第3話

 こりゃ自傷行為だわな。一頻りの治療を済ませた老年の医師は、忌々しげな溜息を交え、金属製の寝台に眠る栞菜を一瞥した。日付の変わった真夜中の急患に安眠を妨げられた挙句のことだから、栞菜を慮っての溜息でないことは明白だった。

 僧医のように見受けられたが、仏に仕える身であっても睡眠を妨げられると、機嫌の悪さを隠さぬものらしい。余所者の娘が首に自傷を及ぼし、その尻拭いをさせられたとあっては、それも止む無しか。

 切創は動脈に到達していた、とする医師の所見は、疲労困憊の志弩の精神を叩きのめした。

 水の入った器を目の前に差し出され、血に黒ずんでしまった両手を濯ぐよう促される。

「血は苦手かね。鬼人だというのに」

 いまだ震えの止まぬ手を器に浸ける。冷水は責め立てるように突き刺さったが、惚けた頭は幾らか目覚めた。

「いえ、そういうわけでは」

 嘘ではない。だが、燭台の炎にぬらぬらと煌めく夥しい血液に、志弩は確かに怯えた。

「そうだろうな。血を恐れて対処が遅れていたら、この娘は望み通りに死ねたろうに」

 器の冷水も渡された手拭いも、薄紅色に染まっていた。

 黒くなどない。血は赤いのだ。

 失血量は少なくないが命を脅かすほどではなく、止血と損傷した神経には錦織の験力を施した薬を用いたから、後遺症もなくじきに目覚めるだろう、と医師は告げた。

「とはいえ、今夜いっぱいは経過を診なくてはならんが。構わんかね」

「ありがとうございます。それで、治療費のほうはいかほどになりましょうか」

「まあ安くはないな。だが、アンタが気に掛けることでもなかろう」

「え?」

「儂ももう眠るとしよう。朝まで看病を頼む」

 もしも容体に変化があれば、遠慮なく起こしてくれ。最後にそう残し、医師は上階に消えた。

 寝台の隣に置かれた丸椅子に腰掛けると、ふうっと息が漏れた。思うより大きく聞こえ、よもや医師の耳に入りはしまいかと不安がぎった。だがそれをしおに、忙しなく流れ続けた一日が突然ぷつりと途切れたような静寂が訪れた。

 栞菜の服用する、薬についても訊いておかねばと思った。

「……」

 稚拙で身勝手で過剰な彼女の行ないを、責める気にはなれなかった。

 行動の矛盾は理解している。

 骸霊に襲わせ、彼女を死なせてしまおうと考えた。己の手を汚すのではなく、蓋然性に委ねた卑劣なやり口で。しかも保身のためにである。

 だのに。彼女は妙案をもって、骸霊に苦戦する自分を救ってくれた。彼女に借りができたのだ。

 たというのに。酷い言葉を痰唾のように吐き捨てて、彼女を傷付けた。

 栞菜を担ぎ診療所まで走ったのは、咄嗟のことに動揺したからだけではない。らしくもない義理を感じてしまったため。そして、胸をきりきりと絞って息を詰まらせる、罪悪感からの行動だった。

 しかし、それだけではない気がした。下劣な心に突き刺さった義理と罪悪のほかに、何かがある。それが何であるか、頭をこねくり回し言葉に出そうと試みるが、どうしても出て来ない。灼道ほどでないにせよ、舌が回るほうだと自負していたのだが。

 胸に痞えたものを吐露することを、思考と情緒と肉体のすべてが拒んでいた。得体の知れぬそれの正体を暴こうと躍起になるうちに、いつしか眠ってしまっていた。

 滅多に見ることもない夢などを見たのは、疲れのせいだろう。両脇に、朽ちた荒屋あばらやの立ち並ぶ大通りの真ん中に、志弩は突っ立っていた。

 そこがどこであるか見当も付かぬが、目に止まるあらゆるものが荒んで見える。しかし朽木一本、枯草一枚すらない。かつて盛況を誇った面影を残しつつも、今や生命の痕跡すら許さぬ虚無に成り果てていた。

 荒涼を乾いた風が吹き抜ける。横っ面を砂礫に打たれて顔を背けた先に、灰色の塊を見付ける。

 膝を立て、背中を廃屋の壁に預けて座るのは、人間だった。正しくはかつて人間だったもの、だ。

 自ら近付いた明確な理由はない。現実であれば警戒心から無視を決め込んだに違いないのに、どうせ夢だからと気が大きくなったのだろうか。

 生気はまるで感じられなかったが、死んではいないと知っている。

 正面に仁王立ちすると、埃にまみれた灰色の布を纏ったのみのそれは、怯えるように微動した。何をするでもない、無言でなおも眺め続けていると、それはやがておこりに罹ったように震え始めた。激しく躰を揺する姿は明らかに異様。なのに、何の感慨も沸き起こらない。ただただ、それを見澄ましている。

