第2話

 灼道は愛用の得物である両手の拳鍔けんつばを抜き取ると、手早く精霊球を拾い上げた。鋭くも光のない瞳でこちらを一瞥した彼は、如何にも嘘臭い笑みを浮かべる。熊を彷彿とする巨体を除けば、汚らしく沼光ぬめひかる総髪をうなじで雑に結わえているのが、彼を見分ける特徴となろう。

 いつも眉間にしわを寄せて、膝下まである外套に手を突っ込み、猫背の大股で歩く彼のことが、志弩は苦手だった。苦手だが、むかしの恩があった。借金も。

「よお志弩。女連れたぁ珍しい。売るんだったら良い店教えるぜ」

「結構だ。旦那こそ、こんな場所で見掛けるのは珍しいな」

 人口の多い近畿圏を活動拠点に、役場からの高額な依頼ばかりこなす灼道が、閑散としたこの地に踏み入る利点はあまりない。理由はそれだけではなかったが、畑ばかりの田舎に塒を構えたのは、灼道にまとわり付かれるのを嫌ったからだった。だのに、向こうから来られたのでは意味がない。

「金はないぞ。もう少し待ってくれ」

「んなもん、いつだって構やしねえよ。だからそんな顔すんなよ、な?」

 いやあ、デカいヤマがあってな。そう言って笑う彼の目付きはいつだって悪辣だ。面構えがどうとかいうのではなく、平素から良からぬ考えを巡らせているために違いない。

 その良からぬことに巻き込まれぬうちに、さっさと別れたほうが賢明だ。

 骸霊の沈黙を知った栞菜が小走りに寄って来て、志弩は再び舌を打った。

「こんにちは、オジサン。志弩のお知り合い?」

「やあお嬢さん。知り合いじゃなくて、お友達だよ。それに、まだオジサンでもねえ」

 互いが名乗り合ったところで、もう良かろうと栞菜を促し、灼道にはじゃあな、とだけ告げ歩き出す。

 だが、こういう時ほど予感は的中するもので、灼道は不躾を憚りもせず、あとを尾けて来た。

 さすがの栞菜も、デカい熊親父が着いて来るのに違和感を抱いた様子で、怪訝に眉を顰めた。そんな警戒を察知してか、単に焦れただけか、ともかく灼道が空惚けたふうを装い、口火を切った。

 この先の、薬師山宿場で仕事が——最後まで言わせてはなるまいと、志弩は灼道へ翻って、彼の弁を遮った。

「俺たちは牡丹町へ用事がある。薬師山へは寄らないから、ここらでお別れだな」

 戦闘の疲れはあったが、彼が薬師山を目指すというなら、本気でそうする腹積もりだった。

 それを聞いた灼道は胡散臭い表情のまま、しかし瞳の奥を胡乱うろんに光らせ近付いた。

「つれねえなあ。どうした、何か病んでんのか?」

 言い知れぬ威圧を孕んだ灼道が、志弩の肩に腕を回す。ぬっと寄せた顔が栞菜から見えぬのを検めて、彼は低く漏らした。

「まさか俺の誘いを断りゃしねえよな。んな真似してみろ、おめえ詰むぞ」

 小声ながらも、これでもかという巻き舌で凄んだ灼道は、肩に預けた腕を解く代わりに、ぽんぽん、と二度叩いた。

「さっきの精霊球で勘弁してくれ」

「始末つけたのは俺だ。力が出せずに死にかけてたのは、おめえだろが」

 ガラは悪くとも、灼道は断じて莫迦ではない。むしろ頭は切れる。その聡明が生み出すものが、決まって悪事や謀略のたぐいなのが悔やまれる。

「頼むよ志弩クン。特級なんて過ぎた力を貰い受けてんだからよ。どうか凡人どもに救䘏きゅうじゅつを」

 特級。何のためかは知らぬが、鬼人が授かる能力には、三級から特級までの等級が設けられてある。

 自分の『Wicked Beat』は最高位の特級で、灼道が操る『Lady Go Round』は一級能力とされている。灼道はそのことが面白くないらしく、顔を突き合わすたびに、こうして皮肉や嫌味を交えてくる。

