識神の足





 年が明けて和斗子は廿六に、上は十六になった。

 宝珠丸の評判はますます高まり、二条邸のみならず、登華殿の中宮の直廬まで依頼人が訪れるほどだ。

 表向きは中宮と宝珠丸は別人という扱いなので、御所を抜け出す必要に迫られた場合には識神を身代わりにたてる。

 和斗子も尼僧に身をやつして同行するのだが、そうすると日中留守にすることが多く、女房少納言として伺候するのは夜ばかりになる。

「少納言は夜しか働かぬ。まるで葛城の神ね」と同僚たちからは揶揄される。

 かつて役行者に使役された葛城山の神が、己の醜さを恥じて明るい昼間は行者の命令に背いた故事を引いて皮肉られたのだ。

 とんでもない! むしろ昼間こそ身を呈してお仕えしているのに!

 あちこち連れ回されてへとへとで、寝てしまいたいのを我慢して侍っているのよっっ!

 反駁するのをぐっと堪えるのは至難の技だった。

 もとから和斗子はあまり堪え性がない。思ったことが真っ先に態度と口に出る。楽しい出来事や自慢話はすぐ吹聴して回る癖があるので、それで反感を買ってしまう場合もままあった。

 あまりに悔しいので上に打ちあけると「おまえも形代の式を使うといい」とあっさり言ってのけた。

「できるのですか……?」

「これに名前を書いて、おまえの髪か血を中に入れると、半日くらいは身代わりになる」

 上が細い指で差し出したのは、祓で使う撫物によく似た人型に切り抜いた紙だった。

「そんな術士みたいな技、わたくしにも使えるのでしょうか」

 半信半疑で紙を受け取る。

「和斗子、」

 上が和斗子を候名でなく本名で呼ぶのは重要な前振りだ。

「陰陽道とは単なる知識の集積と技術の研鑽だよ。僧侶や山伏の修行とは根本が違う」

「修行しなくとも体得できると?」

「そこまでは言わないが、要するに決まった手順を過たず行えば、ある程度の結果が保証されるものなんだ」

 新たに紫の料紙を取り出すと上は無造作に素手で破った。

「仏道や修験道の修行はそれ自体に意味があり、験力はその過程で感得するものであって、目的にしてはならないのだ」

 はらはらと薄い紙が床に散る。

「対する陰陽道は最初から能力の会得を目的とする。勤勉さは必要だが、信心までは求めずともよい」

 切り裂いた紙片を両手に包み込む。

「もっとも、優れた術者になるには、天賦の才が必要だがな」

 掌をぱっと開くとそこには紫の蓮華の花が咲いていた。馥郁たる香りも柔らかな花弁も生きた花そのものである。

「……結局のところ、才能は必要なんですね」

「見鬼といってな、妖の姿が見えるかいなかが、術士として大成するための要となる」

「天文博士の安氏も少年の頃から鬼が見えたと噂で聞いたことがございます」

 今上帝からの信任も厚い当代きっての陰陽師である。もう相当高齢にはなるが、未だに皇族や上流貴族からは頼りにされ、何かにつけて呼び出されては相談を請け負っていた。

「母は生まれつきの見鬼であったが、年経るにつれ力が消えていく性質であったらしい。結婚を機に足を洗ったのもそれが理由だ」

 上の母君はかつて沙輪法師の通り名で活躍した陰陽法師だった。学者の家系に生まれた才女で、上は漢籍の手ほどきとともに不思議の技も伝授されている。

「高階の者もすべてが験力を持って生まれてくるのではない。一族の女に力が発現しやすい傾向はあるが、母とわたし、二代続けての例は珍しいようだ」

