第5話

 テンシ……天使か。確か伴天連の、神の使いではなかったか。栞菜の弁の通り、鉄塔の冷たい拳に抱かれた、光り輝く何ががいる。

 お伽話とぎばなしの聖なるものがいつだってそうであるように、天から舞い降りる神々しさは認めるところだが、遠すぎて何が何だかさっぱりだ。あれでは天使でも釈迦でも見分けはつくまい。

 やがて漆黒の鉄の骸霊は、軋るのを止めて完全に停止した。

 一撃で何もかもを押し潰す力を秘めた拳が下げられて、喫緊の危機は避けられたようにみえた。

 助かるだろうか。突然に降って沸いた希望に、安直にも縋りつきたい気分になった。

 だが往々にして、安直なものは安直に覆される。運、と言い換えても良いが、その運を享受するにあたり、昨今の自身は、致命的なまでにツキを失してはいまいか。

 いきなりの爆発音。背後から飛来し通り過ぎた物が、しばしの空白をおいたのちに、骸霊の左肩を炸裂させた。空の落ちるような轟音が大気を震わせ、空の代わりに鉄の破片が城郭の中へ、ばらばらと降り注ぐ。

 帝国陸軍の大砲、おそらく長四斤山砲。型落ちの野戦砲だが、砲身内に刻まれた螺旋状の施条によって、射程距離と砲弾の直進性が高めてある。

 骸霊の外皮を欠損せしめたことからも、対骸霊用に改修を施されたものに違いなかった。

 それからも連続して爆発が起こり、天守の骸霊の至る箇所に爆煙が立ち昇る。複数の大砲を投入しているのだ。埃臭い退役野戦砲で骸霊に損害を与え得るとは、さすがの陸軍である。鬼人衆にお株を奪われ、辛酸を舐めさせられた羞恥は、いささかも失われてはいなかった。

 黒煙にまみれた骸霊と天使を見失う。それを機として、今度は数人の男女が志弩を追い越し、要塞へと駆けていった。

 直剣に長刀、それから弓、槌。鉤爪なんてやつまで。各々が得物を手に、隊列を組むこともせず我先にと突撃を掛けている。その出立ちはいずれも欧州の風情で、目立つこと請け合いである。

 鬼人衆——超大型の獲物に一攫千金を夢見て、陸軍の弾幕に便乗した、牡丹町の鬼人たちだった。

 よぉ、と後ろから男の低い声がして、振り返った栞菜が息を呑み動揺するのが伝わった。怯えた面持ちの彼女の目は赤らみ潤んでいたが、呼び掛けた声のせいではあるまい。

 黙っていれば可憐な見掛けに反して、気丈な物言いと大胆な行動力が際立つ彼女も、人並みに怖かったのだと、今さらながら気付かされる。恐れをなしたのが骸霊の要塞なのか、瀕死の男の血にまみれた姿になのかは図りかねたが。

 小動物を思わせる弱々しさを垣間見せたその表情に、えもいわれぬいじらしさを覚えた。四肢さえ十全であったなら、何を差し置いても抱き留めて、安心するまで言葉を掛け続けたに違いない。

 肩を揺らし、浅い呼吸を繰り返す栞菜の脇から、声の主たる男の、いびつな得たり顔が飛び込んだ。

「貴様、特級の志弩か」

「……ああ」

 こちらの掠れる声に、男は嘲るふうに鼻を鳴らした。

「へっ、ざまあねえ。やる気もなく、こんなクソ田舎で燻ってやがるからだ」

 彼もまた他の多くと同じだった。月に手が届かぬように、どうしようもなく及び難いものへ渇望し続け、焦がれ悶絶する者だった。

「ちょっ——」

 割って入った栞菜の非難を、男はただの一睨みで制して、やはり他の多くが投げ掛けた文言を、同じように吐き捨てた。

「勿体ねえって思ってたんだ。相応に活かせる人間が特級を引き継ぐべきじゃねえのか、ってな」

 名前は思い出せなかったが、確か二級能力持ちの鬼人。牡丹町を根城にしていて、幾度か仕事を共にしたこともあった。こんな人を蔑む印象の男ではなかったはずだが、まあこの稼業だ。腹黒いのは灼道の専売特許ではない。