 布切れの隙間から顎が覗く。がくがくと踊る口元が晒されて、時折、汚らしくくすんだ歯が窺えた。

 その乾いた口が、不意に歪んだ。

「◼️◼️◼️◼️だよ、オマエ」

 薄汚いそれが何と言ったのか分からない。しかしそれは断じて許すことのできぬ言葉だった。今まで死んだように眠っていた情緒は、その一言を皮切りに噴出した。

 迸る激情に任せるまま、志弩はそれの胸倉を掴み上げた。老人のように軽い。牛蒡みたいな痩せ細った手足が、力無く垂れ下がっていた。

「もういっぺん言ってみろ。おら、早く言えよ!」

 意味などない無駄な威嚇にも動じることなく、口元だけのそれは不敵に笑い続けた。

 そのさまに言い知れぬ恐怖を覚えて、同時に憤りも頂点を突き抜けた。左腕で灰色の首を壁に押し付け、右手で腹を打つ。何度も、何度も殴った。抗おうとしたのだろうか、鈍い動作で志弩に絡み付いた牛蒡の腕が、幾度目かの殴打の直後にだらん、と落ちた。

 それでも収まりがつかず、いまだ見えもしない顔面を、灰の布地の上から殴る。渾身を込めた一撃にぐしゃり、という音と感触が伝い、布切れから中身が滑り落ちる。

 血塗れのその正体を垣間見て、志弩は慄いた。

 びくびくと痙攣しながら、それでも口元に笑みを湛えるその顔は、自分のものだった。

「これはオマエだ。オマエの行末ゆくすえの姿さ——」

 かつてない怯懦に、志弩は跳ね起きた。呼吸するのもそこそこに、周囲をひとしきり見渡す。白む空の明かりを認めて、やっと安堵した。

 酷い寝汗だった。夢だと分かっていたというのに。

 寝台にもたれるようにして寝ていたらしい。背中が妙な痛み方をした。その寝台の中で、栞菜の小さな寝息がした。医師の処置直後は死んだように昏睡していたのだから、それからすれば快方に向かっていると思われた。

 洋館でもないのに嵌められた結相硝子の向こうに夜明けを悟る。医師が階下に降りて来て、栞菜の容体を検めたのを見計らって、志弩は栞菜が服用する薬について問うた。当初はアンタの知るところではないの一点張りだった医師も、やがて志弩の執拗さに折れた。

 短い睡眠時間を悪夢に費やした自分の顔は、きっと普段に増して強面に映っただろうし、目覚めてなお残る興奮を聡く感知し、訝しんだすえに根負けしてみせたのだと思う。

 ひとつはまじないの薬のようで分からぬが、もう一方は心を落ち着かせる蘭学由来のものだと、しゃがれた声で医師は漏らした。

「変なものではない?」

 巷に流行っている阿片の可能性を危惧したが、医師は首を振って否定した。

「幻覚症状などを訴えることは稀にあるが、自傷に結び付くほど強く効きはせん」

 咒い薬のほうは、調べてみるまで何とも言えんが、と付け足した医師の背後で、やはり結相硝子をあしらった障子が慌ただしく開かれた。

 栞菜、栞菜と名を繰り返し、部屋に雪崩れ込んだ男女。どちらも四十半ばとみえる二人の身なりは、手本通りの華族だった。

 硝子越しに外へ気を向けると、少し離れた目抜きの辻に、早朝らしからぬ大勢の蠢く気配があった。それらは速やかに診療所を取り囲んだ。二人の護衛か。

 医師の一変してうやうやしい態度から、二人が栞菜の両親ないしは保護者だと直観する。

 彼らは昏睡を続ける栞菜の傍に付いて、憚りもせずあれだこれだと騒ぎ始めた。落ち着きなく感情的なさまは、およそ高貴な者の振る舞いとは言い難い。身の丈にそぐわぬ金を偶さか手にした、一言で片付けるなら成金。しかも小物。

 騒々しいのは栞菜と良く似ているが、どうしてか、二人からは彼女のような明朗さを感じなかった。

 しかし彼らが持ち得る権力を考えれば、莫迦扱いもできまい。身じろぎもせぬ栞菜との再会を喜び合っていた二人だったが、今は栞菜が家出したことについての責任を押し付けあって口論している。人の親になれるとも思ってはいないが、もしそうなってもこんな醜態は晒したくないものだ。