「見鬼が女君に多いのは、やはりいにしえの斎宮の血筋の顕れでしょうか?」

 天照大御神に仕える尊き乙女。かつて在五中将業平と契り子を成した斎き女王。

「かもしれない」

「よくよく考えると伊勢の斎宮も不思議なならわしですわね。天照大御神は女神であらせられるのに、同じ女である姫宮が巫女として奉仕するなんて」

 和斗子は疑問に感じたが、上は違った意見のようだ。

「その大御神が天の岩戸にお隠れになった時、舞を奉じたのは天鈿女命であるし、別に不思議とは思わないがな」

「そうでしょうか」

 和斗子がまだ納得しかねるのは斎宮を神への御饌のように解釈してしまうからかもしれない。

 八岐大蛇の贄にされた奇稲田姫も三輪の大物主神に夜這いされた活玉依姫も女人である。

 男神の花嫁に擬せられるからこそ、未婚の乙女が選ばれるのではないか。

「それとも和斗子は、女君を主にもつのは不満?」

 上が意地悪く目を眇めた。

「滅相もない!」

「わたしなぞより、兄の権中納言に仕えればよかったと後悔しているのでは?」

「とんでもございません! わたくしは、上様だからこうしてお仕えしているのです!」

 和斗子は必死に言い募った。

「『女は己を説ぶ者のために顔づくりす。士は己を知る者のために死ぬ』とは申しますが、わたくしは女の身なれど、上様のためならば死ねます」

 それは本心からの叫びだった。

「おまえならそう言うと思ったよ」

 上は満足げに微笑んだ。

 また上にしてやられたと気づいて、和斗子は顔を赤らめた。

「そ、それはそうと、本当ですか、一連の事件の陰に黒幕がいると――」

 心なしか声を低める。

「ああ」

 上が柳眉を顰める。

「藤三位の生霊、女院の病悩、犬の蠱毒……これらの事件には何らかの関連がある」

 いずれも昨年、和斗子が関わった事件だ。

「有り体に言えば、わたしの近辺で妖異が起こりすぎているのだ。誰かが意図して事を起こしているとしか思えない」

「いったい何のために……」

「決まっておろう」

 上が檜扇を拡げる。

「わたしを亡き者にするためだよ」

 あまりに不吉な禍言に和斗子は絶句した。

「まさか、そんな」

「まぁ、亡き者とまでは言わずとも、中宮の座から引きずりおろしたい連中は掃いて捨てるほどいるだろうよ」

 主家が大好きな和斗子をしてその事実は否定できない。

 上の父が先の摂政の嫡男にして関白という廟堂一の権力者であるため、現在政敵は見当たらないものの、娘を入内させたいと願う公卿は少なくない。娘が帝の竉を得て子を成せば、現在の権勢が覆る可能性もある。

 他に比類なき帝の唯一の后妃として今をときめく上であるが、中宮冊立を巡っては難色を示す一派も悲しいことに存在した。

 特に上が裳着を迎えた年に飛来した凶星を理由とし、冊立を延期するよう進言したのが学者の大江匡衡だ。




「巨大な彗星は、唐土では奔星または天狗と呼ばれる凶星です。天にありては大気を騒がせ、地に降りては狐の姿に変じて災いをなす伝えられております。狐といえば、殷を滅ぼした悪婦妲己も夏を滅ぼした妹喜も狐の化身だったとか。この妖婦に溺れるまでは殷の紂王も夏の桀王も英君と讃えられておりました。いついかなる時も賢帝に道を踏み誤らせるのは、人の皮を被った女狐にござります」

