蒼い双眸
一
大内裏と内裏を隔てる朔平門を潜り、玄輝門を抜けると向かって右手が登華殿の殿舎だ。
上たちが住まう後宮とは、具体的には内裏の北側に広がる弘徽殿、承香殿、麗景殿、登華殿、貞観殿、宣耀殿、常寧殿、飛香舎、凝花舎、昭陽舎、淑景舎、襲芳舎の七殿五舍の建物群を指す。
識神の足は吸いこまれるように中宮の御座所を目指して飛び続ける。
「灯台もと暗しとはこのことだな」
後宮は日没と共に蔀戸が下ろされる。宝珠丸と和斗子は建物を回り込んで掛金のかかっていない妻戸から中に入った。
登華殿の中は驚くほど静かだ。
あれほど鳴り渡っていた誦経の声が止んでいた。
どころか、庇の間に控えた女房らのしわぶきひとつ、手慰みに爪弾く琴の音ひとつ漏れ聞こえない。
完全な無人だった。
至る所に灯された大殿油の灯芯の燃える音が聞こえるほどの静寂が御殿に満ちていた。
肝心の識神は建物の中で見失ってしまった。
どうして誰もいないの?
宰相の君や弁の御許は? 小兵衛は何処へいるの?
沈黙を破るのが何故かはばかられて、こみあげてくる疑問を口にできなかった。
宝珠丸が静かに和斗子の手を握った。
はっとして和斗子は宝珠丸の顔を見た。
大丈夫。わたしがついている。
黒い瞳が雄弁にそう語りかけていた。
そうだ。あたしには宝珠丸様がいる。
宝珠丸は和斗子の翼であり剣であった。
彼女とともにいる限り、和斗子は臆病な一介の中年女でなく、困難をものともしない勇猛果敢な忠臣となれるのだった。
「どうやら我々は蝶を追ったつもりが、蜘蛛の巣へ誘い込まれてしまったようだな」
灯火に浮かぶ宝珠丸の横顔は険しい。
「わたしたちがいるのは結界の中だ」
ぎくりとして改めて周囲を眺め回した。
室内の様子は昼間出た時と何ら変わりなく見えた。
御帳台、唐獅子と狛犬、矩形に述べられた高麗縁の畳、炭火の爆ぜる炭櫃、四方に立て回された几帳。
後宮の建物に限らず、貴族の住居の多くは広大な板の間を屏風や几帳などで遮蔽して用いるため、見通しはよくない。
和斗子から見えるのは大小の几帳が波頭のように打ち続く母屋と灯火が揺れるたびに蠢くそれらの影ばかりだった。
この異様な静けさ、生き物の気配の皆無には、覚えがあった。
「隠形の朱雀大路によく似てますね」
「よく気づいたね。唯一違うのは、此処が敵によって意図的につくられた異層ということだ」
宝珠丸は懐から三寸にも満たない瑠璃の水瓶を取り出し、つかつかと部屋の隅に歩み寄った。
「和斗尊、几帳を」
命じられて柱の前の几帳を動かした。
柱に添えられるように手燭が置かれていた。
「ナウマク・サンマンダ・ボダナン・バルナヤ・ソワカ」
真言に呼応して水瓶が光った。
中に何も入っていない空の器と見えたが、軽く降ると、口からは水が流れ出た。
灯火が音を立てて消える。
宝珠丸は続けて同じように四隅に配された手燭の火を消して回った。
我慢できずに和斗子は訊ねた。
「何をなさっておいでです?」
「結界を破る支度」
宝珠丸は更に水瓶を振って和斗子の頭から水滴をかけた。
「つめたっ」
水は瑠璃を溶かしたようにほんのり青味がかかり、かすかに潮の香りがした。
「陰陽道の呪術に四角祭と呼ばれる大規模なものがある。あれは大内裏の四隅で同時に術を施すことで結界を張る。それと似た呪法がこの場に使われている。さしづめ小さな四角祭といったところだな」
病気平癒に用いる鬼気祭を四箇所の境界で同時に行うのが四角祭だ。病をもらたす疫鬼の侵入を防ぐ目的で、疫病が流行ると陰陽師によって皇居四角や京極四角で催された。
「火の結界には水を用いる。五行相剋の初歩だよ、和斗尊」
宝珠丸は自身の頭頂からも水を振りかけ、印を結んだ。
「ナウマク・サンマンダ・ボダナン・バルナヤ・ソワカ」
瞬間、景色が風に煽られた壁代のように揺れ、また元に戻った。
