ポーカー、ラクーン、コックローチ
尾八原ジュージ
ポーカー、ラクーン、コックローチ
あちこち渡り歩いているうちに、もう潮時だというタイミングが肌でわかるようになった。部下の視線が後頭部にピリピリ刺さるようになり、反対にボスの目つきの湿度が上がってきたら、そろそろよそに移った方がいい。
ここ数年、私は彼らのような組織を使い捨ててきた。
馴染みのない土地で、フリーで仕事を探すのは難しい。私は新しい街に移ると、まず深夜の裏通りを歩き回って、その土地のギャングらしい奴らを探す。ボスに会わせてほしいというと大抵大笑いされるか脅されるかするので、その中でも体格がよくて声のでかい奴を半殺しにするとほぼ確実に態度が変わる。あとは普通に仕事をすればいい。このとき適当な偽名を考えなければならないので、目に入ったものの名前を適当に名乗ってしまう。ここに来る前はラクーン、その前はポーカー……今はコックローチ。
コックローチの名前で入り浸っているのは、事務所も兼ねたナイトクラブの二階、この辺のボスの私室だ。ビリヤード台みたいな色の緑色の壁紙、高そうなマホガニーのテーブル、シンプルなクローゼットに凝った装飾を施した金庫。奥にドアがあって、小さいながらバスルームを備えた寝室になっている。
春の初めの肌寒い日だった。寝室のベッドの上で脱ぎ散らかした服を拾って着込んでいると、右耳に煙草臭い息がかかった。ヒグマみたいに体格のいい中年男が毛深い腕を私の胴に回し、後ろから馴れ馴れしく抱きついてきた。
「なぁローチ、そろそろ正式にうちに入らないか。いい地位につけてやる。仕事も割がいいのを回してやるし、報酬もあげてやる」
ああやっぱり潮時だと思いながら、私は「考えさせてください」と答えた。ヒグマは不満げな声を漏らした。
「一体何が不満なんだ? 何でも言ってみろ」
「一箇所に腰を据えるのが苦手なんですよ」
ヒグマの腕に少し力がこもる。「お前、まさかよそへ行くつもりじゃないだろうな」
そのつもりです、などとはっきり言ったわけでもないが、ヒグマは私に抱きついたままベッドに押し倒して、かけたばかりのシャツのボタンをもう一度外そうとする。
諦めてしたいようにさせながら、私はサイドテーブルに置かれたアンティーク調のラジオを見るともなしに眺めた。手垢で黒ずんだスイッチを見ているうちに、なぜか子供の頃、汚い路地裏の冷たい土の上で眠ったことを思い出した。
そういえばあの頃ゴキブリを食べたことがある。別に愉快な思い出じゃないが、餓死するよりはマシだと思って食べたのだ。あの後まともな食事ができるようになり、時にはかなり贅沢なものを食べる機会もあったと思うけれど、未だに私は、食べ物のうまい、まずいがよくわからない。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
コックローチと名乗る男は、半年ほど前に俺たちの縄張りにやってきた。
よれよれのシャツの上にサイズの大きなジャケットを羽織り、黒い髪を無造作にうなじの下あたりでまとめて、黒縁眼鏡をかけている。いつも猫背で俯きがちで、いっそ陰鬱なほど白い肌をしている細身の若い男。本名以下詳細は不明。
ローチはある雨の降りそうな夜に突然現れ、まずナイトクラブの門番をさせておいた体格のいい奴ふたりを、あっという間にのしてしまった。
「とにかく只者じゃねえんだ、兄貴」と泡を食って呼びに来た下っ端を、ガタガタ言うんじゃねえと叱り飛ばしながら、俺はひとまずローチに会った。得体の知れない男は、下げていた口角を一瞬、にやっと上げた。
「旦那がここの偉い人ですか?」
「一番じゃないが、お前が畳んじまった奴よりはマシなはずだ」
