後悔からの航海
新橋
第1章 あっという間に女子代表
例年よりも早く開花宣言したからか、その年の桜はもう半分葉っぱに変わっていた。けれども、4月5日に高校生になった六車襟子(むぐるまえりこ)は、その事を全く気にしていなかった。初めて大好きな電車に乗って通学できるとワクワクしていたのだ。
襟子の組はB1−4(ビーいちのよん)という名前だ。Bは文系という意味で、理数系はRが学年の数字の前に付いた。もう一つIという科があって、附属中学から上がったという一貫コースのIだった。Rは2組、Iは1組しかないという。文系が4組あるのは心強いが、アルファベット1文字分管理されている様な妙な重みを感じて嫌な気がした。友達を作って乗り切ろう。中学では園芸部だったけれどここにもあるのかなぁとぼんやり考えていたら、来賓の挨拶が終わっていた。3百人ほどの15·6歳の男女が一斉に立ち上がって動き始める。ザワザワ、ガヤガヤ…。一体、卒業までにこの内の何人と直接口を聞くだろう?
担任の各務説子(かがみせつこ)先生は英語の担当だそうだが、日本語も聞き取り易い。思ったより居心地の良い教室で一人一人名前と住んでいる市町村と今日感じたことを言っている時に、体格の良い男子が
「先生の声が良過ぎて授業中寝ちゃうな」
と言ったので、皆で笑った。先生まで
「熊谷(くまがい)君たら」
と口を抑えて笑っていた。この先生になら、何でも相談できそうだと思った。
自己紹介が一巡すると先生が切り出した。
「お疲れのところ悪いけれど、一つ相談」
「なぁにぃ〜」
熊谷君があくびのような音を出した。
「お友達と仲良くする方法、とか?」
ポニーテールの子がからかう。
「桜本(さくらもと)〜」
数人が困ったという表情でつっこみ皆が笑う。
この子と友達になったら楽しいだろうな。
先生はわざと
「ち・が・い・ま・す」
と一音一音切って、クラスを静めさせた。
「今日ここで学級委員を決めて下さると助かるんですけれど」
「えーっ!」
「なんで」
「いきなりかよ」
「皆のこと知らないから選べないよぉ」
ごもっともである。先生は困っている。
「ごめんなさいね。去年、中々決まらない組が1つだけあって、担当の轟(とどろき)先生がホトホト困ってしまったみたいで」
「それでかぁ」
「勝手だよね」
「お前やるか?」
「自分がやりたいんじゃないの?」
クラスは以前よりうるさくなってしまっている。どうにかしなければ。気付いたら、襟子は自分でも驚くような大声を出していた。
「静かにしましょう。隣の組に迷惑です」
「あ、そっか」
と言ったのは意外にも桜本さんだった。熊谷君がすかさず
「桜本さん、受け上手」
と、ほめたかと思うと襟子の方に向き直り、
「いっそのこと君がやるとか」
襟子はえっと固まってしまった。そんなつもりじゃ無かったんだけれどな。でも、特になりたい係がある訳じゃないからそれもいいかも…と考えていると、先生が口を開いた。
「私も賛成。助けてもらったからではないけれど、さっき具体的に提案したでしょ。それに、混乱している時に他の組のことも考えていた。組の代表として、重要な視点よ」
思いがけずほめられて、頬が熱くなる。ポーッとしていると部屋の隅から声が飛んで来た。さっき桜本〜とつっこんでいた女子達だ。
「私からも一票。声が通る委員長っていい」
「さっき、轟先生が担当だって言ったよね?六車さんがなったら、車の数2倍じゃん。勝てるよね?」
また、クラスにドッと笑い声が湧いた。
「面白れーっ」
と、数人の男子が手を叩いて転げ回っている。
「んな問題じゃねぇじゃん!」
批判しているんだか肯定しているんだか段々分からなくなっているようである。先生が水を飲む真似をしたので、ようやく静まった。
「どうかな?向くと思うけれど、やる?」
担任のお墨付きが出た。襟子はうなづいた。
「はい、やります!」
「六車委員長、万歳!」
桜本さんが両手を上げている。先生が制す。
「桜本さん、皆さんも言い忘れていてごめんなさい。この学校は元男子中学校だから男子しか委員長になれないの。六車さんは女子代表の副委員長ね」
「そうなんだ…」
桜本さんのガッカリした声。空気を変えたいな。そうだ。
「どなたか、一緒に頑張りませんか?」
襟子は、廃屋入り口で中にいるかも知れない人に呼びかけるように尋ねた。