 女のほうが耳障りな金切り声を捲し立て、それを躱した男が振り返ってこちらを向いた。

 値踏みするような視線が刺さった。

「失敬。君は?」

 出立ちから、自分の身分のほうが上だと悟ったらしい。

「彼がここまでご息女を担いで——」

 医師の句を男は手で制した。慇懃だが逐一が仰々しく、嫌悪しか湧かぬ男だった。坊主憎けりゃ袈裟まで憎いとはよく言ったもので、鼻の下の整えられた髭までもが嘘臭くて気に触った。

「男子たるもの、自身の口で身の上を明かせなくてはな」

 どこの馬の骨だ、そう言われているようだった。往々にして半端な華族とはこうしたもので、ことさら目鯨を立てるものでもない。胸の内で莫迦にしていれば、じきに興味をなくすから、それまで耐えれば良いだけだ。

「アメス神教麾下、鬼人衆衆徒の志弩秀礼と申します」

 反抗するのも面倒が付き纏う。こういう手合いに一度でも敵と見做されてしまえば、目の色を変え潰しに来るだろうから、少なくとも、当方に非のない立ち回りをしておかねばならなかった。

 いかに華族でも、鬼人衆へ生半可な手出しは許されるものではない。鬼人衆が日本政府に認可されたその時から生じた陸軍との溝は、今なお深いままで、東京や京都では、どちらが吹っ掛けたとも知れぬ諍いが絶えない。

 だがそれは、喧嘩の始め方と仕舞い方を心得るもの同士であればこそ表面化することなく今日に至るわけで、喧嘩と殺し合いの区別も付けられぬ華族がその権威を振るい、同じ真似をしたとするなら、最悪の場合、仏国の機嫌を損ねることにもなりかねなかった。日本政府としても北の帝国の攻略に難儀するなか、仏国との軋轢にまで頭を悩ませたい道理もなく、そんな事態を招いた華族がいたと分かれば、相応の処分は免れまい。罪に問うことはならずとも、華族同士の上下や横の繋がりもある。そうした枠から疎外されてしまうことを、彼らは何よりも恐れるはずだった。

 だが、何がお気に召さなかったものか、男は穴の開くほど志弩の顔を見つめた。

 国際問題をも厭わぬ鋭い眼差しに、みるみる怒りの色が添えられて、志弩は自分の失態に気付いた。

 男の唇が、震えながらに声を絞り出す。

「お前……三鴨正介なのか?」

 耳に久しいその名は、逃れようのない呪縛だった。


 志弩がそうであるように、おそらく男のほうもまったく予期することなく回顧を強制されたのだろう。

 苦々しい記憶を辿ったと思しき男が、放つべき言葉をその喉元に蓄えたところで、後ろに控えた女が早過ぎる蝉のようにけたたましく鳴いた。

「三鴨正介ですって!? 忌まわしいあの男が、まだ生きていると仰るの?」

 それが本当なら、今度こそ逃しはしないわ、と高らかに息巻いた。西洋の海には歌声で舟を沈め、人を惑わす人魚がいると聞くが、きっとこんなふうに鼓膜を突き刺す歌声に違いない。何の目的でおかに上がって来たかは知らぬが。

 ともかく動揺してはならない。志弩はとぼけた。

「三鴨……あの、印牧の邸宅を襲ったという?」

 三鴨は東京を出たのち、京都で賊に襲われ死亡したことになっている。灼道から買った志弩秀礼の素性はすっかり暗記しているし、灼道が口を割ることも考えられない。つまり現状、こちらが綻びを見せぬ限り、彼らの言い分は何の根拠もない戯言でしかない。

 それにしても、よく覚えているものだ。一目で見抜いたことから、当時の写真や似顔絵を見て知ったわけではあるまい。

 確実に、どこかで出会っている。具体的な証拠を挙げてこないところをみると、どこかで目撃されたのだと思う。特に会話などの接点を持ったわけではなさそうだが、色褪せぬ記憶から察するに、よほど恨まれているのは確かだ。

 こういう事態を避けるため、東京からこんな田舎に移り住んだのだが。ばったり鉢合わせとは。

 悪いことはできぬものだ。いくら足を洗ったとはいえ、いつまでも付き纏う。神も仏も信じてはいないが、こういう時、自分を追い詰める何らかの存在を疑ってしまう。決して抜けられない、強大な奔流。むしろ引力と言うべきか。三年を経て、雪深い辺境に落ち延びてなお、過去の呪縛は解けてはいなかった。そう思うと、怒りとも悲しみともつかぬ重苦しさに、身も心も圧し潰されそうな気がした。

 すぐにでも立ち去ろう。感情的な相手に乗せられてはならない。冷静に対処すれば、客観的に示せる証拠を持たぬ二人に、暴ける過去など何もない。下手に写真などに収められる前に、早くここを離れるのだ。

