第6話

 余計な発言を含みつつも、栞菜の説明は要領を得ていた。されど、千鶴が神懸かった治癒能力を施した理由など、釈然としない点は残った。

 栞菜が偽りを述べたとは思わない。が、敵方の指揮官に生まれ変わったとする千鶴のその行動は、必然性も合理性も欠いているように見える。

 千鶴は何をしたかったのだ——。

 小難しい顔をしていたのだろう。栞菜が声を上げて笑った。

「考えたって分かんないよ、志弩には」

「何で」

 反射的に強く返してしまう。それを見た彼女はついに口を開けて哄笑した。

「ムキになるとか、可愛いとこあるのね」

「茶化すな、怒るぞ」

「はいはいゴメンね。ほら、志弩ってさ、恋人よりも仕事や体裁を優先しちゃうでしょ」

 棘のある言い方だった。薬師山の件を根に持っているのか。

「だったら何なんだ。何が分からないんだ」

「ほらぁ、やっぱり」

 この手の話題で、女に勝てる見込みはない。勝てたとしても当分は険悪になるのだから、そもそも勝とうと思うこと自体が無意味だ。

「そんなに虐めてくれるな。降参だ、教えてくれ」

 ふふん、と栞菜が鼻を鳴らした。

「女心だよ」

 あながち間違いではない。いや、分かる分からぬより以前に、そんなものを真剣に考えたことなど、ただの一度もなかったように思う。

「お前は、分かるのか」

 女心などではなく、千鶴の不可思議な行動の意味を。

 さしたる期待もしていなかったが、栞菜は首を横に振った。

「分かるわけないでしょ。でも千鶴さん——途中から出てきたほうね。彼女はきっとさ、志弩を殺せなかったんだよ。敵なのに」

 それだけは確実だと、妙に自信ありげに栞菜は断言したが、いったい何の根拠があるのか。しょせん、女のことは女にしか知り得ぬものらしい。

「助けるために無理したんだね、あの人」

 栞菜は褪紅たいこうの唇を歪め、いささか機嫌を損ねたふうだった。何をしたつもりもなかったのに。やはり、女は良く分からん。

「失礼します」

 天幕の布が開いて、軍服の青年が入って来る。彼は栞菜の隣まで歩んで、よほど躾けられたと思しき敬礼をした。力が入り過ぎだが背筋のピンと伸びた、若々しい敬礼だった。

「牡丹連隊区、衛生隊予備員の松尾と申します」

 まだあどけなさの消えぬ、少年だった。昨今の看護兵不足は耳にするところだったが、よもやこんな少年まで駆り出さねばならぬのか。

「多田連隊か。世話を掛けてしまった」

「そういうのは、偉い人たちに言って下さい」

「では多田さんに、鬼人衆の志弩秀礼が礼を申していたと伝えてくれ」

「直接は無理ですよ。多田司令の近習経由で良ければ」

「構わない。それと、衛生隊の方々にも」

「伝えておきます」

 少年の淡白な応対は医療従事者に散見する、ある種の熱量の乖離である。恒常的な人手不足に忙殺される日常に加えて、否応なく死に直面することの多い彼らなりの精神汚染対策なのだ。

 松尾衛生予備員は、躰が動かせるのなら病床を明け渡すよう求めた。

 改めて謝辞を口にして、天幕を出た志弩は唖然となった。

「これは……!?」

 寝おびたように、空いた口が塞がらない。

 てっきり、かつての隆盛なぞ微塵も残らぬ、悲壮な荒涼と化したものだと決め付けていた。それがどうだ。眼前の街並みは、目抜きの辻の真ん中に所狭しと立ち並ぶ天幕と軍人たち以外、記憶にある牡丹町と遜色なく映った。

「対骸霊防壁と牡丹城は概ね全壊。建設中の鉄道も線路が寸断。軍施設も潰され機能しなくなりはしましたが、商業区および居住区の被害報告は殆どありませんでした」

 女皇の攻撃は行政と軍部の施設に集中していて、死者も皆無でないにしろ、被害規模に鑑みれば奇跡のような少なさだと、松尾は首を傾げた。どういうことかと質すよりも早く、少年は言葉を継いだ。

