虹の雫

若菜紫

第1話 虹の雫

  『虹の雫』

              

たくさん出かけよう

君との想い出で

あらゆる場所を塗りつぶしたいから

その人は言った


二人は今

メリーゴーランドの上で回っている

彼の希望と

それに応えたい私の思いによって


すれ違う恋人たちの姿を

回転木馬に喩えた曲を思い出すが

互い違いに走る二頭の重なる時間は

手に取れそうなほどほっきりとして


呼び表せない関係で過ごしてきた二十年

いくつもの瞬間と

ひとすじの連なりが存在した

地上という空間に思いを馳せる


言わなくても分かるじゃないか

昔から

そんな甘えを自分に許さない人だった

だから


同じ時間が二つとなく

偽りなく

言葉のひとつぶひとつぶは

物語のような鮮やかさで


これがくり返されているとは

驚くべきことなのかもしれない

人の細胞は百日ほどで入れ替わるというのに

目が眩みそうになり


噴水の真上を

少し軋むようなヴァイオリンや手風琴の音楽とともに

虎や縞馬が駈ける

少し古びた色とりどりの乗り物そのものに


目を凝らす

想い出を重ねるのは良いが

塗りたくって

黒くなるのは嫌だ


ひとつひとつが透きとおり

すべての色が輝き

白に近づいてゆく

そんな光の重ね塗りこそ好ましい


きらめく雨粒は

思い返すほどに増えては散らばり続ける

土砂降りと日なたの入り交じる中

それぞれの色を譲らずに


手を振り合うには近すぎるけれど

こぼれるように微笑み返す

掬い上げた虹の雫で

今を描き留めたくて



『何故』            


薔薇よ

なぜ君は美しい

遠慮がちに葉を揺らす

風の問いかけ


薔薇よ

なぜ君の香りは美しい狂おしいまでに花を揺さぶる

風の戸惑い


薔薇はうつむき

棘に頬よせます

どうしたわけか

誤って刺したこの花びらが

なにごともなく

恋するがゆえの

気まぐれに意地悪な思いや

戯れに浮かべる空想の涙を

風は遥かな掌で

人知れず温めてくれるから

誰にも悟られず

この刻を訪れて

哀しい王妃の名を

光を得た王女の名を

慕わしげに叫びながら


凍える朝の陽だまりや

吹き抜ける木陰に

この

仄めく匂いや

きらめく色を

もしも返すことができているのなら

甘く

密やかな問いに対する答えを

人間たちの呼ぶような

ありふれた言葉では示すまい

感謝

それらひとつひとつを

名づけられる前

生まれたての姿に留めておきたいから


薔薇よ

なぜ君の心は

風よ



   『花、時々雨』          


大理石でつくられた棚の上に

青い擦り硝子の花瓶

中には赤紫の花びらと

曇り空の色をした葉が印象的なフランネル草

その傍らに

枯れた三つの花束が


ふと

贈られる前に花が息づいていた庭を思う

薄紅色のアーチが

ふとした諍いのあと送られてきた写真に

ひとたび ひとたびの逢瀬を大切にしようと

愛の指輪を交わした日

戯れにその人が発した言葉

思わず傷ついた心を掬い上げて


肌寒い休日

人目を忍んで駅から歩いた

原種だから一日しかもたないよ、と

いつになく毅然と

二十年前の瞳で

届けてくれた朝は初めてのしとしと降り

逢う時はいつも気候が良いね、と

テレビさえつけなかったのに


何憚らず抱き合い

目も合わせられなかった翌日に

晴れた緑道で渡された

今日を限りに咲き誇る

あの思い出の薔薇

紫蘭の陰に

変わらぬ恋を


君に似合うと

大輪のイングリッシュローズ

お弁当作りに手間取って

遅れた待ち合わせで

いつものお礼をしたかったのに

今日も出会った時からカウントダウン

帰り道の名残に似た夕焼け色をして


恋人を喜ばせたいあの人が

茂みに隠したフランネル草

日なたも翳りもひとつの思い

虹の気まぐれにひとすじの光

天気予報は雨

かもしれない



   『京鹿の子』

                    

線香花火みたいでしょ

晴れた日のカフェテラス

会話を途切れさせたまま見入った

包みから溢れんばかりの京鹿の子

それは

力のかぎり結ばれ

白く浮き出た模様の名を持つ花

点々とした蕾から

砂のようにこぼれ咲いた

赤紫の繊い花


二十年前

部室で声を掛けられた朝

銀杏の葉は緑がかった影を窓から覗かせ

なぜか置いてあったCDのデッキからは

ブラームスの室内楽曲が流れ


ふいに


恋人はいるのか

という問いかけの意味を

知らないわけではなかった

けれど


テーマパークで子どものようにはしゃぎたかった夕暮れ

海辺のショッピングモールで戸惑った昼下がり

白い洞窟のようなレストランでチョコレートを渡した夜


そんな時間は


友達という名に紛れていった

料理を切り分けてくれた手を

一瞬だけ思い出させて

花束の中で

葉の蔭から見え隠れするように


若い頃の思い出

という言葉の意味を

分かっているつもりだった

けれど


かたくなにうすみどり色をした芽も

手をつなぐように連なり

咲きはじめた薄紅色も

目を凝らせば今燃え盛る

幾千もの糸に似た集まりに


線香花火みたいでしょ

そうね

染め残した夏のね

京鹿の子って言うんだよ



『 白い京鹿の子』


白い京鹿の子だね

夏の盛りに小径で見つけ

彼に写真をメールで送った花

薄紅の色違いを

晴れた日のカフェテラスで渡されてから

数か月経った昼下がり


鹿の子絞りから名前を取られた花

ひとつひとつは

昔から純潔の象徴とされた白

なのだが

真ん中に紅ともつかぬ

白さの抜け落ちたような蕊があり

もどかしがりながら

初夏の終わりを咲き誇っている


力の限り抱き締めたあと

その人は私の胸元を直し

見つめ合い語らう時も

髪の乱れを整えてくれる


ー髪を切らないの?

ー長いほうが好きだから

ー抱き合う時引っ掛かったら痛いだろう それに

ーそれに?

ー暑くて気分が悪くならないか心配なんだよ

長いほうが似合うけど


初めて見せるドレス姿をほめてくれたコンサートホール

浴衣を着たいだろうからと誘ってくれたプラネタリウムのイベント

持ってくれた荷物が濡れないようにと不自然に傘を傾けたその人との距離が気になり


手を繋ぎたい

と私から囁いた雨の夜があって


二人で過ごす時間が幾つも訪れた

紅い噛み痕と痛みを残して


学生時代に訪れた場所で

若い頃の想い出

を探し

想い出となりつつあるこの瞬間を刻んでゆく


白をいくら重ねても白にしかならない

けれど


塗り重ねるほどに輝く光

計り知れない年数をかけて地上に届く星

それに似たこの花も

何気なく見るならば

ほのかに色づく手鞠にも似て

掌でふんわりと


白い京鹿の子だね 僕はピンクのほうが好きだけど

私もよ

これはね

染めきれていない夏の

白い京鹿の子



『夏の中で』


人目も憚らず

私を摘み取ろうとするその手を

思わず押さえ

咲き誇る紫陽花の茂みに目を泳がせた


女性は男性のどこに美を感じるものなのか、と

数日前尋ねられたが

即座には言葉にできなかった想いの正体を

緑と水車が光を滴らせる夏の中で探しながら


こうした話に時折触れる恋人に比べ

私には知識も読書量もなく

誤解のないよう伝えられているのかと

心もとなく思う


蜻蛉は争い縺れ

番いながら飛び交い

敗れた者を顧みることもなく

人間にとって愛の象徴とされる記号めいた曲線をつくる


花はひとひらの中に

数知れぬ色彩を煌めかせ

刻一刻と移ろいながら雨風に磨かれ

日に輝き晒される


そして思い至る

人も生きるものである以上

こうした流れの中にこそ

美しさの本質があるのではないか、と


予期せぬ瞬間に見えた労り

荷物を持とうと触れ合った手の確かさ

耳元で低く囁かれた声などを刻々と重ね

公園のベンチで寄り添った時の


その人の隣にいる自分を

私自身の知りうる私のなかでもっとも好ましく思う

誰しも忘れたい過去や

認めたくない性格を持っているが


虹を連れてくる雨の度に洗われることもあるのだと

許すことのできた自分自身の存在に対して

愛情を抱き続けている目の前の人を想い

それこそが美しさなのだと腕に力を込める


想い出は過去の集積ではなく

生物学的には三月ほどで変質する人間の

一貫性を示す

唯一の証人なのではないかと


求め続ける指と

拒みながら熱を帯びる手の描こうとする美の軌跡を

知ってか知らずにか

ひたすらに


水車は回り

池の水が巡る

花が香り

蜻蛉は番う



『回転木馬』

                