 延期の提案ではあるが、実質的には中止を求める内容であった。

 確かに夏空を裂いて現れた妖星は改元を促すほどの凶兆として扱われたが、こじつけも甚だしいとして、帝は退けた。




「大江の妻は鷹司殿の女房でもあるから、その関わりから出た意見であろうな」

 鷹司殿は中宮大夫・土御門殿の北の方である。

「鷹司殿の? 何故……」

「決まっておろう。娘を入内させたいからだよ」

「で、でも土御門殿の大姫はまだ五歳ですよ? いくらなんでも……」

 本来ならば今上帝より次代の帝である東宮への入内を試みるのが妥当であるが、現在の東宮は帝よりも四歳年長である。

 それならばまだ十三になったばかりの帝の後宮へ……と考えるのは不自然とまでは言えない。

「だから叔父上は油断できぬ御仁だと言ったであろう。今は中宮大夫などという役職に甘んじているが、それも父が無理矢理押しつけたのだ。内心面白くは思っていまいよ」

 凄味を効かせて語る上はむしろ楽しげでさえある。

 和斗子はおそるおそる訊ねた。

「……上様は土御門殿こそが黒幕だと思っておいでで?」

「そこまでは思わない」

 上は調子を変えてあっさり言った。

「もう一人の叔父、粟田殿にしたって藤三位との間に姫がいる。入内を目論んだとしても不思議はない」

 叔父二人から命を狙われる姪の立場とはなんと殺伐としたものか。

 近すぎる血縁で権力を奪い合う藤氏の大貴族たちは和斗子をしてあまり幸せには思えなかった。

 傍から見て興味深くはあるが、その渦中に身を投じたいとは思わない。

「女院にしろ土御門殿にしろ、陰でこそこそする性質ではあるまいよ。闇に身を潜めて暗闘するのは、そうせざるをえない立場――表舞台に立てない者の仕業と見ている」

 和斗子は生唾を呑み込んだ。

「一連の出来事の黒幕を炙り出すのにこちらも何らかの手を打つ必要がある」

「何か策がおありなんですね?」

「あるにはあるが、部外者の助けが必要となる。そこでだ、少納言」

 和斗子は固唾を呑み込む。

「わたしは病で臥せることにする」





 禁中には大勢の人間が働いているが、清涼殿を含む天子の私的空間に昇殿が許される者はごく一握りである。

 殿上人と呼ばれる者たちで、左右内大臣、大中小納言、参議等官職は様々だが、五位以上の位階を有することが必須条件である。

 殿上人と六位以下の地下人とでは身分にも扱いにも歴然たる格差が存在した。

 例外は六位の蔵人で、彼らは位こそ低いが、帝の側近くに仕える秘書のような務めを果たすために殿上が許可されている。内裏における花形であると同時に仕事は多忙で、主に名門貴族の若者がつく官職として知られていた。