「今回、敵骸霊の狙いは人民の虐殺ではなかった、ということでしょう」

 女皇の内面にいたという千鶴本人はともかく、女皇自身や鉄の骸霊に人道的な配慮があったとは思えない。

「戦力を削ぐのが目的か」

 こくり。丈の合わぬ袖を捲り上げた少年が頷く。

「少なくとも司令をはじめ、上の人たちはそう分析しています」

 ですから、この天幕は人民たちのための避難所ではなく、おもに軍人や役人のために設営されたものなんです——少年はいやに饒舌だった。

「人的被害は少なくてこっちは助かったけど、仮に民間の被害が大きかった場合、こんなに安穏とはならなかったでしょうね」

 幼さを残す少年の表情が強張った。彼もまた、恐怖に押し潰されてしまいそうな一人だったのだと気付いた。

 正直なところ、一般人の生活が脅かされなかった点に安堵したのは、志弩とて同じだった。軍人は言うに及ばず、鬼人衆とて民間からの風当たりは強い。平素は沈黙して従っている連中が、今回のような有事に豹変し突っ掛かって来ることも少なくない。その規模次第では暴動と見做され、これを鎮圧するため軍が行動を起こせば、人死には不可避。

 骸霊という人類共通の敵を差し置き、人同士が衝突し殺し合う最悪の事態を招き兼ねなかったわけだ。

 小規模のいさかいはもはや避けられまいと、覚悟の上だったのだが。

 千鶴の加減ひとつだったとはいえ、そうした責を免れることが出来たのは大きい。ありがたい誤算といえよう。

 何度目かの敬礼をした松尾に再び礼を述べ、天幕の並ぶ広場をあとにする。民間に被害が出ていないのなら、宿も取れるはずだった。

 案の定、すぐ近くの宿に空きが見付かった。正しくは空きではなく、一連の騒動によって破約されてしまった部屋だった。

 露天の温泉で入浴を済ませると、ようやく人心地が着いた。

 惨憺さんたんたる一日が、やっと黄昏を迎える。緊張感を完全に解くわけにはいくまいが、町中を陸軍が哨戒している。薬師山で襲撃してきた奇妙な黒服も、今夜ばかりは迂闊に動けぬだろう。

 部屋に戻ると膳が用意されていた。栞菜はまだ戻っておらず、先に始めてまた機嫌を損ねられても面倒だから、やむなく待つこととする。

 ややあって、浴衣姿の栞菜が戻る。彼女は部屋に入るなり、濡れた赤髪をく手を止め、目をしばたたいた。

「すっごい! ご馳走だ!」

「世話になったからな。言っておくが、今日だけだぞ」

「どうせ宿側の厚意でしょうに。分かってますよ。貧乏旅だもんね」

 予約を取り消され、食材の始末に困窮していたところに折よく訪れた客とあって、地元の珍味を赤字手前の破格で味わえるのは、確かに幸運だった。

 さあさ冷める前にどうぞと、熟年の仲居が勧め、晩酌を絡めながら膳の料理へ目を落とす。

 白魚しらうおせりの天婦羅にすずきの奉書焼き、アマサギの南蛮漬けとしじみの味噌汁。海産物ばかりであるが、濃過ぎず薄過ぎずの、絶妙な味付けに舌鼓を打つ。

「さてと——」

 彼女の食べ終わりを待って仕切り直しに放った枕詞に、栞菜はびくりと身を揺すった。

「あ。志弩の、あの変な武器。軍人さんが保管して——」

「それはさっき聞いた」

 斧槍は一旦は陸軍に接収されたものの、すでに教会支部へ届けられたとのことだった。明朝、焼印の更新のついでに受け取るつもりでいたのは、疲労もさることながら、牡丹町にはしばらく骸霊は現れぬだろうという、アメス神教の見解に甘んじたためでもあった。女皇の潰した町に、わざわざ追撃の骸霊が出現する可能性は低いという理屈は、それなりの説得力はある。それに、仮に出現したとて、この町には多くの鬼人と臨戦態勢の陸軍がひしめいているから、今日くらいは彼らに譲ってやってもバチは当たるまい。