 保式機関銃より速いのではないかと思うと、吹き出しそうになる。その女の早口が奏功したのか、遂に栞菜が煩わしげな寝返りを打った。

「んん……もぉ。うっるさいなあ」

「栞菜!」

「栞菜ちゃん! ああ、良かった!」

 夫婦の目先と意識が栞菜へ移った。二人と同じように呼び掛ける言葉を、志弩はぐっと呑み込んだ。あんなに騒ぎ立てた女のほうは、もうすっかり栞菜に執心しているようだった。だが父親はこちらを横目でひと睨みして、忌々しげに凄んだ。

 今に見ていろ、必ず追い詰めてやるからな——。

 志弩にしか聞こえぬ小声で罵るさまは、やはりどうしようもなく低俗で、小物のまま大成できぬのも納得だった。まあ向こうから見た自分も、似たようなものだろうが。そしてきっと、憎悪する彼らのほうが、本当は正しい。正当な敵意であるはずだ。

「あれ、ママ——お母さま。お父さままで?」

 栞菜に呆けた様子で呼ばれて、如何にも仕方なさそうに男は視線を外した。

「もう、心配したのよ栞菜ちゃん! 勝手にお屋敷を出たりして!」

「路子、少しは静かにしなさい。品のない」

「あなたはそうでしょうけれど。わたくしにとっては、自分のお腹を痛めた——」

 当の栞菜を差し置いて、どちらも己の正当性ばかりを主張している。家出するのも分かる気がした。

 だが、もう関係あるまい。

 関係のないことになってしまった。

 最後に彼女の間抜け声が聞けたのだ。それだけでも良しとしなくては。

 口論を弾ませる夫婦に隠れるように出口へ向かう。二人も気付かぬはずがないだろうに、激化する応酬を前に、こちらを構う余裕もないとみえた。

 やり取りを黙して見守る医師と目が合った。これまでの謝意を含め目礼すると、僧医らしく胸元で両手を合わせ、顎で出口を促した。

 さよなら。まあ、楽しかったかもな。どうでも良いけど。

 ずいぶんと久しく感じる外気は凍り付きそうで、淀んだ心を洗い濯いでくれているようだった。そんなもので剥がれ落ちるものでもないが。

 三つぼたんの黒い背広姿の男たちが、いっせいに視線を寄越す。顔を覚えられては都合が悪い。寒さに耐えられぬというふうを装い、頭巾を目深に俯いて通り過ぎる。

 尾けてくる雰囲気はなかったが、この先もそうだとは限らない。当面は警戒したほうが良いだろう。

 宿に戻ると、血の付いた布団と畳が目に飛び込んだ。

 また独りになってしまった。思いがけず独り言ちてしまって、何を莫迦莫迦しいことを、と一笑に伏した。自分の顔は見れぬが、卑屈な笑みをしていると思う。どんなに醜けれども字面の上では、笑うという文字を用いるのだ。

 人心地つく暇もない。宿の者に説明をしなくては。あれやこれやと汚したのだから、それなりの金も添えて、だ。

 まったく。これじゃあ赤字だ。再びぼやいた時、部屋の隅の箪笥が軋った。

「ああ、おめえのお陰で大赤字だぜ」

 今の今である。警戒を怠ったつもりはない。

 西洋の、観音開きの衣装箪笥が開かれて、中から灼道が現れた。いつからそこにいたのかを考えると、不覚にも可笑しくなってしまう。だが灼道のほうは、肌がひりつくような殺気を伴っていた。

「どうした旦那。昨日はどうなった」

 煽ったつもりはなかったが、その一言に彼の形相がひときわ歪んだ。

「計画を漏らしたのはおめえだな。そこまでしといて、いけしゃあしゃあと部屋に戻って来るたぁ、俺も舐められたもんだ。ああ気ぃ悪いったらねえ!」

「何のことだ。八つ当たりは勘弁してくれ」

「素っ惚けやがって、ぶちのめしてやらあ」

 身を低く落とした灼道の、猛禽のような眼光の威圧。これは、本気だ。慌てて後ろへ跳ぶと、ぐん、と灼道の顔が迫った。筋肉質の恵まれた体躯からは想像できぬほど俊敏で、かつ洗練されていて無駄がない。一朝一夕のものでは培えぬ、彼の踏んだ場数が生み出した動きである。分かっていても厄介だ。

 ただでさえ、彼の巨体は相手を封じる壁としてはたらく。動き回るには狭苦しい室内とあっては尚更。言うまでもなく不利だ。

 動きを取れる屋外へ逃げようと窓へ向かった矢先、先回りした灼道に阻まれる。くそ、読まれている。どうやら綺麗に無傷で乗り切る、などという望みは捨てたほうが良さそうだ。

