第4話

 女皇。それを眉唾の類と疑わぬのは、単に鬼人衆の教本に記されていたからに過ぎない。

 粉塵の外で稲光が瞬き、またも放たれた閃光。舞う砂の粒子を裂いて、破壊の光が迫り来る。

 避けられない。避けてはならぬ。自分の背後には壁と街、そしてそこに住まう者たちがいる。それに初撃の瓦礫に埋もれた連中にも、息のある者がいるかも知れない。

 止められるのは今、自分の他にはいない。斧槍を盾代わりに、目の前に据え構える。

「押し返せ『Wicked Beat』ッ!」

 しかし衝突の刹那、志弩の寸前で枝分かれした光線は、志弩を通り過ぎて壁を撃ち崩した。

「糞めがッ」

 苛立ちを包み隠すことも忘れて前へ、自ら光へと突っ込む。斧槍で光を真っ向から受け止め、じりじりと押し返す。能力が例え万全だったにせよ、これほど高威力のものを跳ね返すのは不可能だろう。少しずつ前進して、壁に当たらぬ位置まで進んだところで、上空へ逸らすのだ。怯むな。

 女皇は、勝機の見出せない敵ではない。教本には、こうも綴られてあった。

【一八八三年 安芸の宮島にて、久住桜花くずみおうかが骸霊を従えた女皇を討伐。その精霊球『Wicked Beat』を持ち帰る快挙】

 最強にして、もっとも世に知られる鬼人衆の英雄、久住桜花。志弩の瞼にこびり付いて離れない、美しい女の名でもある。

 だが、その彼女にしたところで、まさか薄れた焼印で女皇を屠ったわけではあるまい。当時の細かな状況は分からぬし、いついつ何処に現れるから宜しく、などという稼業でもないから、桜花の調子が万全であったとまでは思わない。それでも、戦闘に臨む準備期間くらいはあったはずだ。そんな猶予も与えられず、連日のように骸霊に出くわす珍奇を、志弩は訝しんだ。

 地方における骸霊討伐は、まず依頼の書面が届き、それを引き受ける形式が普通である。緊急討伐もなくはないが、扱いの上では、熊などの害獣の駆除とさしたる違いはないように思う。都会に比して絶対数の少ない田舎で、骸霊と偶さかに遭遇するなど、年に一度あるかないかのことなのだ。

 それがどうだ。道を歩けば骸霊、出先で宿泊中にも骸霊。ついには、隣町への短い道中で女皇が降臨する始末だ。

 これもまた、自分を追い詰める得体の知れない何かなのだろうか。更新を後回しにした不精は認めるが、こんな頻繁な遭遇をいったい誰が予測し得るというのだ。

 そう思うと苛立った。

「大概にしやがれ! そんなもんはよッ!」

 ぜんぶ弾き飛ばしてやる。何もかも、それが何であれ、降り掛かる凶事すべてを捻じ伏せてやる。

 もう充分だろうというところまで進み出て、光を上空へ曲げる。斧槍の抵抗が俄然がぜん軽くなって、志弩はまだ捉えきれぬ骸霊のもとへ跳んだ。

 光は陽光よりもずっとまばゆくて視界は十全ではないが、光を辿れば骸霊に行き着く。

 しかしその直後、そんな必要もないことを知らしめられる。

「こ……これは……!?」

 とにかくデカい。高さも横幅も規格外。

 それは城を模したような形状をしていた。

 薬師山の宿場がすっぽり入ってしまうのではと思しき広大な面積を、牡丹町のそれよりはいささか低い黒の城郭が、周囲を行き渡っているように映る。一部が山肌の傾斜に沿っているから、平城なのか山城と呼ぶかは微妙なところか。その内にやぐらや土塁と思しきものが立ち並び、中央に天守のような骸霊が鎮座している。これがまた大きい。牡丹城よりも遥かに高いだろう。

 さしずめ骸霊城といった風貌。禍々しさを演出したわけではあるまいが、隅から隅まで真っ黒なのも、かたき役としてお誂え向きであろう。

 より近付くにつれ、僅かずつ全容が明るみとなる。城郭に隠れて見えない部分を差し引いても、中心の骸霊は上半身しかない。あるいは地中に埋まっているか、行儀良く正座でもしているかだ。