 焼印の不備で万全ではなかったにせよ、最高位の能力を与えられながら、この体たらく。腹が立たぬわけではないが、抗弁する気は起きなかった。

 明日の正午ちょうど、宿場中央の広場。簡潔に言い渡すと、用はもう済んだのだろう、足早に追い抜かれる。

 灼道の姿は見る間に小さく、やがて見えなくなった。見えなくなりはしたものの、何を企んでいるのか見通せぬ気持ち悪さは残った。

「あのオジサンと何を話したの?」

 どう答えたものか、悩ましいところだ。うやむやにしながら、盛る日射しの道を進む。

 結局、栞菜の始末はおろか、怪しい待ち合わせの約束だけが取り交わされ、精霊球も奪われた。まあ栞菜に関しては、あわよくば程度の雑多なもののひとつであるから、取り分け執心するものでもない。それよりも、鼻の利く灼道に彼女を見られたことのほうが、よほど都合が悪かった。

 あまり良い流れとは言えまい。こういう時は派手な行動は慎んで、大人しくしておくに越したことはない。あくまで経験のうえでの話だが、こうしたところで胆小さが露呈するのだなと、自嘲気味の笑みもこぼれる。

 どのみち薬師山に骸霊は現れない。栞菜の処遇はしばし棚上げ。問題なのは、やはり灼道だ。

 彼の指示に逆らうのは利巧とは言えぬ。明日、顔を出すだけ出して、その先は『仕事』の内容次第だ。

 馬車同士が何とか擦れ違えるほどの狭い街道は、大した曲がりも勾配もないまま、薬師山へ連なる辻へ導いた。

 頂上の寺に続く道のりは多少険しくなるが、その手前に開けた宿場までは、僅かな傾斜があるのみ。強いて上げるならば、高々と天に伸びた杉。その葉が日光を遮る。点在する灯籠のおかげで暗くはないが、雨雪のあとの山道は酷く緩んだ。

 思った通り、ぬかるむ足場に栞菜は何度も転びそうになって、靴と衣服を汚した彼女の不平が涼やかで謹厳な空気を裂いた。

 ようよう辿り着いた、雪が両脇に山と寄せられた宿場の門は、風情があるとするにはあまりに見窄らしい。朽ちた竹垣と木組みの櫓のみの質素な外郭は、高く堅牢な混凝土の壁に囲繞いにょうされた牡丹町や躑躅町に比べるまでもない。

 骸霊が出没しないことが、その最たる理由だったが、この集落に長く居る人間たちは、どこか独特の気質を備えていた。薬師如来に仕え、その膝下に棲まう者たちが脈々と受け継いだ、ある種の矜持なのかも知れない。

 山に住み森と暮らす彼らは、とかく天然のものを愛でる風潮にあり、自然素材こそが最も美しく、また機能的だと信じ疑わない。言いようは悪いが古臭いのである。人為的に作られた素材を、如来さまの御前に晒すことを嫌うのだ、とどこかで耳にしたことがあるが、それではおちおち練り物も食べられぬではないかと冗談を抜かし、白い目で見られたことがある。

 だが一概に冗談とは言えなかったようで、外来文化の浸透に乗じて変遷すべきとする考えが、若者を中心に広がりつつあるのだという。そうであるなら、この色褪せた朱の門もじきに混凝土に成り代わり、町中にも煉瓦の建物が並ぶのだろう。

 宿場へ立ち入る前に、簡単な審査を受けなくてはならない。焼印は身元を証明するものでもある。薄まってしまっていることで拒否されるのでは、と危ぶんだが、あっさり許可された。

 門をくぐると、茅葺きの店々が所狭しとひしめき、人の往来するさまは、湿っぽい空気に反し充分に賑やかである。

 最初に会ったときにそうだったように、栞菜は瞳を輝かせはしゃいだ。いちいち相手をしても時間を浪費するだけ。稚児そのままの彼女は無視して、門からほど近い、やや高台にある安宿へ入る。

 仕事で立ち寄るときは、ここを使うようにしている。だのに、帳場の前に立った栞菜は、もっとハイカラな所が良い、と周囲を憚ることなく言った。

「仕事で来てるんだ。嫌なら奥の歓楽区へ行け」

 宿場は近年になって拡張され、奥部は観光客向けの地区になっていた。これも押し寄せる文明開化の波によって新しく作られた区域で、金持ち向けに贅を尽くした宿が誂えてあるはずだった。