 大きく振りかぶった灼道の、えぐり取るような右。それを躱しつつ懐へ潜り、腹を二発、殴る。が、拳は鉄板を叩いたような堅い感触を返した。チクショウ、いったいどんな造りをしている。化け物め。

 動じている暇もない。膝を屈めて身を低く落とし、灼道の背後へ回り込む。

 体格と筋力差は歴然。捕まったら終わりだ。こうした手合いとは、できるだけ間合いを取った立ち回りが基本となる。逃げ回りつつ打撃を重ねていく戦術になるから、栞菜がいなくて助かった。

 振り返った灼道が歯を軋り唸った。

「チョコマカしやがって。コソドロ気質なのは変わんねえな」

 血液を煮沸したように、躰が熱くなった。彫りの深い顔にいっそう皺を刻んで、灼道が嘲笑う。

「女はどうした。過去がバレて愛想尽かされたか。んで、コマして埋めたんか? ああ!?」

「関係ない」

 そう述べた途端、胸が鈍く痛んだ。

「糞が喋んな、ああ臭え。しかし、おめえなんぞに殺されちゃあ、お嬢ちゃんもさぞかし浮かばれねえよな」

 安い挑発なのは承知していた。灼道はこの手の煽りを好んで多用する。必要以上に感情を昂らせない訓練は受けている。静めようと思えば、そうできたはずだった。

 だが、そうする気にはならなかった。

「おぉ目付きが変わったな。良いぜ、ようやく火が着いたみてえで、嬉し——」

 流し目に顎を突き出した灼道の喉仏を、斧槍の柄尻で思い切り突いた。

 焚き付ける腹づもりだったのだろうが、己の饒舌に浸るのは彼の悪癖といえよう。上手く決まっていれば、喉が腫れて呼吸苦に陥るはずだ。息ができない、しづらいというのは、多量の酸素を消費する格闘戦においては敗色濃厚である。よほどの体格差をもってしても、およそ覆すことはなるまいが、油断は禁物だ。

 素早く斧槍を手元へ引き戻す。しかし。

 上体を仰け反らせたまま斧槍の柄を引っ掴んだ灼道は、こちらの狙いを瞬時に理解したに違いない。

 体内に残留する酸素が尽きる前に、決着を着けるつもりだ。劣勢におかれながらも冷静に徹する彼は、紛うことなき戦士だ。

 焦って、力に任せ斧槍を引いた失策を志弩は悔いた。力勝負では灼道に敵いようがない。逆に圧倒的な腕力に、成す術なく引き返されてしまう。まずいなどと思う間もない。

 灼道の間合いを侵した志弩は、繰り出された剛腕をまともに受けて、今度は真反対へ吹き飛んだ。背中から突っ込んだ衣装箪笥が、子供の玩具みたいに粉々の木屑へ成り変わる。奇妙な高音とともに肺の空気が漏れ出た時、飛んで来た斧槍が強かに腹を打った。血の気が引いて、手足の力が抜けていく。

「やるじゃねえか。だが惜しい」

 がらがらの掠れ声を忌むでもなく、軽く咳き込んだだけの灼道に、目立った損傷は見受けられなかった。まさしく無敵。

 対するこちらは一撃でこのざまだ。なぜ逃げに徹さず、抗おうと思い至ったのか。

 何で。何だってこんなことに。

「死に場所を探してるヤツに、わざわざ引導を渡してやるのもしゃくだがな。俺の肚の虫が治らねえもんだから、そんなわけで、おめえ死ねや」

 死なせようとした女に助けられ、それなのに酷い言葉を吐いて。自死を図った女の親に過去を暴かれそうになって。

 その過去の清算のため、かつて利用した馴染みに脅され、悪事の片棒を強要されて。なのに、手を汚す前に仕事は終わっていて、その挙句、わけも分からぬ誹りを受けて、殴られて、殺されそうになっている。

 いったい何なんだ、これは。

 笑ったほうが良いって、あなたがそう言って笑ったから——だのに、あなたは死んで。それからすぐ、両親も死んだ。あなたと同じ目にあって。

 あれから独りで生きてきた。でも年端もいかぬ糞餓鬼が独りで生きられるわけはないから、独りで生きている気で好き放題して、周りに迷惑を掛けただけだった。そんな自分に、まともな人間は寄り付かなかったけれど、誰もいない時間は好きだった。笑わなくて良いから。

 ただ時折り、どうしようもなく襲い来る孤独を埋めるためには、金が要った。そのために、またたくさんの他人を騙し、悲しませ、不幸にした。目蓋に残るあなたの笑顔を真似て、金になりそうなものを持った人間に近付いた。