いや戻ったと思ったのは錯覚で、部屋の中はわずかに様子が異なっていた。
御帳台の前に人影が立っていたのだ。背格好からして明らかに男と判断がつく。
后妃の寝所に男が無断で入り込むなど、あってはならない不敬である。
和斗子は恐怖よりも怒りを覚えて激しい調子で誰何した。
「そこにいるのは誰!?」
男もまさか人がいるとは思わなかったのだろう。弾かれたように勢いよく背後を振り向いた。
見覚えのある人物は、驚愕に目を瞠る土御門殿だった。
二
和斗子は唖然とその場に立ち尽くした。
「なぜ、土御門殿が……」
土御門殿も和斗子と同じく呆然としていたが、すぐに気を取り直して笑いかけた。
「中宮付き女房の少納言……だったかな? 以前職曹司にてお会いした。今日はまたどうしてそのような恰好で?」
はっとして見おろすと尼姿のままである。これではむしろ和斗子のほうが不審者に見える。
慌てふためいて頭巾を取る。赤毛がはらりと肩に落ちる。
「これはその……余興のひとつとでもいいますか……わたくしのことより、土御門殿ですわ。いかに中宮大夫とはいえ、上様の寝所にあがるとは、無礼では済まされませんよ」
和斗子のきつい口調に男は怯んだ。
「いやいや、すまない。どうしても上様に啓上したいお話があって……」
「そうか。ならば今聞こうか」
それまで大柄な和斗子の陰に隠れていた宝珠丸が、前へ進み出た。
男は目を瞬いて華奢な少年を凝視した。
「上様……? そんな馬鹿な……確かに御帳台に……」
慌てて御帳台の帷帳を捲り、中と宝珠丸とを交互に見較べる。
土御門殿が帳を捲りあげたおかげで和斗子の位置からも奥が見えた。
白い単衣を纏った上が確かに横たわっていた。宝珠丸が身代わりに置いた識神である。
まず目を引いたのは、上の細首に巻きついた黒い紐のようなものである。首から上へ視線を移し、和斗子は思わず悲鳴をあげた。
「ひっ――」
上の姿をした識神は白目を剥いた苦悶の表情のまま、血を流して絶命していた。
本人ではないと頭でわかっていても衝撃的な光景に和斗子は激しく動揺した。
ふいに識神の首から紐が滑りほどけた。
絹のような光沢の紐はそのまま上の腕を伝い落ち、御帳台から這い出てきた。
薄暗がりで紐に見えたのは黒い胴に赤い縞の入った蛇だった。今まで見たこともない珍しい柄だが、その禍々しさから瞬時に毒蛇と悟った。
斑の蛇は鎌首をもたげ、宝珠丸に向かってまっすぐ這い寄った。
「宝珠丸様!」
「オン・ギャロダヤ・ソワカッ」
宝珠丸が手にした独鈷を蛇に突き立てる。
独鈷の尖端が頭を床に縫い止めた。
身動きとれなくなった胴体はしばらく苦しげにのたうっていたが、やがて黒煙となり霧散した。
「これはこれは素晴らしい贈り物ですね、叔父上」
袖を払って立ちあがると宝珠丸は男と面と向かった。
「毒蛇に噛まれて死亡したことにでもするつもりでしたか? それなら季節は春か夏を選ぶべきでしたな。冬ではいかにも不自然過ぎる。叔父上はいつも詰めが甘くていらっしゃる」
「だ、誰がそんな……」
姪に詰め寄られて土御門殿はわずかに後ずさった。
「おや、この期に及んで否定されますか? 中宮の寝所に忍び込むだけでも大罪ですよ。そのうえ中宮の死体と凶器の毒蛇。これだけの状況証拠が揃っているのに?」
「し、しかし中宮は生きている――」
土御門殿の指摘はもっともだ。殺人を糾弾したくとも、殺されたはずの上が生きているのだ。これでは流石に説得力に欠ける、と和斗子も冷静に判断した。
しかし別の衝撃から和斗子の心は立ち直れずにいる。やはり土御門殿は上と関白家に二心抱いた仇敵だったのだ。ほのかに憧れていた公達だけに和斗子の失望も大きかった。
「たしかに、わたしはこのとおり生きているし、毒蛇も消えた。これでは叔父上を大逆人として検非違使に突き出せませんなぁ」
宝珠丸は皮肉の笑みを口の端に浮かべる。