 それよりも。

「俺の言いたいことは分かるな?」

 僅かな酒ですっかり虚ろになった栞菜の目が、優艶な動揺を浮かべた。

「何で着いて来た。ご両親と近習はどうした」

「外の空気吸わせて、って言って逃げた」

 呆れて吐き出した溜め息は、存外に嫌味ったらしく室内にどよんだ。

「護衛は? 追って来ただろう」

「あんなの慣れっこだし。野良犬に追われるようなもんかな」

「お、お前……」

 薄々勘づいてはいたが、やはり逃げ出したのか。

「何で逃げた」

「はあ? 逃げたのはそっちじゃん」

「いや、俺はそのほうが良いと思って」

「ふん。どうせ鬱陶しかったもんだから、ちょうど良いやって感じで置いて逃げたんでしょ」

「待て待て。さっきから、逃げたって何だ」

「だって、あの二人が言ってたもん」

「逃げたわけじゃない。ご両親が迎えに来たなら大丈夫だと思って。第一、自分がしたことを省みてみろ」

 もっとマシな言い方もあるだろうに。女心を分からぬとくさされても仕方あるまい。

「あれは志弩が!」

「仕事だったんだ。寝かしつけて貰いたいなら、それこそ親に頼め」

「ひっどぉ! サイテー!」

 酒の席の戯れ事にしても、確かに酷かった。

 だが女皇はおろか、その配下と目される鉄の要塞にさえ、自分は及ばなかったのだ。彼女を安全に送り届ける自信は、もうない。

「仕事だとか言って、ホントは荘雲寺に押し入るつもりだったくせにね。犯罪でしょ、それ」

「え」

 仰天した。すぐには二の句を継げられず、何とか平静を保とうとしたものの、彼女の何もかも見透かしたような不敵な笑みを前に観念した。

「……どこで知った」

 白い歯を覗かせる栞菜は自信満々に、じゃあ教えてあげる、と告げた。

「駐在さんに通報入れたのって、わたしなんだよね」

「は……はあ!?」

 軽い目眩を酒のせいだと思いたかった。

「だから言ったでしょ。見掛けよりも、少しだけ賢いのよね」

 けろりと抜かしているが、そのせいで、こちらがどんな目に合ったかまでは知らぬらしい。

 しかし、そのことで恨み節を並べ立てる気にはなれなかった。栞菜の起こす行動のひとつひとつが、自分を慮ってのことのように感じられた。

 そんなふうだから、これ以上彼女を突き放すことは憚られた。

 千鶴の件にしてもそう。救われたかどうかは微妙なところだが、少なくとも栞菜が自分を助けようと命の危険を冒したことは確かで、そんな勇気ある恩人を、別の角度からなじり倒すことの正当性を見出せるほど、自分は賢くはない。

 だが賢くないぶんだけ、内なる矜持がむくむくと頭をもたげた。

 自信がなくなったなぞ、何を情けない——。

 なかなか肝が据わらぬ性分は我ながら呆れるところだが、本当に戦うことに恐怖したのなら、このまま神門町へ戻るべきと思う。栞菜の語りでは、千鶴は鬼人衆から足抜けするよう促したらしいし、牡丹町の壁が崩壊する、あの光景に恐れを抱かぬ者もそういまい。