 本当は、自分の境遇を呪っていた。天涯孤独を恥じて憤り、そして憎んだ。だから幸せそうな笑顔を振り撒く連中に、自分の不幸を味合わせてやりたかった。ぐちゃぐちゃに踏み躙りたかった。

 俺に心底からの笑顔を向けてくれるのは、俺に騙されている奴らを除けば、誰一人としていなかったように思う。

 あなたがくれた笑顔をけがした。そうすることで生き延びてきた、ゴミみたいな奴。それが俺だ。

 今の俺を見て、あなたは何と言うだろう。まさか笑いはしまい——いや、笑って欲しいな。どうか、俺の心が砕けるほどに笑い、哀れんでくれないか。

 千鶴も、そんな俺の餌食となって死んだ。きっと、俺を取り殺したいほど恨んでいるはずだが、もしそんなことがあり得るならば、それもやぶさかではない。むしろ、そうしてくれたほうが救われると思う。だからこのまま灼道に殺されて、俺がそっちに逝けたなら、幾千回でも気の済むまで殺し直して欲しい。

 そしていつか、君の口から許しを賜れたなら。

 できれば、あの時。俺も死ねたら良かった。

 その勇気さえあったなら、事あるごとに君へ詫びる不毛な未来もなかった。届かぬ懺悔ざんげを重ねて生きることのほうが、絶望に支配され死んでしまうよりも、よほどつらかった。

 星の数ほど悔いた。それでも、いっこうに許される気がしないのは、許されたいと思わないからだ。

 許された実感を手にした時、君を忘れてしまいそうだからだ。

 二度も君を喪うなど、どうして耐えられよう。

 ああ、何だか君にも笑われてしまいそうだな。死の淵に瀕し、君への未練を連ねる情けない男で、本当に済まない。続きは、あの世で頼む——。

 

 玄関の踏込で、にわかに砂のれる音がした。栞菜が払い落とした泥が乾き、それに気付くことなく踏みしめたのに違いなかった。騒ぎを聞きつけた宿の者だろうか、などとぼんやり考えていると、玄関とは反対側の広縁の障子を突き破って、男が二人、室内へ滑り込んできた。

 手前と奥の、計二人。よもや駐在や僧兵などではあるまい。続いて引き戸が開かれて、玄関からも二人。いずれも先達せんだって見掛けた、三つ釦の黒服。今朝がた診療所を囲む連中のものだった。

 気を張っていながら尾行を許した失態は情けなかったが、こいつらもただの近習というわけではないらしい。

 何を示し合わせたふうもなく、広縁側の二人のうちの一人が唐突に迫り、懐の匕首あいくちを抜いた。

 ついさっき死を覚悟したというのに、躰は本能的に生存するために反応した。しかし、痛めた四肢の動きは鈍い。力が入らない。

「おめえら邪魔だっ!」

 灼道が匕首を掲げた男の襟首を持ち上げ、後ろに投げ捨てる。

「ぐぅっ……!?」

 短く灼道が呻く。玄関の側にいた片方が、ガラ空きになった彼の背を横に一閃していた。そちらを振り返った灼道が、怒りに任せ男に手を伸ばすと、今度は別の男が、その背後を脅かす。

 複数で取り囲み、的確に死角を突く戦法。その剛力を侮ることなく、深く踏み込むような真似はしない。執拗に嬲るような強かさは、洗練された身のこなしと連携の高さによる産物で、おそらく素人のものではない。それが海外の軍人が習得する格闘術だと思い出すのに、さしたる時間は要らなかった。

 むかし引ったくりに失敗して、護衛の外国人用心棒にコテンパンに伸されたことがある。目の前の四人は、あの用心棒の所作に瓜二つだった。

 栞菜の両親、察するに父親は、確かな証拠も定まらぬうちに自分を葬るつもりだったのか。後始末をどのように付けるのかは知らぬが、まともな人間の倫理を逸脱した、狂気の沙汰である。それほどまでに深い怨恨があるのかと、志弩は身震いした。

 ついに過去に追い付かれた。これが業というやつなのだろう。姿なく差し迫るものは、ひとえに恐ろしかった。

 だが代わりに血が巡ったようで、次第に思考と手足の感覚が蘇っていく。

「おい志弩よ、おめえ特級持ちのくせして、何寝てやがる。お姫さま気取りかコラ」

 粘着質の波状攻撃に苛立つ灼道がえた。

「俺ァおめえなぞ助ける義理はねえ。死にてえなら別だが、生きたきゃ手ェ貸すか、金払えや!」

 その言い分は正しいが、この上、灼道に金を積むくらいなら死んだほうがマシだと思った。

 関節と筋肉の具合を確かめつつ立ち上がる。少なくとも灼道は、そうするに足る猶予を言葉ひとつで作り出してくれたわけだ。そのあたりの巧みさは感心させられるとはいえ、年寄りは素直でないから困る。