 それまで地下の左衛門尉だった橘則光が、春の除目で蔵人に抜擢されたと報せてきたのはつい先日のことだ。

 翁丸事件以来、和斗子は再び則光と連絡を取り合うようになった。

 復縁するつもりはないが、たまに互いの近況を消息にしたため、宮中で顔を合わせれば世間話をする程度の交流はしていた。

 昇進の理由が翁丸事件における則光の活躍だと和斗子にも推測がつくのだが、当の本人は大抜擢をしきりと不思議がっている。

 まさかあの日自分が護った少年二人が帝と中宮だとは思いもよらないようだ。




 庇の間はひっきりなしに訪れる殿上人や蔵人への応対でいつも以上に混み合っていた。

 中宮病悩の一報は廟堂に激震をもたらした。

 上達部たちは政務もほどほどに後宮へ詰めかけ、見舞いにかこつけ中宮および関白家への追従の意を示した。

 手土産や文を携えてくる者、取り急ぎ挨拶伺いにくる者と様々であったが、中宮側では来訪者に一律に料紙で作った造花を下賜して返礼とした。

「これはこれは、大変風流な品をいただきまして……」

「せっかくご足労いただいたので」

「上様がはやく回復されますよう心よりお祈り申しあげます」

 最後まで居残っていた長尻の見舞い客を送り出す頃にはすっかり日が暮れていた。

 暦の上では春とはいえ、日没は早く夜は寒い。庇の間とて例外ではなく、和斗子はそそくさと同僚の待つ母屋に引き上げ、炭櫃の近くに陣取った。

 護持僧の誦経が母屋の天井まで響き渡っている。これでは中宮を加護する石像たちはまだしも一口鬼は居心地が悪かろうと和斗子は思った。

 上様にはどんなお考えがあるのだろう……

「少納言殿」

 背後から声をかけてきたのは小兵衛の候名で仕えている女房だ。まだ少女の名残をとどめた若い女房で、容姿と声の愛らしさから、殿上人からも受けもいい。

「あのぅ頭弁様が上様への言付けを頼みたいと……」

 頭弁とは蔵人頭と弁官とを兼任する役職の略称である。

「またぁ? おまえが直接取り次げばいいでしょうに」

 せっかく炭櫃の火で暖をとっている最中だ。

「わたくしもそう申しましたところ、頭弁様が少納言殿がいいとおっしゃいましたので……」

 小兵衛のほうも不本意そうである。

 頭弁の意固地さをよく知るだけに、ここは和斗子が動くしかなかった。

 やれやれ、困った方だこと。

「わかったわ。すぐ行きましょう」




 庇の間へ戻ると御簾越しに透影が見えた。

「少納言、参りました」

「ああ、待ちくたびれましたよ。やっぱり取次を頼むなら、あなたでないと」

 あからさまに安堵した男の物言いに小兵衛がみるみる不機嫌になる。

 仲介した小兵衛の立場からすれば、目の前で力不足を指摘されるようなものである。気分を害するのも無理はない。ましてや美貌と若さでとかくちやほやされがちな小兵衛のこと、頭弁の態度は矜恃をいたく傷つけた。

「ではわたくしはこれで。どうぞいつまでもごゆっくりなさってください」

 捨て科白を吐いて立ち去る小兵衛の後ろ姿を見送りながら和斗子は呆れて言った。

「あなたのそういうところ、御達から大変評判悪くてよ。もっと好かれる努力をなさい。あとで取りなすこちらの身にもなってよ」

 和斗子がくだけた口をきくのは頭弁が六歳年少の若人というだけではなく「三蹟の署名事件」をきっかけにできた男友達でもあるからだった。

 法興院大臣の兄謙徳公を祖父に持つ藤原北家の御曹司。

 帝の信頼も厚く蔵人頭を務める能吏。

 更には書家としても才能を発揮する非の打ち所のない貴公子。

――にも関わらず女房たちからの評価は今ひとつだった。

「わたしはお世辞は苦手ですから。無理をしてまで他人に好かれようとは思いません。あなたから好かれていればそれで充分」

 本気とも冗談ともつかない口ぶりだった。

「それよりも上様のご容態ですよ。気掛かりで、取るものも取りあえず参りました」

「そのお気持ちだけで充分ですわ。頭弁殿にはいつもよくしていただいてますもの」

「ご病悩の原因は?」

「まだよくわかりませんの。薬師でもあるまいし、一介の女房が軽々しく憶測を口にするのも憚られますし」

「わたしとあなたの仲じゃありませんか。決して口外いたしませんから、あなたの見解を聞かせてくださいよ」

「堅物」と評される頭弁が時折色恋を匂わす物言いをしてくるのはまんざら悪い気もしなかった。

 出仕の醍醐味は、中流下流の家の女が里居を続けていては決して巡り会えなかった生え抜きの公達と知り合い、こうして対等に口をきけることにあると和斗子は思う。

 初婚の相手の則光にしたって二十代後半でようやく六位に手の届く中流貴族だが、家格からいえば清原家よりも上だったのだ。

 その自分が、今では雲の上のきらきらしい御曹司と対話し、時には色っぽい贈答歌をやりとりもする。取り立ててくれた関白家と上には感謝してもしきれない。

「それとこれとは別。自分のことならばいくらでも放言できますけどね。これを差し上げるから、今日はもう帰って」

 紙の花を扇に載せて渡した。

「では後日改めて参ります。それとご病悩の原因をつきとめるよう陰陽師を派遣しましょうか?」

「ありがとう。上様にお伺いしてみるわ」

 白い花を受け取ると頭弁は立ち去った。




「上様、見舞い客は帰りました」

 唐獅子と狛犬に守られた御帳台に向かって声をかける。

「少納言、内へ」

 促されて和斗子は御帳台の奥へ身を差し入れる。

 軟障で仕切った母屋の一隅では数十人の僧からなる誦経が続けられている。荘厳であるとともに頼もしくもあるが、そのおかげで会話する時は顔を寄せないと聞き取れない。

 つまり盗み聞きが困難であるのだ。上はこの状況をつくりたくて、わざと仰々しい加持祈祷を頼んだのではないかと和斗子は推測する。

 御帳台の中では上が襖に埋もれて横たわっていた。

 起きて活動している時には気づかないが、こうして見る上は色白の肌と華奢な体つきが相俟って、雪と消えるかのごとき儚げな風情なのだ。仮病とわかっていてもつい心配になる。