「一番偉い人に会わせてくださいよ。でないと話にならない」
「会わせてやるかどうかを俺が決めてやる」
「じゃあ今はまだ試験中で、あんたは面接官ってわけだ」
男はそう言ってスツールの上で長い脚を組んだ。ぱっと見は陰気な、みすぼらしい印象の男だが、顔にかかる髪をかきあげたら、女みたいに線の細い顔をしているだろう。うちのボスが気に入るかもしれないな、と俺はふと思った。無論、それだけで会わせてやるつもりはなかった。
「殺してほしい奴はいませんか、面接官さん」
そのとき俺が名前を上げた敵対組織の中堅を、ローチはその夜のうちに片付けてしまい、ピアスのついた鼻と目玉を土産に持ってきた。俺はローチをボスに会わせてやることにした。こいつの仕事ぶりが本物だと確信したからというよりは、そうしないと俺が殺されると思ったのだ。しかし今はそれが間違いの元だったとわかっている。
ボスはローチをいたく気に入った。ローチは強かった。たった一人、ナイフ一本で誰の命でもとってきた。最初こそ胡散臭そうな顔をしていたボスが、あっという間にローチローチとうるさく言うようになった。あの頃にはもう、ローチはボスと寝ていたのかもしれない。
「面白くねぇ、なあ兄貴」
ある日、俺の弟分が零した。
「あいつが来てからボスはおかしくなっちまった。どんどんあいつの報酬を吊り上げてる上に、他の奴に回すような仕事もあいつに回してる。口を開けばローチ、ローチローチって!」
あいつ、悪魔かなんかじゃねえのかとそいつは言った。確かにそうかもしれないと俺は思った。ローチは常軌を逸している。あの大人しそうな外見の内側に、とんでもない怪物を飼っている。
「あいつの前身はどうなってる」
「そいつを今探らせてんだ。俺の情報屋は優秀だぜ。きっと見つけてくる」
実際、その情報屋はローチの足跡を見つけてきた。こいつはどうやら大陸のあちこちを点々としているらしい。前の街ではラクーン、その前はポーカー。ナイフ一本で誰でも殺してくる。情報屋が探ったのはそこまでだった。弟分がしけ込んでいた娼館の玄関に、喉を切られた情報屋の死体が捨てられた。
俺がローチを殺そうと決めたのは、このときだった。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
うつ伏せになった私の後頭部に、ヒグマの生暖かい呼気が当たっている。
ずいぶん長引いた。もう今日の仕事はお終いにしていい頃合いだ。早めに朝食の支度と洗濯をしておきたいのに、このままでは仮眠を取りそこねてしまう。
ところがヒグマはどこうとしなかった。私の腰の上にまたがって座り、両手首を握ってマットレスに押しつけながら、おもむろに話を始めた。
「なぁローチ。八年前、俺はまだこの街にいなかった。帝都にいたんだ」
八年前、帝都。嫌な予感がした。
「そこそこでかい組の幹部をやっていた。今はそうさな、暖簾分けしてこっちにやってきたようなもんだ。その頃でっかい会合があって、色んなところのお偉いさんがひとところに集まった。そこにあの大蜈蚣もやってきた。大陸有数の暗殺集団だ。知ってるな?」
私は相槌も打たずに聞いていた。これから何か起こるか、すでに何となく予想がついていた。
「……大蜈蚣の親分は、口元にでっかい傷のある押し出しのいい男でな。その後ろにきれいな顔の子供がくっついていた。十六、七くらいの、黒髪で、やけに肌の白い……場違いな奴だと思って、そいつが妙に目に焼きついた」
手首にかかる重みがなくなった。まとめていた髪を太い指がほどいた。ヒグマは上半身を起こしてその重量だけで私を押さえつけたまま、私の顔から眼鏡をとり、垂れた髪をもう一度手の中にまとめた。
「そいつは髪をこの辺でこう、ひとつに縛ってな」