 つまり見てくれそのままに、機動力がない可能性が高い。長距離射撃能力を保有しているのは、その代償というわけだ。これも『枷』と『過給』の恩恵なのだろう。城というより、要塞としたほうが正確かもしれなかった。

 これを単身で倒すのかと思った。一人で攻城するようなもので、失笑も起こらぬ無謀だ。

 だが、応援らしき気配はない。粉塵の立ち込める牡丹町は、今頃になって警報を鳴り響かせているくらいだから、事態の把握などを加味すれば、援軍の到着にはもうしばらくの時を要するだろう。

 どうする。いつまでも光を逸らし続けてはいられない。それに鬼人衆の応援というのも、あまり期待できたものではない。

 個人ないしは少数での戦略にばかり習熟している反面、大規模な統率の概念そのものが存在しないのだ。ましてや緊急時。さらには灼道のような個人主義、すなわち他人の指示など糞食らえの輩ばかり。組織の性格のうえでも、陸軍のような部隊行動を当てにすること自体、無理があった。

 ならば、導き出される解は、自ずと限られよう。

 やるしかない。大丈夫。ひとたび腹を決めれば、やりようはあるものだろう。

 まずは主力火器たる光線を止め、破壊する。おそらく天守たる骸霊が射出しているか、その傍に砲塔があるはずだ。これで牡丹町への被害は抑え込める。

 ついで天守そのものを失活させる。天守はしかし腰から上は立派に人型であり、きちんと頭部と両腕を備えている。身動きは取れずとも、あの腕の一撃を喰らってしまえば絶命は必至だ。光線のほかにも迎撃用の飛び道具があるかもしれぬから、半端に近寄るのは危険が伴う。

 そして。アレが真に要塞であるなら、敵の接近や侵入の対策があってしかるべきである。要塞でも城でも砦でも、普通は兵士が駐屯していることを考慮するなら、アレの内部にもそれに相当するものが控えているはずだった。

 つくづく、これほどのものを一人でか、と思う。げんなりとなってしまうものの、そんな猶予もない。手早く仕留める。奮起させろ。やるほかないのだ。

 ずいぶんと接近して目を細めると、光線の出どころが骸霊の胸部だと分かる。あんな箇所にある以上、主砲であるのに疑いはあるまい。戦艦並みの全長に鑑みて、威力が控えめな感触はあったが、火力を絞っているとも考えられた。

 頭上を迸る光の帯が、徐々に細く萎んで消え去る。今だ。

 天守の巨人を目指して跳ぶ。光線から拝借した慣性を用いた跳躍は、高く速い。一気に間合いが詰まるものの、さすがに一度では届かず、着地。二度目の跳躍で、骸霊を守護する城郭へと降り立つ。

 城郭の内部は、まさしく要塞に相応しい。無数の建屋が整然と並び、各所に櫓がひときわ高くそびえ立つ。そのいずれもが漆黒で、志弩は目がどうにかなるのではと危ぶんだ。

 見上げた天守もやはり黒い。そのうえ途方もない高さだ。胸部は砲門に充てがわれてあるから、精霊球の在りとして有力なのは頭部だろう。

 あそこまで跳ぶのか、などと抜かしている場合ではない。いつ次射が放たれたとて、おかしくない。

 急ぎ跳躍を再開する。山の向こうから太陽が顔を出して、巨人の肌を鈍く照らす。鉄の、冷ややかな輝きだった。

 どうやら骸霊、というか、この要塞すべてが鉄製らしい。鉄なら斬れる。空気だの何だのといった、不可解なものを媒体とした骸霊よりは幾らもマシだ。

 日本海の荒波が、柔らかな日差しに爆ぜ返る。山の向こうは緩い北風が吹いていた。

 着地と跳躍を繰り返す。操れる慣性がないため、先刻に比べて飛距離に劣る。もどかしいが、こればかりはどうにもならない。

 ふと、背後で気配が生じた。振り返ってみれば、城郭のあたりを黒く小さなものが群れをなし飛翔している。

 椋鳥むくどりだろうかと視線を戻してから、どきりとした。

 いやな予感がした。が、この距離から鳥か敵かの見極めは難しい。ならば無視して突き進むべきだ。奇襲は速やかに遂行してこそ。迷うな、急げ。

 何度目かの跳躍で、やっと天守に取り付く。腰部を鎧う外板に降り立った時、地震のような振動とともに胸部の砲門が唸りを上げた。次弾だ。まずい。

 はやる気持ちを堪えながら垂直に跳ぶ。垂直方向への跳躍は、重力の影響を大きく受けるため距離が出にくい。だがそんな理屈はどうだって良い。

 肩が外れてしまうのではというほど、砲門へ右腕を、反り返る指の先さえも伸ばしきる。

 とどけェッ——!