回転木馬には

二人だけが回っていた

上に下に走りつづける一角獣の背で横を向き

すれ違いざま大袈裟に手を振った


数日前に咳をしたら

真紅のものを吐いた

急ぎ連絡をした人が今

すぐ隣に乗っている


何ともないかもしれないが

もっとも望ましくない結果も覚悟しておこう

緩衝材を欠かさない人間として

今回も思う


子どもの頃とらわれた

生きているとはどういうことなのかという自問

闇が揺らぐように感じ

天井を見つめたまま朝を迎えたのだが


こういう時には身体が震え

立っていられなくなるものだと想像していたが

そんなことはないらしい

ただ


何とも名づけられぬ関係のままで

やがて法律に隔てられてからさらなる年月を

その人はひとりで

女は


思い知らされる

悔いのない人生とは長さで決まるものではない

などというのが

詭弁にすぎないのだということを


思いの丈を込めて

奪うように抱きすくめられたあと

ふいに意識が遠のいたことがあったが

その痛みとは違う


胸を針で刺されるような

息を吸うのがつらくもあり

時折目が潤んで

力が入らない


もしもの場合もあの人は

恥ずかしがるのをかまわず

摘み取るかのように求めるのだろう

それより


他愛もない詩や

小説のプロット

好きな本についての感想を記した

この手帳を残そう


出会った頃から変わらない筆跡を

夢のままであった夢を

そんな綺麗事ではない

この期に及んで


ただの捨てきれぬ羞恥心を隠し

このような手立てで批評を頼もうとする恋人を

彼は詰るだろうか

仮に逆の立場なら


似合うと言ってくれた赤い服をその日着て

お互いを抱きしめ合った場所に

ひとりで足を運ぶだろう

こんな仕打ちへの届かぬ意趣返しだ


この走り書きを

笑い飛ばせる日のために

あるいは

想い出を二度と重ねられなくなるその時のために


今は

どちらからともなく

ただ微笑み交わし

手を振り返し



『透きとおって限りなく』


光を見送る夕暮れ

やや熱を帯びた頬を嬲り髪をうしろに靡かせる南風は

誰も知らない贅沢

そんな中


隣家からいさかいが聞こえ

私はため息をつき窓を閉める

オリーヴが緑の蔭を差しのべる

黄昏の空気を掬い上げながら


数日前に身体の不調を覚え

離れていた二十年の間も忘れずにいてくれた人と

万一にも遠からず

別れねばならない場合についてぼんやりと考えた


想いに応えられぬまま過ごした日々を悔やむものの

他人に怒りをぶつけたくなることもなければ

よりによってなぜ今なのだ、という恨みも

全く起こらない


足が震えることも眠れなくなることもなく

恋人に病状を告げ

僕がいるから、と言ってくれた言葉が終わらぬうち彼の胸に身を投げかけ

今も抱き合っていられることをただ嬉しく思う


しかしながら

何よりも詩を好むその人から

私が病気について書いた作品を読みたくない、と

途切れ途切れの言い方で告げられ


今さらのように

自分自身の利己心を見せつけられる

逆の立場でなくて良かった、というのを

愛だと思っていた偽善を


華厳の滝を彷徨いながら記された

「ホレーシオの哲学」について考え

側にいながら分からない私が悪かったのだ、

と頭で理解し

不適切に謝ってみたりする


愛する人は

気遣うひとこと ひとことの合間に

女が冷静でいることを無言で詰り

責められた側はうつむき


ある小説を思い出す

命の危機に瀕した主人公が

山の上でまた妻の前で

「透明な」心になった自分を感じる話


こういう場合

離れなければならないことへの悔しさとか

離れたくない人への名残惜しさより

これらの感情に至るまでの時しか思い浮かばない


突然の贈り物に始まった再会

メールや詩で気持ちを確かめ合い

冬枯れの公園に通った緑道

やがて


それぞれが一人でいても

お互いの気配を感じていた

心身に刻み込まれてゆく記憶

古典文学に描かれる恋人に自分たちをなぞらえながら


二人が出会ったキャンパスを訪れた日

学生たちに紛れることも

部室や学食に入ることもできなかったが

止まっていた時間は銀杏並木にあふれる緑の奔流となって


そんな今までの刻一刻を彩る空

限りあるその色が透きとおって溶けてゆく

限りなく愛おしまれながら

オリーヴに立ち込める夕暮れの風の中に



『鎌倉の小路を』


鎌倉の小路を彷徨いながら

海辺まで出てしまった

あの日


その人を含めたサークルの仲間たち数人で

北鎌倉駅から歩いた

山を登リ

切通しを抜け

鎌倉駅前から鶴ヶ岡八幡宮へと続く小町通りに辿り着く

小路にそれたあたりに天むす屋を見つけ

ざる蕎麦と天むすのセットを食べ

江ノ電に乗って

由比ヶ浜まで足をのばした

すでに陽の落ちていた海辺で

記念撮影をした

帰り道なぜかその人に言われた

「君は子どもっぽい」と


鎌倉の小路を彷徨いながら

江ノ島まで来てしまった

あの日


その人と十余年ぶりの再会をしてデートを重ね

鎌倉駅まで電車に揺られた

手を握り

指を絡め

鎌倉駅前から鶴ヶ岡八幡宮へと続く小町通りをぶらぶらと歩く

小路にそれたあたりで激しく私を求めたかと思うと

昔入った天むす屋を探し始めたが見つからない

江ノ電に乗って

江ノ島駅で降りた

踏切を渡り

テラス席でビールを飲んだ

帰り道その人に言われた

「今日贈った紫陽花の髪飾りを大切にしてね」と



『 だからポニーテール』


今日の空は梅雨模様

朝顔に雨粒きらきら

アスファルトに雨音さらさら

こちらもさらさらしたいのに

髪が首に貼りついていらいらする

二限目の社会学はあと一回休めるから

次のイタリア語から出席しよう

一週間楽しみにしてきたシェイクスピアとバレエの講義まで

昼からの余った時間を部室で潰そう

仲の良いあの人が綺麗と言ってくれたから

じゃないの

本を読む時邪魔にならないよう

ハイビスカス柄のシュシュでまとめて

だから今日はポニーテール


二年生からは新しいキャンパス

展示会を見て

学食でお昼を食べて

中庭で勉強会

この大学にはなぜ文芸創作科がないのだろう

先生が大変だからだろうか

天気予報は外れ

銀杏の下のベンチで涼めそう

なのに屋上庭園で雨に降られ

仲良しのこの人に

髪を切らないのかと言われて

切りたくないと答える間にも

大好きな景色を眺めていたいから

だから次からポニーテール


嘘よ嘘

二十年前とは違って

講義の代わりに芝生でおしゃべり

部室で出会う代わりに駅で待ち合わせ

髪を飾るのは

一緒に出かけて買った

亀模様の青いヘアゴム


信じられないなら考えてごらん

講義じゃなくて展示会と勉強会

時間を気にせずランチを食べて

あの頃庭園は屋上になかったよ

なかなか帰れないのは

課題が終わらないからなんかじゃない

図書館には入れなくてもね

もう通うことのない教室なんだもの


今も似合っているだろうか

シンプルに高い位置でまとめた

いくら髪を伸ばしても暑苦しく見えない

この髪型は


気づいてもらえなかった二十年ぶりのポニーテール

もあったけれど

二年生から通ったキャンパスに行った後

公園デートの時にぽつりと

大学で毎日会える気がすると

この髪型が綺麗だと

彼が話してくれたから

だからやっぱりポニーテール



『リリャス・バスティアの風に吹かれて』


トララトララトラララ

タンバリンが躍るよ

トララトララトララララ

カスタネットが旋るよ

トララトラララ

真っ碧い夜の空

星は降らないご生憎様

トララトララ

ここは

そうリリャス・パスティの酒場なのさ

気取ったプラチナ色の水面を

鞭打つ嵐は

紅い薔薇を散らすよ

囁きを夏の雨が口封じて終わりだ

カヴァの泡は

人魚に戻っていったね


トララトララトラララ

何組ものカルメンとホセが

トララトララトララララ

テラスで恋の夜を

トララトラララ

紅いスカートが翻り

闘牛は終わったのかい?