「無理だよう。お金ないもん」

不貞腐れた彼女と周りの失笑を背に、充てがわれた部屋へ向かう。骸霊戦での苦戦はもとより、予期せぬ灼道との再会に疲弊していた。

「あのさ。一緒の部屋とかなくない?」

「さっき自分で言った通りだ。金がないの」

「そんなこと言って、やっぱり変なことする気だな?」

「もう少し色気があったならなあ」

 すかさず繰り出された拳を受け止め、部屋の中へ。地味で質素で、可も不可も色味もない。だが心身を休めるには、このほうが向いていよう。

「あ、でも見晴らしが良いのは有りかな。夜景とか綺麗そう」

 踏み込みに得物を立て掛け、荷は部屋の隅に下ろす。昼飯にするかと尋ねると、編み上げの長靴を脱ぐのに四苦八苦していた栞菜が猿みたいに跳ねた。

 ついさっき命を脅かされたというのに、この快活さはどういうことだろう。およそ一般的な反応とは思えなかった。

「菜屋で良いか」

「サイヤ?」

「お番菜」

「ああ。ま、仕方ないよね。文無し旅だもん」

 そう言いはしたものの、隣の菜屋に入ったとたん、彼女の機嫌は露骨に悪化した。好いた物が置かれていないことに気を悪くしたらしい。知るか。

「無理に食わなくても良いぞ。文無し旅だからな」

「ふん、そんなこと言ってないし」

 何度も外に出るのは面倒なので、夜の分も買っておく。食後、栞菜はしきりに歓楽区へ連れて行けと強請ねだったが、明日の約束が憂鬱で、とてもそんな気にはなれなかった。

 まさかそれが理由ではあるまいが、鼠の足音さえ聞こえぬ夜更けの静寂の中、またも彼女は泣いていた。

 骸霊を前に笑い、月空に涙するのだから、おかしな女だった。

 朝が来て、起こさずにいると、彼女は陽が昇りきってなお眠り続けた。朝飯を持って来た仲居が苦笑するのも無理からぬことだ。昼前、灼道との時間が近まった頃合いに、まるで起こされることを予期していたかのように、栞菜は目を覚ました。

 朝飯か昼飯なのかは分からぬが、ともかく昨日の菜屋で適当に食え、と座卓に銭を残す。

「どこ行くの?」

「仕事に決まってる」

「昨日のオジサン?」

「ああ」

「待って、一緒に行く」

「駄目だ。大人しくしてろ」

 斧槍の穂先の晒しを締め直し、担ぐ。部屋を出て上りかまちを降りたとき、外套の裾を微かに引かれ振り返った。

「どうしても行かなきゃ駄目?」

 お願い、今日は一緒にいてよ。何処にも行かないで。彼女から儚げにこぼれたのは懇願だった。

 だが、こちらとて好んで出るのではない。灼道に合わずにすむ手があるのなら、教えて貰いたいくらいだった。

 追い縋る、呪縛のような手を払いほどく。なるべく早く戻る、と殊更に言い渡したのは、思い掛けず抱いた罪悪感からだったのか。あるいは、己の口に出さねば、彼女の求めに応じかねないと考えたからか。

 ぴしゃりと閉めた引き戸の向こう側で、栞菜はまた泣くのだろうかと思った。

 鐘楼が正午を打つ少し前に、灼道の指定する広場へ着いた。背もたれの付いた西洋の意匠の長椅子に腰を落とし、周りを見渡すと、春を待ちきれぬ恋人だらけだと気付く。

 無骨な得物を携えた男二人の逢瀬には、まったく不似合いな場所だった。やがて鐘が高らかに鳴り響くと、さも計っていたように灼道が現れた。

「敵の帝国じゃ、都で労働者を弾圧してるってのによ。ここは平和だよな、戦争が嘘みてえだ」

 横柄な態度に反し静かな所作で隣に座した彼は、挨拶もそこそこに信じ難いことを述べた。

「今晩、荘雲寺に押し入る。おめえも手伝え」

 驚くには驚いた。だが大した反応もせぬのは、如何にも灼道のやりそうなことだったからだし、そもそも碌な話なわけもない、と腹を括っていたからでもある。

 しかし、それでも。

「荘雲寺にはヤツがいる。どうする気だ」

 錦織臨済にしきおり りんざいである。荘雲寺の現住職にして、摩訶不思議な法力だか験力だかを用いる謎の男。数年前まで陸軍に属し、かの雪中行軍事件の生き残りとも囁かれる化け物だ。真偽は知るよしもないが、本当であれば、その膂力と精神力は常人のものとはかけ離れていよう。そんな噂話もあって、士族崩れも山賊どもも、臨在の治めるこの寺の宝物には手出しせぬのだという。事件後すぐに退役し家督を継いだため、戦争経験はないはずだったが、もし彼が極東の戦地へ派兵されていたなら、敵はさぞかし慄き震え上がったことだろう。あくまで噂話でしかないが。