 中指が砲門の冷たい淵に掛かった。志弩は決して離してはなるまいと、渾身の力を振り絞って躰を引き上げる。主砲の中を覗くと、さも夜が明けるふうにおぼろな光が立ち昇って、パチパチとエレキのような稲妻を迸らせた。

 目が潰れるほどに輝く光。砲身の中を渦巻くようにはしった瞬間を冷静に見定め、志弩はそれを『跳ね返』した。

 加速途中の幼い光が逆流を余儀なくされ、砲塔の内を焼く。金属同士を擦り合わせた時の不快な軋りを轟かせ、鉄の胸部が袈裟懸けのように裂けた。

 よし。まずは成功。これで牡丹町を気に掛けることなく、骸霊とサシの勝負に持ち込める。

 しかし、砲門ひいては天守が爆散する危惧があった。不本意だが精霊球は後回しにして、あれこれと細かな部品を地にばら撒く胸部を蹴り、宙へ躍り出る。

「がっ!?」

 突如、右脚に熱いものが滾った。喘ぎ声が漏れ出て、苦痛に顔が歪む。バン、という激しい打音とともに、沈黙する鉄の骸霊が火花を散らした。

 熱感の冷めやらぬ足に目を落とせば、太腿から夥しい量の血が垂れ流され、オリーブ色の洋袴ずぼんを染めていた。

 カッとなって身を捩り、背後へ翻ると、さっきの椋鳥の群れが自分を包囲していた。

 やはりそうか。思うよりもずっと速く飛んで来れたらしい。まあ誤算はそこではなく、飛び道具を備えていた点だが。

 近くで見れば椋鳥とは似ても似つかず。英字の『M』のような形をした、拳大の黒い浮遊物だった。羽ばたくでも滑空するわけでもなく、空中に浮かんで静止している。仕組みなど分かりようもない。海外では嘘つき兄弟が、自分たちは空を飛んだなどと吹聴しているらしいが、鳥の羽を持たぬものが空を飛ぶ道理はない。

 ともかく空中では分が悪すぎた。一刻も早く着地しなくては、もれなく蜂の巣にされてしまう。

 敵の追撃を斧槍で防御しながら、骸霊の腰部に着地。間髪入れず、蹴足で骸霊の背後に回り込む。そのさなかにも椋鳥の照射に晒され、直撃した骸霊の表皮が打音を刻みながら焼け窪んだ。収束を高めて貫通力を増強しているらしい。これなら牡丹町の壁を破壊することはできなくとも、懐に潜り込んだ鼠を追い回すぶんには向いていよう。

 逃れるそばから追い着かれ、光線の雨が降り注ぐ。そうこうするうち、気付けば周囲を椋鳥に囲まれていた。

 案の定というか、なるべくして、椋鳥たちは一斉射を始めた。避けきることは不可能、やむなく能力を解放し、逸らして逃げる。

 だが、いつまでもそうしてはいられない。

 授かった『Wicked Beat』の泣きどころは、能力を行使したのち、負荷に応じた冷却つまり待機時間を要することで、冷却の完了するまで能力は扱えなくなるところにある。多方向からの攻撃を間断なく続けられると、やがて息切れを起こしてしてしまうのだ。

 少しでも敵を減らさなくては埒があかない。幾つか光線を跳ね返して椋鳥を撃墜するものの、その数は減るどころか、むしろ増えていると思えた。きっと城郭を飛び越した時に見た建屋が、椋鳥を格納しているのだろう。