トララトララ

ここは

そうリリャス・パスティの酒場なのさ

グラスを持つ手が縺れ合い

中身を流し込む舌が絡み合い

エスカミーリョは何を仕留めた

喘ぎ声を夏の雨が口封じて終わりだ

サングリアの泡は地面に乾いているよ


オペラシティは素敵なところ

だけどね

帰らないと

今日のプログラムは

「チェネレントラ」

じゃないのにさ


『ふいに花言葉が』


アガパンサス

という花は

彼が届けてくれた花

薄紫色をした星形が

ややほどけかけた手毬状に集まっている


そんな花が玄関で出迎えてくれていた

夏のはじめ

を思い出しながらペンを走らせる

山の中に佇む小さな駅

かつて私が

恋人の優しさに喩えた大空

澄みわたる青い大空は

のちに彼が私のドレス姿に喩えた青と白の配色となり

いささかも詩作の邪魔をすることなく

頭上に広がっている


あの日も

花を受け取る時の常で

何となく花言葉を調べてみた


「恋の便り」


この一言を目にして

おのずと口元は綻ぶものの

胸を過るのが

なるほど

といった感慨なのか

庭から花がなくなることも厭わず

私の住む町まで届けてくれたことに対する感激なのか

区別ができているわけではない


そんな花が玄関で出迎えてくれていた夏のはじめ

を思い出しながらペンを走らせる

山の中に佇む小さな駅

いかにもこの季節を象徴するような空の色


やがて冷えかけた風がノートを勝手に閉じ

薔薇色の陽が落ちて薄闇が視界を遮り

私は見とれながらも苛立ち

ふいに

あの花を思い出す

恋人とのやり取りで

それぞれの存在に喩えた空

その色にひとしずくの夕焼けを溶いたような

アガパンサスの薄紫を


発車時刻に遅れるよ

それは告げる


いかにも相応しい

恋しがるともなしにページをめくる指

その指先にしっくりと寄り添い

時に心もち揺さぶる

この風に



『魔法』


私は

梢を吹き渡る風

ここは

緑が豊かな公園の近くです

パラソルのついたテーブルと

テーブルを囲む椅子が四つあります

パラソルはシンプルな木綿のパラソル

テーブルと椅子は

灰色がかった木でできていて

椅子には鉄製の肘掛けと脚が曲線を描き

テーブルにも同じデザインの脚がついています


この場所が

何かに変身した出来事を

あなただけに

こっそりお教えいたしましょう


二人は

斜めに隣り合って寄り添い

テーブルの上を見つめていました

視線の先には

包みから溢れんばかりの京鹿の子

点々とした蕾から

砂のようにこぼれ咲いた

赤紫の繊い花

線香花火のような花の形に

二人は何を想うのでしょう


ある日は

橙色の中央部が

黄色い花びらに鮮やかなグラジオラス

花言葉は「密会」

咲いた花の数で

逢い引きの時刻を決めましょう

「君の大好きな古典文学をモチーフにしたお菓子と

僕が手作りしたブラックベリー酒だよ。」

彼女は幸せそうに微笑んでいます

そして


どちらの日にも変わらないのは

彼女の作ったらしいお弁当

二人の前には

和風の柄を持つハンカチが広げられています


私は

梢を吹き渡る風

ここは

緑が豊かな公園の近くです

パラソルのついたテーブルと

テーブルを囲む椅子が四つあります

パラソルはシンプルな木綿のパラソル

テーブルと椅子は

灰色がかった木でできていて

椅子には鉄製の肘掛けと脚が曲線を描き

テーブルにも同じデザインの脚がついています


この場所が

何に変身したのやら

お教えするのは

またの機会にいたしましょう



『変身物語』


新幹線で私は窓側の席に座り

彼はテーブルに乗っている

紙袋の中が窮屈そうなので

私が今乗せたのだ

僅か一時間ほどで終わる二人きりの旅なのだから

こうしていよう

彼とは

深紅の薔薇のこと

先ほど渡された薔薇のこと

贈り主の変身した薔薇のこと


軽井沢に戻る私を

その人は東京駅まで見送ってくれた


二十年前に大学のキャンパスで出会い

数回のデートを重ねたのち

十数年間

二人はそれぞれの人生を歩んだ

その人は私の面影を深紅の薔薇に見い出し続けて


隣にいる私を

駅の花屋で見つけ出した


深紅の薔薇を

私に手渡したい薔薇を

手渡したい人の変身した薔薇を


一人きりになる旅路と

一緒に来ることのできない人とを想うと

なんともやるせなく

そのひとことを

不用意に発してしまった


「Kさんだと思って大切にします。」


その人の姿は消え

私の手には

深紅の薔薇が

一輪

残されていた


花びらが渦巻くように重なり

それでいて

くっきりと形を主張している

一枚 一枚には

文字がびっしりと記されていた

変身した人間は

こんな手紙の書き方をするらしい


貴女が好きです

逢えなくなってからも愛しい

明日迎えに行きます

重いものを持ってはいけない

別れた後は淋しい

贈ったクリームは肌に合いますか


最後に


棘がありますご用心


新幹線で私は窓側の席に座り

彼は私の膝で横になる

時々撫でていたいから

抱き上げて乗せたのだ

僅か一時間ほどで終わる二人きりの旅なのだから

こうしていよう


棘ごと包んであげましょう

棘ごと抱いてあげましょう



『変身物語 2』


撫でて

また撫でて

指が繰り返すにつれ

抱きしめて

また抱きしめて

を腕が繰り返すにつれ

私は薔薇に抱きすくめられ

いつしか一体となる

この頬が

胸が

遠くて近い焔を確かに感じる


唇は

同じ言葉を繰り返す


貴方は私

私は貴方


今となっては

二人の間で言及されることも稀となった言葉

それでいて

絶えずその人が思っているであろう言葉

互いに

相手は自分自身

であり

自分自身は相手

である

と歌い愛し合った

ワーグナーのオペラに登場する恋人たちに影響された

その言葉を


彼の化身の花だから

私の化身の花だから



『海の回転木馬』


岩肌を模した白い壁や

深みのある碧い光に囲まれ

その回転木馬はあった

馬という漢字の入った名で呼ばれてはいるものの


水族館という場所がら

人を乗せているのは

海豚やタツノオトシゴそして真珠貝などばかり

幾つもの水槽に囲まれて


そして今日も

「回転木馬には 二人だけが回って」いる

元気よく跳ねる海豚の背に乗り

隣で揺れるタツノオトシゴに乗った恋人を


静かに見つめては目を伏せ

彼のまなざしを受け止める

別の場所でこの類の乗り物に乗った時のことを思い出す

喜びだけがそこにある


体調不良に不安を感じ

負の感情は不思議と生まれなかったものの

共に過ごす刻が永くあってほしいと切に願った日

幸い検査の結果は望ましいもので


命を呑み込み

そして生み出す

深海に擬したこの空間には

新たな瞬間が刻まれていく


「メリーゴーランドに乗ろう」と誘われたこの日に

相応しい場所ではないか

マリンブルーと人の呼ぶ色そして

その光の煌めきを擬音化したような音楽


色とりどりの生き物が躍動し

中央に配された鏡に反射し

光る渦に抗い

或いは身を任せ


想い出を塗りたくって訪れた場所を黒くするのは嫌だ

などと検討外れなことを言って彼を戸惑わせたことも

病気の気がかりを詩に書いて落ち込ませてしまったことも

今はこの海の底に溶けて


波が重なり幾重にもなっていくように

二人の時間は重ねられていく

重ね塗りするほどに

青く深まり透きとおって



『 今年も線香花火が』


線香花火の向こうに少年は

残り少ない夏休みを見る

初恋の少女とのクラス替えを惜しむことも忘れ

男友達との再会を待ち侘びる子は

惜しめども留まらぬ少年の夏を見る

母は


二十年前の恋を見る


その人は

恋を思い切った十年後に

線香花火に似た花を贈ってくれた

叶わなかった若き日の恋に似た花を


ぽとり

と落ちる

来年への期待だけを残り火に

線香花火が瞬く


儚さの代名詞ともされがちな

この夏の風物詩だが

毎年

多くの人によって繰り返され

その存在は永続的なものとなっている


二十代の恋は一旦終わりを迎えたが

夏は再び巡り


線香花火に似た花は

来年も咲くのだろう



『青にはすべての光が』


「青にはすべての光が入っているんだよ」

うろ覚えの知識を子が披露する

「だから空は青いんだ」

いや

太陽光の中で

青の拡散量が最も多いから

ではなかったか

と思い

振り向く視線の先


窓の外には夕焼けがある

淡い中にも鮮やかな

水色と薔薇色とを溶き合わせようとして

混ざりきる前の

くっきりと対照色を主張している

大理石に似ていながら

どこか大まかで荒々しい模様の空

そんな景色が視界に飛び込み

私は息を呑む


数か月前

恋人の大きな心を

どこまでも澄みわたる空に喩えたことを思い出す

チケットの半券やパンフレットなど

これまでに集まった想い出の品を

すべて持ち歩いてしまう人

私の住む町まで迎えに来て

庭で私のために花を育て

決して当たり前ではない

これらの愛情に対し私がお礼を言うと

丁寧だね

と笑い

そしてまた

決して当たり前ではない日々をくれる人

出会った二十年前から