「揺動の人員を紛れさせてある。そいつらに庫裏を襲わせる」

「その隙に宝物殿へ? 相変わらずセコいな」

 自分は何をするのだ、と志弩は問うた。充てられた役割次第では大人しく従ったほうが、その後の面倒も少ないと思えた。

「俺の護衛だ。臨在の野郎が噂通りかは知らねえが、別に構わねえべ。何せ、死に場所を探してんだからよ」

「……?」

「むかし話してくれたろ。自分で死ぬのが怖えから、仕方なく生きてるんだって。そんなおめえにゃ打って付けの仕事だと思うがな」

 迂闊にもそんな身の上を喋ってしまっていたのか。灼道は、相手から情報を引き出す手管に長けているから、酒に酔わされ、あれこれ口を滑らした可能性は高い。

「本気で生きてねえ青二才だっつっても、俺の背中を預けられる男は、そうそう見繕えねえ。そんなわけで、頼むぜ相棒」

 万が一、犯行が露見して臨在と対峙し、かつ評判を違えぬ実力を彼が発揮した場合、雇ったゴロツキどもでは盾代わりにもなりはしまいと、灼道は警戒したに違いない。

 つまるところ、そのときは潔く盾になれということだ。

 鬼人衆の面々は、与えられた固有能力に依る以前に、途方もない鍛錬を積まされている。志弩とて例外ではない。この鍛錬に耐え切らねば入隊を認められず、野に放り出されてしまう。だから地獄の訓練にも、それこそ死んでも構わぬくらいの意気込みで挑んだものである。ゆえに純粋な身体能力だけでも、並みの軍人では相手にならぬ自負はあった。

 その自負が、臨在の験力にどれほど通用するかは計りかねるが。

 しっかりと犯行の中枢に配されているのは面白くなかったが、順調に事が運んでいるうちは、やることもない役回りである。

「時間と場所は——」

 志弩が物言わぬのを恭順と捉えたか、話を終えた灼道はやおら立ち上がり、恋人たちの合間を縫って消えた。

 独り観光、という気にもなれぬ。悪目立ちする背中の斧槍に身を隠すようにして宿へ戻る。こんなに早く終わると知っていたなら、栞菜を連れて来たって良かったのに。少し可哀想なことをした。