 辞めたくば今が頃合い、ということになろう。

 しかし、そうしてはならぬことも知っていた。

 自信というならば。そんなものが、お前のどこにあったというのだ——。

 千鶴も、栞菜も。ここに置き去りにしてしまうつもりはなかった。

 栞菜へは、救われた恩義が。

 千鶴へは、過去の謝罪が。

 それを果たそうとしない選択を、己の矜持は断じて許さなかった。賜った義理を返そうとも考えぬのは、死ぬにも増して恐ろしいことだと感じた。

 しょうもない、ただの感情論だ。莫迦はすぐに感情に訴え掛けるから、困りものである。

 だが他の誰でもなく、自身の内にそう諭されるのだから、もはや抗いようもない。

 気付けば、また溜め息が漏れ出ていた。

「何が見掛けよりも、だ。ただの無鉄砲じゃないか」

「あ、それよく言われるなぁ」

「だったら直せ。矯めるなら若木の——」

「説教臭ぁ。喋ると本当オジサンだよね。それよりも」

 言いかけて急に口を噤んだ栞菜が、突き刺すような視線を寄越した。

「まだ聞いてないんだけど」

「何を」

「お礼」

「さっき言ったろう。世話になったって」

「そんなんじゃなくて」

「それはお互い様——」

「ありがと。はい言った。次は志弩の番だよ」

「お、お前……ッ」

 言わねば、彼女は今夜もまた泣くのだろうか。

 そう思えば、言わねばならぬ気になってくる。

 だから、消え入るように細々と、ありがとうと囁いた。

 途端に栞菜が抱腹絶倒して、自分でも顔の赤らむのが分かった。そのさまを見て、栞菜はまた笑った。

「あーもう。可笑し過ぎて涙出た。志弩ってさ、時々カワイイよね」

「五月蝿い、もう寝ろ」

 月光に沈むように涙する彼女も神秘的ではあるが、大口を開けて泣くほど笑う姿も、鮮やかな赤髪に似合うと思った。


 躑躅つつじ町までの同行を、栞菜は両手を挙げて喜んだ。

 恩義に報いる、などと言うと些か鯱鉾張って聞こえるから、素直に助けて貰ったお礼にと告げると、また冷やかし始めたので無視した。

 彼女相手でなければ、包み隠さぬ物言いをしようとはしなかったように思う。生まれつきそう出来なかったわけではなく、いつしかそうしなくなったのだと知る。そういう気付きも、ひとえに栞菜の陽気さによるものだろう。

 自分だけでは知りようもなかった己の変化を、彼女は詳らかにしてくれている。だがそれは、何も彼女の賢さが起因しているのではなく、もっと本質的な部分を根拠としていた。

 歯に衣着せぬ、思ったことをそのまま口から発し、態度に出す彼女は、本人の語る通りに賢い。勉学に長けるとか、そんな意味ではない。そういうものと一線を画す彼女の叡智は、事象の本質を瞬時に看破して行動できる点に集約される気がする。物事の成り立ちや成り行き、すなわち先入観に拠ることなく、今現在のそれがどうであるのか、どんな影響力を持ち、どこへ波及するのかを冷静に見極め、そこから自分がどのように振る舞い、立ち回るのが最適解であるか、瞬間的に『判る』のだろう。それがこの数日で導いた、彼女の非凡さの秘密だった。

 まあ、莫迦の分析なのだから信憑性はないに等しいが。

 非凡といえば。意味は異なれど、千鶴も才覚ある女性だった。絵の勉強をしていた彼女は、休みのたびに霊峰火神岳を描いては、後ろで眺めるしかない自分に出来栄えを訪ねた。絵は分からぬと正直に言えば良かったのに、千鶴に見限られたくない思いから、それらしいことを適当に言ったと思う。それでも彼女ははにかむように笑って、その度に心は締め付けられるように疼いた。

 町を練り歩くでも、何をするでもなく、年頃の恋仲とするには奇妙な関係だった。

 彼女は、その安い給金をすぐに高価な画材に変えてしまう。金は自分が持つからと、たまに外出に誘っても、彼女の瞳に映るのは絵になりそうな風景だけだった。

 浮世離れした彼女に焦れなかったわけではない。ただそれと同じくらい、彼女を自分のものとして染め上げてしまうこと、歪めてしまうことを恐れた。

 あの時ほど、それまでの生き方を悔いたことはない。千鶴は自らに迸る熱情を絵の具に託し、弾けたその残渣に手を汚す。だが同じ汚れた手でも、彼女と自分は違う。だから、彼女が息抜きや気分転換に愛の言葉を連ねようとも、唇を重ねようとも、やがて訪れるであろう別れに怯えていた。

 いつかやって来る、その日は思いもよらぬ唐突さだった。いつだって人生の転換はそうだ。準備も整理も覚悟も、何もかもを洪水のような激流に絡め取ってしまう。望む望まざるにかかわらず、抗うことも叶わずに。

