第8話


 EP.7

 


 午前十一時六分。

 


 吐血した。

 


 体に明らかな異常が起きる。


 

 全身の痙攣。視界不良。経験のない腹部の痛み。


 

 バイタルは異常値を感知し、警告音が病室内に響き渡る。


  



 隣の病室の患者Aは、ナースコールを鳴らし、

 隣で警告音が鳴っていると呼びかける。

 

 ナースステーションでは、

 警告音に気づいたナース二名が溜池来輝の病室へと走る。

 

 ナース一名が医師へ連絡。

 

 病室に到着したナース一名は、溜池来輝への声掛け。

 応答は確認されず、もう一名は手首での脈拍の確認。脈、微小ながら確認。

 


 ナース一名、呼吸器の装着。


 ナース一名、投薬準備。


 連絡を受けた医師一名、到着。

 

 ナース一名から状況を聞き、溜池来輝への声掛け。同様に応答なし。

 


 医師はナース一名へ投薬投与を指示し、

 ナース一名へMRI、手術室の確保を指示。

 


 ナースステーションに残るナース一名は、医師へ連絡ののち、

 溜池春一、里美へ病状急変の連絡。


 




 2021年 6月28日 午前十一時四十七分

 

 



 溜池来輝の緊急手術が始まる。




 

 病院に神妙な面持ちで現れた溜池春一、

 里美には経緯とMRIの結果、手術の内容が説明された。

 


 「経緯としましては、午前九時頃、様子を見に行った際、

  明らかな容態の変化は見られず、バイタルも日頃と変わらず

  安定していたことが看護師によって確認されていました。

 

  ですが、午前十一時を少しまわった頃、バイタルの警告音が

  ナースステーション内で確認され、吐血、意識レベル低下、

  脈拍低下を確認し投薬などを行っています。

 

  また、MRIの結果ですが、左腹部に大きな損傷が見られます。

  こちらは上前膵十二指腸動脈領域の動脈瘤破裂と診断し、

  とても危険な状態です。」

 

 「ら、来輝は助かるんですか?」

 

 「正直に申しますと、来輝さんは手術を行ったとしても、命の保証はありません。      

  私たちも全力で対処を試みますが、

  最悪の事態も考えていただきたいというのが本心です。」

 

 「で、でも助かる可能性はあるんですよね。」

 

 「仮に一命をとりとめたとしても、深刻な後遺症が残ることが考えられます。」

 

 

 この時、母・里美は一言も発さずただ祈るように、

 目を閉じ右手の拳を震わせた。


 

 十年以上の時間をかけて、正式に診断された病名は、

 溜池来輝を死に至らすものとして、十分すぎるものだった。

 


 両親に説明が行われる中、手術室で眠る溜池来輝の心臓は、

 急激に鼓動を小さくする。

 



 溜池春一、里美は我を忘れた。

 仕方がないことなのだろう。

 十年もの時を辛さを見せず、献身的に支え続けてきたのだから。

 


 里美は、十年前のとある日から週六日でパートを始めた。

 時間帯は午前六時から午後一時まで。

 パートが終われば、来輝の元へ面会に向かい、

 そこからまた、午後五時から午後十時まで別のパート先で働いた。

 

 一日の睡眠時間は、四時間。あればいい方だった。

 

 それでも、息子の体が良くなるのならば、

 命をつなぎとめておけるのならばと、辛さを見せることはなかった。

 

 春人は、朝満員電車に揺られ、

 夜、閑散とした静かな電車で帰路に着く生活を送っていた。

 朝から夜まで働く二人の給料でさえ、

 生活は困窮するほどに治療費にすべてを注いだ。


 

 そんな二人が初めて見せる表情。

 苦しみ、痛み、辛さ、悲しさといったものが、

 溜池来輝を思えば思うほど、症状となり体を襲い始めようとしていた。

 


 

 二人が我を忘れたのは、体からのサインだったのだろう。

 自我を忘れたことで痛みを消した。


 



 そして、手術室の溜池来輝は夢を見ていた。

 走馬灯ではなく、しっかりとした夢を。

 




 それは小学六年生に上がったばかりの頃の話。

 


 2011年 4月16日。

 


 「来輝―。いつまでぼーっとしてんの。早くご飯食べないと遅刻するよ!」

 

 なんだろう。僕の家。僕は気づいている。これは、夢だ。

 

 でも、気づいているだけで目は覚めない。この夢から抜けられない。

 

 僕の目の前には、朝ごはんが並べられていた。

 

 僕はたぶん、食卓に座っている。

 ただ、椅子の感触やご飯の香りは感じられない。

 首を回し、視野を拡げることもできない。

 

 「来輝。どうした?早く食べろ?

  六年生に上がったばかりなのに遅刻したらかっこ悪いぞ?」

 

 六年生?僕が見ているものは十年前の様子?