後頭部、耳の高さに髪の束を持ってくる。私は横目でヒグマを見つめながら、じっと動かないままでいた。
「そら、やっぱりそっくりだ。あのガキに……あんな顔の野郎がそうそういるもんか。ははは、愉快だなぁ。俺は大蜈蚣のお気に入りと寝てやった! あの大蜈蚣の! なぁそうだろう!?」
ヒグマはゲラゲラと笑った。自分の勝利を確信した愚かな高笑いだった。素裸で丸腰で、自分より体重の軽い相手ならば意のままにできると思っているのだ。これほど軽率に油断するのは、おそらく私が彼と寝たからだ。
「お前、大方あの親分から逃げ回ってんだろう。なに、今のところは俺の胸ひとつに納めといてやる。その代わり……」
その先の話はもう聞かなかった。これから死ぬ人間がいう約束事など、聞いたところで意味がない。
あっさりと上下を逆転されたヒグマの顔といったらなかった。振り回した太い腕にはたき落とされたラジオが、床の上で鳴り始めた。レコード音源らしい古いシャンソンが部屋中に響き渡る。腕の中で首の骨が折れる手応えを感じながら、私はしばらくその歌を聞いていた。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
ボスが寝室にしけこんでいるときは、廊下からドアをノックしても聞こえない。それがわかっているので、俺はボスに用事があるときは事前に電話することにしていた。ところがその日は、いくら電話を鳴らしても応答がなかった。
「お楽しみなんじゃねえのか」
弟分がサブマシンガンを持ち直しながら言った。
廊下には俺とそいつを含めて、五人が集まっていた。それぞれ手に武器を持っている。俺たちはボスもろともコックローチを殺すつもりだった。ボスはもう以前のボスではなく、組織に害をもたらす存在になってしまった。これは裏切りではない。むしろ先に組織全体を裏切ってローチに入れ込んだのはボスの方だ。俺たちは粛清する側なのだ。
「それにしても遅い。もう売上を届けに来る頃合いだってわかってるだろうに」
俺はもう一度電話をかけた。出ない。仕方なくドアをドンドンと叩いた。
「ボス! 開けますよ!」
万が一に備えて、俺はこの部屋の合い鍵を持たされていた。ドアを開けると、くどいような緑色の壁紙が目に飛び込んでくる。マホガニーの机にクローゼット、金庫。奥のドアの向こうから、微かに陽気な音楽が聞こえてきた。
ボスも、ローチの姿も見当たらない。
(寝室の方、注意しろ)
俺は懐からベレッタを取り出しつつ、手真似で他の奴らに伝えた。武器を構え、部屋の中になだれ込む。
(いねぇな)
弟分の口が動いた。
その時俺は、マホガニーの後ろから何か黒っぽいものが、ものすごい速さで飛び出したのを見た。と思った次の瞬間には、サイズのでかいジャケットを着て陰気な顔をしたローチが、弟分の後ろに立っていた。その直後、弟分の喉がぱっくりと裂かれて、血液が噴水のように噴き出した。
俺はとっさに引き金を引いた。弾は当たらず、緑色の壁に穴を空けた。気が付くと俺のすぐ目の前に、ローチの顔があった。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
静かになった部屋の床に、五人の男が転がって死んでいる。着ていた服には派手に血が付き、硝煙の匂いがぷんぷんした。クローゼットから適当な服を失敬して着替えると、私は裏口からナイトクラブを出た。
もう夜が明けていた。ナイトクラブにいたときはあえて考えないようにしていた家のことを、私はようやく考え始める。身づくろいを整えたら洗濯機を回して朝食を作る。洗濯機が止まった頃にお嬢様が起き出してくるだろうから、何もなかったような顔をして食卓を整える……考え事をしながら表通りに出ると、上りかけの朝日を背景に男が一人立っていた。