 そうして流れ着いた地で、また生きるしかない。失ったものを悔やみながら、一方でそれを埋め合わせるものを探して回り、そしてまた流される、儚く弱くか細い、そんな人生。

 絶望に心を潰して生きるくらいなら、死んでしまったほうがどれほどもマシだった。だのに出来ない。死なない。それは、現世うつしよに生じた地獄と同義だった。

 自身が『Wicked Beat』の能力を与えられたのは、そんな得体の知れぬ、目にも見えぬ激流を跳ね除けたいと願うゆえのことなのかもしれなかった。

「だからよぉ!」

 教会の『えんとらんすほうる』と銘打たれた広い待合に、角袖にとんびを羽織った男の怒声がこだまして、志弩は我に返った。

 受付台に片腕を乗せ、身を乗り出している西洋帽の中年。その背中が苛立ちを顕にしている。

「責任者は部藍ブランだろう! だから奴を出せと言ってるんだ!」

 アメス神教中国支部を預かるオーギュスト・ブランは仏国人である。彼は紛れもないここの責任者だったが、出自が科学者なだけあって、司祭となった今も骸霊研究に傾倒し、実務のほとんどを部下に任せきりにしている変わり者。その五感は己の研究に余すことなく費やされていて、他人の言葉など容易には届かない。辺境の片田舎で好き放題やるには申し分ない肩書きであれ、彼自身に責任者の務めを果たさせることは恐らく不可能だろう。まして感情的な中年の罵倒など、部下からの報告を右から左に流して終わり。それで寝る間も惜しんで実験に勤しむのだから、頭の下がるほどの働き者には間違いない。洋酒と道楽を何より好む仏国人には、いささか珍しい気質かもしれなかった。

 受付台の内側で応対する信徒もその辺りは承知の様子で、憤る男をものともせず落ち着き払っている。

「先ほども申しました通り、部藍は席を外しております」

「じゃあ誰がこの事態の責任を取るというんだ!」

 彼我の距離に対してあまりに場違いな大声が、二階まで吹き抜けた天井にぐわん、と反響した。

 耳に障る怒号の切れ間を縫うようにして、受付の隣の倉庫が開く。

 出て来た信徒の親父が額に汗を滲ませながら、上から下までを布に巻かれた細長い物体を、両手に抱え寄って来る。いったいあれは何だとばかりに、受付の信徒と中年男が押し黙って、成り行きを見守る。

「お待たせ、しました……ハァハァ……志弩秀礼さま」

 一同の注視する中、ゼエゼエと肩で息をする親父が、包帯の物を差し出した。言わずと知れた斧槍である。特殊な鋼を用いて作られたものだが、そこまで重たいだろうか。まあ、内勤の非戦闘員であれば、こんなものかも分からぬな、などと思いつつ受け取る。

 少し間が空いて、呼吸を整えた親父が、こちらを窺う中年男に届かぬよう声を顰めた。

「精霊球の換金ですが、もうしばらく」

「大丈夫だ。ゆっくりやってくれて良い」

 外で待たせている栞菜が、いつヘソを曲げるかという不安はあったが。

「重ねて、大変申し上げにくいのですが。鬼人衆之証の更新を、明日に延ばして頂けないでしょうか」

 鬼人衆之証。焼印の正式名称である。字面も聞こえも仰々しいのが嫌がられ、鬼人の間で焼印と呼ばれたのが、いつしか浸透していた。

「そちらは、何とかならないか」

 大人しく従えぬのは、今日いっぱいを潰すことになるだけが理由ではなかった。

 およそ消えかけている今の焼印では、階位の高い骸霊に立ち向かう力を出せなくなっていた。

 昨日の今日で骸霊の襲撃もあるまいし、そもそも牡丹町の軍事機能は壊滅的で、彼らが新たに襲い来る必然性はあまりない。アメス神教や鬼人衆を狙う、という線は無いではないものの、骸霊の認知を妨げる結界に守られた中国支部を攻略するのは、昨日の要塞型骸霊並みの個体が必須となる。早い話が、千鶴が配下の骸霊を従え再来するのでもなければ、敵の勝ち目は非常に薄い。しかも力を奪う槍の存在がある。少なくともあれの対策を構築するまで、千鶴直々の出陣はないはずだった。

