第7話


 EP.6


 住所の記載がない封筒でも、繋がることのない電話でも、きっと大丈夫。

 真乃にも“私”さんにも、もう届かないんじゃないかって。そんな不安も大丈夫。

 どこか気持ちだけが先に前を向く感覚。

 そっか。そうだったんだ。

 糸が重なり交じり合う。




 


 2021年 6月28日 千葉県

 

 「真乃。買い物一緒に行かない?」

 

 私はお母さんからの誘いを、口を動かすこともなく、首を横に振ることで断る。

 

 「じゃあ、何か食べたいものはあるかい?」

 

 私はまた、首を横に振る。

 お母さんは衰退していた私を横目に、静かな物音で買い物へ出かけた。

 お父さんが亡くなって、五か月が過ぎた今でも、

 私に羽は一枚もおりては来ない。

 

 時間という魔法は、私を支えることもなく、

 ただ時の進行だけを目的として働いた。

 時にすがることができなかった私は、晴れの日も、雨の日も、

 朝でも、夜でも関係なく、願いを込めて雲だけを見つめていた。

 

 

 それは、私が小学五年生の時、お父さんが教えてくれたこと。

 


 家でのんびりしているとき、お父さんはいつもカーテンを全開にして、

 空を眺めていた。

 

 本を読むわけでも、テレビをつけるわけでも、出かけるわけでもなく。

 

 「なんでパパはいっつも空ばっか見てるの?変だよ?」

 

 娘からの問いかけ。

 空から私へ視線を変えて、笑顔を向け、言う。

 

 「空っていうのはね、パパにとっては救世主とかヒーローみたいな存在なんだ。」

 

 「空がヒーロー?パパ、変になっちゃったの?」

 

 けたたましいほどにはてなマークが浮かんだ私の頭に優しく手を置いて、

 その言葉の真意を続けた。

 

 「どこからでも見える空には、太陽があって、青く澄んだ遠い先があって、

  色々な形や長さをした雲が存在しているよね。

  その雲の中にあるんだよ。羽が。

  

  決してパパにも、真乃にも届きようもない場所にあるから、

  お願いします!ほしいです!って願うんだ。

  そうしたら、誰かが羽をわけてくれる。

  真っ白い中に綺麗に澄んだ青色が混ざっているような綺麗な服装の誰かが。

  まるで、そこから抜けだしてどこか遠くまで一緒に行かないかい?

  って言われているように。」

 

 私は、わかりやすく首を大きくかしげた。

 

 「ちょっとなに言ってるかわかんない。」

 

 好きだった芸人風に答える私。

 お父さんは、私の肩を抱き、窓の方へと誘導させた。

 

 「ほら、真乃も雲を見つめてごらん。そして願うんだ。

  羽をくださいって。願えば、真乃にも誰かがわけてくれるから。」

 

 あまりにも本気で言うお父さん。

 

 「いや、ほんとにわかんない。」

 

 少し真面目に答えた。

 

 すると、お父さんも少し真剣な表情をした。

 

 「今は分からないかもしれないけど、いつか分かる時がきっとくる。

  辛い時、悲しい時、苦しい時には羽を分けてもらって、

  その羽を一枚一枚丁寧に繋いで、大きな翼をつくるんだ――。」


 



 ねぇ、お父さん。私に羽を分けてくれる人はほんとにいるの?

 これだけ、我慢して、辛くて、悲しくて、苦しくて、

 私ひとりじゃどうしようもなくて、すがる思いで雲を見続けているのに、

 私、見捨てられたの?

 

 

 雲を見るという行為をやめて、私はソファの上で蹲った。

 

 先のことに目を向けれずに、下を見ることしかできなかった時、

 足元に違和感を覚えた。

 


 何かが小刻みに揺れていた。

 私は、その違和感の正体に手を伸ばし、画面をつけた。

 


 時刻は十一時ちょうど。

 この時間には雲さんという人が“今日の雲”というハッシュタグをつけて、

 雲の流れの動画を投稿する。

 


 私は、二十歳の時、雲さんを見つけた。

 お父さんと同じ思考を持った人かと思い、投稿を見てきた。

 たまにコメントを残し、雲さんの思考を読もうとした。

 

 お父さんの亡くなる前日と当日には、確認の意味を込めてコメントをした。

 でも、雲さんは羽について知っている人ではなかった。

 