 斧槍を構えると、灼道が小さく肩を揺すり笑った。

「さすが特級の志弩サンだ、そう来なくちゃな」

「いちいち五月蝿い。それよりも旦那、妙だぞ」

「ああ」

 自分が暗殺者だったら、時間を掛けるのは嫌う。予定外の灼道の存在は邪魔でしかないから、ここは見過ごして次の機会を伺うだろう。それを推して襲撃しておいて、ちまちまと匕首の先を入れるだけ、というのは上策とはいえまい。必ず決め手を隠し持っているはずだ。

 その答え合わせをするように、玄関を塞ぐ男の懐から撃鉄が覗いて、志弩はようやく合点がいった。

「旦那、拳銃だ。玄関側の奥のほう」

 灼道に伝える自分もだが、聞かされた灼道もさして驚きはしなかった。

 言うに及ばず、放たれた銃弾は直進するのみである。生身で骸霊を討ち取る膂力を持つ鬼人衆なら、その弾道くらい読むし、躱しもする。いかに拳銃といえど、必殺の武器としては心許ないのである。

「あとの三人は牽制役ってわけか。波状攻撃に馴染むか苛ついた俺が、大振りをかますのを虎視眈々と狙ってやがる、と。軍人崩れにゃ似合いの作戦だぜ」

「どうする。逃げるか」

「莫迦か。拳銃は、おめえが仕留めろ」

 やはり、そうくるか。

「誘いは入れてやるから、撃つ前に倒せ」

「撃たせてしまってからのほうが」

「殺すぞ糞餓鬼」

 それからは早かった。敵の挑発に背中を晒し振りかぶった灼道。もちろん呼び水だ。上手く誘いに乗った射手が、洗練された所作で拳銃を抜いたところに一撃を見舞う。決め手を失い、連携を欠いた残り三人を次々と灼道が沈める。だが殺してはいない。面倒な後ろ盾の存在を危ぶんだらしい。本当に鼻が効くヤツだ。

 突然の来訪者が慌ただしく退いて、すっかり散らかってしまった室内を、灼道はぐるりと見渡してから小さく詫びた。

「悪かった。俺の勘繰りが過ぎたみてえだ」

 治療費代わりだ、そう言って外套から取り出した精霊球を、隅に追いやられた座卓に置き、彼もまた去った。部屋の弁償代も寄越せと思うが、やっと訪れた安息の静寂に、よろよろとへたり込んでしまった。躰が熱気を失うほどに、再び痛みが増す。

 何も考えずに呆けていると、外の気配が騒がしくなって、通報されたことに気付いた。

 足るとも思えぬ詫び料を残して、宿の裏手から抜け出す。警察の事情聴取などに時間を取られたくなかった。それに、勾留されている間に、栞菜の両親が次の奸計を仕掛ける可能性は高い。通報を入れたのも、あの二人かも分からぬのだ。

 足取りを完全に消さなければ。このままでは安心して用も足せない。宿場を立ち去るのが一番だが、眠気のほうが優った。裏路地から誰にも見られぬよう山へ向かい、雪をかぶる竹藪に覆われた廃屋を見付け、入る。外からの見た目通り、長く出入りのなかった様子で、酷くカビ臭い。それに寒い。

 だが背に腹はかえられず、囲炉裏の脇に身を横たえると、吸い込まれるように眠りに落ちた。

 時折り吹く風に竹葉がざわめき、何度か目覚めた。それでも眠ると回復するのは本当らしい。夕刻の鐘楼が鳴ったのをしおに、ようよう起き上がった。激しい空腹に耐えかねた、というのが正確か。

 好みではなかったが、こうした時のために携行している乾パンをかじり、外に出て竹に嵩張る雪を掬い、そのまま掌で溶いて飲む。すると今度は躰が冷えた。陽が沈んでしまえば、山奥の気温は真冬と大差なかった。

 囲炉裏を灯そうかと迷ったが結局、明かりの漏れる危険を冒す気にもなれず、震えながら耐える。夜風は穏やかながら、隙間だらけの廃屋に容赦なく冷気を刺し込んだ。することもなく身を縮めるうちに、やはり眠った。

 朝霧が冷ややかに絡み付いて、目を覚ます。粉っぽい乾パンを頬張ると喉に詰まって、雪水で無理やり流し込む。

 さすがに痛みは引かなかったが、問題なく躰は動く。これならもう大丈夫だ。

 人出の増える日の出に先んじて、廃屋を発つ。足が着くわけにはいかぬから、山中の獣道を迂回しながら街道を目指す。おかげで山を降りるころには、草葉の露でずぶ濡れになっていた。