 それに、例え二級の三下といえども、今は無用な挑発は禁物。抵抗手段を持たぬ以上、余計な刺激は栞菜を危険に晒してしまう。

 言いたいことは山とあったが、上手く言葉を紡げない。そろそろ限界が近い。

 男がまた鼻を鳴らした。

「ま、その様子じゃ助かりようもねえ。仇は討ってやるから、とっととくたばっちめえ」

 皮肉にも瀕死であるのが奏功した。男は興味を失したふうな流し目で、要塞を向き、駆け出す——。

 その男の首が、水平にねられた。

「!?」

 ぐらり。血を噴き上げる男の躰がおもちゃみたく傾ぎ卒倒し、その先に、かの天使が佇立していた。

 翼のように纏ったまばゆい光を閉じ、天使はその全容を明かした。

 所々に肌を露出させた、黒地に金刺繍を施した妖艶な着物は『どれす』。肩口まである長い手袋に、すねからふくらはぎへ斜めにかけ上がる長靴——『ひいるぶうつ』だったか——まで、そのすべてが黒い。鉄の骸霊のような粗い黒ではなく、絹のような艶かしい光沢を蓄えた、気高き漆黒の女だった。

 長閑のどかな陽光に物怖じせぬその色は厳かであれ、断じて神の使いなどには見えない。さしずめ場違いな意匠の、喪服である。長い髪も、あしらわれた鼈甲べっこうの髪留めさえ、琥珀の装飾を除き底なしの闇色だった。

 それが天使などでないと察した様子の栞菜に、上体を抱き起こされる。この期に及んで、まだ一緒に逃げる気でいるのは驚きだったが、視界が変わったおかげで、黒い女の仔細が幾らか鮮明になる。

 そして志弩は目を瞠った。

「……金木犀」

 視線を縛り付けるものは、女の髪留め。橙黄色の琥珀が模したのは、金木犀だと思った。

 女の顔へ目を落とす。瞼の裏のそれと検めるように。

「ち——」

 鈍い頭痛がした。絶え間ない砲撃にも劣らぬ怒涛の戦慄が体内を駆け巡って、志弩は身を竦めた。

「ちづる……!」

 混乱か興奮か、また血を吐いた。が、そんなものに構ってはいられない。

 目の前の喪服の女は、陰山千鶴だった。見紛うはずもない。忘れた日など、本当にただの一日たりとてなかったのだから。

 ついに、化けて出たのだと思った。

 それは、懐かしくも嬉しくもあった。彼女はちゃんと、自分を恨んでくれていたのだ。その千鶴に取り殺されるならば吝かではない。

 だがしかし、怨霊と決めつけてしまうには、彼女の存在感は異質に見えた。

 例えるなら、太陽のような。彼女からはそうした温もりが窺えた。凛とした顔立ちから醸される逞しいまでの衷情ちゅうじょうは、幽けき亡者の放つ悔恨とはあまりにも掛け離れていよう。

 先に口をきいたのは千鶴のほうだった。

『ショウスケ……』

 その声が耳に飛び込んだとたん、色褪せた記憶の情景が克明に甦る。乾いた地に水が染み入るように、彼女と過ごした日々が息を吹き返す。

 出会った日。初めて話しかけた日。喧嘩した日。

 手を取り走った、最後の日。

 胸に溢れるものに圧迫されて、言葉にならない。代わりに涙が溢れて、薄紗に汚れる視野を歪めた。

 滲んだ世界に溶け込んだ千鶴が、細く長い腕をこちらへ差し伸ばした。反射的にというか、抗うすべもなく手を取ろうとしたその時。

『ミツケタ』

 短いその一句に背筋が凍った。同じく栞菜が小さく悲鳴を漏らして、抱いた感覚に誤りがないと知る。

 先刻の鉄巨人と同じ動作で千鶴が右腕を天へ掲げ、数秒あまりの静止ののち、緩やかに振り下ろす。反った長い指先まで美しい。見惚れるように、阻むことはおろか、目を瞑ることも逸らすことも叶わない。だのに、俺の心は。

