最終話
そば
なんだかずいぶんと眠っていたような気がする。もしかしてまずいのでは。瞼の端の目やにを弾きながら、スマホケースを広げると。
10:00……!
やってしまった。遅刻だ。大遅刻。しかも後輩からのLINEまで届いている。
『先輩、新人くんが来ちゃいましたよ』
とにかく返信だ。私はふにゃふにゃになったパジャマ姿のままで、後輩に連絡を送る。
『ごめんなさい! すぐに行くから、新人のパソコン設定だけやっておいて!』
それから家の中での一大活劇が始まった。洗面所で
駅までダッシュだ。染み一つない空が、世界は青でできているのだと告げる。幼稚園児たちのプチ遠足に無言で挨拶。ヒールの音がいつもより甲高く響く。工事現場のおじさんたちは何事かといった視線で私を突き刺してきた。ムクドリが白い顔で二次曲線を描く。やっとの思いで電車に飛び乗った私は、後輩からの返信がきていることに気がついた。
『OKでーす! ちなみに新人さん、エクセルを一から教えないといけませんね』
電車の伸びやかな音を一服の清涼剤としながら、私はスマホに指を滑らせる。
『そう。前職はなんだったの?』
『音楽関係らしいですよ。両手の人差し指の爪が、他の指の爪と比べて半分くらいしかないんです』
『爪が半分くらいしか、ない?』
訊いて、ぞくりとした。
私はきっと幻想を見たのだろう。セーラー服を着ている私が。あのころの私が、隣の席でニヒヒといたずら笑いを浮かべている。
おかしい?
よね。なんの執念もなく生きてきて、年次だけでようやくポジションを得たというのに懐かしい夢を見て大遅刻して。きっと上司にも大目玉をくう。あなたにとってはやっぱり、おかしいのでしょうね。
『名前は?』
『
それから後輩は『こわーい』という動物のスタンプを貼った。
なんたる愚言。
それは違うよ。着いたらちゃんと説明してあげないといけない。その人差し指は、彼の矜恃そのものなんだと。
たとえ右手の爪が削れても、ギターの左右を持ち替えてゼロから練習し、デビューの機会を得るまで強く強く削られてきた『左手』の爪なんだって。
それから一つ喉を上下させ、都築とのトークルームを開けた。
『もうすぐ夏休みだね』で止まっている、かつての私のメッセージ。
今からもう一つ、つけ加えてあげなくっちゃ。
座席の背もたれがあったかい。汗をかいてしまったかな。でも、この汗がおさまるときには、きっとあなたは驚いているはず。
ギターじゃなくていい。また曲をつくろう。今度は、タイピングの音を私に聴かせてね。
まだまだ長い長い人生。まずは、551個目の歌を
私は、隣に座っている自分自身と笑みを合わせた。
『ごめん、もうすぐ着くから!
今日も、たっぷりサービスするぞう!』
今度は「いらねー」なんて、しかめっ面をしないでほしいな。
だって私のサービスは、空洞の夏を埋める、最高のキーアイテムなんだもん。
了
1/500のラブ・ソング 木野かなめ @kinokaname
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