 もしそうであるなら、途方もない個体数にのぼるはずだ。とても個人の能力でどうこうなるものではあるまい。

 いったん退くべきか——しかし、その思考を先読みしたように、それまで各々に攻撃を加えていた椋鳥たちが陣を組んだ。

 志弩を軸に据えて扇状に展開した椋鳥の、阿吽の呼吸からの一斉掃射。咄嗟にそれらを捻じ曲げ、反転させて、半数ほどの椋鳥を射落とす。

「くそ……ッ」

 敵が、多くの同胞を犠牲にしてまで目論んでいるもの。それに思い至って、うなじから背中へ冷たいものが走る。だが今さら敵の真意を看破したとて、もう遅かった。

 背後にも同じだけの椋鳥が、やはり扇状に配置されていて、それらすべてが余すことなく閃光を放った。

 能力の弱みを知ったうえで、意図的に誘導されたのだと、志弩からはそう映った。

 一般論として骸霊に知能はない。あっても極めて低いとされる。その骸霊が、よもやこんな戦法を用いようとは思いもよらなかった。対人戦では常識である読み合いを骸霊相手だからと怠り、その思い込みを逆手に取られたわけだ。

 あるいは骸霊として別格たる女皇ゆえに、高い知性を持ち合わせているとも取れる。大層な肩書きが莫迦に務まらぬのは、人間とて同じことだ。

 すぐそこまで迫る閃光の歯牙を、すんでのところで冷却を終えた『Wicked Beat』で弾き返す。とはいえ雑な仕事が、満足な結果をもたらす道理もない。

 腕と脇腹を、防ぎ損ねた光線の一部に焼かれる。高熱に溶けた衣服と肌に、出血がい交ぜになって、汚らしく固まった。

 痛みに悶える力すら、逃走のために転嫁して走った。牡丹町のほうへ我武者羅がむしゃらに、しかし変則的な動きも混じえて。

 光線の攻撃は直線運動だ。その動作のうえでは拳銃と大した違いはない。だから、包囲網からいったん抜け出せたなら、敵の射角は途端に狭まる。その後は、こちらが長時間立ち止まったり、直線的な動きをしないよう立ち回れば、能力に頼るのは最小限で済む。

 並み居る建屋なども、攻撃を避けるのに役立った。跳躍は放物線軌道を描くから、直線運動とさほど差がなく危険だ。一気に距離を開けられる点では有用だが、使いどころは吟味が必要となろう。

 しかし、そんな浅知恵をみすみす許す敵でもない。走れば走るほど、逃げれば逃げるほど、椋鳥は数を増していく。まるで、あの日の再来だった。

 千鶴を喪ったあの日も、こんなふうに街中を駆けずり回った。違うことといえば、一緒に走ってくれる人がいないことと、己が身のほかに守らねばならぬ存在がないこと。

 それは志弩の心情において、決定的な相違だった。

 主要のものと思しき広い通路を外れ、黒く高い建造物の間を縫うように疾走する。

「——くっ!」

 狭い辻を折れた先に、大剣を振りかぶった七尺弱の巨軀が待ち伏せていた。西洋の騎士のような甲冑を纏ったそれが、身の丈に及ぶ長大で重厚な得物をくだす。斧槍で受け止めるものの、力の差は歴然。剣戟の重さに耐えかねて膝が屈する。

 その静止を逃すことなく、追い付いた椋鳥が閃光を撃ち出す。畜生、仕方ない。

 能力を解放し、大剣の騎士と閃光をもろとも弾く。同時にすぐさま駆け出し、追撃を躱す。しかし、また新たな騎士が道を塞ぐ。切り返して別の通路へ迂回したその先にも、騎士が毅然と立ちはだかっていた。四方を囲まれてしまった。

 再び能力で騎士を倒す。力は強いが鈍重な騎士は、本来さしたる脅威となるまい。だが必死に逃げ回る中で、彼らが組織立って行動し、目的のために犠牲を厭わないことを失念していたらしい。

「道が——」

 愕然となった。鉄の黒騎士の亡骸が、通路を塞いでいるのだ。まるで積み将棋のような的確な追い込みは、もはや単なる知性では済まされない。が、躊躇は死に直結する。道が無いならと、垂直に高々と跳び上がった。脇を椋鳥が掠め、やや遅れて光線を放つ。それを『Wicked Beat』を用いて椋鳥ごと吹き飛ばす。能力解放後の隙を狙った周囲の椋鳥たちが、新たに光線を差し向ける。