「熊谷はどうだ?」
面白れ〜と笑い転げていた男子が提案した。
「私も良いと思う」
桜本さんが同意した。根拠があるらしい。
「熊谷君って等(どう)って名前でしょ。続けて言うと『熊が移動』じゃない。男女合わせてしゃれが効くって、組の強みだと思う」
ここまで言って笑いが起きそうなのを制し、
「それに、さっき笑いを取りながらさり気なく先生の声ほめていたよね?上に立つ人にはそういう気遣いが出来て欲しいから」
先生はニコニコと見ている。今だ、と思った。
「それでは、熊谷君が良いと思う方」
襟子は、全体を見渡しながら尋ねる。自分と熊谷君自身を含めて、全員の手がサッと上がった。なんと、先生まで挙手している。桜本さんが左手を上げたり下げたりしておどけている。涙が出そうになった。なんとかこらえる。
「有り難うございました。それでは、この組の委員長は熊谷等さん、副委員長は私・六車襟子が務めます。皆さん、1年間どうか宜しくお願いします」
襟子は深々と頭を下げ、拍手に包まれた。
ホーム・ルーム解散後、熊谷君と襟子は各務先生に轟先生のことを尋ねた。恥ずかしながら名前を覚え損ねた女子が「六車さんなら轟先生に勝てるのでは」と言った事が引っかかったのだ。単なる漢字のダジャレよと笑い飛ばして欲しかった。
ところが、先生は声を低めて誰にも言っては駄目よと前置きしてから、次の様に言った。
「正直、余り良い評判は聞かない先生よ。気が効かないと言っている先生もいるわ。育った家庭が冷たかったという噂だけれど。でも、だからといって轟先生を曇った目で見ないで。家庭的に恵まれない子に偏見を持つのもいけないわよ」
「見ませんよ。偏見も持ちません。さっき帯刀さんの冗談にいち早くおもしれーって反応した北園君は経済的に苦労していると、本人が教えてくれました。僕は、北園君の明るい性格が好きだから友達になりたいです」
「なれるといいね。いや、なれるよ」
「私も、偏見を持ちません。誰のことも歪んだ視線で見ません」
襟子はやっと口が聞けた。クラスメイトの名前がスラスラ出て来る熊谷君て凄い、と圧倒されていたのだ。それに、北園君が言いにくいことをサラリと告白したことにも驚いていた。
「轟先生にも良いところありますよね」
「きっと、あるわ。だって先生になったんだもん」
「僕達、いたずらに怖がりません」
先生に宣言して、お礼を言って帰った。
「ただいま」
と玄関のドアを開けると、パンと乾いた音がして煙と色とりどりの細長い紙が襟子に向かって来た。いたずらっぽい顔をした妹の織江(おりえ)が小さな円錐をこちらに向けたまま
「高校入学おめでとう!」
と叫んだ。いやいや、貴女も中学に入学したんだからおめでとうでしょと心の中で突っ込みを入れた。
洒落ではなく紙が髪に引っ掛かっている。クラッカー特有のにおいを嗅ぎながら、髪の上の紙を慎重に取る。織江には
「有り難う」
取り敢えずお礼を言っておいた。
紙をまとめて塵取りに入れた瞬間、妹の後ろでまたパンと音がした。
「中学校入学おめでとう、織江!」
父・錦之助(きんのすけ)の声だ。
「有り難う」
織江の声は、襟子の冷めた声と対象的に笑い出しそうに明るい。初めての制服と黒光りする通学鞄が余程嬉しいのだろう。お洒落に興味津々の妹らしい。
奥から
「焦らさないで早く来なさいよ!」
と中年女性の声が飛んで来る。鉄子(てつこ)おばさんだ。錦之助が必要以上に恐縮して応えた。
「ごめんごめん。すぐ片付けて行くから」
2人姉弟で5つ離れているからか性格の違いか、錦之助は未だに姉には弱い。娘に付いた紙をパッパと取る。織江が向きを変えたら鞄が見えた。まだ、帰って来て間もないのだろう。錦之助が丸めた紙を襟子が塵取りで受け取って、家の裏の可燃ゴミ処理機に収めた。
「お待たせしました。いらっしゃいませ」
手洗い・うがいを済ませた姉妹が挨拶をすると、鉄子は何だかドギマギした。姉の方は自分も着ていた制服を着ている。懐かしさが込み上げるが正直に言うのも自分らしくない。顔を少し後ろに反らせて
「ふうん、ネクタイが似合う年になったんだ」
わざとツンとした声色だが、襟子が
「似合うって言って下さって嬉しいです。実は、何度も結び直してしまって。まだ慣れません」
素直に告白してくるものだから、自分のひねくれ加減が嫌になってしまう。どう口を聞こうかと思っていると織江が無邪気に