それぞれの人生を歩みはじめるまでの数年間

何とはなしに同じ時を過ごし

その間のことについて

些細なひとこままで覚えている人

その後

お互いに遠い存在であった時

仲良しグループのメンバーとして一緒に写った写真と

当時の名前で書かれた手紙を

今も大切に持っている

そして

それらの出来事を私が忘れてしまっていても

黙って微笑んでいてくれる人


窓の外には夕焼けがある

淡い中にも鮮やかな

水色と薔薇色とを溶き合わせようとして

混ざりきる前の

くっきりと対照色を主張している

大理石に似ていながら

どこか大まかで荒々しい模様の空

刻一刻と西日が凝縮され

薔薇色は滴るばかりに深まる


昨晩の夢で

薄青い蝶が羽を焼かれ

地面に落ちていた


私自身の記憶が

一瞬にしてよみがえる

羽を震わせ

大気圏のぎりぎりまで飛翔していた時のこと

私自身の色が

辺りに立ち込める色と近いため

このまま溶けてしまうのかと不安になりながらも

吸い寄せられるかのように

一羽ばたき 一羽ばたきと

太陽に向かっていたこと


やはり白い


太陽にはすべての色が入っているんだ


そう実感した時

羽を焼かれたこと


地上に落下し続け

空に抱かれながら

火傷の痛みが和らぎ

心地良い冷気に包まれたことを


太陽光にはすべての色が入っている

それらが合わさると白くなる

太陽光の中で

青の拡散量は最も多い

だから空は青い

これが

科学的に正しい知識だ

しかし

私の空にはすべての色が入っている

のかもしれない

想い出を辿るのに必要な

道しるべのすべてが

辿りたいと思う

若き日につながるすべてが

そんなことを思いながら

夢で蝶になり

今窓辺に佇む私は

天から零れるように注がれている

煌めきのかけらに包まれ

両の腕で

秘かに自分の肩を抱いてみる


『強き者、汝の名は女なり』


「弱き者、汝の名は女なり。」

インターネット上に今日も溢れる

書き手も分からぬ無数の声


目の回るような手続きと

精神的なダメージの末

ようやく手に入れた子どもとの日常を充実させたいと

彼女はスマホのメニューを起動して情報収集を始める

シングルマザー

の後にスペースキーをタップし

仕事

子育て

のキーワードを入力しないうちに

恋愛

と自動的に表示される

うっかり押してしまおうものなら


「母親は女になるな」

「子どもが可哀想」

「自分勝手」


文字の集合体が

一つの隠された言葉となり

都合良くシェイクスピア劇の名言を借りる


彼女は私に打ち明ける

今日も人目を避けるためにつけていたサングラスを少しの間外し

別れ際に彼の目を見つめたこと

懸命に子どもの大好物を作っている時

ふいに彼の面影が浮かんで胸を締めつけられること

無我夢中で公園を子どもと走り回っていて

ふと見上げた空の美しさを彼に報せたくなったこと

木蔭で彼と抱き合っている時

見知らぬ子どもの声に思わず振り向いてしまうこと

彼と立ち寄った書店では

絵本のコーナーで目が釘付けになること

そして


「もう少し逢いたい。君はよく頑張っているるし、引け目を感じることはないよ。」

「お子さんを大切にしなさい。早く帰ろう。」


恋人としての自分とかつて母親を慕う息子であった自分との

その二つの想いを語る彼は誰よりも理解しているであろうことを

目を輝かせ我が子の毎日について語る彼女の心の裡を


女は弱し 母は強し

しかし

女でなければ母親にはなれないのだ

異なる二つの愛情を育みながら

彼の気持ちをひとつひとつ受け入れ応えていこうとする

そのような意志を「弱き者」と貶めることは果たして正しいのだろうか

誰にも目を向けず

自分一人を想い続けてくれた彼の心の深さを理解できるようになったのは

あらゆる立場を経験し時間を重ねればこそなのだ

人生の様々な局面で共に過ごした時間もやり取りした言葉も

唯一であった当初の輝きのまま幾重にも重なり合い

虹のような煌めきを放つようになった今


我が愛 我が生命

自分のことを語る彼の言葉に心委ねることはそんなに


後ろめたく思わなくて良いよ

大丈夫

私は彼女の肩を抱き


そして呟く

シェイクスピアにはこのように書いてほしいものだ

「強き者、汝の名は女なり」と



『龍恋』


ーねえ、龍くん、覚えてる? 私たちが出会った時のこと。ー

ーああ、勿論さ。俺がグレてて、サザン通りを爆走していた頃だろ。君に一目惚れして、後先考えずに言っちまったんだ。「俺と付き合ってくれねえか」って。そうしたらさ。ー

ー当たり前でしょ。誰が、あんな暴走族とデートするもんですか。だから言ったのよ。ー

ー「真面目になりなさい。そうしたら考えてあげてもいいことよ」ってな。仕方ねえ、青春の真ん中で、足を洗ったさ。だがな。ー

ー今は幸せ、でしょ。人間たちが今でもお参りに来るわ。あの龍と天女みたいになりたい、って。ほら、あそこにも。ー


江ノ島に波は青く煌めき

空が遥かに澄みわたる

入道雲は湧き起こり

筋雲が棚引く

鐘を鳴らして天女を恋慕い

悪行を改めた龍

そんな古の恋物語に胸ときめかせ

二人は島へと続く橋を渡る


鴎や鳶の姿を頭上に眺め

昔ながらの土産物屋が立ち並ぶ参道を抜け

日日草とグラジオラスの花壇や

気ままに歩き回る猫に目をやりながら


やがて恋人の丘に


二十年前の二人は

キャンパスからの帰り道

電車のホームに隔てられる

階段を駈け降りた少女は

笑顔で手を振る青年の姿を彼方に見とめる


彼からの告白

数回のデート

それぞれが歩んだ十年余りの人生を抜け

再会からの日々を思い起こしながら


やがて恋人の丘に


潮風に晒された

数えきれないほどの南京錠

この場所で愛を誓った男女の名前が並んで書かれ

龍恋の鐘を取り囲んでいる

海からの照り返しを受け

白く銀色に光る鐘楼を


男は南京錠に名前を書く

上下を間違えて書く

女は鐘を打つ恋人の手に寄り添う

緊張のあまり手応えを感じそびれる


しかし


音色の輝きは何の迷いもなく

潮風となり

海鳴りとなって

彼方の沖へ


ーねえ、龍くん。あの時悩んだ?ー

ー族の奴らと話をつけた時のことだろ。一瞬だったさ。ー

ー私にあらためて告白してくれた時も?ー

ー一瞬だったさ。ー

ー恋人の丘で過ごした時間みたいに、でしょ。あの二人の。ー


江ノ島に波は青く煌めき

空が遥かに澄みわたる

入道雲は湧き起こり

筋雲が棚引く

鐘を鳴らして天女を恋慕い

悪行を改めた龍

そんな鐘の響きを胸に

二人は西日に染められた橋を渡ってゆく



『渚』


波がからかうように打ち寄せ

私はふざけたふりをしながら

彼の腕にしがみつく

波が引く時

底を透かして見せ

いつか水族館で見た潮だまりの展示を思い出させる

海藻や

色とりどりの貝

名も知れぬ小魚や

精巧な機械仕掛けのように蠢く磯蟹が

生活の一瞬を切り取られ

無秩序なままで閉じ込められていた

海への覗き窓を


身体の奥深くを

焔が焼き尽くした後朝

その人は

紛れもなく隣にいるのだけれど

昔分かち合った儚い想い出は

あたかも線香花火のように

名残を惜しんでいる

飛び火した火の粉は

隅々をまだ駈け巡っているのに

赤々と落ちた夕陽の雫は

早くも青い煌めきに姿を変えて


初めての旅

彼が特別に用意した

十二年物のウイスキー

彼は気づかなかったと言うが

十二年

とは

二人が会えずにいた年月


青い波から振り撒かれる光の粒は

群青色の凪へと

薄紫の闇へと

刻一刻移る

深まりゆく金色の光を浴びながら


グラスが傾き

注がれた夕陽は喉に流れ込む

海岸には

潮が満ちているだろう

巡る月は

潮が満ち引くのを幾度見送ったろう


江ノ島に波が打ち寄せる

打ち寄せた波の中に

海藻や

色とりどりの貝

名も知れぬ小魚や

精巧な機械仕掛けのように蠢く磯蟹が

戻れぬ来し方と

予測の及ばぬ行末に

ひたすら身を任せながら


身体の奥に波が打ち寄せる

打ち寄せた波の中に

キャンパスからの帰り道電車のホームで手を振り合う

部室で会話を途切れさせブラームスに聴き入る

再会した冬枯れの木立で一つの詩集に顔と顔とを近づけ

桜の下で初めて唇を求め合う

二人の姿


昔読んだ小説の中で

幼馴染同士が結ばれる夜

その感慨を「切ない」

と表現したのは男の側であったが


どちらも

戻る

ことなど望んでいないのだが


二人で特別に選んだチーズとワイン

チーズは

彼の話によれば

私の贈った想い出の味らしい

ワインは

言わずと知れた

迸る情熱の色だろう


江ノ島に波が打ち寄せる

真新しくうっすらとした涼しい感触

そんなふうに堆積した砂が浚われ

戻らず

新たに

うっすらと

涼しく

堆積していく

ひとたび ひとたびと訪れ

二度と還らぬ波を受け入れながら


身体の奥に波が打ち寄せる

打ち寄せた波の中に

再会を予感させる手紙

贈られた詩

届けられた薔薇

家の前で別れる時の囁きがある

沖へと運ばれ

岩に叩きつけられ

渦に巻き込まれるほどに

浄められていく

深まる青に比例して透明度を増した奔流

を抜け

はじめより色鮮やかに