 激痛そして、躰を内から焼き焦がす灼熱に身悶える。冷却が間に合わず、光線の幾つかに躰を貫かれたのだ。致命傷ではないが、血を失うのは好ましくない。事実、動きも徐々に鈍ってきていた。

 しかも負傷とは別の、まずい事態が起きてしまった。

 左肩を射抜かれた反動で、斧槍をとりこぼしてしまったのだ。

 鬼人衆は、与えられた能力を行使するにあたり、必ず媒体を介さなくてはならない。己の身ひとつで発現させられる種類のものもあるかも知れぬが、志弩の記憶の限りにおいては、媒体を用いない鬼人衆はいなかった。そして志弩の場合、その媒体にあたるのが斧槍であった。

 つまり攻防の要たる得物を手放した失態は、『Wicked Beat』を放棄したことと同義である。

 ああ、ここまでか——。

 喉元まで迫る死を前にして、空中で自由落下に身を任せるほかない無力な状況にありながら、志弩が抱いたものは恐怖ではなく、ある種の恍惚感だった。

 場違いな感慨に包まれた違和感はなくもなかった。局面に反した和やかな心は、ついに諦めがついたのかと疑いたくなるが、断じてそうではないことを志弩は知っていた。

 ずっと死にたかった。一刻も早く、その時の訪れるのを待ち焦がれていた。だが、自らの手でそうすることは憚られた。灼道の言う通りだ。

 死にきれぬから、己が手でけじめをつけることを恐れたから、仕方なく生きた。

 たおやかで暖かなものが心に沁み入って、これまでの人生の情景が思い出される。走馬灯、というやつか。

 千鶴がいなくなって、放蕩の旅のさなかに灼道と出会った。手下のゴロツキどもをしたことに感銘を受けたらしい灼道から、鬼人にならぬかと勧誘された。

 人間の理解を凌駕する骸霊と戦っていれば、いつか死ねるかも。確かにそんな考えはあった。

 では、どうして真っ当な生き方をしようとしたのか。人に憎まれた生きざまのほうが、より死に近付けるものだと思う。だのに、なぜ今になって人間らしく生きようとしたのか。答えは簡単だった。

 何も改心して、悪事から足を洗ったつもりはない。ただ仏を恐れる気持ちはなくとも、あの世で千鶴にあいまみえた時に、酌量のひとつもない人生を恐れた。

 そんな浅ましさを『願い』などという言葉で仕立て直し、己の罪科つみとがを上から繕った。

 変わったね、改心したね。彼女からそんな弁を賜うべく、絶対悪たる骸霊を倒し、人の世に貢献してみせた。

 その一方で、いつしか骸霊に敗れることで、自らの意思に依らぬ死を望んだ。世間的には名誉の戦死として悼まれ、そして往年は立派に人に尽くしたのだという免罪符を片手に、あの世で千鶴に赦されんとするために、だ。

 矜持といえば聞こえは良くとも、その内は醜い欲求と打算まみれ。我がことながら、反吐が出る思いだ。しかし——。

 一挙両得の稼業は、今まさに悪辣な悲願を成就せんとしている。だというのに、千鶴とまた会えることを脳裏に浮かべると、図らずも心は弾んだ。

 執行者たる椋鳥が光線を放ち、矢継ぎ早に胴体を穿つ。一瞬の重苦しさを伴って、力が抜ける。不思議と痛みはない。痛みよりも、やっと終われるという恍惚が優ったせいだろう。

 呼吸が滞って、代わりに見たこともない大量の血液を吐き出した。

「か……んな……」

 まともに働かなくなった思考と口が、どうしてその名を紡いだのかは分かりかねた。夢見ごこちでいると突然、強烈な衝撃が全身を揺るがし、次いで骨の砕ける音がした。もはや時間の感覚も曖昧だったが、それが地に落ちた衝撃だと気付くのにしばらく掛かった。