「清廉潔白な叔父上が禁じられた呪法に自ら手を染めるとは考えにくい」
男は両の拳を握って立ち尽くしたままだ。
「誰ぞにそそのかされましたか?『これを使えば証拠も残さず中宮を始末できる』と」
挑発するかのような宝珠丸の物言いを和斗子ははらはらしながら見守るしかなかった。
ふと宝珠丸は口吻を和らげ、指弾口調ではなく優しく語りかけるように言った。
「叔父上の大姫は愛らしく生い育っておいででしょうね」
土御門殿の拳がわずかに動いた。
「さぞや可愛い、目に入れても痛くないめぐし子でしょう。そんな大切な姫君は、是非後宮に入れ、主上の寵を受けてほしいと願うのは、当然の親心ですわ」
更に畳み掛ける。
「愛娘の障壁となるものはみな早目に刈り取ってしまいたいものですわね。たとえば、主上の寵を独占する唯一の正妃」
おかしくもないのに宝珠丸はくすくすと笑った。
和斗子には宝珠丸の考えがわからなくなった。
土御門殿と対峙した宝珠丸は今までにない妖艶な気配を漂わせていた。
「叔父上、叔父上はきっとこの先出世されますわ。野心の塊のような御方ですもの。我欲のためならきっとどんな卑劣な手も辞さないのでしょう。押しも押されぬ権力者となったあかつきには、姫君はさぞ主上から大事にされましょう。名匠の手による雛人形のように大事に、ね」
姪が叔父を流し見る。
「ですが、あなたの大姫は一番には愛されない。なぜなら主上がもっとも激しく愛し求めるのは、中宮であるわたくしだから――」
「黙れ小娘えぇ!!」
それまで黙り込んでいた土御門殿が喚きながら宝珠丸にくってかかった。
小柄な宝珠丸を床に叩きつけると馬乗りになる。
か細い首に手がかけられた。
「知ったような賢しらな口を叩きおって。小娘が――許さん――許さんぞ――」
叫び散らす土御門殿の目は血走り、顬には血管が浮き、まさに鬼の形相である。
「宝珠丸!!」
今度は和斗子が絶叫する。
駆け寄ろうとする和斗子を宝珠丸が退けるような仕草をする。
土御門殿を怒らせる言動は、すべて今の状況をつくりだすための布石であったのだ。
――人を呼び、暴行現場を押さえさせる――これこそが目的だったのだ。
宝珠丸の真意を理解した和斗子はすぐさま踵を返した。
薄暗い庇の間に出るとちょうど几帳の陰から現れた人物とぶつかった。
「ごめんなさい、急いでたもので……」
「少納言? その声は少納言殿では?」
見ると相手は頭弁だった。
和斗子は彼に行きあったことに心から安堵した。
「ちょうどよかったわ頭弁、今すぐ人を呼んでちょうだい。上様が、上様が――」
頭弁の肩に縋りつく。直衣の盤領に三尸の紙で作った白い花が揺れた。
実方が言ったように公達の間で造花を身につける事が本当に流行っているのだ。堅物の頭弁まで洒落っ気を出して襟に飾っているのが、なんとも微笑ましかった。
ああ、頭弁も味方なのだわ……
「少し落ち着いて。上様がどうされたんです」
頭弁が宥めるように和斗子の肩を抱く。思いがけない力強さに和斗子の胸が場違いに高鳴った。
ときめく和斗子の目の前で、白い紙の花が花芯からどす黒く染まり、ぼろぼろと崩れ落ちた。
和斗子はよろめくように身を引いた。
そんな、まさか……
頭弁も異変に気づき、胸元の爛れた残骸をやれやれと毟りとった。
「……もう少しもつと思ったのに」
三
「どうして、どうしてよ、頭弁――」
和斗子は何度も首を振りながら後ずさった。
やがて背中が柱につき当たり、それ以上後退できないとわかると、柱に後ろ手で縋りついた。そうでもしなければその場にへたり込んでしまいそうだった。
土御門殿が敵だとわかった時の何倍も悲しかった。それは和斗子の頭弁との親密さによるものだった。
頭弁は追いすがると和斗子の首を両手で締めあげた。凄まじい力だった。
「許してほしい。こうするしかないんだ」
許すって何を?