 伸びやかかつ嫋やかななその所作の、いったい何に怯えるというのだ——そう訝しんだ、その直後。

 前触れもなく揺れた大地が、獣のように咆哮した。よもや地中を巨大な蚯蚓みみず型骸霊が、縦横無尽にのたうち回っているのでは、とさえ考えたほどだ。

 地震、ではあるまい。よろけて尻を着いた栞菜の手が外れ、志弩の上体は背中から荒地の窪みに倒れ込んだ。

 天地の逆転した牡丹町の外壁が遠くに見えて、志弩は愕然となった。吐き気を催す不快感は、血が昇った息苦しさによるものではない。

 壁が——。さも湯豆腐を上から押し潰すみたいに、灰色の長大な構造物が根元からひび割れ、崩壊していく。即座に爆煙や泥土が襲い来る危惧をしたが、幾ら待ち構えようとも砂塵は生じなかった。

「……?」

 よくよく見てみれば、逆さまに落下する壁は地に打たれ砕けるものの、まったく粉塵を上げていない。いや、正確には多少の粉塵が出ているのだが、それが上空へ舞い上がるよりも早く、どこかへ霧散しているようだった。

 さして強くもない風がさらうわけもない。そういう素材で建造したなど、行政にそんな気の利いた真似ができるとも思えず、甚だ理解し難い。

 だがその代わり、荘厳たる壁の沈み落ちた牡丹町が顕となって見えた。

 分かっていたことではあるが、破壊されたのは壁だけではなかった。牡丹城の天守閣が捲れ、石垣が崩落する。城下に並みいる小高い建物も、同じくひしゃげていく。理不尽な暴虐に、牡丹の街並みは等しく破壊されていった。

 途方もない、街を丸ごと呑み込める大きさの隕石が、そのまま大地に堕ちたような惨状。

 視界から消えたままの千鶴の気配が動いた。さっきとは打って変わった、人間じみた動作というのか、記憶の彼女を彷彿とさせる、そんな気配。

 生前の呼吸と躍動を取り戻したかのような彼女が屈んで、志弩へ、ぬっと首を突き出した。

 間近に寄せられた千鶴の顔。目も鼻も唇も、肌もほくろも豊かな両胸さえも。寸分とて、千鶴に相違ない。ただひとつ、息遣いが聞こえぬこと以外は。

 死してなおその美貌を保つ彼女はしかし、人の生気を携えたほうが、どれほども魅力的なはずだと思った。

 麗しく濡れた彼女の口が滑らかに開かれて、言葉を発する。

『探シタノヨ、正介。貴方ニ会イタカッタワ』

 がらがらに掠れた、地の深くから響くような醜い声。声と呼ぶよりも、様々な物音を無理やり繋いで言葉に仕立てたような、そんな声だ。

 死人しびとが口をきくことはあるまいが、もしそんなことがあるならこんなだろう。美しい姿から放たれたぶん、余計に衝撃的だ。もはや血などいかほども残っていないだろうに、戦慄に血の気が引く思いがして、志弩は震えた。

『私ネ、精霊ニ生マレ変ワッタノ。マタ生キラレルノヨ』

 酷い声色はともかく、口調の抑揚は千鶴そのものだ。

 豪胆だが聡く、しかし他人に謙虚で、示された好意に人目を憚って密かにはにかむような、そんな気位いのある女。彼女が包み隠さぬ喜怒哀楽を見せるのは、心を許した人間だけ。その数少ない一人だったと、今でも信じている。

 だから、彼女は千鶴であることに疑いはない。だが、そうであるなら、千鶴が牡丹町を壊滅したことになってしまう。精霊に生まれ変わったとする彼女の弁も、それを裏付けているのではないか。

