第6話


 EP.5                                    

 

 

 2021年 3月5日

 

 一月という時間は、あっという間に過ぎ去った。


 朝の冷え込みは多少なりとも緩和され、春に向けて、

 人も木々も成長を感じさせる季節になる。


 僕は成長することができているのか。


 あの人は成長しているように感じる。


 知識も行動も、心も、大人へと近づいていく。


 そんな葛藤と自信に向き合い人は、進む。



 

 弓野真乃が休んでから一月という時間。

 一度も姿を見ることはなかった。


 真乃のいない時間が日常となりつつ、過ぎる日々。

 湯気の立たない四二度の湯船。

 全身を潤す浴槽は、半身浴の状態に変わった。

 そして、酷使した体力を、毎日半分だけ回復する。


 僕も相澤さんも真乃の不在を行動に移すことで紛らわせた。


 相澤さんは真乃の分まで、せわしなく動いた。

 始めは真乃の話をしていたけれども、最近はそんな話もなく、

 採血や血圧を行えば、すぐに他の患者さんの元へと向かっていく。

 時間に追われ、患者に追われる一日。

 


 「真乃の分までやるのは大変じゃないですか?」

 

 

 質問した時には、微笑みながら下を向いて言っていた。

 

 

 「弓野さんが戻ってきたときに、戻りやすくしてあげないといけないから。

  私一人が大変になっただけで他は何も変わらない。

  それに、私が同じ状態になったとき、先輩も同じことをしてくれていたから。

  次は私が頑張る方にまわる番。」

 


 それを聞いたとき、何故だか涙がこぼれそうになった。


 







 僕はというと、昔好きだった――絵――を描いていた。

 


 タイトルは、――翼と羽――。


 大きな翼を持つ人と小さな羽を持つ人が手を取り合って、

 飛び立とうとする情景を描いた。


 真乃へ届けることができなかった。

 そんな気持ちのままでいることが嫌になった。

 私さんが悩んでいるのは明確だった。

 だから、僕は僕なりのエールを送ろうと決めた。

 

 この絵はSNSで幅広く拡散され、数多くのコメントが寄せられた。

  

 「素敵なものでした。ぜひこれからも描き続けてください。」


 「互いに手を取り合う姿。家族を感じました。」


 「主さんは、きっと綺麗な心を持っているのでしょう。」


 

 作品を褒めてくれる声。

 何かを感じてくれる声。

 僕を知ろうとしてくれる声。


 

 

 それでも、下へどれだけスクロールしても、私さんからのコメントはなかった。




 真乃にも、私さんにも僕の思いは届けることができなかった。








 


 2021年3月5日 午後一時

 

 「弓野さんのことなんだけどね。」

 


 真乃は看護師をやめた。

 突然の一報だった。

 今朝、病院に連絡が入ったらしい。理由は一身上の都合。

 

 

 「ごめんね。来輝君。私がその日のうちに話ができればよかったのに。」

 


 手を伸ばせば繋がれたかもしれない。

 

 「いや、僕があの時、真剣に話を聞いていれば良かったんです。」


 聞いていれば、今もこの場所にいたのかもしれない。



 勝手な推測なら誰にでもできる。

 相手のことを知った気になって、話して。

 分からないと思った瞬間に、黙り込む。



 僕は本当に都合がいいように存在しているだけだ。

 


 これまで、ずっと病気にかかることが一番辛いと勝手に思っていた。

 原因もわからないまま声を失い、足の自由を失った。

 どうすればいいのかわからなくなって、正解がなにかもわからないままこの場所に。

 


 正直、辛かった。

 でも、知った。

 


 

 この世界は、辛いことで埋め尽くされている。

 



 こういう時、僕の涙腺はほんとうに正直だ。

 






 辛い時、悲しい時、寂しい時、苦しい時、涙は零れ落ちる。


 



-----------




 2021年6月7日


 この病院が位置する東京には、梅雨入りが宣言された。

 僕らが見ていた真っ白い雲は、黒を一滴垂らしたような浅葱色へと変化と遂げた。

 