 下を向く私には、もう雲さんの存在は必要ない。

 そう思いながら、通知に目を向ける。

 

 「雲さんが画像を投稿しました。」

 

 投稿されたのは、雲の動画ではなく、一枚の絵だった。

 私は通知に手を触れ、画面の明かりを強くした。

  

 描かれた絵には、ベッドにいる一人の男の人と、窓を見る一人の女の人がいて、

 場所は病室に見える。


 男の人は羽を女の人に渡そうとして――。


 不思議な感覚。

 記憶をすんなり掘り起こされる。

 そんな感覚。


 きっと私はその場所に行ったことがある、と思えて仕方なかった。


 一枚の大きな窓には、黄緑色のカーテンが束となり綺麗に結んである。

 ベッド脇の小さな台には、小さな花瓶に緑と黄色の花が生けられている。

 小さな台の前には、黄色の大きめなキャリーケースが置いてあって、

 ベッドの右側は、検査をしやすいように物はない。 

 

 病室のベッドにいる男の人は、どことなく彼に似ていて、

 その笑顔は、話をする時の表情そのものだった。

 

 ベッドテーブルには、一本のペンと、メモ帳。

 


 何度もそこに足を踏み入れた。


 いつからか、一番落ち着ける空間になっていた。

 

 患者と看護師という立場としても。

 

 そうでなくても、私はあなたとずっと、話をしていたかった。

 

 永遠に雲が重なって、私に時間を与えてほしかった。

 

 「どういうこと?」

 頭の処理が追い付かない。

 もしかして―――。

 

 雲さん。私はあなたのことを知っていますか?

 雲さんは、私のことを知っていますか?



 答えの返らない自分への問いかけ。

 それでも、すっと心に落ちる。

 正解。


 これが現実なのだと。

 

 私の糸は繋がったのだ。


 あなたは現実でも、携帯の中ででも、私と話をしてくれていたんだね。

 

 今まで、看護師という立場が邪魔していたんだ。

 それで、自分の気持ちに勝手に蓋をしていた。

 また、あなたと話したいよ。笑顔で、話したいよ。

 


 あの日、部屋に入った時。少し顔が歪んでいた。

 うまく取り繕っても、あなたは気づいていた。

 だから、何か言われる前に私は立ち去った。

 


 それでも、あなたは、羽をくれるんだね。前を向けって。下を向くなって。

 


 そう、言われた気がした。

 



 私は、久しぶりに泣いた。

 もう、枯れ切って出てこないと思っていたのに。しっかり出てくるんだ。

 


 目から零れる水滴は、画面に落ちて、私の心を表すように、画像を震わせた。

 



 

 6月28日 午前九時ごろ。

 

 「来輝さん、おはようー。」

 

 僕は、軽く会釈をして、カートを横につけた相澤さんに絵を見せた。

 

 少し恥ずかしかったから、顔が隠れるように下を向いて、頭の上で絵を持った。

 

 相澤さんは、にこやかに下唇を触りながら、ちょかすような口ぶりで

 

 「あふれてんねー。いや、あふれすぎだね。

  いや、ちょっと。私にはわかっちゃうんだよなー。」 

 

 相澤さんの頬には少し赤みが出て、それを見た僕も、赤みが出た。

 何をわかったのか、僕にはわからないけど、

 僕の思いの全てが相澤さんにも届いたことが嬉しかった。


 


 午前十一時。

 

 僕はいつもこの時間に“今日の雲”を投稿していたけど、今日は少し違う。

 今日は絵を投稿する。

 




 タイトルは

 





 「僕の羽をあなたに。」

 





 正直のところ、真乃の思う羽のことはあまりわかってはいない。

 それでも、その羽は真乃にとってとても大切で、

 僕が持ってるのなら、迷わず僕は渡すよ。

 


 どこにいるかわからない真乃を思って、空を眺めてきた。

 

  

 届け。僕の思いはこれに尽きる。


 







 午前十一時十七分。

 

 私は雲さんへコメントを残した。






 「あなたのもとへ翔んでいきます。」

 

 


 私と来輝にしかわからない。この言葉を。

 

 どうしても、今すぐあなたに会いたくて。


 









 「ゴボゥウワァー。ガハッ」

 

 





 想いと現実が繋がらないのが人生。


 







 溜池来輝は、死に直面した。

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