『ダッ……ダダダカラ。私ネ。アア貴方ヲオォ』

 異常な吃音が言葉の形を妨げる。だというのに、そんなことを意にも介さぬ彼女は、にんまりと目を細め、笑った。

『コ殺サナイト、イケナイノヨオォ』

 どろりとしたものが、彼女の瞳に影を落とした。

「——!?」

 殺気などでは済まされぬ、遥かに研ぎ澄まされた鮮烈なもの。無論、これまでに感じたことのない感慨である。そんな言葉を志弩は持ち合わせていなかった。

 狂気。あえて当て嵌めるなら、そうなろう。

 しかし、そんな死刑宣告を突きつけられていながら、どうあっても抗う気になれなかった。

「ああ。好きにしてくれ。君の望むまま」

 大義名分さえあれば、人の精神は死を受け容れるものらしい。変わり果てた彼女には驚いたが、躯が生き返るとはこういうものなのかもしれない。

 それに幽霊でも精霊でも、その根幹が千鶴でありさえするなら、この生涯を閉じることに何の異論もない。千鶴へのお膳立てのため、鉄の骸霊と椋鳥たちが自分を殺さずにおいたのだと考えれば、骸霊もなかなか粋な計らいをするものだと思った。

『ダ大丈夫、モウ苦サシクナイ。今度コソ、イィ一緒ニナリマショウ。神ノ御許デデエ——』

「ダメ! そんなことさせない!」

 夢に見た甘い申し出を遮った栞菜の怒声に、千鶴は気怠そうに首を傾いだ。

『誰。ジ邪魔マママ、シ、シナイデ』

「イヤ」

 にべもない栞菜へ、怪訝に眉を顰める千鶴が立ち上がった。

「……ッ!」

 やめろ。そいつは関係ない。そう言おうとしたのに、声が出ない。どんなに喉を張っても、嗄れ声ひとつ、指の一本すら動じさせられない。すでに千鶴の術中に陥っているということだろうか。

 苛立ちを覗かせた千鶴の全身が強張り、カラクリ人形みたいな角張った奇怪な動作を伴って、がくがくとその四肢を震わせた。

 ああ、やはり。彼女はもう、人ではないのだ。

『ココ……コロ殺ス……殺ス……!!」

 逆光で栞菜の表情は知れない。だが小刻みに肩を揺らし、早く浅い呼吸を繰り返すその影は、彼女が心臓を破裂させそうなくらい怯懦していることを示していた。

 助けなくて良いのか、と胸中で何かが囁く。自分を救うため、生かすために強烈な脅威に立ちはだかる女を、お前は助けないのか。何もせず誘惑に身を任せ、お前を守った彼女を死なせるというのか。

 間もなく訪れる申し分ない終幕を差し置いて、どうして栞菜を案ずる思考が芽生えたのか、志弩はその根拠を疑った。

 だが、考えるまでもない。

 生前の千鶴、瞼に残された思い出の千鶴。彼女に繋ぎ止められたこの命を、恥じることなくまっとうしようとするならば、自ずとそうなるのだ。

 目の前で怯える女を捨て置き、安楽の道へ身を落とす自分を、断じて千鶴が許すとは思えぬのだ。

 記憶にある千鶴と、目の前の千鶴の躯。どちらを信じるのか、ということでもある。

 とはいえ、逡巡する猶予などない。剣呑な覇気を纏った千鶴が、恐怖に立ち竦む栞菜へ右腕を差し出す。

「——!!」

 諦めてはならない。ありったけの力を込めて己を奮い立たせようとしても、無情なまでに何も起こらない。

 妖しく痙攣する千鶴に、志弩の訴えは届かなかった。その代わり、彼女の残忍な思考が瞳の奥から窺い知れた。

 右腕が放つ不可視の奇術をもって、栞菜を思うさま甚振り尽くしたのちにくびるつもりだ。

 万事休す。どれほどの渾身も懇願も、血と涙とよだれを垂れ流すばかり。そもそも、千鶴の目に自分は存在していない。栞菜を如何に苦しめて殺すか、それだけを楽しんでいるようにも見えた。

