第2章 一枚上手の先輩方
高校での日々は充実していた。襟子は桜本さんとその親友・帯刀さんと行動する事が多かった。桜本さんは蒔絵(まきえ)で帯刀さんは冴子(さえこ)という名前だ。3人ともそれぞれ違う箇所に「え」の文字があるので北園君がふざけてスリー・エと呼び始めた。それが、段々とスリー・エーになって、副委員長は女子代表だからとスリー・エースという名で落ち着いた。蒔絵はクラス一絵が得意で冴子は誰より勘が冴えているので、3人にピッタリな愛称だった。蒔絵は絵画からの発想で文化祭実行委員としての、冴子は先生と生徒の言い分に勘付けそうなので風紀委員としての活躍が期待された。
北園君の下の名前は那於器(なおき)だ。スリー・エと言い始めた日に、中学校からの友達・本庄至(ほんじょう いたる)君が黒板の日直欄に書かれた北園君の名前を「名置き」と書き換えた。クラスは大爆笑!襟子は、将来北園君が名付けた商品はヒットするかも知れないと思った。北園君は、器用さを買われて美化委員になった。暇な休み時間には、クラスの皆の邪魔にならない所を手縫いの雑巾で念入りに磨いている。本庄君は名前からか北園君に図書委員に推薦されてしまったが、至って真面目に務めた。
スリー・エースに並ぶ4組の名物が、委員長・熊谷等君による「移動の誘い」だった。熊谷君は、教室移動を面倒くさがる生徒がいるとここぞとばかり「熊が移動。君もどう?」
と、お笑い芸人の様に表情筋を駆使しつつ移動する方向に腕を伸ばしたり相手に向かって手招きしたりする。その動作が面白いのでわざとやらせる子までいたし、隣のクラスから見に来られたこともあった。
担任、各務説子先生の英語の授業も人気だ。等君が始業式の日に予想したみたいに寝てしまう子はいなかったが、説子先生の聞き易い発音は生徒の憧れ。真似する子が続出したので、違う学年の生徒からは「1年はいいいなぁ」と羨ましがられた。
襟子がこの高校で唯一苦手な存在が、轟教一先生だった。予め、ノリカズ先生という本名では誰も呼ばずにキョウイチ先生と呼ばれ、更にやんちゃな子たちは敬称を省いていると聞いてはいた。それでも、実際に目にするまでは大袈裟ではないかと思っていた。そう思いたかった。けれども、期待は一瞬で打ち砕かれた。
入学した週の金曜日の放課後、各組の委員長・副委員長の顔合わせがあった。襟子は初めて、2年生の教室が並ぶ区画を歩いていた。熊谷君と「なんだか緊張するね」と言いながら。轟先生が受け持つ組の教室の戸を静かに左から右に引いた時、手足20本全ての指がしもやけになってしまう感覚がした。急激にそれ程の冷気を感じたのである。思わず振り返ると、熊谷君が青ざめていた。ただ事ではない。でも、ここは学校。何か策はある筈だ。勇気を出して部屋の中を見ると、三つ編みの賢そうな少女と目が合った。彼女が微笑んだ様に見えたので襟子はやっと息がつけた。
「突っ立っていないで、組と名前を言いなさい」
不意に中年男性の低い声が響いた。ゾワゾワする。声がこちらに伝わって来る毎に教室の床が凍って正方形のスケート・リンクが出来てゆくようだ。さっきの冷気の仕業だろう。この声が轟先生なら名は体を表しているなと襟子は思った。
「どうした?答えなさい」
高圧的に唸る声が立方体の教室中に反響している。正にキョウイチだ。教えるではなく恐怖のキョウ。襟子が震えを必死に抑えていたら
「失礼しました。B1-4の委員長、熊谷等です」
と熊谷君が答えた。落ち着いた声だ。動揺が収まったらしい。襟子も答える。
「同じ組の副委員長、六車襟子です」
「そこに掛けなさい」
ちゃんと答えても男性の冷ややかさは少しも変わらない。必要以上にこわばらせた変な声だ。
空いた席は2つしか無かった。最後に来たんだ。恥ずかしかった。だが、襟子達2人も開始予定2分前には着席していたらしく遅刻ではなかった。