 傍らに巨体が寄って来て、大剣を下から薙ぐ。またも空中へ吹き飛ばされたと分かったものの、もはやまともに四肢を動かせない。

 騎士と椋鳥に与えられた使命は、この要塞から異物を排除することだったのだろう。執拗に打ち上げられ、その度に地へ叩き付けられる。何度かそうするうち、落とされた地面の感触が変わった。上辺は固く乾いているが、ほのかに柔らかく窪む。青草の匂いのするそこは、休息中の畑だった。

 敵を破壊し領域の外へ放り出したからか、それ以上の追撃はなかった。どこまでも合理的らしい。

 眠い。だが自分の中の何かが、それを拒んだ。

 右腕は動かせたものの、左腕は痙攣するばかりでままならない。下肢は感覚すらない有りさま。さすがにこれはもう助かるまい。抗うだけ無駄というものだ。

 視界が狭まって、今度こそ眠ってしまうかと思われた時、俯せた上体が大きく仰け反って、血を吐いた。時折そうしたことが繰り返されて、睡魔にうべなうことを拒んだ。生きなくてはならぬと躰が慟哭しているようで、その滑稽が無性に可笑しかった。

 死にまつろうとこいねがっているのに。

 とうの昔に、心など死んでいるというのに。

「こ……おき……ど!」

 何かいる。鬼人衆の援軍か。

 そうだな、自分はここで終わるが、骸霊退治は誰かが引き継がなくてはならぬ。

 それまで周囲を喧しく飛び交っていた椋鳥の警戒が、声の主のほうへ移った気配がした。敵の興味から外されたことが、明確な引導を渡された証拠のように思えた。

 躰が冷たい。でも寒くない。むしろ暑い。

 ああ、喉が渇いた。

「き、こ、え、るー!? し、ど、ってばぁ!」

 五月蝿い。頼むから静かにしてくれないか。

「はやくー! にげてー! おーい、しどー!」

 まるであの女がいるような騒がしさだ。だがこうして思い返してみれば、正直なところ、楽しかった。あんな女と出会ったのは初めてだった。

 昼間は体力の限り騒いで、喚いて。思うままを口に出さねば気が済まなくて。だのに、夜ごと幽霊のようにさめざめと泣くから、やっぱり騒々しい。

「ねえ! 死んじゃったの志弩、志弩ってば!」

 だのに月明かりに浮かぶその姿は、ぞくりとするほど美しい。美しくも天女のように静謐だった。

「どうしよう、血が止まんない」

 どこからどう見たって、稚児の振る舞いに違いないのに。なぜか機知に富み、機転が効いたりもする。

 あんな女、どこにもいない。

「こら志弩! 起きろってば!」

 唐突に躰を抱き起こされる。朦朧とした意識が急にうつつへ引き戻され、重力の気怠さと柑橘の香が際立った。

「重っも! ちょっと、少しは力入れて。ねえ、お願い」

「か……ん……?」

 どうして。何でここに。

 失血の著しい脳では状況の整理も覚束ない。

 ただ、あの日のような既視感があった。そう、千鶴が死んだあの時と。

 金属の軋る音が高らかに響いて、活動を停止していたはずの天守の骸霊が、その巨腕を掲げて、天から授かったものを大切に受け止めるような仕草をした。

 精霊球は取り出せていないから、回復なり修復を施され、復活したようだった。自分のしたことが無に帰したのだという虚無よりも、いきなり現れた騒音の天女の安否に、胸が塞がる思いだった。

「逃げ……」

「もう良い。黙って」

 そう言い捨てた栞菜に、背中から脇へ腕を差し込まれる。そうして、遥か先の牡丹町のほうへ引き摺りはじめる。

 逃がそうとしているのだ。そんなこと無理だ。仮に助かったとて、もう。

 どこにそんな腕力があるのか、なかなかの速さで引っ張られている。そういえば喧嘩っ早かったから、無意識にでも重心の掛け方を心得ていたりするのだろう。必要な時に必要な知識を引き出せる、本当に賢い女だ。

 彼女の献身に僅かでも応えなくては。そう思って地を蹴ろうとするものの、両脚に信じ難いほどの激痛が襲うばかりで、微動だにもしない。骨か、あるいは神経を損傷しているらしかった。