上様を裏切ったこと?
それともあたしを殺そうとしてること?
和斗子は手を引き剥がそうと力いっぱい爪を立てた。
「わたしには土御門殿に従うしかないのだ。宮中で生き残るためには――」
頭弁の眼から静かに涙が伝い落ちた。
「女は己を説ぶ者のために顔づくりす。士は己を知る者のために死ぬ」はあなたの座右の銘だった……
あなたを知る者とは、主上でも上様でもなかったのね……土御門殿なのね……
朦朧とする頭で和斗子は必死に考えを巡らせた。
頭弁の生家は九条流の名門ながら、度重なる不幸のため彼の代には家運が傾いていた。曽祖父を同じくしながら、上の兄が十八の若さで従三位の権中納言なのに対し、二十の頭弁はまだ従四位の蔵人頭に過ぎない。
出世の主流から外れた公達は、彼なりに過酷な政界を泳ぎ渡る術を模索した。
それがたまたま土御門殿の下につき、和斗子たちと反目する立場だったのだ。
複雑な政局のことはわからないが、和斗子が頭弁の立場だったとしても同じ道を選んだかもしれない。だから彼を責める気にはなれない。
信じていた者に裏切られたこと、大切な友人を失ったことが、ただただ悲しかった。
……けど。
頭弁の手を掴む力を緩める。
だからってあんたに殺されるのは御免よっっ!!
和斗子は力をふりしぼり、散供の米を頭弁めがけて叩きつけた。
最初ただの目潰しと思って油断した頭弁は、袖で遮るのみで避けようとはしなかった。
だが米粒が当たった箇所が肌といわず着物といわず煙をたて始めるにいたって、慌てて払い落としにかかった。
拘束から自由になった和斗子は喘ぎながら繰り返し息を吸った。
頭弁は顔を抑えて屈みこんでいる。指の間に覗く肌が蚯蚓脹れのように爛れ、見るに堪えない。
そこへ追い討ちのように狛犬の石像が飛びかかった。土御門殿には唐獅子が襲いかかっている。
大の大人が蟇の断末魔のような悲鳴をあげる。
石像の重さを知る和斗子は彼らに少しだけ同情した。
「宝珠丸様」
「和斗尊、無事か……」
咳き込みながら宝珠丸が起きあがる。首に赤く残った手形が痛々しい。
二人は互いに支えあって立ちあがった。足元には、石像に押さえ込まれた公達二人が気絶している。
「奸臣討ち取ったりぃ!」
「取ったりぃ!」
守護獣が高らかに勝鬨をあげる。
「これで現行犯ですわね。左遷先は大宰府でしょうか……」
昔から謀叛人の流刑地といえば、遠の朝廷こと筑前の大宰府と相場が決まっている。
「この二人を断罪したところで何もならんよ。真の黒幕を倒さぬことには」
思いがけない言葉だった。
「この二人が黒幕ではないのですか?」
「ああ。この二人は単なる傀儡……自分で考え、事を起こしたと思い込まされてる手駒にすぎない」
宝珠丸は屹然と正面を睨み据えた。
「そこにいるのはわかっている。出て参れ」
軟障の陰からゆらりと人影が立ちあがる。其処に人が座していると今の今まで和斗子は気づかなかった。いや確かに宝珠丸が指摘するまで、人影などなかったのだ。
石像たちが姿勢を低め唸りをあげる。
「流石中宮様、見破られましたか」
「ふん。いくら隠形の術で誤魔化したところで、狐の臭いがぷんぷんしておったわ」
現れでたのは白一色の老人だった。
直衣も指貫も単衣も無紋の白。皺だらけの肌も鬚も眉も白。彫りの深い顔立ちはどこか異国の血を思わせた。白髪に頂いた冠だけが白紙に墨を落としたかのように黒い。
この人が黒幕……?