 宿の入り口で、菜屋に入ろうとする栞菜を見掛け、呼び止める。

「今から昼飯か。もしかして待っててくれたのか」

 彼女は鼻を鳴らした。

「そんなわけないでしょ。女の子は、ちょっとそこまで出るのも大変なの」

 そう言ってはにかんだ彼女の目が、ほのかに赤らんで見えた。


 夜。志弩は、栞菜に説明せぬまま部屋を出ようとした間抜けぶりを、差し入る星明かりに悔いた。

 薄い闇に包まれながら、今夜も彼女は泣いていた。何を吐露するでもなく、ただただ鼻を啜る音だけが否応なく響いた。

 夜は彼女の時間だった。静謐な涙を覆い隠すために、夜は暗いのだと思った。

 街に比べ、空気が澄んでいるのか。大きく鮮明な星の瞬きに急かされ、志弩は口をきいた。

「夜風を浴びてくる」

 彼女は、暗がりにも分かるくらい身を強張らせた。慌てて涙を拭い、平静を繕って笑う姿は、やはり美しかった。

「ごめん。起こしちゃったね」

 いや、と愛想なく返すのは、月の女神のような幽けき眼差しに、胸の内を残らず見透かされてしまいそうな恐れを抱いたためだった。

「すぐに戻る」

「駄目。今夜はここにいて。ね?」

 昼間と同じことを彼女は願い、その言葉に苛立った。それは期せず揺り動かされてしまった、己の心を晒してはならないとする、恐怖への抵抗だった。

「俺の女にでもなったつもりか。指図は受けない」

 聞こえよがしな溜息を、酷い言い回しとともに浴びせる。

 一瞬だけ息を飲んだ彼女は愕然と俯いて、もはや何も言わなかった。

 立ち上がり、部屋をあとにする。斧槍を手に真っ暗な廊下へ出ると、冬の名残りのような底冷えが纏わりついて、それで良いのかとなじられている気がした。

 酷いとは感じるが、灼道を裏切るほうがよほど厄介だ。栞菜はヤツの恐ろしさ、執拗さを知らぬのだ。

 これからヤバい仕事に赴くというのに、夜ごと泣きじゃくる女の姿が脳裏に焼き付いて、離れない。

 だから、済まないと思ってる——こんなふうに、心の中で詫びるのは悪癖だと思う。口があるのだから、直接伝えるものだろうに。そうできぬのは、単に臆病だからに他ならない。

 臆病という言葉すら逃げ道にして、声にせぬ懺悔で荒む心を静め、許された気になっている自分は、卑怯だ。卑怯で卑劣だ。

 むかしと何も変わっていない。人が易々と変わる道理もあるまいが、それにしたって。

 盗人みたく気配を殺して宿の外へ。悶える胸中を咎めるように、張り詰めた外気が刺さる。このままでは仕事に支障が及ぶやも知れぬ。不動の心構えは、具体的な敵に相対しなければ役に立たない。より鮮明な脅威に抗し、精神を安定させるものである一方、弱く長い時間精神を苛むものへの効能はあまり期待できないのだ。

 仕方なく掌で頬を軽く打って、気持ちを切り替える。歓楽区を過ぎ、灯籠の導く参道を登り、指定された地点で待機する。

 何げなく、山頂を見上げた。いつの間にか差し込んだ薄く低い雲は、黄昏のような鈍い朱が掛かっていた。

 すぐに地上の火を映しているのだと気付く。歓楽区であれば、さして気に留めることもない。しかし、荘厳な寺社に空が照るほど火が上がるのは、祭りの季節でもなければ有り得なかった。

「……!」

 参道の上から男が二人やって来る。大きな曲がりのせいで、近付かれるまで気付かなかった。

 こちらの姿を認めた彼らは足取りを速めた。

「そこの御仁。少しよろしいか」

 うわべは柔和そうだが、うむを言わせぬ重さを孕んだ声。夜回りの駐在だ。

 何でしょうと応じると、ここで何をされている、と巡査の片割れが尋ねた。

 目立つし嵩む武器を所有しているばかりに、職務質問はよく受ける。動じる様子さえ見せなければ、大抵は問題ない。灯籠の炎の揺らぎは、瞳を探られずにやり過ごすのに都合が良かった。

「いえね、空が朱かったもので」

 茜の雲を指差し、何事かと思いここまで来たと伝えると、空を見上げた二人はああ、と合点がいったように頷いた。

「あんた、ここらの人間じゃなさそうだが」

 警官はくどい。あまり足跡そくせきを知られるのは好ましくなかったが、長引かせて痛くもない腹を探られるほうが煩わしい。

 胸元の焼印を焔に照らし、鬼人衆の身分を明かすと、ようやく気を許したのか、彼らは如実に態度を軟化させた。現金なものだ。

「いえ、実は昼間にタレコミがありましてな。念のため、こうして哨戒に当たっとる次第でして。失礼致しました」

「タレコミとは?」

「荘雲寺の財宝を狙う輩が宿場に潜伏していると、そんな主旨の書簡が届けられたんですわ」

「ああ、それでこの騒ぎですか」

 そんな密告を鵜呑みにして夜半の哨戒をするほど、薬師山の駐在は暇を持て余しているのか。

 だが実際のところ、灼道が宝物殿を破ろうとしているのも確かで、密告は正しい。

 薬師如来と錦織臨在の威光への信望ぶりから、てっきり警官の初動は遅いはずだと高を括っていたが、これは予想外だ。よほど信頼ある筋からのタレコミだったのだろう。抜かりない灼道の目を掻い潜って密告を成功させたのだから、そいつもそいつで大したものである。

 そんなことより、この場をやり過ごすことに集中しなければ。もし灼道が捕まったり、容疑者として名前が上がるようなことになれば、時を同じくして参道を登っていた自分にも嫌疑は及ぶだろう。鬼人衆という肩書きも、不利な共通点として働くに違いなかった。

