明滅する概念的点Pとその観測
飛鳥休暇
Ⅰ
ネットカフェ生活二十日目。
今日もなんとか見つけた日雇いの仕事を終えて、いつものネットカフェへと向かう。
八千円ほどの収入の中から二千五百円を払いナイトパックを申し込む。
仕切りのないオープン席であればもう少し安い値段で済むのだが、翌朝の疲れの度合いが大きく変わるため、少し値が張ってでも個室のブースで申し込むことが多い。
簡易的な仕切りに囲まれたブースにリュックを置いて一息つくと、リュックからパンツとTシャツを取り出しシャワーを借りるために受付へと向かう。
受付でバスタオルとシャワールームの鍵を受け取って、店内の奥へと歩いていく。
このルーティーンにも慣れてしまった。
湿気でじめっとしたシャワールームに入り、着ていた服を脱いだ後、その臭いを確認する。
あと二日は着れそうか。
シャワーのハンドルをひねり、熱いお湯を頭からかぶると、なんとなくその日の疲れも流れていくような気がした。
髪がキシキシになる備え付けのシャンプーと、洗い流してもどこかぬるぬるする備え付けのボディソープを身体に塗りたくり、脇と股間だけは少しだけ丁寧に洗っていく。
シャワールームを出て受付に鍵を返すと、フリードリンクの自販機でリアルゴールドのボタンを押す。
黄金色の液体がしゅわしゅわと音を立てるのを聞きながら、ようやく今日一日限りの自分の城へと戻るのだ。
このはりぼての要塞は、その名の通り一夜城だ。
一人掛けのソファーに腰かけ、リアルゴールドを一口飲むと、僕は備え付けのナプキンを数枚引き抜いた。
ナプキンを目の前の机に置いて、これまた備え付けのボールペンを手に取ると、無心でナプキンに絵を描き出す。
きっかけはなんだっただろうか。
マンガを読むのにも飽きてきた頃、なんとはなしにナプキンに落書きをし出したのが始まりだったように思う。
あれは確か小学生の頃だったか、市が主催していた絵画コンクールで賞をもらったことがあった。
それがなんだか嬉しくて、中学に入ってしばらくはノートの端に落書きのようなものを描くのが習慣になっていた。
かといって美術部に入るとか、そういったことは結局しなかったが。
おおよそ絵を描くには適していないナプキンに、百円もしないであろうボールペンで何かを描いていく。
気の向くまま、指の向くまま。
それはたとえば空飛ぶ猫、足の生えたビルディング、苦悶の表情を浮かべた太陽、対して笑顔のお月様。
そういったものをなんとはなしに描いていく。
お世辞にも上手い絵ではないだろう。
しかし、無心で紙ナプキンに絵を描いている時だけは、何もかもを忘れることが出来た。
******
新卒で働き出した会社が合わずに、心身を壊して退職したのが半年ほど前。
そのうちアパートの家賃も払えなくなった僕は、いくつかの衣類を入れたリュックだけを持って、住所不定無職になった。
地方に住んでいる親にもなんとなく連絡出来ず、日雇いのバイトで食いつなぐことにした。
そうして稼いだお金で、ネットカフェで寝泊まりしている。
そんなクソみたいな現状も、絵を描いている時だけは忘れられる。
思いつくまま数枚描いて満足すると、それをそのまま丸めてゴミ箱に捨てる。
別に大切に残しておくようなものではない。
そんな気軽さも描き続けられる理由に思えた。
そんなある日、いつものように受付で申し込みをしていると、目の前の店員の女性が「あの~」と恐る恐るといった様子で話しかけてきた。
栗色に染めた髪の毛を後ろで縛った眼鏡の似合う女性だった。
「これ、お客様が描いた絵ですか?」
女性が差し出してきたのはくしゃくしゃになったナプキンだった。
「あっ、これ、はい」
突然のことに動揺した僕はろくな返事も出来ずに頷いた。
顔が熱い。それは恥ずかしさなのか、申し訳なさなのか。
「すいません。先日ブースを掃除したときに見つけてしまって」
女性もなぜか申し訳なさそうに言ってくる。
名札には「黛」と書かれていた。確か「まゆずみ」と読む漢字だったはずだ。
「ごめんなさい。備品を勝手に使ってしまって……」
僕は目も合わせられずに頭を下げる。
「いえ、違うんです。……素敵な絵だなって」
「……え?」
予想だにしない言葉に思わず女性の顔を見る。
「なんか、いいですよね。概念的で」
【ガイネンテキ】という言葉の意味が頭の中で上手く形にならず僕はしばしフリーズしてしまう。
「あぁ! ごめんなさい! 捨てたものを勝手に拾ってしまって」
微動だにしない僕を見て、女性が謝ってくる。
「あ、いえ、大丈夫です。それ、あげます」
それだけ言ってから、逃げるようにその場を立ち去った。
いつもであればすぐにシャワールームに向かうところであったが、先ほどのやりとりが頭から離れずしばらくソファーから動くことが出来なかった。
――素敵な絵だなって。
――なんか、いいですよね。概念的で。
脳内で女性の声がリフレインする。