 と、まあここまでは理屈である。昨夜はまだ疲れが残っていて、つい気弱な考えをしてしまったものの、いったん躰が癒えてしまえば現金なもので、いざという時に動けぬ状態というのが、どうにも気分が悪かった。

「それが昨日の騒動で、保管してある鬼人衆之証がごっそり壊れてしまって。地下の研究室は無傷ですので、現在司祭たちが復元に掛かっているのですが、この分だと翌朝になる見込みで」

 なるほど。町がこうなった責は自分にもある。そういった事情では仕方あるまい。仮にここで食い下がったとて、復元作業の遅延を招くだけだろう。

 こくりと頷くと、親父は安心したように汗を拭った。

「分かった。そちらについては、明日また伺うことにする」

 ご不便をお掛けしますと一礼したのち、親父は小走りに立ち去る。代わりに、先刻まで受付で悶着を起こしていた西洋帽がやって来る。

「あんた、鬼人衆か」

 脂の浮いた顔は厳めしく、巻き舌の不躾な口調は誰が聞いても不愉快だろう。

「ええ、あなたは?」

 面倒は御免被りたいところではあるが、金を受け取らぬまま逃げたところで、栞菜が不平をつらつらと並べ立てるのを聞かされるわけで、あまり違いはない。

 金が入ったら好きなものを買ってやる。酒に酔って気が大きくなったのか、昨晩そんな口約束を交わしていた。よほど嬉しかったのか、栞菜は起き抜けから何度も、約束の真偽を問うてきていた。適当な返事しかしていないのに、その度に彼女はにんまりとしてはしゃいだ。無垢なのか幼いだけなのか。

 それより何より、いったい何を買わされるのか。

「誰だって良いじゃねえか。それとも、何か文句あるってのか? 町をこんなにした鬼人衆さんがよ!」

「いえいえ、滅相もない——」

 さして脅かすつもりはなかったが、軽くひと睨みしただけで、男は容易に怯んだ。

 骸霊を相手取るために力を授かった鬼人が、例え己の縄張りで起こった諍いであれ、人前で一般人に暴力を振るう醜態を晒すわけにはいかない。

 こうした場合に有効なのが、視線による無言の恫喝だった。通用しない輩ももちろんいるが、大抵はこれで納まるものだから、何かと多用してしまう。

 それまで威勢の良かった男は、どうやら酒に酔っているふうだった。話をするうち、哀れなこの中年が、誰かに絡みたかった神道管理局の人間だと分かって、志弩の脳裏にある可能性が閃いた。

 自己申告、まして酔いどれとあっては、信憑性も何もあったものではない。だが、男がペラペラと明かす内情は妙に具体的で、まんざら嘘でもなさそうだった。いつしか西洋かぶれの中年の愚痴を聞かされる構図ができあがり、傍目にはさぞ貧乏くじを引かされたように映ったことだろう。

 しかし、これは渡りに船の好機であった。

 奇妙な槍の出どころは、神道管理局かもしれぬと、おぼろげに思ったからだ。

 あの大槍は、骸霊や骸霊の力を借り受けた鬼人を弱体化させる。これは概ね確定とみて良い。では大槍は誰の所有物で、何の目的で放たれたのか。

 結果的に命を救われておいて、こんな言い方をするのはどうかと思うが、あの時、陸軍も鬼人も、火力で女皇を倒せる数少ない機を逸したのは確かだ。

 それはなぜか。

 まず浮かぶのは、自分と栞菜を救出するためだ。だがこの仮説は、『誰が』と問い掛けた途端に脆くも破綻を迎える。女皇をみすみす逃してまで、自分たちを優先したい存在に心当たりはなかった。唯一、栞菜の両親の線は残るものの、時系列に矛盾が生じる。あの時点で、両親が逃げ出した栞菜を捕捉していて、彼女を救うための命令を下したとするなら、すでに栞菜は連れ戻されていなければならない。可能性は完全に否定できないが、限りなく低いと思われる。