 さてどうしたものか、と首を捻ったとき、不意に闇をつんざく警笛が高らかに生じた。

 何だ、どうした。巡査たちが交互に零しながら振り返るが早いか、くの字をした大きな構造物が上空へ打ち上がり、空中で瓦解した。

 炎の赤が照らし出した絢爛な意匠。

 吹き飛んだものは、寺の屋根だった。

 寺が爆破されたかと身構える。だが、待てども爆風は来ぬし、火の手も窺えない。煙に見えるのは瓦礫から出た砂塵だ。

 錦織臨在の験力か。いや。例えあれが灼道たちを狙った攻撃だったとして、自分の寺の屋根をぶち上げる技を用いるのは、阿呆のすることだ。

 腰が引けたか、もたつく駐在を追い抜き、参道の斜面を駆け上がる。

 山頂の朧月を背景にして、人の頭がむくりと起き上がるのが見える。それを刹那ほども人間だと思わなかったのは、ひとえにその大きさからだった。

 まさか、出たのか。にわかには信じ難かったものの、折よく寺のほうから、骸霊だ、と悲鳴が聞こえて、その存在は確定的となった。

 参道の終わりを示す楼門をくぐり、ようやく見えたのは瓦解した本堂。そして、本堂の壁面に囲われて佇立する、細く背の高い黒の骸霊。

 次から次へと、よくもまあ面倒ばかり舞い込むものだ。しかし、知らぬ存ぜぬはまかり通らなかった。

 ひとたび骸霊を認知した時点で、鬼人衆には必要な措置を執る義務が発生する。避難誘導を怠り、敵前逃亡を図るのは、アメス神教の糾問に掛かる重罪だった。

 事故や事件で死ぬならともかく、生半可に身を滅ぼすつもりなど毛頭ない。そうまでして、食い扶持でもある骸霊を避ける理由もなかった。

 寺の僧か灼道の雇ったゴロツキか、数人が本堂の骸霊を包囲している。無駄だ。というか邪魔だ。

 例えば戦艦『富士』の一斉砲火を浴びせたなら、あるいは沈黙せしめるやも知れずとも、およそ個人兵装で骸霊に対峙するなど、自殺行為でしかない。それこそ、農具片手に甲鉄艦へ挑むような愚行である。

 最小限の戦力で骸霊を仕留めるなら、鬼人衆をおいて他にないのだ。

「早く逃げろ! 死ぬぞ!」

 深夜を憚らぬ怒声で、その場の人間に山を降りるよう誘導する。混乱で思考の纏まらぬ集団を促すにあたって、良く通る大声というのは覿面だ。最初の一人が動き出せば、皆それに倣って続くのだから、見上げた集団主義であろう。

 人の気配の消えたのを入念に探りつつ、武器を抜き構え黒の巨人へ跳んだ。

 かつての侍でもないのだから、儀礼的に正対などしてやる必要はない。時を見極め、確実に狙いを定め、絶息の一撃を放つのみ。狩りとはそうしたものだ。

 空中で、本堂内に人が残されている可能性に思い至った。例えば、臨在の弟子あたりが気絶しているというのは、充分に現実的だ。

 止めることはできた。だが涼やかな夜風が吹く風流な月夜は壮大で、些末な疑念を拒んだ。

 それに、本堂はもう半分崩れてしまっている。すでに瓦礫か骸霊に潰されているはずだった。仮に生存していたにせよ、明暗定まらぬ星月のもとで、まともな目撃者が現れるとは思えなかった。

 黒い骸霊は、細身だが高い。一度の跳躍では頭頂に達せず、やむを得ず直接胸部の精霊球へ狙いを変更する。

 一撃で確実に葬るのなら、能力の解放は必須だが、周囲に操る慣性が皆無だった。まあ、この程度の獲物ならば、素の力だけで事足りよう。鬼人衆が各々に賜る専用武器はいずれも、それだけで骸霊に致命傷を負わせ得る特注品だ。

 高位の個体では特殊な能力持ちも珍しくはないし、薄まる焼印の具合もあって、完全に無警戒とはいかずとも、無抵抗に佇むこの骸霊に何ら畏怖は感じられない。ただデカいだけの木偶でくの坊だ。夜が明けてから見直せたなら、ひょっとして骸霊などではなく、突然に生い茂った巨木だったりするかも知れない。それくらい無反応な、その意味で不可解な個体といえた。

