そこから三日ほど、僕はまゆずみと会うことは無かった。


 リュックの中にはあてどころのない紙ナプキンが貯まっていった。



 意気消沈し始めていた頃、ついにその日はやってきた。



 店の自動ドアが開き顔を上げると、受付に黛が立っていた。


 黛もこちらに気付くと、軽く手を上げて笑顔を向けてきた。

 

 思わず僕も手を上げてみるが、黛のそれとは違ってかなり下手くそな笑顔になっていたと思う。



 受付の前まで行くと「ナイトパックですね?」と黛のほうから声を掛けてきた。


「あ、はい。お願いします」


 そう答えたあと、ハッと思い出したかのようにリュックをその場に降ろしてチャックを開ける。


 首を傾げて小動物のようにこちらの様子を伺う黛に向かい、貯まっていたナプキンを押し付けるように手渡す。


「これ、描いたやつです」


 黛は一瞬驚いた表情になったが、渡されたナプキンをぱらぱらとめくり「こんなに……、いいんですか?」と言ってきた。


「もちろん。黛さんのために描いたので――」


 言った後に息が止まる。これではまるで告白ではないか。


 手の平が一瞬のうちに汗で濡れる。顔が熱い。


 もうダメだ。――言ってしまえ。


「あ、あの! 良かったら今度、食事でも!」


 勢いのまま唾を飛ばし、黛に向かいそう言った。


 黛は目を見開いて僕を見てから、少し考える素振りをして「あ、ありがとうございます」と言った。


 その言葉に僕の身体が空に浮かんで――。


「でも、すいません。私、彼氏がいるので――」


 その言葉で僕の身体が地面に叩きつけられた。



 その後のことは良く覚えていない。


 伝票を乱暴に受け取ると、逃げるようにしてブースに向かったような気がする。


 シャワーを借りる気分にもならず、ソファの上で体育座りをして、たまに「あぁぁぁ」と声にならない声を上げて、そして頭を抱えていた。一晩中。



 結局、一睡も出来なかった。


 無駄に身体が熱かった。


 なんとか身体を起こし、リュックを掴んでから、ふと思い立ちブースに備え付けられていたナプキンをがばりと全部掴み取ってリュックに乱暴に押し込んだ。



 ゾンビのようにふらりふらりと受付に向かう。


 最悪なことに、そこには黛が立っていた。


「……あ」と短い声が聞こえた。


 もう、どうでも良かった。


 顔を伏せたまま、無言で伝票を差し出す。


 黛もどこか気まずいのか、無言で処理をしている。


「……はい、大丈夫です」


 いつもより少し小さな声で、黛が告げる。


「……あの」


 なんとか出した自分の声はかすれていて、それもまた情けなくなってくる。


「は、はい!」


 黛は驚きを隠せず姿勢を正した。


「……ボールペン、もらえませんか?」


 一瞬、僕が何を言っているのか理解できないような顔をしていた黛だったが、その後すぐに気を取り直し「あ、私が使っているので良ければ」と言って胸ポケットに差していたボールペンを差し出してきた。