今にも

もぎ取ることのできそうな姿で

いつの間にか

窓を横切る月

眼に焼きつける間もなく

青い煌めきが再び訪れて


波がからかうように打ち寄せ

私はふざけて彼の腕にしがみつく

波が引く時

底を透かして見せ

いつか水族館で見た潮だまりの展示を思い出させる

海藻や

色とりどりの貝

名も知れぬ小魚や

精巧な機械仕掛けのように蠢く磯蟹が

生まれたてのように

無防備な姿のままで

しっかりと抱きとめられていた

海への覗き窓を



『コースターの裏に』


戸棚に重ねられていた

紙製の白いコースター

ホテルの名前と

赤い三角のロゴマークのみが記され

丸みを帯びた角をもつ

シンプルなデザイン


裏に

たくさんの覚え書き

私の迷った夕食のメニュー

シーフードパスタ サラダ スープ

スープ

と言えば

おすすめのスープカレー

スープとサラダは付きません

彼の迷った夕食のメニュー

ビーチリゾートらしいロコモコプレート

和風ハンバーグステーキ

すべての食事に

苺のレアチーズケーキが付きます

朝食は

和食 洋食 シリアル 朝マックからお選びください

朝マックだけは時間帯が違います

新江ノ島水族館の開館時刻は九時

宿泊プランにチケットが付いています

チェックアウトは十二時です

テレビに大人向けチャンネルがあります

アメニティを

お一人様につきおひとつお持ち帰りください

パリをイメージしたハーブの香りと

海をイメージしたマリンノート

メロンと胡瓜の香りだと

よく香りの説明書に書いてある

けれど

海の香りにしか感じられない

入浴剤はお二人様につきおひとつお持ち帰りください

アドリア海の塩

クラシック音楽はかかりにくいシステム

海を眺めているつもりが

海沿いの通りから眺められてしまいますよ


戸棚に重ねられていた

紙製の白いコースター

ホテルの名前と

赤い三角のロゴマークのみが記され

丸みを帯びた角をもつ

シンプルなデザイン


裏に

透明のペンで記された

たくさんの覚え書き

記憶に刻まれたので

消えてしまった覚え書き

詩を走り書きされたくて

まっさらに戻って

今も

ハンドバッグの中に

息をひそめている

紙製の白いコースター



『海辺のショッピングモール』


自由の女神とレインボーブリッジを背景にポーズを取る

白いコート姿

年の頃は二十歳ぐらい

学生だろうか

A4サイズの楽譜がちょうど入りそうない布製の鞄を腕に

楽器ケースに入ったフルートを肩に掛け

レンズから心持ち視線を外している


「Aさん、パーマつけないほうが素敵だな。」

今しがたシャッターを押した人が

歩きながら嘆息するように言葉を発する

朝早くからホットカーラーで巻いた髪も

憧れの先生を真似て買った

ピンクと紫が裏表になったマフラーも

似合わないのに試してみたい年頃

だったのだろう


自由の女神とレインボーブリッジを眺め

ゆっくりと歩く男女の姿

絡み合わせた指にはペアリング

男が指輪を贈った店の姉妹店に置かれた

赤く情熱的な飾り文字に

二人は目をやりながら

微笑みを交わしている

離れてから十数年の年月が流れたこの日

男はシャッターを押さない

女もマフラーをしていない

そして

あの頃より長い髪は

真っ直ぐのままで半分だけ纏められ

背伸びをした巻き髪はない


二人は入ってゆく

AQUA CITY お台場

白に濃淡の青い文字で書かれた看板を掲げる

「海辺のショッピングモール」に

女が雑貨を買いたがった「フランフラン」も今はなく

オムライスを好きではないと知らずに

男を付き合わせてしまった「ポムの樹」も

フロアを移動してしまっている

けれど


自由の女神とレインボーブリッジを背景にポーズを取る

白いコート姿

年の頃は二十歳ぐらい

学生だろうか

A4サイズの楽譜がちょうど入りそうな茶色い布製の鞄を腕に

楽器ケースに入ったフルートを肩に掛け

レンズから心持ち視線を外している


写真に映る女子学生と

シャッターを押した人は

これから

「フランフラン」でウィンドウショッピングをした後

「ポムの樹」で食事をして


十数年後の今

再び

AQUA CITY お台場に

足を踏み入れる



『遠雷』


空が燃える

橙色がかった金の火

燃えたまま皹となる

焔と呼び表すには

あまりにも直線的


空が切られる

真っ二つに

更に切り込みを入れられる

火花が細く

そのままの形状で残留する


海を見下ろすテラス

に置かれた浴槽から

二人は部屋に移動する

しっかりと抱き合ったまま

ベッドに倒れ込む


雷鳴は未だ聞こえない


男は

遠雷

の意味をあらためて考える


身体の奥が燃える

押し倒され

抱きしめられ

花が見いだされる

蕾を解そうとする指に抗えず


突き上げられ

揺さぶられ

焔が弾け

火の粉の彼方に


遠雷が見える


薄明かりに染められ

青く静まりかえった空と海

明け方の光が溢れ入り込む部屋のベッド

両腕で自分を抱いて

夢現に雷鳴を聞き


女は

遠雷

の意味を知る



『鶏頭花』


そんな明け方の庭園には

必ず鶏頭花が咲く

旧い書物は伝える

繊い花穂が焔のように

天へと向いて燃え咲いている

赤い鶏頭花が


海に向かい

ゆるやかな波形を描くように建つ

淡い珊瑚色をした城

その懐に抱かれた

ヨーロッパ風の庭園

白いアーチが延々と曲線美を連ね

その小路に沿って

象牙色をした盃型の鉢に

花が植えられ

客人を玄関まで導く


女がひとり

螺旋階段を降りてくる

人間の姿をして

蝙蝠のような黒い翼は

朝のために用意された白い衣装で覆われて見えない

身体の隅々には吸われた痕が

赤々と散っているだろう


寝室に覆いをしてきたところらしい

夜通し求め合った男は

長椅子で横になったまま本を読んでおり

自らの異変に気づいてはいないようだが


昨晩

男が寝静まるのを待ち

湯浴みに起きた女は見たのだ

鏡に映る自分の姿を

そして

男の首筋に残る吸い痕

敷布から覗く

黒い翼を


お互いの手を引き

お互いの身体を

衣服の下まで

奥深くまで愛し合った徴

口づけしたい衝動を抑え

寝台に滑り込んでつかの間の休息を取った後

女は部屋を出る

螺旋階段から庭を望み

光の強さを確かめるため


そんな明け方の庭園には

必ず鶏頭花が咲く

旧い書物は伝える

繊い花穂が焔のように

天へと向いて燃え咲いている

赤い鶏頭花が


『ランタナ』


緑溢れる でこぼこ小径

お喋りしながら 歩きます

ここにハイヒールは 似合わない

彼が手を取り 笑います

先になり 後になり

日差しが苦しい 休みたい

綺麗な花が 此処彼処

これはいったい 何でしょう

見たことないけど 何かしら

紫陽花にしては 小さくて

他の花より 派手すぎて

黄色に桃色 点々と

真ん中からも 点々と


ランタナ ランタナ

不思議な花よ

可愛い色に 可愛い色の

鬼火の夢が 誘います


海辺の部屋の テラスのお風呂

じゃれ合うほどに 温かい

彼方の灯りが 綺麗だね

夜が明けるまで 抱き合う

いつの間に 空が割れ

初めて見たね 遠雷を

眺める先に ひっそりと

これはいったい 何でしょう

何処かで見たけど 何かしら

グラジオラスより 小さくて

聞かぬ気秘めた 花の色

黄色に橙 点々と

真ん中からも 点々と


ランタナ ランタナ

激しい花よ

焔の色が 深まって

明けぬ夜へと 誘います


私の家の 近くの駅で

降りて坂道 上ります

白いマンション 横に見ながら

空は暑いね 蝉が啼いてる

植え込みに きらきらと

光が落ちて 模様をつくる

今日はゆっくり 休んでね

頷く先に ひっそりと

分かっているわ あの花よ

違う色でも すぐ分かる

赤と紫 星型に

真ん中の白 きらきらと

眩しいほどに 点々と


ランタナ ランタナ

淋しい花よ

鬼火の色を ゆっくりと

眺めるふりして 立ち止まる


ランタナ ランタナ

愛しい花よ

ランタナ ランタナ

虹の花



『夏への廻り橋』


「やや熱を帯びた頬を嬲り髪をうしろに靡かせる南風」も

「オリーヴが緑の蔭を差しのべる黄昏の空気」も

今はない窓辺

二階から三階へと続く階段の途中にある

隣の家に面した窓

そんな窓辺で

私はグラスを傾ける

初めての旅で共に傾けたウイスキー

そんな夏の名残が入った杯を


体調に不安があり

一人で

「オリーヴに立ち込める夕暮れの風」を受けるがままに佇んでいた

そんな心配事がなくなってから数か月


夏も終わりかけの夜

江ノ島を望む海辺の部屋で

暮れゆく光を

昇り来る月を

沈めたかのような液体を

それぞれ自分のグラスに注ぎ

グラスから自分に注ぎ

揺らめきはじめる自分の中の焔を

お互いに注ぎ尽くした

夏も終わりかけの

あの夜


「やや熱を帯びた頬を嬲り髪をうしろに靡かせる南風」も

「オリーヴが緑の蔭を差しのべる黄昏の空気」も

今はない窓辺

「オリーヴに立ち込める夕暮れの風」の記憶を辿る間にも

漂っていた蚊取り線香の煙は

しめやかな落ち葉の匂いに変わり