「今日来たのは誰か」

「はい。昼間にご兄弟の権中納言様と右兵衛権佐様、中宮大夫の土御門殿、頭中将様、実方の中将様、四条大納言様が参られて、主上と女院様、検非違使別当の小野宮殿と内府の粟田殿からは御文をいただきました。賀茂斎院様からは贈り物も届いてますわ。他にも代理で来た者たちが多数」

「先程来たのは頭弁か」

「はい。よくおわかりになりましたね」

 上は微苦笑する。

「ことさら少納言を呼び出して用を言いつけるのはあの御仁と決まっているからな」

 指摘され、和斗子は何故か赤くなった。

「ところで返礼に配られた造花は何なのですか?」

 よくぞ訊いてくれたとばかりに上が瞳を輝かせる。

「あれは三尸の描かれた紙で作ったのだ」

 三尸とは、人の体内に棲むといわれる上尸、中尸、下尸の三匹の虫の総称である。

 それぞれ頭と腹と足に潜み、主人の働いた悪事を漏らさず監視し、庚申の夜に天帝に報告するとされている。

「もしわたしに二心のある者であれば、三尸の虫が鳥に変じて、天帝でなくわたしに報せにくる仕掛けだ」

「なんと!」

「シッ、声が大きい。それでは夜居の僧たちに聞こえてしまう」

「申し訳ありません。ですが、謀叛人がわざわざ病気見舞いに来るでしょうか? 来なかった者たちの中にこそ、反対派がいるのでは?」

「わたしが弱っている今だからこそ、敵はそこにつけ入ろうとするはずだ。見舞いにかこつけて様子を伺うこともできるし、これ幸いと追い討ちをかけてくるやもしれんな」

 起きあがると上は枕辺に置かれた見舞いの品々を手にした。

「このなかに呪物が紛れ込ませてあるかもしれんぞ」

 むしろ面白がるような口振りだ。

「小野宮殿と粟田殿の文は問題ないな……院も……四条大納言と実方の中将からの贈り物も」

 上の口にした名前に和斗子は敏感に反応した。




 実方の中将とは、かつて白河院で開かれた法華八講で初めて知り合った。

 雨に濡れた藤の花房のような雅び男で、まだ世間知らずの里の女には華々しい宮中そのものに映ったものだ。

 法華八講とは四日間に渡る大規模な法会で、当代の名だたる貴顕が一同に集う社交の場でもあった。

 夏の盛りの白河院は華やかで賑々しく、和斗子も日頃の鬱屈を忘れて久々にはしゃいだ記憶がある。興が乗ってつい耳目を引く発言をしたりもした。

 それがきっかけだったのか、その絵に描いたような貴公子から後日和斗子は歌を貰った。

 喜ぶよりも困惑しつつ返歌をしたためた。

 中将からはまた文が届き、何度かやりとりが続いた。それからほどなくして、中将が直接和斗子の実家を訪れるようになった。

 久しぶりの男君との交際だった。

 だが則光とのような正式な結婚ではなく、中将との仲は友人とも恋人ともつかない曖昧な関係であった。

 実際彼には他にも通う女が何人もいた。和斗子といる時に他の女の話をするような無粋はしないものの、色恋の気配はそれとなく伝わってしまうものだ。

 和斗子はそれを責めたりはしなかった。北の方気取りで嫉妬するのも馬鹿らしいと思った。

 華やかな恋愛遍歴こそがこの男を輝かせている、それがよくわかっていたから何も言えなかったのだ。

 訪いこそ稀になったが、それでも二人の仲は現在に至るまで細々とではあるが続いていた。

 出仕が決まった時には真っ先に中将に報せたし、彼からはそれを喜ぶ返事も貰った。

 正直今の二人の関わりを何と呼べばいいか和斗子にはわからない。

 中将はもう和斗子を恋人の一人とすら思ってないのかもしれない。

 それでも構わないと和斗子は思った。結婚にも子育てにも失望した和斗子には今更恋をする気力もなかった。

 今はただ上様に全力でお仕えする、それだけでいい。それだけがあたしの幸せ……




