのだと思う」

「ずいぶん曖昧ね。信じられない」

「そうだな。でも俺は殺してない」

「何で?」

「……」

「どうして犯罪に手を染めたの。きっかけは何?」


 二歳の時だ。逆算するとそうなるってだけで、他のことは一切覚えてない。

 凡庸な生まれの俺は、自宅の長屋の前で、地べたに座って遊んでいた。

 目の前で、女が立ち止まった。黒生地に舞い落ちる桜の花弁を配した、派手だが絢爛な長羽織に身を包んだ、妙齢の女だった。

 彼女は俺の目線まで屈んで、俺に言った。

「キミはさ、笑ったほうが素敵だよ。絶対」

 二歳児に掛ける言葉じゃなかろうが、俺のほかに誰もいなかった。だから彼女のその言葉だけ、はっきりと覚えている。

 その翌年の秋口、俺は両親に抱かれて、とある場所へ連れて行かれた。

 人集ひとだかりを掻い潜って辿り着いた、幾重もの鉄条網の仕切りの向こう側に大きな柱が立っていて、その一つに人間が磔にされていた。

 黒い羽織の女だった。

 傍らの男が、彼女の犯した罪を高らかに読み上げていた。さすがに当時の俺に、彼女が如何なる罪状で処刑されようとしていたかまでは分からなかった。ただ、両親が周囲に気取られぬよう、必死に涙を堪えているのが見えて、おとうもおかあも、どうしたのって言ったと思う。

 全身に炎が及ぶ寸前、磔の女が俺を見て笑った。そんな気がしただけだったのかも知れないが——いや、あれは多分そうなんだ。

 淡い桜が鮮烈な朱に呑まれ、辺り一面に例えようのない異臭が漂っても、彼女は叫び声ひとつ上げなかった。あらかじめ喉を潰されていたか、そもそも火炙りとは声を発せないものなのかも知れない。

 幼心に、あの滴る水のようにんだ声をもう二度と聞けぬのかと、そればかりを惜しんだ。

 その数日後、両親が逮捕された。後々に聞き及んだ話では、羽織の女と共謀して国家転覆をそそのかしたんだそうだ。

 両親は火刑こそ免れはしたが、やはり死刑に処された。俺は身寄りもなく、反逆者の子に手を差し伸べる物好きもいやしなかったから、晴れて独りになった。罪を憎んで人を憎まずなんて、あんなのは嘘っぱちだな。

 当然だが家も追い出され、未知そのものの世界へ放り込まれた俺は、生きるために人様の飯を拝借した。初めは大工の親父の弁当だったかな、えらく怯えながらの犯行だったけど、次第に慣れてくるもので。適応なんて言葉を用いてしまっては、あちこちに疑義を生じてしまいそうだが、確かに俺はこの世界に適応した。世間もまさか稚児に窃盗が可能とは考えぬし、小さな躰は何かにつけ都合が良かった。

 やがて、目線を寄越さず周辺を窺い知るすべ、気配を絶ち音もなく動く技を身に付け、他人の同情を煽る語彙も学んだ。

 そうして俺は独りで生きて、盗み、騙し、貪った。たまには同業者の世話になったりもしたが。

 でも心の底に根差したものは、誰かと長く過ごすことを認めなかった。こういうのを憎悪と言うんだろう。

 齢を重ねるごとに、地獄の業火のような憎しみは膨らんでいって、その矛先はこの世界へ向けられるようになっていった。

 羽織の美しい女を奪い、両親をも奪い去ったこの世界を、俺は身悶えするほど恨み憎悪した。

 罪も人も憎まずにはいられぬ嘘吐きの世界で、嘘を吐かずにいられる道理を、俺は見付けられなかった。

 そんなだから、見兼ねて手を差し伸べてくれた人でさえ、俺は騙し利用した。誰かの善意からの施しや、慈しみや良心なんてものを、欠片さえも信じなかったから——いや。怖かった、というべきか。