空もグラスを傾ける

零れ

なおも滴るのは

秋雨か

吸い尽くした夏の雫か


しかし

潮風の中に煌めいた

暮れゆく光

昇り来る月

の薫りは

最後のひとしずくまで

今もそのままに


ラベルに記された見えない銘柄は

「夏への廻り橋」



『ダズン・ローズの解説書』


彼が贈ってくれたダズン・ローズ

恋人に薔薇を贈るには

一番良い数らしい

そんな

十二本の薔薇が

それぞれに持つ花言葉

あなたが

腑に落ちない

と言い首を傾げた花言葉の

解説者に私がなりましょう


「感謝」

いつもありがとう

何気ない時間も決して

当たり前ではないのですから

「誠実」

貴女だけを想い続けてきました

そしてこれからも

変わらぬ真心を捧げます

「幸福」

一緒に過ごす時間はいつも

楽しく幸せです

貴女もそう感じていてほしい

「信頼」

貴女に対して

疑いなど挟む余地もありません

私の愛をも信じてください

「希望」

貴女の存在があることで

明日を迎えるにあたり

淋しさを感じません

「愛情」

愛しています

ただ

それだけ

「情熱」

人目を憚らず思うこと

貴女のすべてを奪いたい

今夜は眠れそうにありません

「真実」

この愛に偽りはありません

カッチーニの歌を思い出してください

貴女は私の愛である と

「尊敬」

貴女の主体性を私は愛します

どうかそのままでいてほしい

自分らしく生きる姿が好きです

「永遠」

私の愛が終わることなどありません

そう いつまでも

この花の想い出のように


さて

ここまでは良いらしいのだが


「努力」

貴女に贈るため

一生懸命花を育てます

台風の中支柱を立て

引き抜こうとする愛猫たちに

ちゅーるをあげて宥めます

倒れてしまった花を支え

土が痩せた時は新しい土を加え

時間と力を惜しみません

なぜならここは

愛の生産工場なのですから


「栄光」

名前を知られ

栄光が地に落ちた

と嘆く「トゥーランドット」に

名を秘めた王子は語ります

「貴女の栄光は

今始まったのだ」

夢が夢のままに放置されたり

ままならぬことが多いのは人生の常ですが

お互いに巡り会えた私たちは成功者


なぜ

こんな解説書を書くのかって?

そうとは気づかずに

「努力」

「栄光」

絶えず私に贈ってくれる貴方が

どうにも愛おしいからに決まっているじゃありませんか


え?

次に贈ってくれたお花の花言葉も

納得できない

ですって?

また今度ね



『『不在の騎士』を贈られて』


恋人から

イタロ・カルヴィーノの『不在の騎士』を贈られた夜

西洋の思想と東洋の思想についての話を聞かされた

不在こそ物事の本質である

と決めつける東洋の思想が

いかに偏っているか

という話

誰かが積極的に行動しなければ物事は動かないのだから

と彼は語る


恋人から

イタロ・カルヴィーノの『不在の騎士』を贈られた明くる日

存在の有無についての考えを一人で巡らせる

眠らずに朝を迎えたため混沌としていた意識の輪郭が

乗客一人一人の姿に ビルの窓が照り返す光に視覚化され

発車ベルの音に 鴉のかしましい鳴き声に聴覚化され

彼の姿を浮き彫りにする

残像現象のように眼を突き刺す

不在という存在を


恋人から贈られた

イタロ・カルヴィーノの『不在の騎士』は

読まれることを待っていよう

しかしながら

私は閉じたままの本を膝に置いて空を眺める


恋人から贈られた

イタロ・カルヴィーノの『不在の騎士』

その存在が新たになる前に

強く輝く夕べの行動を

瞳に確かめるため



   『彼岸花』


私は白い彼岸花

毒があります

食べた人は彼岸に行くしかない

だから人間たちは

私を彼岸花と呼ぶのです


私を金木犀の枝と一緒に束ね

男の人は住宅街の角に佇んでいました

しっかりと花束を抱えたまま

誰かが出てくるのを待ち侘びているようでした


毎日水をくれるその人の事情を

二匹の猫から聞きました

学生の頃から好きだった人と

最近恋人同士になったことを

その人に持っていくために

私たちを植えていることを

花言葉で気持ちを伝えようと

私たちを育てていることを


髪の長い一人の女の人が

坂道を駈け下りてくるのが見えました

嬉し気に微笑みを浮かべ

男の人の側へと走り寄ってきます

頬を染めて花束を受け取り

家の中へと戻っていきます

そして

私たちを花瓶に活けました


再び出てきた女の人は

待っていた男の人と手を繋ぎ

駅の方へと坂を下っていきます

つい先程子どもを送り出したその顔が

次第に少女の顔へと変わります


「彼岸花は不吉な花。だけど、白い彼岸花は良いイメージなんだよ。花言葉は『あなた一人を想い続けます』『また逢う日が待ち遠しい』。あなたと私は長い年月を隔てて逢っているわけだから、大きな川を渡って、向こう岸で逢っているようなものだ。」

女の人の瞳が

微かに明るく輝きます


「彼岸花は不吉な花。だけど、白い彼岸花は良いイメージなんだよ。白は純潔のイメージ。『トリスタンとイゾルデ』のように、死んでもあなた一人を想う花だ。」

女の人は恥じらうように目を細めて俯きます

坂道にはたくさんの家が建ち並び

人や自転車が行き交います


恋人の瞳をしっかり見て微笑みなさいと

私はやきもきしながら花瓶の中で叫びました

私の声が通じたのか

女の人は繋いだ手を強めました

愛しい人の背中に回そうとする両腕の力を

片方の手に込めるように


私は白い彼岸花

恋という毒があります

触れた人は彼岸に行くしかない

長い年月という川を渡り

ようやく想いを叶えます

だから人間たちは

私を彼岸花と呼ぶのです


『小春日和』


金木犀という花があります

秋の始まりを告げる花

夏をこの上なく好む私は

心待ちにしたことがありません


金木犀という花があります

橙色に瞬いて咲き

星の恋

という秋の季語を想わせる花ですが

思い出すのは

ロマンチックなことばかりではない


金木犀という花があります

秋の始まりは

夏の終わり

私は過ぎていく季節を惜しみながら

意識することもなく

甘い香りに包まれて過ごしてきました


楽しかった夏が終わり

その頃の私は溜め息をつきながら

部室でイタリア語の教科書を開きます

苦笑しながらこちらを見つめ

声をかけようか

と躊躇うその人を見ることもなく


長い年月を別々に過ごした後

その人から

金木犀の花を渡されました

一緒に束ねられていた彼岸花の花言葉

「あなた一人を想い続けます」

「また逢う日が待ち遠しい」


こんな甘やかな言葉に心惹かれ

彼岸花の詩を書きました

金木犀の詩を書かなかったことで

その人にからかわれてしまいました

それを書くために

こうしているのではありません


久々の再会をした小春日和の公園

そこへと通う小径にも

金木犀は香っていたのでしょう

覚えていませんが

私には分かる

それだけなのです


『金木犀がひとつひとつと』


今回も

詩を書く前に

デートの日が来てしまった


「金木犀の香りを嗅ぎながら、彼岸花を見て回ります。」

これらの花が入った花束を届けてくれたあなたに向けて

詩を書こうと考えているうち

浜離宮庭園を二人で巡る日が来てしまった


花束に入っていた金木犀の詩を

ひとつは書いてみたものの

伝えたいことを表しきれていない


服や靴の用意

それに合わせた化粧

お弁当作りのための買い物や家事の段取り

だけではなく

詩を完成させることも

出かける準備のひとつとして念頭に置かねばと

いつもこの段階で後悔をする

今回もやむを得ず

書きかけの詩を下書き保存したまま

待ち合わせ場所へと向かう

ビル群に囲まれた庭園は

豊かな緑と

晴れ渡る海の青に恵まれ

あなたと私は

歴史や文学の話を楽しみながら

園内を散策する


彼岸花は綺麗に咲いているけれど

家の金木犀も

園内の金木犀も散ってしまい淋しい

あなたが言う


その通りだ

なぜなら


今回も

詩を書く前に

デートの日が来てしまった

から


「金木犀の香りを嗅ぎながら、彼岸花を見て回ります。」

これらの花に似た想いを届けてくれるあなたに

「ありがとう」

としか伝えないうちに

浜離宮庭園を二人で巡る日が来てしまった

から


いくつかの気持ちを

伝えようと試みたものの

伝えたいことを話しきれていない

から


花束や果実酒など手作りのプレゼント

私の書いた詩に対する真剣な批評や文学の勉強に良い本

観光の段取りや部屋の予約

帰り道に送ってくれることや

帰り道の想い出となるべく一緒に選んでくれる化粧品

サプライズとしてのケーキや花の演出

に対しては

メールや詩の文面そしてお礼の品によって

ある程度私の気持ちが伝わっているはずなのだが

「ありがとう」に代わる言葉を何より受けるべきであるのに

未だ受けていない気遣いの数々が存在することを見つけてしまった

から


「当たり前」の対義語である

とよく言われる言葉

お礼を述べる時に使う言葉

「有る」プラス「難い」で成り立つ言葉

だから適切であるはずが

何か物足りない


足は疲れない?