 次いで、陸軍の新兵器という線。これはかなり有力だが、やはり疑問は残る。骸霊を無力化する秘密兵器を公然に晒しておきながら、女皇を仕留め切れなかった点だ。栞菜の記憶語りから推察するに、大槍の能力発動と陸軍の攻撃の連携がまったく取れていない。れっきとした陸軍の作戦行動であるなら、満身創痍の鬼人と栞菜を無視してでも女皇の殲滅を果たさなくては、新兵器をお披露目する意味がないはずなのに。

 では、アメス神教か。いや、それは無い。骸霊だけを弱めるのならともかく、鬼人にまで影響を与えてしまう兵器をどう運用すれば、彼らに都合よく事が運ぶというのか。鬼人衆を否定する腹積りでもなければ、こんな兵器を開発しようとすら考えまい。

 敢えて辻褄を付けるとすれば、例えば栞菜の父親が牡丹連隊の中枢にいる人物で、その娘の栞菜の顔も連隊内に知れ渡っていたとする。大槍を射出して女皇を失活化、さあ反撃開始という段になって、観測の兵士あたりが女皇の脇に佇む栞菜を捕捉。急遽、作戦の中止が言い渡され——いや、これも無いか。

 松尾少年とともに、天幕が立ち並ぶ露営地を歩いた時、ことさら栞菜を気遣う軍人はいなかった。むしろ敗走した特級の鬼人ということで、自分のほうが好機の目に晒されていたくらいだ。つまり栞菜は連隊内に顔が利くわけではなく、彼女の存在が作戦を歪めてしまったわけでもない。

 どうにも、それぞれの目的と利害が一致しない。困り果てて、第三者の介入を疑い出した矢先に、絡んできた酔っ払いの口から神道管理局の名が飛び出た。

 かの組織であれば、一応の整合は取れると思う。あくまで理屈の上では、だが。

「でもね。どうも腑に落ちないんですよね」

 己の推測を確証にするため、男の態度が軟化したところを見計らい、志弩は切り出した。

「何がだよ」

「いえね。あの、女皇ですっけ? あれがどうして退散したのか」

「ああ、あれな。噂じゃずいぶん良い女だったらしいな」

 へへっ、と鼻の下を伸ばす男。虫唾が走るが、ここは堪えなくてはならない。

「うちらも陸軍も、何もできなかったって聞いたけど。町を半壊してお終いってのも、何だか釈然としないなあ」

「まあ、そうだな」

「もしかして神道管理局さん?」

「はぁ?」

「何かしたでしょ?」

 ちらりと盗み見れば、ぶっきらぼうな口調に反し、その口元が緩んでいる。

「何で俺らが」

「だって、他にいないでしょ。骸霊に立ち向かえる組織って」

「俺らはそんなんじゃねえ」

「あ、列強製の長射程の加農カノン砲とか?」

「ははは。莫迦か、そんなもんあるかよ」

「じゃあ何? 教えて下さいよ。俺だけに」

「莫迦かっての。アメス野郎なんかに教えるわけねえだろ」

「そこを何とか。ちょっとだけ。誰にも言わないから、お願いしますよ」

「無理無理、諦めな」

 これ以上は本当に口を割ってしまい兼ねないとばかりに、男は踵を返して出口へ行ってしまった。

 端から、何か教えて貰える期待などしてはいなかった。志弩が窺っていたのは、男の反応である。

 眼球の動きと向き、瞬きの回数。鼻の膨らみ、声色の変化。顔色は酔っているから参考にならないとして、あとは指先と足の動き。それに呼吸。

 洞察から、少なくとも何らかの情報を持っていることは確実だった。管理局内での彼の立場は定かでないが、大槍が女皇を退けた件について、何かを知っている。

 酒酔いだったのが奏功したか、収穫としては上々であろう。読心術はむかし取った杵柄というヤツだが、まさかこんなところで役に立とうとは。何がどう転ぶかは分からぬものである。

