7. レースのドレス

 その噂を聞きつけたのは、そろそろ冷え込みも厳しくなる頃だった。彼の治める国は、内海に面しているから、海からの風によって大きく気候も変わる。もともと耕作地の少ない土地ゆえに、収穫に追われることはあまりなかったが、だからこそ、冬への備えは毎年の課題でもあった。


 そんなことを考えているうちに、ふと窓の外で揺れる飾りに目がいって、それを思い出した。

「そういえば、そろそろ祝祭の時期でしたか」

「ええ。ですから、しばらくお暇させていただこうと考えておりました」

 穏やかな声でそう告げた宰相の瞳は、ほんの少し悪戯っぽい光を宿している。この男がこういう顔をしているときは、大体何かを企んでいるとわかっていたから、彼は薄く笑んだまま、どんな言葉が飛び出してくるのかと内心で身構えた。

貴国レヴァンティアでは、祝祭は数日続くのでしたか」

「実際の祭りは一日だけですよ。それまでの準備に時間をかけますが」

「日頃は慎ましやかな紳士淑女も仮面をつけて羽目を外して楽しむ——ですね?」

「ええ、ほんの一夜の夢のようなものですよ。ところで——」

「遠慮しておきます」

 彼が宰相の言葉を遮ると、相手は珍しく目を丸くした。それから豊かに蓄えた顎髭を撫でながら、ますますその黒い瞳に楽しげな光を浮かべる。しくじったか、と気づいてももう遅い。

「おや、まだ何も申し上げてはおりませんが」

「祝祭へのお誘いでしたら、という意味ですが」

 視線を逸らしてそう付け加えると、宰相はくつくつと低く笑う。よりいっそう興味を引かれた、という顔をしながらも、それ以上は踏み込んではこなかった。諜報にけた彼のこと、半ばは既に把握済みで、そうでないことも容易に知れるとそう考えたのだろう。

「未だきさきめとらぬ大国の王に、周辺の国々も興味津々のようです。お心当たりがあるのでしたら、そろそろ明らかにされては?」

「大国というほどではありませんよ。それに私の代で尽きれば喜ぶものも多いでしょう」

「その後の混乱を治めることになる方の身にもなっていただけますかな」


 随分率直な言葉に目を上げれば、思いのほか柔らかい眼差しが彼を見つめていた。父も母も政争で亡くし、親類縁者といえばほぼ敵対者しか残っていなかった彼にとって、この宰相とその家族が数少ない友好的な血縁であることは紛れもない事実ではあった——一度、手酷い裏切りをした過去があってさえも。


「……お気遣いには、本当に感謝します。ですが、その……本当にご心配は無用です。まだ時間はかかるかもしれませんが」

 それだけを何とか告げると、宰相であり、隣国の公爵であり、彼の母方の伯父でもあるその人はいつになく朗らかに笑う。

「陛下がそこまで仰るのでしたら、ここは引いておきましょう。ですが、祝祭は何も一人で楽しむだけのものとも限りませぬゆえ」

 そう言って宰相が扉に目を向けると、同時にノックの音が響く。応えると、従者が何やら一抱えほどもある木箱を抱えて入ってきて、彼らの目の前に置くとすぐに退出していった。

 視線を向ければ、宰相はただ楽しげに笑っている。

「……中に刺客が潜んでいたりはしませんね?」

「あなたを亡き者にしたければ、もっと効率の良い方法を選びますとも」

 今度こそ高らかに笑って肩を竦め、ささやかな贈り物です、と一枚の封筒を差し出す。

「必要な時にお使いいただければ」

 そう言い置いていつもよりはやや足早に一礼をして去っていく。その肩が小刻みに震えていたのは、何かしらの企みのせいか、あるいは彼の内心を見透かしたためだろうか。


 やれやれとため息をつきながら立ち上がり、箱に歩み寄ると、ふわりと甘い香りのする風が頬を撫でた。

「何が入ってるんだろう」

「……リィン、見ていたのかい?」

「大体ずっといるよ。言ったじゃないか」

 そう言う横顔は、何のためらいも照れた様子もない。そばで見守ることにする、と改めてそう宣言したあの時からずっと。

 室内でさえ、豪奢に輝く金の髪にそっと指を滑らせる。極上の絹糸のようなその手触りと温もりは、今の彼にとっては何よりも大切なものだった。

「ねえ、リィン——」

 甘くそう囁きかけた彼に、けれどその性質通り自由な風の精霊はするりと離れて箱に手をかける。その翠玉のような瞳はいつもよりもさらにきらきらと輝いていて、呆れるよりも笑みが洩れた。