 目論見を逸することなく、斧槍の刃がするりと吸い込まれ、骸霊の胸を裂いた。志弩が着地するころには、砂の城のように壊死した肢体が本堂に降り注いだ。そのさなかに、玉虫色の輝きを認め、速やかに拾い上げる。

 やはり下位の骸霊の物のようだ。しかし、視界の乏しいなかでの長期戦など望むべくもない。そんな難儀を思えば、安物の精霊球であっても今夜は良しとしなくてはなるまい。

 よし帰るかと宿場のほうへ向き直ったとき、視界の片隅に人影がはしった。同じくほとんど廃墟と化した隣の観音堂から、山を降りようと慌ただしく走る姿は不恰好で、どこか笑えた。

 灼道に間違いない。やはりいたか。仕事は成功したのだろうか。まさか骸霊に気付かぬわけもないから、彼は職務を放棄したことになる。

 ふと、骸霊の出現に恣意的なものを感じた。

 骸霊が現れなければ、灼道は確実に錦織と対面したはずだ。そうなれば錦織の猛追に命を落とす危険さえあった。あ、いや。骸霊が出てこなければ、錦織と相対したのは自分のほうか。そう考えると、骸霊に救われたともいえた。

 キナ臭くはあったが、カラクリを看破できぬままでは、何が分かるものでもない。今度出会ったときに、それとなく聞いてみることにする。極力会いたくはないが、それはきっと無理だ。それに機嫌さえ良ければ、訊かでものことを語る男だ。

 ようやく追い付いた駐在の片割れと、しばらくして現れた錦織本人から、矢継ぎ早に謝罪を並べ立てられた。聞けば錦織は、庫裏を襲撃した輩を撃退したのち、妻子を連れて宿場へ逃れたそうだ。擦れ違わなかったことを怪訝に思ったのが伝わったらしく、ああ、参道ではない秘密の道があるのだ、と錦織が付け足した。

 彼らからの謝意はむず痒かったが、まさか宝物殿を侵す行きがけだったなどと言い出せるわけもなく、居心地の悪さから逃げるように山を降った。

 宿に戻り、なるべく音を立てぬよう部屋へ向かう。栞菜はもう寝ているだろうか。

 昼間に加え、彼女には悪いことを言った。朝になったらちゃんと詫びて、何か買ってやるとしよう。

 女の扱いを学び考えるようになったのは、齢がいって人恋しくなったからではなかった。

 陰山千鶴。四年前、彼女が現れるまでは、女など欲しいときに買って、飽いたら捨てれば良かった。その場かぎりの相手に劣情と鬱憤をぶち撒けて、それきり二度と会わなくて済むのだから、こんなに都合の良いことはなかった。

 そう。彼女と出会ったあのときより、何かが狂い始めたのだ。

 引き戸を開けて、志弩は耳をそばだてた。部屋の中に啜り泣く声はない。良かった、眠ってくれたか。

 斧槍を立て掛け、彼女を起こさぬよう入った室内は暗い。暗くて、冷たい。だが部屋の備品の配置は頭にあったから、例えばメリケン粉だとか想定外の物を栞菜が散らかしていなければ、さしたる問題でもない。

 だのに。感覚を研ぎ澄まして忍ばせた右足の裏が、奇妙な感触を捉えた。液体のような、しかし粘度があるのか、ぬるりと滑る。

 油を零したのかと身を屈め、液体を指ですくい嗅ぐ。

 ぞわり、と戦慄が走った。足先から脳天までを満遍なく痺れが駆け巡って、予期せぬ打ち上げ花火のように、胸が急激に拍動を増す。

 咄嗟に座卓の上の燭台を灯す。幼い炎がにわかに映し出した部屋の中央に、横たわる赤毛が窺える。布団を掛けていない。こんなに冷えるというのに。

 微動だにもせぬし、寝息も聴こえない。捨てられた人形のようだった。

 ああ。布団も、畳さえもが黒く色づいている。

 疲れ切った脳が、焼き切れんばかりに騒ぎ立てている。興奮に心臓が高鳴り、わなわなと手が震えた。

 油の巡った蝋燭が室内の全容をつまびらかにして、志弩は息を呑んだ。

 黒々とした血の海の真ん中で、凍りつく蒼顔を炎に染められた栞菜が、乾いた瞳を虚ろに開けたまま動かなかった。

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る