『オマエ——?』

 打ち震えた千鶴の右腕が、唐突に停止した。何かを探って、じっと栞菜を凝視して動かない。とはいえ栞菜に僅かでも抵抗のそぶりを認めたなら、即座に殺すはずだった。

 薄氷の上に立たされているような緊迫が周囲を支配する。

 動くな栞菜。絶対に動いてはいけないし、口もきいてはならない。でないと。

 傍目には刹那ほどの時間だったに違いなかろうと、志弩からすれば、連綿と続く無限の静止だった。

 抗し難い悠久を破ったのは、ほかならぬ千鶴だった。ふ、と彼女は口元を緩めた。

『ナルホド。モハヤ手ヲ降スマデモ無イ』

 いつだって柔和な、生前の千鶴からは想像もつかぬほどの、残酷な笑みだった。彼女の顔にも、こんな表情がつくれるのかと、志弩は愕然となった。

 その千鶴の遥か頭上の上空を、細長い高速の何かが通り抜けた。

『ッ!? 何ダ!?』

 それは物理を無視したような急激な旋回をしたのち、速度を衰えることなく下降を始め、やがて千鶴の背後、ちょうど鉄巨人との中間に突き立った。

『槍……』

 確かに。それを槍とする彼女の呟きは的確だ。ただし、およそ人間には扱えぬくらいに大きい。長い、とするべきか。

 二つの円錐の底面を向き合わせたような形状のそれは、遠目ながらも二丈ほどはあろう。もっとも太い中央部分は、灼道の胴寸が二つは収まりそうだ。

 すなわち、並の成人男性の恰幅をゆうに上回る、有り得ない形をした長尺の槍ということになる。

 使い方も、なぜ飛翔して来たかも判然とせぬ、謎の物体。

 それが寝息を立てたように、間抜けに唸った。

「うっ?」

『コレハ——』

 突然の虚脱。ひたすら力を奪われる感覚に混乱してしまうが、それを説明する者もいなければ、解消するに足る思考も、もはや残されていなかった。

 満身創痍の死に損ないでありながら、なおも失う力があったというのは、単純に驚きであると同時に恐怖であった。今度こそ駄目だろう。

 死を享受したり恐れたり、目まぐるしいことだ。きっと、肉体は死にかけているのに、生命としての本能がそれを是としないのだ。

 目の前の二人の女も、きっと同じだ。

 死を促す千鶴と、それを許さぬ栞菜。望まず命を絶たれた女と、自ら命を捨てようとした女。

 お前はどうするのだと、そう詰め寄られている気がした。

 混乱がいや増したのは、視界の千鶴が身を崩したためだった。膝を地に着けた彼女が、苦悶の呻きを漏らす。

『コンナ……ココマデ来テ……人間メ!』

 力を奪われているのは、自分だけではないらしかった。

 だが、隣の栞菜に同様の症状は見受けられない。困惑して佇立する姿が気の毒に映る。

「……!」

 あの奇妙な槍。あれに何かカラクリがある。千鶴と自分にだけ効果を及ぼす、そんな仕掛けが——。

 

『◼️◼️◼️◼️だよ』

 いつぞやの夢の声がして、闇の存在を認識、その中に自分が溶け込んでいることを知る。

 意識が明瞭になって頭がはたらき始めると、闇が水平に裂けて、天幕越しの夕日が目に飛び込んで来た。

 気を失っていたらしい。思考にやや遅れて覚醒した聴覚が周辺の喧騒を捉えて、志弩は空間のおおよその広さを認識し、次いで自身が横に寝かし付けられていると分かった。

 ばたばたとせわしなく行き交う足音と、そのたび舞う埃と淀んだ空気は、よもやあの世などではあるまい。増して、呼吸に合わせて上下する胸郭は、継続する生命そのものであろう。

「また……」

 また、生き残ってしまった。また逝きそびれてしまった。そんな言葉を用いたせいだろうか、無性に悲しくなった。

 あの日、あんなにも容易く千鶴は死んだというのに。

 生まれて初めて、神にも仏にも願った。だのに、紛れもない善人である千鶴が息絶えて、罪科から逃げ回るように生きる自分が死なぬとは、いったいどんな道理なのか。天上に住まう崇高なものたちの悪趣味ぶりには、つくづく辟易とさせられる。