 街道に出たとたん、空気の軽さに清々しさを覚えた。眼前に広がる愛宕湖には名物の朝霞が掛かっていたが、気温が上がってしまえばじきに晴れよう。

 前途洋々。そこはかとなく、そんな言葉が浮かんだ。無論、根拠などどこにもない。

 これでしばらくは大丈夫。運の良いほうでないのは知るところだが、少なくとも当面は平穏に生活できる。いや、運がどうだのいえる身分でもない。志弩秀礼に生まれ変わり、危険は尽きねど食い扶持のあることに感謝しなくては。謙虚に、慎ましやかに。

 それなら灼道へも感謝せねばならない理屈になるが、どうしてもそれだけは腑に落ちなかった。

 しかし先日の彼との共闘には、発見もあった。戦闘時の相性の良さである。灼道が誘導し引き付けた敵を、自分が仕留める。頻繁に誰かと共闘するようなことは少なく、他と比較しようもなかったが、あの時の呼吸の一致には、目をみはるものが確かにあった。あれもまた、灼道の巧妙によるものだったのだろうか。彼に会いたくないのは確かだが、あの時に抱いた感覚の正体を突き止めたくもあった。

 東へ進む。街道の両脇の荒野は収穫を終えて休息中の畑で、牡丹町が近いことのしるべである。

 左手の山の奥からは牡丹城が、その眼下には京都を模したとされる城下町が窺えなくてはならない。

 だが、現れたのは対骸霊のために建てられた壁だった。薬師山の木組みの柵とは規模が違う。内部に鉄の芯を格子状に配された混凝土の壁は、高さ二十間に及ぶ圧巻ながら、味気ない灰色一色のみ。これがずっと同じ調子のまま、小京都と謳われる華美な街をぐるりと囲っているのだ。

 この立ち位置から見えるのは、牡丹城の天守の先っちょがせいぜい。愛宕湖からの眺望などもう何年も拝んでいないのだと、どこぞの年寄りがぼやいていたことを思い出す。無視するのも良くないから、大事な景色だったのかと尋ねると、老人は呆れたように首を振って苦笑した。そして、齢を重ねるぶんだけ思いを馳せるものが増える、躰の動きが鈍るほどに心は豊かになるのだ、と顔の皺を深め笑った。が、いまいちピンと来なかったので、適当に相槌を打って逃げた。

 急拵きゅうごしらえの壁は分厚いだけの代物で、大型骸霊の襲撃に耐える設計ではあるまい。とはいえそんな物でも、中の住民が避難するくらいの時間は稼げるやも知れない。これはそういう趣きの、壊れるべき壁だった。

 東京や大阪、京都などの都市となると、遥かに堅牢なつくりをしているのだが、これは単純に金の掛け方の違いだ。

 都市部にこそ、より多くの骸霊が出現する。このことは今や稚児ですら知る事実であり、田舎の小都市が脅威度と予算をはかりに架け、どうにか折り合いを着けたすえ、破壊を前提とした壁ができたのだろう。北の帝国との戦端が開かれて以降は、補修のための点検すら不精する始末だったが、神を奉る神門町や西の咲楽町の物と比べれば、それでも幾分もマシであろう。眼前の無機質な壁からは、そんな釈明が聴こえてきそうだった。

 やや遠退いてしまった右手の愛宕湖も霧が晴れて、対岸に中国山脈の残雪と、麓の街道がぼんやりと見えた。なだらかな水面は春の草原のようで、桟橋にもやわれた小舟も穏やか。年がら年中、何かしらの風が吹き付ける日本海側においては、稀に見る好天である。

 そんなだから、期せず足取りも軽やかになる。痛みなどどこ吹く風とばかりに、壁の各所に設けられた入り口を目指す。

 直後、志弩は世界の猛悪を叩き付けられた。

 空を上下に分断する閃光が、無遠慮に壁を穿った。壁は瞬く間に瓦礫へ成りを変え、無慈悲に外を往来する者たちへと降り注いだ。

「……!?」

 轟音は、圧し潰された人々の絶命の叫びすら掻き消した。状況の把握もままならぬうちに、今度は猛烈な砂塵に視界を奪われる。

 顔を背けたその先、自らが歩んで来た方向に、灼けるような重圧を感じた。

 志弩は息を呑んで慄いた。

 化け物だった。

 途轍もないものが、砂嵐の向こうにいる。姿なき相手に、これほどの脅威を覚えたためしはない。高位骸霊の、さらに上。そこに納まる言葉を、志弩は一つしか知り得ない。

 精霊と、その器たる骸霊を統べる、精霊の王。神のたもとに座す、人智を超える存在。

 鬼人衆では、それをこう呼ぶ。

 女皇、と。

 

 

 

 

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