短編集「楠」

森 侘介


 教室のいすに座り、窓のそとを眺めている。

 となりには母親が、その向かいには担任の教員が座り、当人をほったらかしにして、進路について話している。

「なんべんも言ってるけど高校へは行かないよ」

 担任はぶあつい肩をいからせ、丸太のような腕を組み、おおきな鼻から息をふきだした。

「高校いかずにどうするつもりだ」

「はたらくんだよ」

「どこで」

 あきれかえった担任のためいきが届くと、少年はその眼を窓のそとからぐいと引きもどし、視線をつがえて答えた。

「どこでだって だよ」


  どこでだってはたらくさ

  息のつまる家からとびだして

  自分の金で好きなことをするんだ

  制服や校則にしばられるのは

  もうたくさんだ


「本人もこう言ってますし うちでいくら話しましても 進学はしないの一点張りですので うちではもうあきらめているんです」

 母親の言葉に、ふたりはおどろいた。

「どのみち ずっとこんな調子なんですから 進学したところで長つづきしないでしょう それなら はやく世の中にでて 揉まれてみるのもいいと思うんです」

 担任は唇のはしをわずかにひきつらせながら「しかし」と言いかけ、母親の言葉にさえぎられた。

「そのかわり その後のことはぜんぶがぜんぶ あなたの責任ですからね 凜 学校にすすまずに働くという選択を あなたが自分でしたのだから」

 少年は視線をまた窓硝子のむこうの景色へ戻しながら、頬にあかくうかんだ微笑でもって、母に応えた。返す言葉がないのだった。彼の進路相談はそれきり終わった。


 級友たちは、それぞれの薄い胸のなかに夢を育みながら、あるいは漫然と言われるがままに、進路を高校受験へと向けていた。神経質なせわしさが教室にみち、廊下にあふれ、校舎をつつんでいった。見えないつる性の植物のようななにかが蔓延って、校舎を呑みこんでしまったように感じられた。

 鬱蒼とした森のような静けさをたたえた仄暗い学校から、凜はすこしずつ遠ざかっていった。ひとりでいる時間がひごとに増えた。すこしさみしくもおもいながら、それ以上に「せいせいした」と感じていた。ひとりでいる時間は自分にとってわるいものではないと知った。

 偏差値、内申書、よい大学、よい企業、よいということのほんとうの意味もわからないままに、大人が指をさすほうへ向かってどしどしと流されていく級友たち、そのさきには「氷河期」と形容される就職難の時世が待っているのだ、と凜は思う。

「ばっかみたいだ」


 

 校庭のすみ、新雪のようにやわらかくかさなりふくれあがった落葉の堆積のうえを踏みあるく。がさがさ、ぼろぼろ、音をたてて砕けていく枯葉を見おろしながら。

 

  受験できそって高校へ

  三年後にまた戦って

  それから四年後にまた戦って

  みんな働きたくて戦うのかしら

  よい会社とやらで

  上司に気をつかって

  泥酔して家に帰って

  女房や子供に愚痴をもらす

  そのために戦うのだろうか

  受験戦争とやらを

  まったく そんなことって

  ばかばしいよ

  独善的で高慢な教員たちにも

  有象無象の級友たちにも

  ぼくはほとほと飽きたんだ

  愛想が尽きてしまったんだ


 冬の風、柔肌などたやすく切っていってしまうような風がつめたくするどくひかる。

 襟巻きをぐいとひきあげて、顔を隠すようにしておおった。ひえたかたい手をしろい息であたためながら、空を見あげた。

 校庭のすみに植えられた樹木の、黒々とした幹から枝が、その指先をうすい青色した空へとのべて、くっきりと冴えている。枝先には数枚の葉がとりのこされて、風にあおられてひるがえっている。


  おまえをはこぶ風は

  まだ吹かないか

  けれど

  じきにやってくるにちがいない

  そまえはそれまで

  そこにしがみつき

  そうしてゆれているのだろうか

  それとも枝が

  おまえを放してはくれないのか



 車は、すっかり葉の落ちた欅の並木道をはしっている。路側帯に吹きだまった枯葉が、車の通りすぎるたびに波のようにざわめいた。うすやみのなか、ほそい眼をしっかりとひらき丸太のような腕で運転している担任を横目に、凜は助手席にふかぶかと腰をしずませている。

「やっていけそうか」

「どうだろうね」

「ひとごとか おまえの将来のことだろう」

「将来なんてない いまのくりかえしばかりだよ」

「屁理屈を言うな」

「屁理屈は理屈ではないの 白馬は馬ではないのかな」

 面接の帰り道だった。担任が見つけてきた建設会社、聞きとれない社長の青森弁、みすぼらしい平屋の社宅、そこに四月から住みこみで勤めることになった。実家からは、車をつかっても片道一時間、級友たちとも会わなくなるのだろう、この片田舎で、寝ては起き、起きては働きをくりかえすのだろう、ほかの作業員たちとおなじように。


  これがぼくの進路

  進路だって

  そんなことはない

  そんなはずがない

  すすむさきもわからないまま

  時間切れがやってきて

  学校からほうりだされただけだ


「おまえが選んだ進路だからな」

「そうだね」

「学校とはちがうのだからな」

「そうだろうね」

「しっかりやれよ」

「そうするよ」

 うてども響かない凜のむなしいあいづちに疲れ、担任はラジオの音量をすこしだけあげた。はやりの女性歌手が恋のせつなさを歌っているのが、とぎれがちな電波にのって聞こえてくる。



 冬の日が、むこうの山の稜線におちかかっている。担任は窓をすこしあけると、煙草をとりだしてくわえた。そとの清涼な空気がわずかなすきまから押し入ってきて、暖房にくたびれた車内の空気をかきまぜて洗った。凜は学生服のふところから煙草をとりだし、担任より先に火を点けた。

「おい」と言いかける担任のはなさきに火をおしつけて黙らせた。つきだされた火を煙草のさきにうつすと、めんどうくさくなったのだろう、なげやりな声でつぶやいた。

「まあ いいや とにかく 頑張って生きろよ」

「ありがとう」

 互いに胸奥からかわした言葉のようにも思えたし、ただ会話がめんどうくさくなっただけのようにも思われた。言いながら吐きだした煙は、窓のほそい隙間から、吸いこまれるようにしてそとへ消えた。

 それから学校につくまでの数十分、会話はラジオに任せっきりにして、凜はそとをながれていく景色ばかりを眺めていた。


  こうしてぶらぶら

  ながれていくんだ

  うまれたついでに

  その意味もわからないまま

  どんどんさきへ

  あるいはうしろへ

  ながれていく

  ながされていく


 さきをむいても、うしろをふりかえっても、知らない景色だった。車がどこをはしっているのか、凜にはまったく見当もつかなかった。

「ねえ先生 この街路樹はなんて名だろう」

 担任は一瞥して

「知らんなあ」とだけこたえた。


  なまえが

  あるはずなんだけどな











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短編集「楠」 森 侘介 @wabisukemori

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