「おばちゃ〜ん。私だってやっと制服なんだから」
すねた甘え声を出す。将来妹と同じ人を好きになったら厄介だろうな、と襟子は背筋が寒くなった。
鉄子はやれやれという顔で
「ここに来て、開口一番にピッタリだと言ったのが聞こえ無かったかい?」
と、とぼけてみせる。姉の前で伯母に褒められたかったのだろう。もう一度ピッタリという言葉が聞けて上機嫌にくるりと一回転してみせている。
母の糸(いと)が、
「お義姉さん、そろそろ」
水を向けると
「そうだね」
鉄子が応じ、錦之助が仏壇から何かを下ろした。お皿の上に黒い楕円形が10個。
「おはぎ!」
制服の姉妹は声を揃えた。周りにあんことごまが付いている。織江がさっと数えたら5個ずつあった。
「今の子は知らないかな。春はぼた餅というの」
襟子はハッとして
「あ、牡丹の時季だからですか?」
遠慮がちに聞くと
「そう」
と、鉄子が短く答えたのでホッとした。織江は
「じゃあ、秋は萩が咲くからおはぎでいいんだ」
すかさず会話に混じって来る。抜け目が無いのだ。
いつの間にか糸がすまし汁をよそって来ており、錦之助が取皿を用意している。皆で置いたり配ったりおかずに被せてあった蝿帳を取ったりし、瞬く間に準備ができた。驚いたことに、鉄子はマイ箸を持って来ていた。鉄製だったので織江が吹き出したが。
食事の後は襟子の帰りが遅かった理由が話題となった。
「織江ちゃんと同じく、早速気の合う子と話が弾んだんでしょ」
「気が合いそうな子はいるけれど、違います」
「忙しい先生の用事を手伝っていたのか?」
「先生に頼まれたのは用事じゃない」
「えっ、何部に入ろうかと部室見に行ったんじゃ」
「まだ、そんな気にはならないよ」
織江を小突く真似をすると糸が
「今までの所にヒントがあるわよね。先生に用事じゃない事を頼まれたんでしょう」
今まで聞いていただけの糸の鋭い指摘に
「うん。クラスをまとめてって頼まれた」
思わず真相が口をついた。
「それって…」
織江が絶句した。
「女子副委員長になったのよ」
「委員長は男の子?」
自分より年上に男の子って…と言いそうになったが仕方無い。
「そうよ」
「何故なんだ」
何故か錦之助が聞いてくる。
「旺洋高校だったわよね。あそこは、元男子中学校だったという歴史があるからじゃない?」
鉄子が誰かに聞いた風に言った。
「そうなの。担任の先生がそう言っていた」
「つまらないの」
女子副委員長でも無い織江が膨れている。彼女なら、生徒会役員に立候補してその風潮を変えかねない。
「本当に決まったのか…」
「何があったの?」
左右から両親の心配する声が聞こえる。真正面にいる伯母の表情は何も読み取れない。母校の現状に呆然としてしまったのだろうか。襟子は理由を話した。
「大丈夫なの、その学校!」
口を閉じた途端、織江が生意気な事を言った。将来自分が通うかも知れないとは全く思っていないらしい。
「そうか」
錦之助は理解を示したが残念そうに
「襟子は書記というか、書いてまとめる方が似合っているのになぁ。だって、この文豪と同じ本名を持つ俺の娘なんだから」
親指で自分を指しながら言うと鉄子が
「夏目漱石って言いたいんだろう。キンの字が違うよ。文豪さんはキンキラキンの金。そっちは段々お金にならなくなってきているじゃないか」
家業の反物屋が昔より流行らなくなっていることに掛けた一言だ。姉なりに継がずに嫁いだと気にしているらしい。糸は義姉が気に掛けてくれていることを嬉しく思う反面、親として子供のめでたい席で学び辛くなる様な事を言うなんてと複雑な思いがした。襟子は伯母の言葉に勢いが戻ったとホッとしていた。アルバイトではなく家業の手伝いをしようと決意しながら。
「まぁまぁ、お姉ちゃんの書く才能は部活で活かしてもいいんだしさ」
織江の取り成しに
「そうね。園芸部が合わなかったら考えてみるわ」
と応える。
「落ち着いた所でお暇しますね」
鉄子が腰を上げたので
「ぼた餅、有り難うございます」
「いえいえ、こちらこそご馳走様」
皆で見送った。襟子は、ちゃんとぼた餅と言えてドヤ顔をしている妹を可愛いなと思った。
高校生第一日目は、とても濃い日だった。
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