 周辺の無数の雲は、一つと錯覚させるように大きく拡がり、二時間を過ぎても途切れることなく一枚の窓を横断し続けていた。

 

 雲に思いを乗せることができるのなら、

 僕のこの伝えられない気持ちは届くのだろうか。

 ついさっきまで、どこをさまよった雲なのか。真乃も見ていた雲なのか。

 私さんが見ていた雲なのか。僕がどれだけ頭を悩ませてもわかる日は来ない。


 

 「おはよう。来輝君。」

 


 相澤さんはベッドの左横にカートをつけて、

 なにかを言いたげな顔をして立っていた。

 なにやら左胸のポケットを気にしている素振りをして、封筒を取り出した。

 

 「これ、今朝病院に届いたの。」

 

 宛名は溜池来輝。差出人は不明だった。

 

 「誰から来たのかわからなかったから、渡すかどうか迷ったんだけど。」

 

 「大丈夫です。後で見てみます。」

 

 差出人不明の封筒にドキドキしていたのか、

 この時の血圧は普段よりも少し高く、数値として表れた。

 



 

 封筒から特有の香りが病室に微かに漂う中、

 丁寧に押印され、羽があしらわれたシーリングワックスを剥がし、

 重ねて折られた二枚の便箋を取り出す。

 

 手には汗が滲み、ぴったりと重なった便箋の上下裏表にくっきりと指紋を残した。

 横書きに書かれた便箋を折り返し、文字を追った。

 

 



 「溜池来輝 様

 いかがお過ごしですか?私は生きています。

 四か月もの間、音信不通でごめんなさい。

 急に休んでしまってごめんなさい。


 実は半年前、お父さんが“がん”と診断され、

 四月の私が休んだ日、亡くなりました。

 

 あの日、休んだのはそのためでした。

 

 看護師になって四年。様々な方の死と向き合って、

 様々な症状を抱える患者さんと出会ってきていたけど、家族は別でした。

 

 日々、少しずつ衰弱していくお父さんの姿は、

 どの患者さんともリンクされず、何もできない私がそこにいて。

 誰にも相談できず、仕事も休む選択が取れませんでした。


 誰かに話していれば、助けを求めていれば、

 今、こんな状態にはなっていなかったのかもしれない。

 もっと早くに雲を見つめていたら、

 私の元へ――羽――が舞い降りてきたかもしれない。


 来輝君。ずっと話してくれてありがとう。

 私の話を聞いてくれてありがとう。

 

 来輝君が雲で話す時間をつくろうって言ってくれた時、

 運命だと思った。


 身近な人が雲に願うように、雲と会話をする。

 そんなことを思う人がいて、私は嬉しい気持ちになった。

 毎日、楽しかった。

 あの時間が生きがいになった。

 

 でも、もう、来輝の元には行けません。どこにも翔んでいけません。

 

 来輝君。あなたには羽がありますか?

 

 原因不明で十年もの間の入院生活。

 声が出ない、下半身の不自由。原因が分かれば幸せになりますか?

 今よりも苦痛を味わうかもしれないと考えたことはありますか?

 

 私の考えと来輝君の考えは違うから、“辛い”という言葉の重みも意味も違うよね。

 人それぞれ人生と向き合って、向き合って、向き合って、生きてる。

 

 でもね、来輝君。あなたにはずっと暖かく支えてくれる方々がいる。


 相談して、話をして、雲を見て、願って。

 

 そしてその羽を一枚一枚、丁寧に編んであげて。


 大きな翼にして、大きく飛んで。


 来輝は心が強いからできるよ。

 

 あなたの羽は、きっとすぐそこにあるから。

                               弓野 真乃」


 読み終えた頃、僕の目にはぼやけた浅葱色の雲が一枚の窓を、

 横断した瞬間をうつした。

 


 はじめて。人生ではじめて。声が出ないことを良かったと思った。

 


 きっと、大きく、大きく、響いてしまっていたんだろうな。


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