 女皇とは、千鶴のことだったのだと思う。自らを骸霊ではなく精霊だと述べた彼女の弁は、それを裏打ちしているようにも思える。

 ふと、泣きたくなった。

「何で——」

 どうして。どうして。神だか仏だか知らぬが、これはあんまりだろう。悪戯が過ぎるというものだ。

 千鶴は敵方の将として生まれ変わった。そして、激甚なる一撃を見舞い、牡丹町を壊滅させた。そうだ、鉄の骸霊要塞を御していた点も、彼女が女皇であることを示唆しているのではないか。

 いや、あるいは。

 都合の良い、言い訳みたいな稚拙な考えが浮かんだ。

 女皇が千鶴の躯と記憶を借り受け、さも千鶴の所業であるように見せ掛けた。

「やれやれ。まだ夢見ごこちか」

 志弩は自嘲気味に口元を歪めた。あまりにも莫迦げた仮説は、つらい現実から逃れようと足掻く自分そのものだった。

「眠い、な」

 目覚めてすぐだというのに、強い眠気に襲われる。その割に、独り言ちた舌は良く回った。手足もいっぱしに動かせるから、麻酔などの薬物投与による微睡みではない。

 単に疲労が抜けていないだけとも思うが、大人しく眠る気分にはなれなかった。

 焼印の捺し直しもまだだし、何よりここが何処なのか、今日が何日なのか、何も把握していなかった。

 志弩、と弾けるような声。

「目が覚めたのね!」

 視界の右半分を覆い尽くした喧しい影。わざわざ確認するまでもない。栞菜だ。

「ずっと寝てるから、死んじゃったかと思った」

 彼女はそう言って笑って、しかしその目は潤んで見えた。

「お前も無事だったか。良かった」

 それが呼び水となって、彼女は微笑みながら泣いた。

 まだ陽は落ちきっていないのに、その頬を雫が伝う。慌てて人差し指で拭い去る彼女。

 あとにはとびきりの笑顔だけが残った。

 巻き込んでしまって、済まない。そう告げようとして、志弩は思い至った。

 どうして、とするのも可笑しい話だが、自分も栞菜も、あの場をどのように切り抜けられたのか。

 そればかりでない。自分は確か、瀕死の重傷を負わされていた。手足も、呼吸さえもままならぬ有り様で、出血の具合からも助かる見込みは絶望的だったはず。

 なのに、手も足も若干の怠さは残れど、己の意思の通りに動かせる。擦れる布団の感触もちゃんと感じることができる。

 今のところ胴体も四肢も、すべて元通りだ。どれほど眠っていたかは定かでないが、仮に何年、何十年昏睡しようが、快復を見込める状態ではなかったのに。

 一気に頭が回転し出した。無数の疑問が驟雨しゅううのごとく脳内へ降り頻る。

 汲めども尽きぬ疑惑に困惑しているのを看破したのか、薄い掛け布団の乱れを整える栞菜が、今度は真剣な様相を窺わせた。

「そう。わたしたちは生かされたの。あの人……ちづるさん、だっけ」

 当時の恐怖が蘇ったのか、はたまた口にするのも忌々しいのか。真意は図りかねたが、ともかく栞菜は千鶴の名を言い淀んだ。

「思い出させるのは忍びないが、詳しく聞かせてくれないか」

 声色を翳らせる彼女を脅かさぬよう、柔らかく落ち着いた口調で尋ねる。それが功を奏したかはさておき、彼女はこくりと頷いた。

「記憶はどこまで?」

「妙な棒切れが降って来て、それから——」

「分かった。ええっと……」

 何を語るべきか精査しているのだろう。栞菜はゆっくり目を瞑り、やがて訥々とつとつと言葉を紡いだ。


 槍って、そう彼女が呟いて。その槍が小さく鳴って、彼女は跪いた。多分だけど、彼女の力を削ぐ何かが、あの槍には籠められていたんじゃないかな、分かんないけど。

 で、弱った彼女の中から……っていうのも変なんだけど。何ていうか、別の人格みたいなのが現れたの。

 きっとそっちが志弩の知ってる、本物の千鶴さんだと思う。綺麗で細身なのに胸もあって、なのに人形みたいに冷たい彼女の顔付きが、そうだとはっきり分かるくらいに活力を宿したもの。