襟子が思った通り、低い声の中年男性が轟教一だった。長身で恰幅が良く、真四角な顔とゲジゲジな眉を見ていると教師というより格闘家を思わせた。 三つ編みの少女は光野令奈(みつの れな)と言い、轟先生率いるB2-3組の副委員長。光野先輩の右隣で、人が何か言う度にその方向に顔を向けて頷いている少年が小串要(おぐし かなめ)。同じ組の委員長だ。
轟先生は組の代表としての心得を説く間中せわしなく体を左右に回しながら全方向に睨みを効かせていた。そして、生徒が自己紹介や委員としての抱負を言い間違えたり口籠ったりする度に冷笑した。威厳を見せつけたいのかも知れないがかえって幼稚に見えた。
襟子は、轟先生が担任で無くて良かったと思うと同時に、担任の態度に動じない光野先輩と小串先輩に憧れの気持ちを抱いた。部活の先輩だったら可愛がって欲しいと。だが、この日襟子がもらったのは先輩からの優しい言葉ではなく轟先生からの「クラスの目標を決める」という課題だった。
クラスの目標は「校内のどの組とも仲良くする」になった。発案したのは北園君だ。
「父さんと2人暮らしだから、進学出来るとは思っていなかった。卒業したら就職したいから、高校では色々な人と交流して思い出を作りたい」と。
帯刀さんは涙を堪えて言った。
「大丈夫だよ。各務先生の授業も熊谷君の移動の誘いも大人気だもん。あ、私は変えて欲しい校則を募集しよう」
自分が出来そうな事をすぐ思い付いたらしい。
「僕は、司書教諭の菊池先生に図書室にあるお薦めの本を確認してみるよ」
本庄くんが本領発揮しようとすると、新聞部に入部したばかりの鳴神(なるかみ)さんが
「聞いたら、教えて。壁新聞に載せるから」
と張り切る。北園君か嬉しそうに
「鳴神さんの名字書く時、新聞紙の紙に成り立ちって書きそう。成紙さん」
名置きを披露すると
「有り難う。将来、新聞記者になりたいんだ!」
鳴神さんが笑顔で返す。襟子は、鳴神さんの筆子という名前も古風だが素敵だと思った。本人に合っている。好きな部に入って彼女のように笑いたい。
襟子はまだ部活を決めていなかった。哀しいことに、旺洋高校には園芸部が無かった。正確には無くなってしまったらしい。この事は、思い掛けず出会った可愛らしい先輩から聞いた。
入学から3日目、朝から小雨がパラついた日の昼休みだった。雨も上がったしと思い部室がある棟に行ってみると、一つだけ部の名前が書いていない部屋があった。不思議に思い暫く佇んでいると
「どうしたの?」
囁く声がした。いつの間にか目の前に身長150cm位の少女が立っていた。肩で揃えた綺麗な髪に高めな鼻。髪も目も黒々とし、長い手足は信じられない位細い。人形が喋ったと思って動けないでいると少女がまた口を開いた。
「ここはね、園芸部の部室が有ったの。顧問は私が1年生の時に地学を教えてくれた雨宮先生。定年でお別れしたけれど、優しくて大好きだったなぁ。今の担任の先生とは大違い」
と言って、溜息をついた。小さい頃玩具売り場で見たリサちゃん人形が溜息をついたらこんな感じかなと襟子は思った。少女が話した内容をゆっくり反芻してみる。彼女は先輩であるらしい。それから、担任ってどんな人だろうと興味が湧いた。でも、まずは質問に答えなくては。
「この部屋はどうして部の名前が書いていないのか不思議だったんです。中学では3年間園芸部でした。楽しかったので続けようとしたのですが…」
「そうなのね。園芸部は去年3年生しかいなかったし、顧問のなり手が居なくて無くなってしまった。この高校では、3人集まらないと同好会としての活動としても認められないのよね。あと2人、園芸同好会に入りそうな人はいる?」
親身になってくれるのは有り難いが、中学時代園芸部だった友達は全員違う高校に進学していた。正直に話す。
「おまけに、同じ組の仲が良い友達はもう違う部に入っていて…」
蒔絵は木工芸部、冴子は放送部だった。
「なるほど。じゃあ、新しい同好会を作ってしまうなんてどう?貴女が人見知りじゃないなら、私の組の人に会ってみない?」
「えっ、そんな。申し訳無いですよ」
「いいの、いいの。彼女達面倒見良いし。それに、去年1年間2人では同好会が出来ないと悶々としていたしね。もし本が嫌いじゃ無ければお願い」