予想を大きく裏切る人物像に困惑する。
陰謀を企てる者とは、もっといかにも邪悪な面相をしているものと思い込んでいた。
少なくともこんな神さびた仙人のごとき人物ではない。
「これはなかなか手厳しい」
老人は穏やかな調子を崩さない。
「宝珠丸様、この方は?」
「紹介しよう、天文博士の安氏だ」
四
「こうしてお目にかかるのは久方ぶりですな。最後にお会いしたのは法興院でしたか」
安氏の声は老人にしては張りがあり、若々しく聞こえた。
和斗子にとって年寄りとは、おしなべて嗄れ声で、痰をからませたり咳き込んだりしながらもごもご喋るものと相場が決まっていた。
陰陽師の安氏といえば、亡父とそう大差ない生年だったと記憶するが、和斗子にはこの翁がいくつなのか俄にはわからなかった。
「あの頃はまだ小さくていらっしゃった。こんなにお美しく生い育たれるとは」
皺に埋もれた目をさらに細め相好を崩す。だが好々爺と呼ぶには醸す気配に隙がない。
「白々しいことを。どうせ内裏で式に見張らせておったくせに」
温和な天文博士に対し、宝珠丸はあくまでつっけんどんだ。
「これのことですかな」
老人が袖口から取り出したのは鉤爪を備えた白い猛禽の脚だった。
それは和斗子たちの目の前で青い炎を噴き上げ、一瞬で跡形もなく焼失した。
「よくよく隠形の術を施しましたのに、中宮様の慧眼には敵いませんな」
宝珠丸が奥歯を食いしばる。
「それとてそなたの手の内であろう。いい加減しらばっくれるのはよせ」
「はて……なんのことでしょう」
「叔父上や院を操って何を企んでいるか白状したらどうだ」
「操るなどとは人聞きの悪い。少しばかりご助言さしあげたことはありますが…… 」
「……そうやって、貴顕の相談に乗るふりをしながら、色々と入れ知恵をして回っているのだろう。自らの手はくださずに」
安氏は何を言われても飄然と受け流す。先程まで大の大人を手玉に取っていた宝珠丸が、いいようにあしらわれている。
格が違う――と和斗子は思った。
だが宝珠丸も負けてはいなかった。
「おまえの目的は、藤氏の蠱毒の完成だろう」
宝珠丸の指摘に老いた天文博士は黙して何も言わなかった。
沈黙は肯定であった。
老人は静かに問わず語りに口を開いた。
「『藤かかりぬる木は枯れぬるものなり』……他氏を圧倒する藤氏を皮肉ったいにしえの言葉ですなぁ」
紀氏の誰かの発言として語り伝えられた有名な言葉だ。
その予言めいた言葉どおり、藤氏は数々の有力氏族を朝廷から閉め出してきた。大伴氏、篁氏、紀氏、菅原氏……数えればきりがない。則光の橘氏もかつては公卿を輩出したことのある由緒正しい一門なのだ。
「他の氏族だけならまだしも今の藤家は皇室――梧桐の木すら締め枯らそうとしている」
宝珠丸は懐に手を入れたまま数珠を油断なく握りしめている。
「では宿り木を失った藤はどうなりましょう? 主である梧桐の木が枯れたらば? ……互いを互いの蔓で締めつけ合うしかあるまいに」
老人の言葉はまさに藤氏の現状を言い得ている。
大織冠鎌足に端を発する藤家は早い段階で南家、北家、式家、京家の四家に分かれ、それぞれの家から公卿を輩出する権門となる。
のちに北家以外の三家は勢いを失い、権力争いは主流となった北家内部で繰り広げられようになり、朝廷の中枢はほぼ北家出身者で占められる時代が到来する。
くだって現在では、北家九条流の一握りの血縁者によって、摂関の座が奪い合われている状態であった。
それは確かに蠱毒の生成法に恐ろしいほど酷似していた。肉親による骨肉相食む謀略の数々。血をわけた兄弟による呪詛合戦。
「生前は祖父に白羽の矢を立て、今度は土御門の叔父上か」
「ご明察。藤原北家の姫君」
「……わたしは、高階の姫だ」
「ご自身がどう思われていようと、わたくしからすれば壺中の虫たちと同じ藤家の者ですよ」
「いいやわたしは高階の姫だ。沙輪法師の娘にして後継者、陰陽法師宝珠丸だ!」
唐獅子と狛犬が同時に襲いかかる。
ところが二匹は見えない壁に阻まれるように宙で弾かれ、もんどり打って床に転がった。
「高内侍も目障りな女狐であったが、娘も小賢しい仔狐に育ったものよ」
眠たげな安氏の瞼がわずかに持ちあがる。
「母を知っているのか」
「あの賢しらな女官は、いつも帝の側に侍ってわたしの邪魔をしておった」
高内侍が出仕していたのは二代前の故院が帝位にあった頃で、安氏が陰陽師として頭角を現しはじめるのは故院の退位後、華山の帝の御代になってからである。