 凛とした人なのね。でも志弩が死にそうなのを見て、悲しそうにショウスケって言った。

 次にわたしを向いた千鶴さんは、何かを迷った。瞳が左右に振れていたから、間違いない。迷ったのはきっと、あなたを殺すかどうか——ううん、ゴメン。忘れて。って無理か。

 俯いたまま、瞳を閉じて何かを巡らせた彼女は、声を絞り出した。

『あなた、動けて?』

 見た目通り、綺麗な声。ずっと聞いていたかったけど、そうも行かないから、うんって答えた。

 そうしたら、腹を決めたみたいに両目を開いて、右手を伸ばした。志弩のほうにね。

 そうしたら、信じられないことが起こったの。

 気付いてる? あなた、左腕と腰から下が千切れかけてたんだよ。血だらけで、服の上に内臓が飛び出して。正直、一命を取り留めても、手足はもう駄目だろうなって諦めてたのに。

 千鶴さんの右手から光る粒が志弩へ注がれると、間もなくその手足が元通りに繋がった。ホントにあっという間に。ボッロボロになった、その変な服も。

 ああ、奇跡ってこういうこと? って、ちょっと感動した。

 でも、志弩を五体満足まで癒した彼女は、そのぶんだけ弱ったと思う。

 疲弊を見せる彼女の目は相変わらず悲しそうだったけど、再会の喜んだり、お別れを惜しむ時間はなかったみたい。町のほうから、陸軍と鬼人衆の人たちが近付いて来てたから。

 わたしたちを巻き添えにしてでも、雨のような砲撃を浴びせれば倒せたかもしれないのに、どうしてあの人たちは危険を冒して接近したんだろう。

 志弩を助けたい人が、わたしたちの他にいたのかな。同僚の人にはずいぶん嫌われてるっぽかったけど。

 ああゴメン。傷付いちゃったか。でも、そんなつもりで言ったんじゃないよ? はいはい、だからゴメンってば。とにかく、苦しそうに額に汗を滲ませた千鶴さんは、なおも力を振り絞って言った。

『彼が起きたら伝えて下さる? 死にたくなければ、その稼業から足を洗いなさい、と』

 最後のほうは早口で捲し立てるみたいだったけど、言い終えてすぐ、千鶴さんの顔が元の人形に入れ替わった。

 今思い返してみると、あの時精霊の力が弱められたせいで、一時的に千鶴さんの人格が表に出てこられたんじゃないかな。短いあの機を、上手く利用したのね。賢くて勇気のある女性なのね、って上から言っちゃ良くないか。

 でも、だからこそ余計、抜け殻のお化けみたいなのに戻った彼女が痛ましかった。カカだとかコロコロだとか変な声を上げながら、躰を小刻みに震わせてて怖かった。

 だから何も出来ずに、千鶴さんと志弩へ交互に目を配らせてたら突然、千鶴さんが消えた。ううん、幽霊みたいな消え方じゃなくて。志弩を直した光の粒に良く似た、無数の小さなサボン玉みたいな感じ。上に上に、成仏するみたいに昇って——って、これじゃまんま幽霊か。

 何だかあったかくてさ、不思議な光景だったな。でもきっとあれは、力尽きたんじゃなくて、逃げたんだよ。どうしてかって?

 消えてなくなる寸前に、千鶴さんの声がしたもん。どちらの千鶴さんかは分からないけど、『しこうなるせかいへみちびく、さいごのかぎ』とか何とか。わけ分かんないから、人形のほうだったのかな。

 入れ違いに軍人さんと鬼人さんがやって来て。志弩は担架に乗せられて、わたしは付き添いでここまで来た。え、ああ。ここが何処かって?

 ここは陸軍が急設した、緊急対策本部の包帯所。って言っても、怪我なんか一つも残ってないんだけどね。

 要約すると、まあこんな感じかな。

 

 

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