 確かにこれが十年前なら、父さんが若干今よりも若く見えるのも不思議ではない。

 

 時を決定づけたのは、父さんの奥に見えるカレンダーだった。

 

 家のカレンダーはその日が終われば斜線が引かれ、

 今日が何日なのかがすぐに把握できる。

 

 今日は、4月16日。僕が意図せず病院に行くことになった日だった。

 


 それに気づいたとき、目の前の場面は早送りのように移り変わった。

 

 目に飛び込んできたのは、僕の知らない実家。家具や配置はさほど変わりはない。  

 でも、僕はその家を知らなかった。

 僕の置かれた場所は、キッチンの目の前に配置された食卓を斜めに見て、

 カレンダーとその上の時計が視点になっている。

 

 カレンダーに目を向けると、同じく斜線が引かれ、

 

 2016年 4月16日を示している。

 

 時計の時刻は、午前五時。さっきの夢から五年後。

 

 キッチンには、母さんが現れ、少し白髪交じりの髪が印象に残った。

 目覚めて間もないのか、うつろうつろにキッチンに向かい、

 冷蔵庫の一番下の引き戸に手を伸ばし、何かを手に取り、

 電子レンジで温め始める。

 温めた何かを父さんの弁当箱に詰め込み、それを巾着に入れた。

 

 母さんは、それからキッチンを後にし、僕の後ろ側でドライヤーをかけ、

 時刻が五時三十分を回った頃、朝ごはんを食べることもなく家を出た。

 


 いつからなんだろう。母がこんな時間に起きるようになったのは。

 

 

 いつからなんだろう。こんな朝から支度をするようになったのは。

 


 いつからなんだろう。母さんを見られなくなったには。

 


 目では確かに母さんという存在をほぼ毎日、十年もの間目に焼き付けた。

 ただ、僕の中の母親という存在は消えた。


  


 


 夢の中の時計は、また時間軸を無視して時を加速させた。


 



 

 以前は、午前七時ごろに母さんはキッチンにいて、父さんの弁当を作っていた。

 

 それと同時に、温かい朝ごはんを用意し、食卓に並べる。

 

 僕は父さんと対面した席に座り、炊き立ての白米に、

 わかめの味噌汁、曜日ごとに変化する白米の御供に手を付ける。


 




 2016年 4月16日 午前七時。

 

 溜池家の朝を支えていた数々の食物は姿を消した。

 

 身支度を済ませ、リビングに現れた父さんは、

 キッチンに用意された弁当に手を伸ばし、そのまま家を後にした。

 

 父さんも朝ごはんを食べることはなかった。

 


 いつからなんだろう。リビングに朝日が差し込まなくなったのは。

 


 いつからなんだろう。七時に身支度を済ますようになったのは。

 


 いつからなんだろう。母さんの手作りの弁当を食べられなくなったのは。


 

 


 「何言ってんだ。溜池来輝。お前のせいだろ。

 


 お前があの日、吐血しなければ。お前があの日、生まれてこなければ。

 

 

 代わりに他の人が溜池家に生まれてくれば、父さんも、母さんも。」


 





 そう、僕はあの日、必死に、必死に、心を閉じ込めた。

 

 僕は、誰にも心配も迷惑もかけたくない。

 

 僕は、誰のことも心配も迷惑もしたくない。

 

 僕の中から、消そう。いないことにしよう。死んだことにしよう。

 

 僕にはもう、母さんも父さんもいない。

 

 そうすればきっと、僕は救われる。きっと他の人も救われる。それでいいだろ。


 



 



 「溜池来輝。お前は、孤独だ。」


 


 



 もう、いい。死にたいんだ。殺してくれ。

 誰も僕を助けようとしないでくれ。現実から逃げたいんだ。


 






 「僕は、孤独で、死にたい。」


 






 誰のことも想うことなく。誰からも思われることなく。


 


 父さん。母さん。僕はあなたたちの中から、いなくなります。

 どうか、許してください。


 






 手術室の僕は、涙を流していた。

 今にも目尻から溢れそうな水滴は、

 手術室の光源により、鮮明に零れ落ちる瞬間を記録された。

 




 その水滴は、看護師がいくらふき取っても、時間が経てば溜まり、

 そして、溢れ続けた。


 


 人間にしろ、動物にしろ、必ずおわりは存在する。




 夕刻に向け、地平線を見下げる月と地平線を見上げる太陽がときを知らせた。








 「ピー――――――。」

 








 たった一つの機械から流れるその音は、

 手術室に充満する空気をわずか一秒足らずで、冷気へと変えた。

 



 バイタルの数値は0を示し、脈拍は綺麗に真っ直ぐ、その線を伸ばし示す。

 



 あわただしくなる手術室は、血相を変えた人間で溢れた。


 


 私は、あの瞬間まで、弱った患者、病に侵された患者を助けることが

 医師や看護師に共通する使命だと思っていた。

 だが、それは間違いなんだと知った。


 医療に関する人間の使命は、心を、患者の心を、

 生きていると実感できるこの現実につなぎとめることが使命。

 


 実際、医療ではどうすることもできないことなんて山ほどある。

 

 ドラマや、映画では、この状況下で、カウンターショックを行い、

 一命をとりとめているが、そんな奇跡は、残念ながらほとんど起きない。

 


 そんなことができるのであれば、どれだけ平和なことか。


 


 メスを入れた腹部は依然として、溜池来輝の血液で溢れている。

 

 医師、看護師は腹部付近の血液を含めた水分を丁寧にふき取り、

 願いを込め、何百回とカウンターショックを行う。

 


 溜池来輝の体は幾度となく痙攣を起こすが、

 一度真っ直ぐとなった線は、簡単に戻ることはない。

 



 希望を、奇跡を捨てなければいけない時間は必ずある。

 


 それでも、幾度となく繰り返される蘇生法。諦めるわけにはいかない。

 




 そんな医師達の意思に反して、溜池来輝の時間は、まもなく0を迎える。

 

 



 少しの静寂に包まれ、冷気が漂う手術室は、医師の一言を待っているようだった。

 

 











 心臓という臓器は、いわばポンプのような役割をしている。

 

 心臓の働きがなければ、血液は体中を旅することは許されない。

 

 しかし、心停止と警告された溜池来輝の心臓からは、今もなお血液が溢れていた。

 



 





 溜池来輝の意思に反し、体は望んでいた。

 





 



 「生きることを。」

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あなたに、翼を。 丸尾 翔 @maruokakeru

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