沙輪法師の名を聞いてから、それまで凪いだ水面のようだった安氏の様子に変化が表れた。
昔日の恨みが心に漣を生じさせたようだ。
「あくまで高氏と言い張るのなら、わたしはいかなる手段を講じてでも、宝珠丸、あなたを倒そう」
安氏が双眸を見開く。
「一口鬼!」
天井から巨大な腕が安氏めがけて振り下ろされる。
が、それすらも見えない障壁に弾かれてしまう。
「高氏の陰陽道は所詮亜流。本流の陰陽道とはかくあらん」
安氏が指を鳴らすと、文字どおり幕が切って落とされた。
五
それまで和斗子の周りに存在したありとあらゆる物象が溶け去り、代わりに眩い光景が出現した。
一瞬白い光に包まれたと感じたのは、暗い部屋の中からいきなり明るい外へ連れ出された落差からだった。
むしろ頭上の空は薄い雲に覆われ、ほのかに明るい程度である。
曇天を分断するかのように崖がそびえ立ち、その天辺から百雷の轟きとともに白妙の瀑布が流れ落ちていた。
下を見ると和斗子は何もない虚空に浮いていた。足元のはるか下は激しく泡立つ滝壺である。
一瞬、気が遠のいた。
「惑わされるな和斗尊。これはまやかしに過ぎない。わたしたちがいるのは登華殿の屋根の下だ」
宝珠丸に脇から支えられ、和斗子は何とか気を取り直した。
だが幻術にしては、頬にかかる水飛沫も髪を嬲る風もあまりに生々しい。
唯一宝珠丸の言葉を裏づけるのは、雲に透けて見える太陽と太陰である。日と月が並んで同時に中天に昇ることなど、現実にはありえない。
「宝珠丸様、此処は――」
問いながらすでに和斗子は答えを知っていた。
京暮らしの和斗子にとって昔語りや歌枕でしか知るよしのない――霊場熊野の那智の滝に違いなかった。
安氏が若かりし頃、修行に赴いた因縁浅からぬ場所でもある。通常、陰陽寮の役人たちは山伏のように山に籠って修行したりはしない。だが安氏は那智山に千日籠り、厳しい修行の末に験力を感得したと伝えられている。
「芝居がかったことをして」
「天狗退治には此処がお誂え向きかと思いまして」
同じく宙に浮いた安氏が平然と答える。
裾が風にはためき、長い尾のようだ。
元々矍鑠たる老人ではあったが、自身の結界の中においては力が増すのか、先程よりも若く見える。
見開かれた安氏の眼は青味がかった銀色をしていた。
青白い目に射すくめられ、和斗子は全身が凍りついたように動けなかった。宝珠丸が支えてくれなかったら、その場に腰から崩れ落ちていただろう。
「わたしが天狗だとしたら、おまえは何だ。おまえとて天の狐であろう」
宝珠丸の言葉に安氏が応える。
「そのとおり。天を騒がせ地を響もす、天津狐は本朝にひとりで充分!」
安氏が袖を振ると青い炎が縦横に迸った。宝珠丸は和斗子を突き飛ばすと迦陵頻の領布を纏って空高く飛翔した。
老人の背中からも猛禽のような翼が生え、一打ちしてそれを追う。
それはおよそ人智の及ばない、飛天と飛天の闘いであった。
天竺の帝釈天と阿修羅の闘い、高天原における素戔嗚と天照の闘い――和斗子の頭をよぎるのは浮世離れした神話の数々だった。
安氏の青白い焔を宝珠丸が迦陵頻の金色の炎で迎え撃つ。
はるか下方の和斗子から見て、宝珠丸の旗色が悪いのは明らかだった。
以前、夜空を舞い飛ぶ宝珠丸の姿をかぐや姫のようだと評したことがあるが、宝珠丸をかぐや姫とするなら、安氏は保食神を斬り殺した荒々しい月の神そのものだった。
青い火焔が擦り、水干の袖が焼き切れた。
「くっ」
宝珠丸が肩口を押さえる。
「先刻おまえはわたしを倒すと言ったが、いいのか? 一国の中宮を手にかけて」
宝珠丸が火球を投げつける。
「はて。わたしが倒すのは帝のお后に非ず、どこの生まれとも知れない市井の陰陽師にござりますれば」
炎の幕が火球を遮り、金銀の火の粉が飛散する。
「……詭弁を、」
「ならばこう申し開きしましょうか。関白家の大姫は帝に仇なす妖狐の化身なれば、わたくしめが征伐いたしました、と」
「江家に吹き込んだのもおまえかっ!」
一際大きな火焔の刃が安氏を襲う。
「たとえわたしの正体が狐だったとしても、主上を害することなど絶対にない。絶対に」
宝珠丸の目が真紅の輝きを宿す。
わずかに宝珠丸の火勢が安氏のそれを押しはじめた。
だが呪力と呪力のぶつかり合いにおいては、宝珠丸が劣勢なことに変わりなかった。
和斗子はどうしても宝珠丸に負けてほしくなかった。
勝たなくていい。
ただ五体満足のまま和斗子の元に戻ってきてほしい。
そう言ったら宝珠丸は憤慨するだろうか?