「ようゴキブリちゃん、探したぜ。お前の通ってきた後に死体しかないんで、迎えが遅くなっちまった」
聞き覚えのある声だった。スーツを着た、見るからに性格の悪そうな眼鏡の男。全身の皮膚に鳥肌が立つ。四年前のあの日、私が踏みにじってきた古巣の追手が、とうとう目の前に姿を現したのだ。
ゲイブリエル・クロウ。大蜈蚣の金庫番。私の兄貴分だった男。
「お前、武器まで持ち替えやがってなぁ。マチェットはどうした?」
クロウは私に話しかけながら、悠々とこちらに近づいてくる。
いずれこんな日がくると、まるで思わないわけではなかった。もしそのときがきたら、何もせずに死にはしないと決めてもいた。サイズの大きすぎるジャケットの袖の中で、私はナイフを握り締めた。見たところ一人のようだが、こいつが正々堂々一対一なんてやるはずがない。おそらくどこかに手下が隠れているだろう。それでも闘うしかない。
「まぁ待て待て。物騒だなぁお前」
クロウはこちらの動きに気付いているらしく、おどけた様子で両手をひらひらさせた。「自分は武器を持っていない」と、わざとらしくアピールしている。
「そう恐い顔するなよ。俺はお前の兄さんみたいなもんだ、なぁ? ひさしぶりに会った兄さんとハグするか?」
「ハグしに来たわけじゃないでしょう」
「わははは」
クロウは愉快そうに笑った。「お前、そろそろ河岸を変える気はないか?」
「何の話です?」
「帝都に戻ってこい。ファーザーが喜ぶぜ。もちろん俺も歓迎してやる」
驚いた私の顔を見て、彼は眼鏡の奥でニヤニヤ笑った。
「色々めんどくせぇこともあるが、都合つけてやるよ。仕事も斡旋するし、住むところも用意してやる。そうだ、お前んとこの嬢ちゃんをちゃんとした学校に通わせてやろう。身元がばれないように、そっちも何とかしてやるよ」
嬢ちゃん。
一気に体温が下がったような心地がした。そこまで知られていたのか。どこまで? 知っているのはこの男だけか? いや、そうは思えない。必ず誰かと情報を共有しているはずだ。誰と?
あと何人消したら安心できる?
「だから恐い顔するなって。ここまで色々便宜を図ってやろうって言ってんだ。裏切り者にゃ破格の対応だぞ?」
逆光の中でクロウが笑っている。
「俺は金を稼ぐやつが好きだからな。お前のこともだぁい好きだ。だから帝都に戻ってこい。一緒に仕事をしようぜ、なぁ」
こちらの顔を覗き込むように話す相手に、私は「わかりました」と答えるほかなかった。クロウは嬉しそうに私の肩を叩いた。
「移ってきたらお前、ちゃんと俺に連絡入れろよ。大丈夫、ファーザーはぜぇったい喜ぶから。じゃあなジュージ」
去っていく縞柄のスーツを見送りながら、私はぼんやりと考えた。疲れた。逃げ回ることに膿んでいた。もしも四年前のあの日に戻れるとしたら、私はどうするだろう。あの日もし、本来の仕事を終えて大蜈蚣の元に帰っていたとしたら。本来の仕事を。本来の仕事を。本来の。
いや、もしも過去に戻れたとしても、あの日と同じ決断を私はするだろう。
明るくなっていく街の中を、私は早足で歩いた。こうなれば帝都に行くしかない。引っ越しの前には、やらなければならないことがたくさんある。
お嬢様を起こさないようにそっと家に入ると、私は着ていた服を脱ぎ捨て、ゴミ袋に押し込んだ。黒縁眼鏡をとってシャワーを浴び、自分の服に着替える。髪をきちんと結い直し、姿勢を正してまっすぐ立つとコックローチは死んで、私は執事の顔に戻った。
ポーカー、ラクーン、コックローチ 尾八原ジュージ @zi-yon
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