服が汚れないよう

ビクニックシートを用意しました


金木犀がひとつ


蜂毒アレルギー持ちの君に

もし蜂が寄ってきたら

傘で守ります


金木犀がひとつ


眺めの良い庭園だけれど

もう出ましょう

二人で虫刺され薬を買いに行きます

これ以上君を

蚊に刺させるわけにはいきません


金木犀がひとつ


僕は卵を好きではない

けれど

卵好きな君のために

窯焼きオムレツを注文します

気兼ねなく食べてください


金木犀がひとつ


熱中症には気をつけて

冷感タオルを渡しておきます

幾つかの店を回って選びました

ヒアルロン酸入りだから

肌を傷めません


金木犀がひとつ


風邪が移らないよう

人との距離を保ちましょう

だから

足が疲れても

電車内で座るのは我慢して


金木犀がひとつ


マスクの仕方が気になります

鼻が高いのか

隙間が空きすぎる

サイズをきちんと選び

二枚重ねにして


金木犀がひとつ


もっと逢っていたい

けれど

今日はこれで帰りましょう

帰り道が心配だから

早めに家まで送ります


やがて

金木犀が満開に


私の手の中にある花束が

今も香っているのを知らせたくて

そして

私はあなたの手いっぱいに

金木犀の花束を届けられていないのだと


少しばかり焦って

この詩を書いてみたのです



『自由な秋を』


花瓶の前で

大きく深呼吸をした


熱い気持ちが花開かせた

慎ましやかでいて

ひとつひとつが

とめどもなく艶やかな花束

涼しく湿った

秋の香りを感じる


小学校時代を過ごした

古い田舎の家

花を絶やさなかった玄関と

なぜか同じ香りがした


赤いコスモスは愛情

鶏頭花はお洒落

籔蘭は忍耐 謙虚

そして

ピンク色のコスモスは

純潔

という花言葉を持つ


私のイメージにいずれも合うが

ピンク色のコスモスが持つ花言葉については解釈次第

贈り主は言う


純潔は

処女性

とも言い換えられる

好きな作家が

処女性を

自由意思

と定義する可能性を提示していたことに思いを巡らせる


自由とは

夏のイメージ

夏のイメージを持つ

泉の意匠が込められた

ファウンテンベース

という種類の花瓶に

花束を生けてある

ガラスの花瓶を藤の籠で囲んだ

和風のデザインが涼しげだ

夏だけでなく

秋にも相応しい


幼い頃は

秋をも好きだった

大人になってから思い出したのは二回目だ


夏休みが終わっても

誕生日のお祝いが残っていた

何も疑わずに

与えられた毎日は

子ども特有の笑いだけを含んでいた


人が青春と呼ぶ時期を過ぎ

母と呼ばれるようになった

初めての秋

甘い金木犀の香りに

落ち葉焚きの煙が混じっていた


人が青春と呼ぶ時期に

大学の教室や部室で

初めて読む本

落ち葉焚きの煙にも

甘い金木犀の香りが混じっていたのに


花束を届けてくれた人と再会した

二十年後の十一月

落ち葉の匂いと

秋雨の去った

澄みわたる空気を感じて


幼い頃は

秋をも好きだった

大人になってから思い出したのは

これが初めてだ


蕾を踏みつけようとした愛猫への説得や

台風の中にあって支柱を立て

肥料や水加減を工夫することによって

密やかに花開いた秋桜

愛し合っている時の私と

激しく閃いていた彼方の稲妻

その時の情緒を私が表した詩の題名に因んで

遠雷

と彼が名付けた鶏頭花

結ばれるまでの長い年月を表すかのように

忍耐

謙虚

の花言葉を持つ籔蘭


若い日々を過ごした

古い母校の教室

予習の手を止めて吸い込んだ秋の風と

なぜか同じ香りがした


熱い気持ちに応えて眺める

密やかな

ひとつひとつが

とめどもなく瑞々しく

涼しく湿った

秋の香りを呼び戻しながら


夏の日差しの耀きそのままに

自由な秋を咲いて



『斑模様』


ホテルの窓に

雨粒の点描が叩きつけられていく

「虹の雫」で描き上げた回転木馬を

遥かに見下ろす強化硝子

あの日とは違って

光が差していないため

「虹の雫」にはなり得ない雨粒

スニーカーを履かされた彫刻のモダンアート

想起させる


そんな遠い風景をふと思い出して眺める

花瓶に生けられたホトトギス

の花言葉は

「秘めた意志」

「永遠にあなたのもの」


「濃い紫色の蕾が茶花にも相応しい」

と贈り主は言っていたが

淡い色に花開いて

蕾の色そのままの

斑点が

点々と

同名の鳥が胸に持つ模様と同じらしい

「僕のあまり好まない模様だ」

その人は言う


そんな会話をすれば

ふと思い出す

雨の日

彼は「秘めた意志」を持ち続け

あの日を迎えたのだろう


初めて

二人きりで過ごす部屋

私から誕生日プレゼントに贈られた本に対して持つ彼の期待

ワインやケーキを届けてもらうタイミングへの私自身が抱える気掛り

お互いの身体に

ぎこちなく腕を回し

シャワーを勧め合い

一緒に入ろうとする恋人を

受け入れようとしながらも

羞恥心から無意識に拒絶を示してしまい


斑模様の花

を見れば

今もよみがえる

雨粒が描き出した

斑模様の想い

そんな時間が

花の上に留まり

彩っている

「永遠にあなたのもの」

であると



『夜更けに彼と《アイーダ》を』


また

彼にからかわれてしまうだろう


都心の夜景に部屋が浮かび

彼と私は指を絡み合わせたまま添い寝する

大きなテレビの画面では

《アイーダ》の再生中

エジプトの将軍が

愛する女奴隷に向けて歌う

「君に祖国エチオピアの風を返してあげたい」と


ピラミッドを背景に

薄衣を纏ってきらびやかに乱舞する女たち


叶わない望みだ

観客である私は知っている

彼女は敵国エチオピアの王女

機密を漏らした将軍は生き埋めにされ

地下牢に潜んでいた彼女と共に最期を迎える


恋人の胸元に手を添えたまま

私は目を閉じる

顔を窺おうとするが

思いとどまって寝たふりをする

こうして書いている最中も激しく思い出すのだ

幾度となく繰り返された情緒を

「夜が明けないでほしい」


遥かに見下ろす巨大な宝石箱

スカイツリーのサファイアや東京タワーのルビー


叶わない望みだ

天地の理を理解する人間として私は知っている

サイドテーブルに置かれたデジタル時計は午前二時を示し

数時間後には二人とも疲れきった様子で

電車に揺られているだろう


次に起こることは分かっていても

何故か私は

彼の手を握ったまま

《アイーダ》を観て

夜景を眺め


翌日にはからかわれてしまうだろう

「夕べくっついてきていたけど本当に《アイーダ》観たの?」


『オペラ《イオランタ》の想い出』


天窓から射し込み

白い階段を照らす光

そんな静けさの中を

最上階まで上って行った

久しぶりのハイヒール

二人の足音だけが響き

人目を憚りたいという意思に反して

静寂を破っていた

開演前の

会場の外にある静けさを

開演前の

観客が造り出す華やかさが侵食していく


唇と唇が重なり合い

舌と舌が縺れ合い

指と指とが絡み合い

それ以上に求めようと試みながら

矛盾した自制を保っていた


真珠のイヤリングが落ち

大理石が乾いた響きをたてる


盲目の王女に

恋する旅の騎士が告げる

「私は姫の騎士なので

全力で守ります。」

テノール歌手の歌声は朗々と

客席の男は身動ぎもせず

歌詞に重ねた自分の想いを伝えようとするが

恋人の手を握りたい衝動を抑える

客席の女は

彼の秘めた心の内を

膝に置いた掌で

無言のままに受け止める


同じ部屋に入ることも

グラスを傾け

抱き合ってベッドに倒れ込むことも

まだ出来なかった

あの日


白い光に満ちたこの場所には

まだそんな時間が響いている



《SABONに寄って行こう》


「SABONに寄って行こう」

帰り道

帰り道でなくなる

その一言


冬枯れの木立に

ようやく蕾が膨らみ始めた頃

いつもの公園で渡されたボディスクラブ

「SABONで買いました。推奨使用頻度は週に一回。蓋がきついので僕が開けてあげましょう。一度開封したので、零れないよう僕が水平に持ってあげます。」

ホワイトムスクの白

ジャスミンのエメラルドグリーン

浴室に並べ

どちらを使うか迷う

ホホバオイルとソルトの混じった中身を素肌に乗せ

ホワイトムスクの

甘く異国情緒漂う香りを

私の中に染み込ませる


桜が咲き始め

二人が逢うたびに唇を重ねるようになり

使用頻度が増えたボディスクラブ

元から好きだったジャスミンの香り

元から好きだったエメラルドグリーン

明日のデートに向けて

肌をすべすべにしたいからと

つい使いすぎてしまう


体調を崩し

不安を打ち明けていたある日のデート

「これでゆっくりして、元気を出してください。」

彼の言った言葉だろうか

私の想像した彼の気持ちだろうか

グリーンフォレスト

もう一つは限定品です

ジャスミンを含んで初夏が香る


あれから

半年近く経ったのだろうか

離れがたく

抱き締め合った

古書店街からの帰り

ホワイトティーの香りを贈られ

想い出すのは夏の昼下がり


結ばれて日も浅い帰り道

気だるさのままモノレールで

つい溜め息が出てしまう

昨日は反対方向に向かって揺られていたのに

夕べは「明日まで一緒」だったのに

相変わらず青い海と

波の破片を見つめる私に彼は


「SABONに寄って行こう」


無機質な都会に

忽然と現れた空間

シャンデリアが煌めき

色とりどりの液体が入った瓶が棚に並び

店内中央には

石造りの古風な手洗い場が

ヨーロッパの街にある泉のように


帰り道

帰り道でなくなる

この場所へ



『三日月の昇る境内で』


「月が綺麗です」

これは

夏目漱石による

I love you.