いいや。きっと和斗子の心配症を笑って許してくれる。
……今わたしがいるのが登華殿で、見えている風景が幻ならば、床を歩けるはずよね?
再び足下を眺めれば目のくらむ高さである。落ちないとはわかっていても、足が竦んで一歩も動かせない。
ならば。
歩けないなら這っていこう。
和斗子は両手をついて、なるべく前だけを見てじりじり進み出した。
目当ては九天より落つるかと思える那智の瀑布である。
吊り橋もない中空を這って移動するのは恐ろしい体験だった。
増水した賀茂川にかかる橋の欄干を歩いて渡るのと、どっちが怖いかしら。
くだらないことを考えて恐怖を紛らわした。
やっとのことで滝のそばににじり寄った和斗子は耳を聾さんばかりの水音に負けじと声の限りに叫んだ。
「宝珠丸様ーー!!」
声が谷底に谺する。
「五行相克の初歩ですよーー!!」
一瞬、宝珠丸も安氏も動きを止めた。
「そうか! でかしたぞ和斗尊!」
宝珠丸が動き出すのが半瞬早かった。
「ナウマク・サンマンダ・ボダナン・バルナヤ・ソワカ!」
水天の真言を唱え数珠を振りかざす。
水天――龍王たちの長――竜宮に棲むとも九つの頭を持つ龍であるとも伝えられている水の神。
滝はしばしば龍の姿に喩えられ、竜宮とは滝壺の底にあるとも言う。
和斗子の目の前で信じられないことが起きた。
それまで勢いよく流れ落ちていた滝が逆流を始めたのだ。
滝壺から水流が躍り上がりながら絶壁を昇っていく。
激流の間に一瞬鬣のようなものが翻る。
滝口から噴出したのは透明な龍だった。鬣や角や鉤爪といった龍の特徴はそなえているが、和斗子の想像よりもずっと蛇体に近い。透明な鱗を透かして、鈍く光る太陽と月が見えた。
龍は宝珠丸の周りをひと泳ぎするとかっと顎門を開いた。
水の塊が放射され、あっという間に青い炎を消し去った。
炎と水がぶつかり合い、濛々と蒸気が立ち篭める。
水龍は続けざまに水の槍を安氏に叩きつける。
ついには水圧が片翼をもぎ剥がし、安氏の体が大きく傾く。
「臨兵闘者皆陣列在前」
初めて安氏が守勢に回った。囲繞するように飛び回る龍の水責めから九字を切って護身する。
「形勢逆転だな。さぁどうする老いぼれ」
宝珠丸が不敵に笑う。
靄が晴れると老陰陽師は岩棚に背をあずけ、全身から水を滴らせていた。
「参りました。わたくしめの負けにございます」
「素直に負けを認めるか」
「ええ。ですが上様とはこれにて一勝一敗、引分ということになりますな」
「わたしがいつ一敗した!?」
「この結界がまだ破られておりません」
安氏につられ、宝珠丸も天空を見あげる。
あるはずのない月と太陽が浮かぶあわいの世界。
「おっと、早まりますな。わたしが死ねば、この結界はひとりでに閉じ、現し世には戻れなくなります」
安氏はにっこり微笑んだ。
「どちらに転んでも結局おまえの勝ちか」
宝珠丸は心底悔しげだ。
「まぁそう気落ちなさらず。わたくしもあまり力は残っておりません。上様がたを現し世に送り届けるだけで精一杯でしょう」
「要らん。自力で戻る」
「帰り道はご存知ですかな」
宝珠丸はそれには答えず、和斗子の元まで急降下すると無言で手を引いた。
「帰るぞ」
「ど、どうやってですか?」
二人の間で交わされた会話を知らない和斗子は困惑するばかりだ。
「いくつか手段は思いつくが、あの芝居がかった爺様のことだ、那智にちなんだ解除の方法を用意してるだろうよ」