「本は好きです。では、お願いします。有り難うございます」
「こちらこそ有り難う。何か質問はある?」
「さっきの話の内容なんですけれど…」
「構わないわよ」
「先輩の担任の先生は誰ですか?」
するとニコニコしていた先輩の顔がサッと曇って「轟先生。噂ぐらいは聞いたことあるかな?」
最初に声を掛けて来たよりもっと小声で答えた。
「はい。委員長会でお世話になっています」
先輩は真剣な眼差しになり
「そう。大変ね。うちの担任、厳しいけれど宜しくね。頑張って」
励ましてくれた。
「先輩も大変ですね」
と言うと
「貴女とは気が合いそうだから、名前で呼び合わなない?私は、毛塚五百子(けづか いほこ)。宜しく」
「私は、六車襟子です」
「では六車さん、一週間後の放課後にまたここに来てね」
「分かりました。毛塚さん。宜しくお願いします」
またね、と手を振る毛塚さんは妖精のように軽やかだった。
壁新聞で菊池先生が薦めた仏教開祖の自伝漫画が紹介されると、鳴神さんは口々に褒められた。
「短期間でこんなに分かり易くまとめるなんて」
「読み易い段組みよね」
「僕、本を借りたくなっちゃった!」
「綺麗な字だなぁ」
あの轟先生さえじっくり読んでいた。只、真剣な眼差しはいつもより近付き難く、生徒達は轟先生が居る事に気付くと足音を立てないように後退りして去って行ったが。襟子は先生の寂しそうな背中を擦るように見つめてから、毛塚さんとの約束の場所へ向かった。
あの部屋にはまだ部室の名前が書いていなかった。もし2人の先輩と気が合えば「〇〇同好会」と書かれるのかも知れないと思うと、優しい先輩でありますようにと祈るような気持ちになった。
5分もしない内に見覚えのある顔が近付いてきた。毛塚さんだ。嬉しくなって手を振ってしまう。毛塚さんも振り返した。後ろの先輩達は初め緊張した面持ちだったが、毛塚さんにつられたのかゆっくり手を振り始めた。
「待たせてしまったのね。ごめんなさい」
「いいえ。今来たところです」
2人のうち心もち顎と上唇が前に伸びている先輩が待ち切れないという風に口を開いた。
「初めまして、飛田愛美(とびた まなみ)です。お喋りなんで顎と上の唇が突き出てしまいました。マーミンて呼んでね!」
「はい、マーミン先輩。初めまして、六車襟子です」
「あら、じゃあなたはムーミンだ!」
そう言ったかと思うと、一人でケラケラ笑い出した。笑い上戸でもあるらしい。もう一人の先輩が細い目をいよいよ細めて心細そうにしているのに気付いた毛塚さんが
「マーミン、後ろ…」
と制服の裾を軽く引っ張って注意を向けるとやっと
「あら、ごめんごめん」
言いながら一歩下がった。目の細い先輩の顔が襟子のすぐ斜め左前にある。先輩はスッと息を吸うと
「お騒がせしてごめんなさいね。私は、周防千景(すおう ちかげ)と言います。このままだと、本当にあだ名がムーミンになってしまうけれど大丈夫?」
「はい、大丈夫です」
思い切って聞いてみる
「周防さんの事は何とお呼びすれば…」
「スーチーで」
「えっ、大丈夫ですか?」
今度は襟子が聞いてしまった。名前から予想出来なくは無いが、まさか紆余曲折あり過ぎる政治家の名前と同じあだ名だとは。しかし、先輩は淡々としている。
「では、マーミン先輩とスーチー先輩。これからどんな同好会を作ろうとしているんですか?」
「やりたいのは朗読、よ」
マーミン先輩がきっぱりと答えた。
「朗読、ですか」
「そう。私達、それぞれ別のコンプレックスを抱えていて。それを治すのに良いと思ったから」
多分、マーミン先輩が直したいのは早口か笑い上戸過ぎる所で、スーチー先輩の方はあがり症といったところか。失礼にならないようにサッと思考を巡らせたが、表情が変わっていたらしい。スーチー先輩が頷いてから言った。
「ご推察の通りよ。流石選抜クラスの子だわ!私達将来なりたいものがあるから進学を考えているんだけれど、声が大きくてハキハキしていても早口では面接で不利になる。私のあがり症なんて以ての外」