 金を受け取って、ようやく教会を出ると、すでに栞菜はむくれていた。

「遅い! 遅い遅い遅いッ!」

「悪かった。いろいろ立て込んでて」

「いっつも言い訳するし。まあ良いや、お腹減ったし、ご飯行こうよ」

 言われてみれば、もう昼前だった。

 思い出して、今日も泊まりになる旨を伝えると、何が良かったものか、栞菜は飛び上がって喜んだ。


「ほら、もうすぐ完成するよ」

 朱に染まった掌を拭き上げながら、栞菜は職人が仕上げに掛かった和紙を顎先で促す。

 思うより簡単に落ちた絵の具は、このための専用品だろうか。

 和紙に捺された二人の手形が様々の色彩に飾り付けられて、向かい合う二羽の白鳥になった。

「へえ、見事なもんだな」

 華やかな朱色は栞菜の手形で、もう一方の黒い手形が自分。最初、黒は地味に思えたが、その分だけ色取りどりの装飾が際立って、重厚な絢爛を醸した。

「ほらね、赤黒で正解だったでしょ。前からコレ、やってみたかったんだよねえ」

 お待ちどおさま、と告げた職人から和紙を受け取った栞菜は、高々と掲げたそれを宝物のように見上げた。

「この真ん中の、猪目みたいなのは知ってるぞ。『はあとまあく』っていうヤツだ」

「よく知ってたな、偉いぞ——って言いたいとこだけど。例えに色気がないのよ」

 教会支部から町をぶらつき、適当に入った洋食屋で牛鍋をつつく。栞菜はそれだけでは食べ足らなかったのか『あいすくりん』を追加した。平素の食生活からすると結構な昼食となってしまったが、こういった贅沢も懐の温かいうちだけだと思えば、存外悪い気はしなかった。

 店を出て、宿に戻るにも幾分早いか、などと逍遥していると、栞菜が一風変わった外観の店を指して、ここに入ろうと袖を摘んだ。

 何の店かの説明もなく、腕を引かれるまま入った店内で、手を絵の具の溜まった桶に浸すよう促され、そうして完成したのが赤と黒の白鳥の絵画だった。

「黒いのに白鳥なのか?」

「また! すぐそういうこと言う。じゃあ赤い白鳥はいると思いますかぁ?」

 不機嫌そうに睨まれてしまった。されどもヘソを曲げたわけではないようで、掲げた和紙を今度は愛おしげに抱き寄せた。

 紙切れに絵の具と装飾を施しただけの割に値が張ったものの、こんなに大喜びする栞菜を前にして、嫌な気持ちになろうはずもない。

 帰りがけ、目抜き通りへ迂回して、陸軍の露営地の前を横切った。松尾少年でなくとも懇意にしている顔見知りでもいたなら、陸軍があの槍をどう見ているか訊き出せぬかと思い寄り道したが、そう都合よく見付かるものでもない。そもそも鬼人衆と帝国陸軍は犬猿の仲であるから、警戒中の彼らを下手に刺激すれば、無用な騒動の火種にもなる。

 昨日救われたことにしても、何も人道的な心根からの行為ではなく、後々に問題化する面倒を避けておきたかったに過ぎない。

 人民の支持を損なう振る舞いは厳に慎むべし。それが鬼人衆と帝国陸軍に交わされた不文律だった。

 あれこれ耽っていると、急に冷えた風が起こって、腕を絡めた栞菜が身を寄せた。

「人前だぞ——いや人前でなくても」

「良いでしょ、ちょっとだけ」

「こういう場所では、女は後ろを着いてくるもんだ」

「古くさぁ」

 ほんのり毒付きながら、より強くしがみつく彼女は、まるで幼な子のようだった。

「……」

 子供のすることなれば、叱り付けるのも忍びないと思った。子を持ったことなどないが、妙に親めいた心境で栞菜へ目を落とした、その時。

 寝言みたいな低い唸り声が、弛緩しきっていた耳を否応なく刺す。

 栞菜の声ではない。彼女にも音が聞こえた様子で、忌まわしい記憶を想起したふうな不安を滲ませている。

「ねえ、あの音って……」

 背中を振り返って、見上げた牡丹城跡地の上空。

 そこに、寝言の主と思しき光の輪が浮かんでいた。

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