「火炙りにあったって、まさか」

 凄惨な処刑法は昨今では類を見ないものだから、栞菜が火刑に処された女を知っていたとて、何ら不思議はない。

「そう、久住桜花。日本で初めて女皇を屠り、その精霊球を持ち帰った、最強の鬼人」

 罪人として誹りを受ける一方で、今なお鬼人衆の教本に名を記される伝説的な女。そして、先代『Wicked Beat』の使い手でもある。

 彼女の名を口に出したのは、いつぶりのことであろう。

「それほどの人が、何で殺されたの」

 栞菜のその問いに答えるものを、志弩は持ち合わせていなかった。アメス神教からも仲間の鬼人からも有望視されていたはずの彼女が、なぜ非業の最期を迎えなくてはならなかったのか、それは謎だった。

「さあな。快挙を成し『Wicked Beat』を授かった翌年、桜花はアメス神教によって炭にされ、両親は桜花の目論見に加担したとして首を撥ねられた」

「目論見って?」

「それも分からない。そんなものが本当に実在したか、それさえ知りようもない」

「でも、そんな生い立ちだったんだもの。志弩は悪くないよ。生きるためにしたことでしょ」

「違う。断じて、それは違うんだ」


 そうじゃないんだ。確かに子供の頃は、賢しらにもそんな言い訳で、自分の行ないを正当化したりもしたがな。

 でも齢が行くにつれ、それが正しいかどうかの分別が付かぬはずはない。世界と世間の成り立ちを理解しながら、なおも賎業に身を置いたのは、紛れもなく俺自身の意思によるものだった。

 栞菜。お前の同情や、まして許しを得たいばかりに、こんな話をしてるわけじゃないんだ。俺は許されるつもりなどない。許されたいとも思わない。そんな道理など、もうこの世に残されてもいまい。

 話を戻そう。他人を踏み躙った金でやりくりしていた外道の生活を、千鶴を手に入れたいがため変えようとした。

 決定的にやり方を間違えていたことに、俺は気付かなかった。歪んでしまった人生を、より歪んだ力をもって真っ当に戻すのだと躍起になっていた。

 寝床で人並みに夢まで見た。千鶴との、細やかにも幸せな日々を。莫迦だな。

 当然、そんなに上手いこと運ぶわけはない。

 印牧の館に忍び込んでから数日後の晩、いつものように銀杏亭で千鶴の店じまいを待っていた。

 年の瀬も近まった、冷える夜だった。その頃には千鶴もずいぶん打ち解けてくれていて、休日は自室に招かれるくらいの仲になっていた。彼女の印象からはほど遠い、汚い部屋でな。不潔なわけじゃなくて、趣味が水絵だったから、その画集や画材で散らかっていただけ。

 彼女が絵を描いている間、俺は部屋の片付けとかしてやって。そうしていると時々彼女は振り返って、たまたまそういう気分だっただけなんだろうが、まあ恋仲みたいな戯れ合いもあったりなかったり。隣の隣が店主の部屋だったから、さすがに本番は無理だったけど。

 まあ、どのみち手を出す度胸なんて、俺にはなかったんだが。何もかも、千鶴は他の女とは別格だった。神聖視していた、とでも言うのかな。

 それに、まだ気持ちを伝えていなかった。何よりもまず、気持ちを口にしないことには始まらない。逸る思いはあったが、気懸りもあった。

 彼女を連れ出すのをいつにするか。年明けを待つべきかで迷っていた。彼女の意向を最大限に組み込まなくてはと考えると、だったら気持ちを伝えないことには始まらないわけで。堂々巡りだ。

 洋食屋の看板娘には過ぎた器量だったし、不意に見せる姉御肌なところも相まって、客受けもめっぽう良かったからな。俺と違って、別れを告げなくてはならぬ相手も多いはずだった。

 さてどう切り出したものか、なんて逡巡していると、店の引き戸がカラカラと鳴った。既にその日の営業は終わっていて、店主の親父は二階で泥酔しているから、夜分に開かれた戸に違和感を覚えた。

 いったい誰かと背後へ首を傾いで、心臓が跳ね上がった。立ち襟の制服は官憲のものだった。

 慣れたふうに客あしらいする千鶴を遮ったそいつは、高圧的に踵を鳴らしながら俺の真横まで来て、厳しい口調で言った。

 貴様が三鴨正介だな——。

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