「それで、部活で治そうとしたのね」
毛塚さんがさり気なく加わる。妹の織江と似ているが、毛塚さん方が当たりが柔らかいので真似したい。
「そうなの。でも、もう一人が見付からなくて。去年は教科書や菊池先生お薦めの本で2人で練習していた」
笑い上戸のマーミン先輩が顔を歪めている。悔しかったのだろう。
「楽しかったけれど、人前で発表した方が効果があると思ってね。私は、年下の人や友達と話す時には緊張しないけれど、目上の人や大人数を目の前にすると途端にあたふたするから治したいのよ」
スーチー先輩はあくまで冷静だ。大人になったらこんな先輩に仕事を教わりたいなと思う。二人共話に熱が籠もっているからか、いつの間にか襟子の両脇に来ている。
「分かりました。私も本を読んだり朗読したりするのが好きなので、同好会に入らせて下さい」
次の瞬間
「有り難う!」
「有り難う!」
と左右から声が飛んできたかと思うと、両手共先輩に握られていた。滅多に無いことだ。右手はマーミン先輩、左手はスーチー先輩と繋がれている。毛塚さんは
「記念写真撮りたいくらいね」
と羨ましそうにしている。一緒に活動出来れば良いのにと思ったら
「考古学研究会じゃ、地面ばかり撮るから」
と続けた。
「考古学研究会ですか!」
格好良いと思って思わず大きな声を出してしまい、慌てて手で口を塞いだ。
「そうよ。私も将来を思って。学芸員志望なの」
白衣を着て博物館で社会見学に来た児童に説明している毛塚さんの姿が脳裏に浮かんだ。似合う!あ、また表情が変わってしまうかも。危ない、危ない。
「同好会の名前はどうしましょうか?」
一応聞いてみる
「普通に『朗読同好会』でいいでしょ」
スーチー先輩の素っ気ないけれどどこか嬉しそうな声にホッとする。
「そうだね。じゃあ、私届け出を出しておくから。ここに、クラスとフルネームを書いて」
マーミン先輩が手帳を開いて襟子の目の前に置いた。カバンから筆箱を出そうと屈んたら、手帳の表紙が見えた。パステルカラーの背景にサンリオのキャラクターが描かれている。やっぱりマーミン先輩も女子高生なのだ。動揺を隠す為にわざと
「はいっ」
と言うと
「頼もしいわね」
とスーチー先輩が目を細める。殆ど糸みたいだ。
B1-4 六車襟子
と書くと
「綺麗な字だわぁ〜」
「あら、各務先生のクラスだったの」
「えっ、この字でエリコさん?」
3者3様の驚き方をされたので何だか笑ってしまった。入学早々優しい先輩達に囲まれて嬉しい。
「字を褒めて下さり、有り難うございます。でも、同じクラスの鳴神さんの方がもっと綺麗ですよ。あの壁新聞の」
「あら、じゃあうちのナル君の妹さんと同じクラスなんだ」
「えっ、鳴神さんお兄さんいるんですか」
「いるよ」
「ナルシストの」
襟子が固まっていると、マーミン先輩がまたケラケラ笑って
「冗談、冗談。名前が鳴神だからよ」
と襟子の顔の前で右手をヒラヒラさせた。襟子は
「あはは」
と乾いた声を出してしまった。とりなすように
「各務先生の事は大好きです」
と続けたら、毛塚さんが
「いいなぁ」
と拗ねた。マーミン先輩は勿論スーチー先輩まで笑っている。轟先生の事を考えるとそうなるだろう。
「この字で襟子って珍しいな、と私も思います」
「そうだよね。でも、私なんて名前自体珍しいし。イホコって名前、初めて聞いたでしょ」
「はい」
「毛塚っていう苗字も」
「そうですね」
素直に言うと、またマーミン先輩が笑っている。一日に何回笑うんだろう。
「周防も千景も余り無いけれど、珍しいかどうかは、微妙」
スーチー先輩が首を少し傾げながら言うと、マーミン先輩が
「飛田って名字はそう無いけれど、私の愛美が一番平凡、かな?」
と言って首をカクンと右肩に付けてみせたので皆で笑った。
後悔からの航海 新橋 @nifu-212
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