宝珠丸は懐から小さな弓を取り出した。軍荼利明王の弓だ。
「オンウウン・カタトダ・マタビシャ・ケッシャヤ・サラヤハッタ」
弓が身の丈にふさわしい大きさになると、宝珠丸は徒手で弦を引いた。
滝口の武士の行う鳴弦を和斗子は連想する。
引き絞った弓を天めがけて放つ。目には見えない征矢が鋭い音を立てて空の彼方へと吸い込まれていく。
と、中天にかかっていた太陽が鏡のように罅割れた。まやかしの月と日は思いがけず低い位置にあったのだ。
太陽の中から三本足の鴉が降ってきた。
「これが解除の方法なのですか?」
宝珠丸を振り向くと周囲の景色がまた頼りなく揺らぎ始めた。
「和斗子、手を」
宝珠丸の姿も朧に揺れる。
差し出された綺麗な指先だけがはっきりと目に焼きついた。
六
気づいた時には和斗子と宝珠丸は橋の上に佇んでいた。
戻ってきたのが登華殿ではないことに和斗子は少し戸惑った。
「宝珠丸様、此処は何処でしょう……」
「案ずるな和斗尊。一条戻り橋だ」
見渡せば船岡山の見慣れた山影が星空の下蹲っている。夜明けが近いのか東側の山際はほのかに明るい。
「あやつめ……わたしたちを何処なりとも戻せたはずなのに。結局内裏まで歩かねばならんではないか……」
ぶつぶつと独り言を呟いている。どうも安氏が絡むと宝珠丸はむきになりがちのようだ。
凄まじい冒険を終えたばかりとは思えない静謐な初春の曙である。
「これで一件落着……でしょうか?」
黒幕を突き止めたものの、彼はまだ野放しのままである。
「むしろ波乱の幕開けかもしれぬな」
黎明の薄明かりで見ると宝珠丸は酷い有様だった。
白い童水干は焼け焦げ、片袖にいたっては焼け落ちている。顔に目立った傷がないのがせめてもの救いだ。
もし自分に子どもがいてこんな風に傷をこしらえて帰ってきたら、どれほど胸が塞がれる思いがするだろう。
「ご無事で何より……」
和斗子は思わず宝珠丸の華奢な体を抱きしめた。
「心配かけたな、和斗子」
不敬を叱られるかと覚悟したが、宝珠丸は和斗子の背に手を回すと宥めるように優しく叩いた。
星がひとつ、またひとつと姿を消し、東の空がいよいよ明るさを増した。
「東風吹かば――」
ぽつりと宝珠丸が呟いた。
「なんです?」
「なんでもない」
宝珠丸は素早く身を翻えし、橋を渡って京の地を踏んだ。
「このなりでは内裏には戻れん。一旦二条に寄って湯浴みだ、和斗子!」
言うなり宝珠丸は駆け出した。
「あっお待ちくださいっ」
和斗子も急いで橋を渡る。
小走りで後を追いかけながら和斗子は思案を巡らす。
宝珠丸が口にしたのは、かつての菅公――北野天神の歌の上の句だ。
東風吹かば匂ひおこせよ梅の花あるじなしとて春を忘るな
藤氏の謀略によって大宰府に流された菅公が左遷先で詠んだ歌である。
菅公の邸第紅梅殿は、その名にたがわず美事な梅の木で有名だった。
梅の盛りの季節が巡っても咲き誇る花を見ることが叶わぬ無念が三十一文字に詠み込まれている。
詠まれた背景も含めて和斗子もよく知る歌だ。
今の季節にぴったりの歌ではあるけど……
もっとこの場にふさわしい明るく朗らかな詩歌がある気がするのだが。
首を捻る和斗子の頭上で、気の早い梅の蕾が綻びかけていた。
花の木ならぬは @mizuyaray
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