「気になるかい?」

「何だか……懐かしい気配がする」

 不思議そうに傾げられた華奢な首筋に匂い立つような艶やかさを感じたけれど、そっと心の奥にねじ伏せて、代わりに木箱の蓋を持ち上げた。ふわりと何かの薬草のような匂いが立ち上る。

「これ……ジュリアーナの」

 はっと息を呑んだリィンの視線の先にあったのは、若草色のレースが幾重にも重ねられたドレスだった。宰相の——そして彼女の故国である公国の名産である、職人の手によって織り上げられたごく繊細なレース。花と草、それから複雑な紋様が示すのは——。

「これは……風の精霊王の印だ。さまざまな紋様と折り重ねられているから、一目ではわかりにくいけれど」

「精霊王の?」

 思わず問いかけた彼に、リィンはじっとそのドレスに視線を釘づけられたように見つめながら頷く。

「王の印は親愛の証だ。それがこんなところに……」

「レヴァンティアの初代公爵は風の精霊王に愛された人だったと聞く。ありえないことではないのではないかい?」

「それは……」

 何かに迷うように瞳を揺らしたリィンに声をかけようとして、ふと、ドレスの上に何かが置かれているのが目に入った。それは一枚の封書だった。ちょうど、宰相——レヴァンティア公爵が彼に置いていったのと同じような。


 表書きには、「王をまもりし風へ」と書かれている。裏には見間違えようのない、レヴァンティア公爵の紋章が押された封蝋。リィンも驚いたように目を見開いて、彼にどうすべきかというように目線で尋ねてくる。

「君宛のようだ」

「どうして……?」

「さあ、あの方の考えることなど、私の想像を遥かに超えていくから」

 裏をかいたつもりでも、常に先を越されている。あの公爵は油断も隙もない男だが、わざわざこんなものを用意して嫌がらせをするような人間でもない。安心させるように頷いて、封書を手渡すと、リィンはなおも戸惑うようだったが美しい指先でその封書を開く。


『長き間、孤独な王を護り続けたあなたへ、感謝と祝福を込めてお贈りする。

 王の孤独を癒し、支えとなってくださるように。

 いささか古臭い意匠で申し訳ないが、これは風の王の寵愛深き初代公爵より受け継ぎしもの。その加護があなたと我が甥にもあらんことを』


 末尾の追伸はやや砕けた悪戯っぽい文字で書かれていたが、その意図は十分に伝わってきた。


「あの方は……本当に」

「これは、セフィーリアス王がレヴァンティアに贈ったもの……」

「のようだね。随分古いもののはずだが、こんなに状態が良いなんてことがあるのかい?」

「風の護りは風化を防ぐから」

 そっとドレスに触れながら、リィンは何かを考え込むようだった。ゆっくりと指先で紋様を追い、ひとつひとつに込められた何かを探るように。

 それから、ゆっくりと顔を上げてまっすぐに彼を見つめた。


「私が、こんなものを受け取っていいんだろうか?」


 翠玉の瞳が微かに揺れる。それは、きっとその意味を確かに理解しているからだろう。

 リィンは風の精霊だ。何より自由を愛する。風をとどめることができないように、きっと彼女を閉じ込めることなどできはしない。それでも、彼女は彼を見守り続けてくれた。側にいる、とそう言ってくれたのだ。その言葉に、どれほどの決意が込められていたのか、知る由もなかったけれど。


「君は永遠と刹那を生きる風だから」


 そっと箱からドレスを取り出し、リィンの腕に抱かせると、その彼女ごと抱きしめる。びくりと震えた体は、それでも逃げ出そうとはしなかった。


「少しずつで構わない。そうだな、次はこれを身につけて、私と一緒に祝祭で踊ってくれるかい?」

「祝祭……ってあの、レヴァンティアで開かれるやつ? たくさんの見せ物や、ご馳走が並ぶあれ⁉︎」

 急に目を輝かせたリィンに、彼は思わず吹き出す。人の世界をずっと見守ってきた彼女は、けれどまだ人に交わることには慣れていない。好奇心の塊のような彼女と過ごす祝祭は、きっと楽しいものになるだろう。

「ああ、公爵から招待状も受け取っているから、なんなら公爵邸の特等席バルコニーから花火も見られるかもしれないよ」

「花火! あの野蛮な光⁉︎」

 そう言いながらも、緑の瞳はキラキラと輝いている。顎をすくい上げ、顔を寄せる。リィンは戸惑った顔をしたけれど、やはり逃げようとはしなかった。


 それから、もう少しだけ距離の縮まった二人が——公爵の贈った仮面のせいで——ちょっとした波乱に巻き込まれながらも祝祭を楽しんだのは、また後日の話であった。

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風への贈り物 橘 紀里 @kiri_tachibana

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