自分の落書きが褒められた。
その実感がじわじわと湧き上がってくる。
いつしか、無意識のうちにボールペンを手に取っていた。
いつも通りに描こうとしたが、いつも以上に力が入っていたのか、初めの数枚は描いている途中で破れてしまった。
それでも何とか完成と呼べるものが数点出来た。
いつの間にか額に浮いていた汗を拭う。
ナプキンの端も汗を吸って少し波打ってはいたが、絵には被っていなかったため、そのまま丁寧に机の上に重ねて置いた。
シャワーを借りに行く時、本棚に隠れて受付の様子を伺う。
受付には彼女――
僕は少し胸を撫でおろしてから、いつものように受付でシャワールームの鍵を受け取った。
シャワールームを出て鍵を返した後、お決まりのリアルゴールドを手にブースに戻る。
今日の分の絵はすでに描き終えて満足していたため、ジュースを一気に飲み干し目を閉じるといつしか眠りについていた。
翌朝、支度を終えてブースを出る直前に、淡い期待と共に描き上げた絵を手に取り、折れないように気を付けながらポケットに入れた。
受付に向かうと、運よく昨日の黛という女性がカウンターに立っていた。
高まる鼓動を感じながら、受付に番号札を差し出す。
黛は一瞬僕の顔を見てから、どこか気まずそうにレジに打ち込む。
「はい、大丈夫ですよ」
料金は前払いのため、ここでの支払いはない。
でも、僕はすぐに立ち退かずしばし受付前で立ち尽くす。
「……あの、お客様?」
黛が訝し気に僕に声を掛けてきたので、僕はポケットに手を突っ込みそこに入れていたナプキンを数枚、黛に差し出した。
「あ、あの、これ、あげます」
押し付けるように黛に差し出したのは昨日の夜に描き上げた絵だった。
「あ、ありがとうございま――」
黛が受け取ったのを確認すると、返事を待たずに足早に店を後にした。
動悸が激しい。顔が熱い。
しかし、どこか達成感のようなものが身体に広がっていく。
その日は足取りも軽く日雇いの現場に向かうことが出来た。
仕事も終わり、低価格でカツ丼が食べられるチェーン店で夕食をかきこむ。
水を飲んで一息つくと頭の中に様々なイメージが浮かび溢れ出してくる。
こんな気持ちになったのは初めてだった。
今はとにかく描きたい。頭の中にあるイメージを吐き出したい。
そんな衝動に駆られている。
ナイトパックの受付が始まる時間までがとても待ち遠しかった。
時間になったのでネットカフェに向かう。
しかし今日の受付は黛ではなく男の店員だった。
慣れた手順で受付を済ませブースに向かう。
黛の姿を見れなかったことで少しだけ落ちた気分をリセットするため、今日はシャワーを先に浴びてしまうことにした。
さっぱりとした身体でリアルゴールドを持ってブースに戻る。
ソファに腰掛けカップに一口つけると、ナプキンとボールペンを手に取った。
そこからは想像以上に筆が進んだ。
溢れ出したイメージをナプキンに書き殴る。
それは例えば二股の蛇、世界を映す雪の結晶、背中から生えた大きなキノコ。
そういったものを無心でナプキンに描いていく。
心地の良い疲労感と共に、気付けば机に突っ伏して眠りについていた。
目を覚ました時に垂れていたよだれをシャツの袖で拭いてから、ナプキンが濡れていないことを確認して安堵した。
結局、その朝の受付にも黛の姿は確認できず、僕は店を出てからポケットに入れていたナプキンをそっと取り出し、折れないようにリュックに入った服の間にそれを挟み込んだ。
その日の夜、再びネカフェに向かい入り口の自動ドアが開いた瞬間、僕の心臓は止まりそうになった。
目の前の受付に黛が立っていたからだ。
「あっ」
と短い声を上げて黛が僕の顔を確認する。
立ちすくんでいた僕の身体が、その声のお陰で再び動き出す。
心持ちうつむき加減で受付前までいくと「ナイトパックで」と告げる。
黛は笑顔を浮かべながら手続きを進めていくが、ふいに「ありがとうございます」と言ってきた。
「え?」
「この前の絵。どれも素敵でした。やっぱりどこか、こう、概念的で」
黛の顔がどこか赤らんでいるように見えた僕は、自身の顔も熱くなるのを感じていた。
「あ、あの」
僕はそう言うとリュックを降ろし、服に挟んだままだったナプキンを取り出した。
「これ……」
まるでラブレターを渡すかのようにカウンターの向こうの黛にナプキンを差し出す。
「もしかして、新作ですか?」
新作、と言われると何か大層なもののようにも聞こえるが、そんな価値があるとは思えない。
そんな価値があるとは思えないが、どこかほんの少し、目の前の彼女が喜んでくれたらという気持ちがあったことは否定できない。
「昨日、描きました」
黛は受け取ったナプキンに目を落としてから「ありがとうございます。嬉しいです!」と笑顔を向けてきた。
眼鏡の奥の黛の目が綺麗な弧を描いている。
僕は一瞬、その笑顔に見惚れてしまい黛の顔をじっと見つめてしまった。