の和訳

三日月の昇る境内に目もくれず

ひたすらに歩き続ける少女は

まだ

この逸話を知らない


山門の傍らには月見草が点々と

花言葉は「自由な心」


廃墟と化した飲食店の懐かしい軒並みと

再開発により新装オープンした百貨店とが隣り合う

地方都市の大通り前

信号待ちがてら

本堂を向こう側に眺めれば

薄紫と薄紅とを

それぞれ均一に溶いて伸ばした空の色

梢をなす欅も鳥の群れも

黒々とした影絵細工を描いて


野の花に目もくれず

少女は坂道を上ってゆく

このまま

鰻屋の角を曲がり

墓地を左手に見て

家へと急ぐのだろう

右肩に楽器ケースを

左手に布製の鞄を提げて

脇目もふらずに歩みを進めるはずだ


なぜ

こんなところにいるの

明日も学校に行けること

もう写真でしか見ることのできない

祖父の笑顔に会えること

それが羨ましい

だけじゃない

私は

言ってやりたいんだ


まっすぐ帰るのなんかおよし

花が咲いているよ

木の根に躓いて

立ち上がってごらん

本堂の回廊を走り回って

柱を滑り降りて

欅の大木で木登り

怖くてできないの?

そんな君の手を取って山門を潜り


三日月の昇る境内で花を摘もうよ

くたくたになるまで遊ぼう

手足に擦り傷が

顔も服も泥だらけだよ

髪がぼさぼさだね

こんな格好で帰ったら

みんなびっくりするかな

それでも構わないよね

だって


月見草の花言葉は

「自由な心」だから


「今夜」も

「月が綺麗」だから



『イヴ・サンローラン一周年記念日』


部屋に入って寛ぎ

寄り添ったまま語り合っていると

玄関の呼び鈴が鳴った

白いクロスに置かれた

シャンパンのフルボトルと二つのグラス

目を見開いている私に

彼は微笑んだ


「イヴ・サンローラン一周年記念日」


今は恋人になっているその人が

私に贈ろうとイヴ・サンローランの化粧品を注文して

ちょうど一年が経つらしい

子どもの退院に付き添って帰宅し

差出人の名前に驚いたあの日より数日前だろうか

こっそりと贈り物が用意された日から

ちょうど一年が経つらしい


「イヴ・サンローラン」というのは

言わずと知れた有名ブランドの名前

「イヴ・サンローラン」とは

十年以上離れていた彼と私を再び結びつけ

リビングの鏡台に置かれて

毎日蓋を開けられるたび

忘れていた自分の時間を私に思い出させているイメージの名前


「イヴ・サンローランでお買い物」というタイトルを付けられた詩

「かつて僕の好きだった人」が

「遠くに行ってから 十五年ぐらいは経」ったある日

彼女にイヴ・サンローランの化粧品を贈ろうと思い立ち

贈る手配をする詩が

彼によって書かれたために

私は


イヴ・サンローランについての詩を書けない

私の肌を気遣って定期的に贈ってくれているのだから尚更

お礼に詩を書かなければと

他のどんな出来事をおいても

イヴ・サンローランについての詩を書かなければと

二人を繋ぐ

単なる物を超えたイメージについて思うのだが


花を思わせる香水の芳しさや

クリームの薄紅色

鮮やかなルージュの色彩に

香水を一吹きした時や

クリームを肌に乗せた時や

ルージュがずれていないか気にしつつ唇を重ねた時の情緒に

詩を紡ぐことは可能だろうけれど


イヴ・サンローランについての詩を書くのはやめよう

クリームの蓋を閉めるように

芽生えかけた詩情を保存しないまま閉じる

香水の薫りを嗅ぐように

ルージュの色を確かめるように

時々

彼によって書かれた詩を読み返そう


詩が

イヴ・サンローランそのもののイメージとして

私の中で結晶していく

久々に再会しお礼を述べた冬枯れの公園や

彼の気遣いを想いながらクリームを塗る夜更けの鏡台や

頬を合わせ唇を重ね

今日に至る日々の情景に映像化されていくから


映画を撮ろう


映画「ティファニーで朝食を」のタイトルには

言わずと知れた有名ブランドの名前がそのまま使われていて

その有名ブランドとは

オープンハートの意匠が人気のアクセサリーブランドであり

映画にはオードリー・へプバーンとジョージ・ペパードが出演している

舞台はニューヨークの五番街で

テーマ曲に「ムーン・リバー」が使われている

映像は今でもDVDやBlu-rayに記録され

世界中で流通している


これに匹敵する映画を

図らずも撮ることになった


言わずと知れた有名ブランドの名前をそのままタイトルに使おう

オープンハートの意匠が人気のアクセサリーブランドではない

オードリー・へプバーンもジョージ・ペパードも出演させない

舞台もニューヨークの五番街ではない

テーマ曲に「ムーン・リバー」を使わない

映像も頭の中以外に残すことはない


題字「イヴ・サンローラン一周年記念日」


部屋に入って寛ぎ

寄り添ったまま語り合っている二人

玄関の呼び鈴が鳴る

白いクロスに置かれた

シャンパンのフルボトルと二つのグラス

目を見開いている私に

彼は微笑む



『虹の降る夕暮れ』


大通の端に

鹿の子草がひっそりと咲いていた

些細な想い出の集合体に似た

手毬状の花

深まる秋を感じさせない

強く照りつける日差しの中

何にも染まらず咲いていた


いつものように

ただ微笑んで言葉を交わし

私の家までを歩いた

青すぎる空の色と

強すぎる陽の光が

顔を情け容赦なく照らし

心の裡を隠すための影を与えてくれない


今日の夕方には雨が降る

と天気予報が伝えていたのを思い出す


初めて

一夜を共に過ごした翌日

自宅でシャワーを浴びた

身体を冷やさないようにと

心配そうにお湯をかけてくれた彼は

先に上がっているはず

がいない

そうだ

もう帰ってきたのだから


離れずに過ごした夜が明け

前日の楽しかったことを話しながら歩く帰り道

いずれは慣れてゆくのだろうか


昨日は

彼とメールのやり取りを再開してから

一年が経つ記念日だった

彼にとって私のイメージを持つ赤い薔薇

枯れない薔薇

として

繊細な紙細工で作られた花のカードを贈られ

書店で本を贈り合った

ホテルへと戻る道すがら

その日見つけた本のテーマである

愛するとは何か

ということについて語り合った


部屋に用意されていたお祝いのケーキを二人で食べた


夕食の最後にデザートが用意されていた

皿にチョコレートで花文字が記されて


天空の澄み渡る青

朱鷺色へとグラデーションをなし

彼方に見える山の端の真紅は悶えるように

ぽとり

と落ちんばかりの輝きを湛える

その一滴を表す言葉が


「虹の雫」


いつしか

天空も山の端も

群青の一色となり

夜の灯りを散りばめられてゆく

共に過ごしてきた一瞬一瞬を

今思い起こせるかのように


プレートを掲げ

夜景を背に記念撮影をした

部屋に戻ってからシャワーを浴びてオペラを観た

「マノン」を観ては原作との違いについて

「マノン・レスコー」を観ては女性として理解し難いヒロインの性格について

男性として理解できる主人公の行動について

話しているうち

画面に映る登場人物より激しく愛し合い始めて

いつものようにオペラを見逃してしまう

私より先に寝入ってしまった彼を見て少し切ない気持ちになり

腕枕をしてくれていることを思いまた嬉しい気持ちになり

月が移り夜の灯りが朝焼けに変わる中

「トゥーランドット」を観ては理解できない登場人物の行動についてやや憤慨しながらもアリアの旋律に聴き入り

グラスを傾けてはまた愛し合い

ベッドでまた浴槽で彼の温もりを自分の身体に刻み込む


朝の食卓で語り合う

初めて地元以外で逢った時にこんなパンケーキを食べたこと

初めてリクエストされたお弁当がこんなほうれん草のソテーだったこと


初めてだ

こんなに気持ちが沈まないのは

繋いだ手に力を込めすぎてしまうのはいつも通りでも

知らず知らずのうちに微笑んでしまう

そうだ

次に逢う日が近い

それも二人にとって想い出深い場所で

離れていた二人がメールを交わすようになってから

一年の間に


散らばり続けた光の粒は鮮やかに

透き通ったまま奔流となって


いつも

彼の愛情が

送り迎えしてくれることやプレゼントなどに表れ

私は詩を書くことやお礼の言葉やお弁当やプレゼントで

愛情を返すことができているのだと半ば確信し

半ば心もとなく思うことを繰り返し


大通の端に

ひっそりと咲く鹿の子草

些細な想い出の集合体に似た

手毬状の花を今夜

数知れぬ雨粒が染めるだろう

重ねるほどに白さを浴びせ続ける

虹の降る夕暮れに










































































































































































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虹の雫 若菜紫 @violettarei

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