 僕はそれを受け取り、目も合わせずに会釈をしたあと、何も言わずに店を後にした。




 最寄り駅の軒下、自動販売機の横まで来ると、リュックを降ろしナプキンを取り出した。


 そのまま地面に座り込み下敷き代わりのクリアファイルを地面に置く。

 ナプキンを一枚掴んだら、一心不乱にボールペンを走らせた。


 情けない自分、恥ずかしい自分、心臓に絡みつくような嫌悪感、自虐、自虐。


 それらを混ぜ合わせるように、胃の中をすべて吐き出すように。


 描き殴る。描き殴る。


 それは例えば針だらけのウサギ、星を噴き出す機関車や絶叫する五本の指たち。


 そういったものをともかく、人目も気にせず描き殴った。



 ふと気が付くと、幼い女の子が腰をかがめて僕の絵を見つめていた。


「ママー、これ可愛い!」


 そう言って女の子が散らばっていたうちの一枚を手に取り、後ろにいた母親に見せつけるように掲げた。


「みーちゃん! 勝手に取っちゃダメでしょ!」


 母親がすぐさまそれを奪い取り、僕に向けて頭を下げてきた。


「……あぁ、いいですよ。それ、あげます」


 かすれた声でそう言うと、女の子の顔がぱぁっと明るくなった。


「いえいえ、そんなわけにはいきませんよ。……おいくらですか?」


 母親が財布を取り出してそう言ってくる。


「いや、ほんとに――」


 言いかけてやめる。ここで断るのも申し訳ないかと思ったからだ。


「……それじゃあ、百円で」


 値段を聞くと、母親も笑顔で百円を取り出し、僕に手渡してきた。


「ありがとうございます」


「おにいちゃんありがとー」


 僕の声にかぶせるように、女の子が嬉しそうに返してきた。


 親子の姿が見えなくなるまで、その背中を見つめる。


 女の子はたまに振り返り僕に手を振ってきたので、僕も軽く手を振り返す。



 それから、白紙のナプキンに「一枚百円」とだけ書いて重りがわりにスマホを乗せた。


 すると不思議なことに定期的に人が近寄って来ては気に入った絵を手に取って百円を置いて行くようになった。



 その日以降、宿がわりにするネットカフェの場所を変えた。


 日が昇り、ネットカフェを出ると、百円均一ショップに立ち寄りナプキンを補充する。


 そうして駅前に座り込んでは、絵を描く日々が続いた。



 いつしか僕は駅前の名物人間のようなものになっていたようで、常連と呼んでもいいような人も数人出来た。


 ある日、ギャラリーを経営しているという男が現れ、個展を開かないかと声を掛けられた。


「僕なんかでいいんですか?」


「君だからいいんだよ。話題のナプキンアート作家。良かったらこれからもプロデュースさせて欲しい」


 男はそう言って笑顔を見せた。



 テレビの取材も入った。ワイドショーのロケ企画らしい。


 女性アナウンサーが差し出してくるマイクに向かって、絵を描きながら答えていく。


「どうしてナプキンアートを始めようと思ったんですか?」


「……特に、理由はありません。……なんとなく」


 愛想のない答えを愛想のない声色で返していく。


「この駅前で描き始めたのはどうしてですか?」


「……どうして」


 手元のナプキンに、ぽつり、ぽつりと雫が落ちて絵が滲んだ。


 なんだこれはと不思議に思うが、それは自分自身の目から溢れた涙だった。


 頭に浮かんでいたのは黛の顔だった。


 眼鏡の奥の弧を描くその目、きょとんとした小動物のような顔、可愛らしく並んだ小さな歯。


 そういったものが次々に浮かぶたびに胸が締め付けられるように痛む。


 この感情をどう表現すれば良いのか、言葉では表すことが出来なかった。


 だからこそ僕は吐き出すのだ。ぼこぼこのナプキンの上に、彼女からもらったボールペンで。


 突然泣き出した僕に対して、女性アナウンサーも動揺したのか「あ、もうすぐ個展があるそうですね」と話題を変えていた。




 そうして迎えた個展の初日。


 【現代社会の孤独が生んだ気鋭のアーティスト】などと大層な名前が付けられたポスターが入り口に貼られており、僕の作品はその一つ一つが綺麗な額縁に収められていた。


 一枚一円もしないであろう紙ナプキンに、一枚数万円の値札が貼られている。


 値段はギャラリーのオーナーが勝手に付けたものだ。


「これでも安いくらいだよ」


 そう言ってオーナーは笑っていた。僕には芸術の世界は良く分からなかった。



 僕はギャラリーの中でぽつんと立って、オーナーが次々に連れてくる人たちと名刺を交換する。


 名刺に並んだ肩書きも、横文字が多くて誰が何をしている人かまったく頭に入って来なかった。



 一通り来客も落ち着き、まもなく閉館時間を迎えようとしていたその時、入ってきた人物を確認して僕の息が止まった。


 きょろきょろと興味深そうに辺りを見回していたのは――黛その人であった。


 黛も僕の姿を確認すると、笑顔を浮かべて近づいてきた。


 まるで昔からの友人かのように。


「お久しぶりです」


 黛が目の前まで来て会釈をする。


「あ、お、お久しぶり、です」


「テレビも観ましたよ。杉下さん、やっぱり凄い人だったんですね」


 黛は周りに飾られている僕の作品を見ながら言ってきた。


「いや、これはたまたまで」


「私がもらった作品、全部合わせたら百万円以上の価値があるんじゃないですか?」


 そう言って彼女はふふふと笑う。


「でも、やっぱりいいですね」


 一番近くにあった作品を見つめながら彼女が呟く。


「どこか、――概念的で」


 初めて話した時と同じような口調で、彼女が言う。


 僕は未だに彼女が言う「ガイネンテキ」という言葉の意味がよく分かっていない。


 なのでそんなことを言われても、どう答えればいいのか分からないのだ。



「――私、彼氏と別れたんです」


 ふいに、まるでいま思い出したかのように黛が言った。


 彼氏と、別れた。


 その言葉もどこか外国語のように聞こえて頭の中で上手く意味が繋がらなかった。


「杉下さん。良かったら連絡先教えてもらえませんか?」


 そう言ってこちらを見つめてくる黛の目は、あの日と同じように琥珀色に輝いていて。



 このままこの瞳に吸い込まれてしまったら、僕はどうなってしまうのだろう。


 彼女との関係が変わることで、彼女の言う「ガイネンテキ」な何かをこれからも描くことは出来るのだろうか。


 そんなことを思いながらも、僕は操り人形のように、ゆっくりとポケットに入れたスマホを取り出していた。






 それでもいいか、と思いながら。




【明滅する概念的点Pとその観測――完】

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