「あ、ごめんなさい。勝手に興奮してしまって。えっと……杉下さん」
「は、はい!」
突然自分の名前を呼ばれたので僕は無意識に背筋を伸ばして返事をする。
「あ、えっと、ごめんなさい。お名前、会員カードで。あの、『お客様』だとなんだか他人行儀な気がしたので」
黛が申し訳なさそうに目を伏せる。
「い、いえ。大丈夫です。うれ、しいです」
「ほんとですか?」
そう言って嬉しそうに僕の目を真っすぐ見つめる黛の目の色は、琥珀のように茶色がかっていて、僕はその瞳に吸い込まれるような錯覚を覚えた。
「あの……、今日、というか明日か、朝までいらっしゃいますか?」
「ええと、はい。明日の朝まではシフト入ってますよ」
黛がきょとんとした顔で答えてくる。
その顔も、とても可愛いと思ってしまった。
「それじゃあ、今日も描きます。……良かったら、もらって頂けますか?」
僕の言葉を聞くと、すぐさま黛の顔がぱぁっと花咲いた。
「いいんですか? はい! 楽しみにしておきますね」
そう言って僕に伝票を挟んだバインダーを手渡してきた。
ブース番号が印刷されたそのバインダーを受け取る際、ほんの少しだけ指が触れる。
それだけで僕の心が瞬時に発火した。
「あ、あまり、期待しないで下さい」
そう言い残し、黛の顔も見れないまま足早にブースへと向かった。
思えば自分は女性経験も乏しかった。
大学時代に友人が強引に引き合わせてきた初めての彼女も、きっと一度も楽しませることが出来ずに、そのまま自然消滅してしまっていた。
これが恋というものなのだろうか。
ネットカフェの店員と客の関係で、会話らしい会話も今日初めてしたような人間に。
しかし、油断すると浮かんでくるのは黛の眼鏡の奥の弧を描いた笑顔、きょとんとした可愛らしい顔。
そしてどうにも溢れて止まらない意味不明なイメージたち。
吐き出さないと本当に吐いてしまいそうな気がしたので、勢いのままナプキンを鷲掴みにする。
この衝動はなんなのだろうか。
ともかく今は、胸に渦巻くこの熱を、ボールペンを通してナプキンにぶつけるしかなかった。
それは例えば夢見るキリン、錆びついた運河に浮かぶ長靴。
これが何だと問われたら、答えようのないものを、ただ衝動のまま書き殴った。
気付けばまたボールペンを握ったまま、机に突っ伏して眠っていた。
変な姿勢で寝てしまっていたため、バキバキになった身体をゆっくりとほぐすように身体を起こす。
時計を見ると短針が五時を指していた。
シャワーだけは浴びようと受付に向かう。
幸いにも、というべきか、受付にいたのは黛ではない男の店員――以前も彼だったような気もするが――だったためすんなりとシャワーの利用を申し込む。
シャワーから出てブースに戻ると、パソコンの電源を入れた。
ブラウザを立ち上げ「女の子 食事 誘い方」なんて文字を打って検索をかける。
そこから退出時間がくるまで、女の子にモテる方法や近場で評価の高いお店などを次々にチェックしていく。
財布を取り出し中身を確認する。
日々わずかずつではあるが、貯まっているお金がある。
――食事くらいは、奢れるかな。
そんなことを考えながら、パソコンの電源を落とした。
受付に向かうと、僕を待っていたわけではないだろうが、黛の姿があった。
でも、まっすぐ顔を見ながら近づくわけにもいかず、僕は少し目を伏せながら、はやる気持ちを抑えながら、ゆっくりと受付に近づいていく。
「あ、杉下さん」
黛が僕の姿を確認して声を上げる。
まるでそれが普通のことのように彼女が名前で呼んでくれたことがとても嬉しくて、僕は思わず顔を上げた。
「あ、まゆずみ……さん」
わざとらしく名前を呼び返しては見るものの、慣れない行為にぎこちなさが滲み、すぐさまそれを後悔した。
「え、名前覚えて下さってたんですね」
黛は気にする素振りも見せず、むしろ嬉しそうに笑顔で返してくる。
「あ、いや、ごめんなさい。……あの、これ」
僕は昨日描いたばかりの絵を黛に差し出す。
「わぁ! 本当に描いて下さったんですね! ありがとうございます」
笑顔と共に黛の歯が見えた。――とても可愛らしい歯だと思った。
「いえ、こんなもので良ければ、またいつでも」
僕はぎこちない笑顔を浮かべながら伝票を黛に渡す。
指が当たればいいのにな、とほんの少し思いながら。
期待むなしく指は触れることなく、黛がレジを操作する。
「はい、大丈夫ですよ」
そう言われるが、少しの間僕は受付前で立ちすくむ。
「……杉下さん?」
「あ、あぁ、あの――」
その時、後ろから別の客の気配がしたので、僕は言葉を切って逃げ去るように店を後にした。
――次。次に黛と会った時、食事に誘おう。
店を出た後にそう心に誓ってから、今日の現場へと向かった。
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