「俺はもう、助からない。だから……」

「五月蝿い」

 痛みで感覚が蘇ったのか、志弩は栞菜へ告げた言葉に反して、生きようとする己の反応を自覚していた。

 今の今まで死を受け容れていたというのに。呆れるほど現金な身の翻しようであれ、死ねぬから生きるほかないという志弩の観念においては、ままあることでもある。

 生きたい。その呟きは、鉄の軋みと畑を擦る尻の音に掻き消された。

 椋鳥たちが散り散りに撤収する。脅威なしと判断されたのか。ともかく助かったわけだ。

 天守たる巨人の掲げた掌が太陽を遮って、日蝕のように怪しく光った。あの拳が、自らの腰元にそびえる建屋を無視して振り下ろされたなら、無数の鉄屑と捲れ上がった地盤が、牡丹町を津波のように飲み込んでしまうだろう。神や仏にどれほど祈ろうと、きっと助かることはない。何せ、日蝕が降り落ちてくるのだから。死を厭わぬ気迫で心身を覆わなければ、こんなにも恐ろしい敵だったのだと、今になって痛感する。

「俺を置いて、お前は早く逃げろ」

 血の味しかしなくなった喉を精いっぱい絞り告げ、意思の通じる右腕で栞菜の手を握る。

 愚直なまでにその手を離さぬ彼女は、さも煩わしげに大仰な溜息を吐いた。

「良くない。初めて会ったあの日、わたしを助けたのよ、あなた。その責任を取って貰わなくちゃ」

「は……?」

「あなたは、あの時から、わたしの王子さまなの」

 意味が分からなかったが、追及を加えられるほどの体力もない。喋ることにも、彼女の手を握ることさえも疲れてしまって、なすがまま引き摺られる。

 そろそろ牡丹町の鬼人衆が、反撃に転ずる頃合いだと思った。避難誘導か、一般人のものとは明らかに異なる、良く轟く怒声が聞こえる気もする。

 それでも彼らに、あの骸霊を止める妙案を期待するのは酷であろう。鉄拳の一撃で町は滅び、それが何とかなっても修復が終わり次第、光の帯が壁を貫くはずだ。近付けば大剣の巨人、空からは椋鳥の光線。単身で挑んで勝てる相手ではない。せめてそのことを伝えられたなら、雀の涙ほどは被害を軽減させられるかもしれないが、それさえ叶えられぬ。

 終わりだ。独りで死ぬつもりだったのに、栞菜を巻き込んでしまった。今はそれがつらかった。

 顧みれば千鶴も、あの久住桜花も。自分に関わった女性は、次々に死んだ。そんなものは星の巡りだと一蹴できる性分なら良かったろうに、とてもそんなふうに片付けられはしなかった。

 何が悪かったのかは知らぬが、女を守る甲斐性もない、つまらん男だったということだ。生涯を閉じんとする頃になって自覚したのでは遅すぎるが。

 情けない自分の情けなさが何たるのかを、もっと早くに知っていたなら、また違う結末だったのだろうか。

「そんな……わけが」

 そんなわけがあるものか。変わる契機は、きっとたくさんあった。変わろうとしなかっただけだ。

 その気もないくせに、ああすればだの、仕方がなかっただの。心底から呆れ果てる。結局のところ、自らを擁護する言い訳づくりに奔走した人生だったのだ。死ぬ根性もなく、かといって、言い訳せぬよう真剣に生きるでもなく。しがみつくように生きる灼道から見れば、確かに舐め腐った餓鬼に映ったことだろう。彼に真っ当に扱われぬのも、無理からぬことだったわけだ。

 情けなさに、瞳が潤んだ。死を恐れたのではなく、己への憤慨から志弩は咆哮した。喉も鼻奥も血が痰のように絡まっていたし、躰だって痛い。呼吸さえしづらくて、今にも窒息しそうだ。

 それでも吼えずにはいられなかった。

 それをしおに、というわけではあるまい。しかし、確かに栞菜は後ろ向きに駆ける足を止め、絶望を象徴する鉄塔を見上げていた。

「ねえ、志弩——」

 テンシ。テンシがいるよ。彼女は呆然とそう漏らす。

 彼女の視線を追って、骸霊へ目を凝らす。

 巨大な鉄の掌。まるで小さな花を守るように、優しく丸められたその中。

 そこに、何かがいた。

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