「……少納言、少納言」

 何度も呼ばれて、和斗子ははっと我に返った。

「はい、上様」

「どうした。うわの空だったぞ」

「申し訳ありません」

「……おおかた、中将のことでも考えておったのだろう」

 相も変わらず鋭い。

「和斗子は男のこととなると、すぐぼんやりする。わたしという者がありながら」

 上が拗ねてあさってを向くので和斗子は慌てて言い募った。

「上様にも主上というこのうえなく素晴らしい夫君がいらっしゃるではありませんか」

「それとこれとは別だ。わたしは主上だけをお慕いしておればよい。だが和斗子は、あちらの殿方こちらの殿方といつも情を移してばかりいる」

「まるでわたくしが多情な女のようではありませんか」

「そのとおりだろう」

 ぴしゃりと言い切られ二の句がつげない。

 和斗子が本気で悄気たのを見て、上は幾分態度を和らげた。

「とにかく、明日の朝までには三尸の式が戻ってこよう」

「いよいよ敵の正体がわかるのですね」

 気を取り直し、和斗子は拳に力を込める。

「そう願っている。だが黒幕まで辿りつけるかはわからん……今はまだ」





 翌朝、和斗子は女蔵人の雅とは言いがたい悲鳴に叩き起された。

「どうしたの?!」

 取るものも取りあえず、寝巻に袿だけ羽織って端近に出た。

 まだ日が山の端から覗いたばかりの早朝である。差したばかりの朝日を受けて呼気が白く立ち昇る。

 見ると濡れ縁の簀子の上に無数の鳥の羽が散らばっている。

 鳩か雀に類する小鳥の羽とおぼしいが、数が尋常ではない。風切羽も尾羽も羽毛も一様に真っ白で、一見すると雪が積もったかと見紛うばかりだ。

「これはいったい――」

 悲鳴を聞きつけた他の女房や女童もやってきた。みな着の身着のままの起き抜けの姿だ。

「不吉だわ。上様の御所にこんな」

「陰陽師を召して占わせるべきよ」

「ただですら上様が伏せっておいでで、心が休まらないのに」

 背後で女房たちが囁きかわすのを和斗子は立ちすくんでひたすら聞いていた。




「やられたな」

 報告を受けた上が舌打ちした。褥から半身を起こし、脇息に体重を預けている。艶やかな黒髪が華奢な体にうちかかり、足元まで川のように流れ落ちる。

「あれは夜のうちに舞い戻るはずだった三尸の式たちだ。誰かがこちらの思惑に気づいて先手を打ったのだろう」

 苛々と頬杖をつく。

「舎人たちは小鳥が鷹に襲われでもしたのだろうと噂しておりましたが」

「鷹? そうか鷹か……」

「それが何か?」

「覚えておらぬか、翁丸事件を。あれは、命婦のおとどが鷹に攫われたのが発端の事件だった」

 鷹の目撃報告こそなかったが、上が猫をみつけたのもいかにも猛禽が好みそうな高い木の上だった。

「……犯人が鷹を使ったと?」

「鷹の姿をした式であるかもしれぬ」

 上は再び黙り込んだ。

「上様、お加減はいかがでしょうか。朝餉は召しあがれそうですか」

 御帳台の外から女房が声をかける。

「ではわたしは病人に戻るから、あとは頼むぞ少納言」

 言いおいて上は再び夜具にもぐりこんだ。




 和斗子が庇の間に戻ると、すでに濡れ縁は綺麗に片づけられた後だった。

 それでも何か手掛かりが残ってないものか、しばらく和斗子は付近をうろうろした。

 上は宝珠丸として事件の現場に赴くと隅々まで仔細に眺めて、思いもよらない発見をすることが多々あった。

 和斗子もそれに倣おうと試みたのだ。

 蔀戸の隙間に何か挟まっているのを見つけ、そっと指で引き出すとはたして昨日の造花の切れ端だった。

……朝方は確かに鳥の羽に見えたのに、今は紙に戻っている。

 術をかけた識神も時が経てば正体を現すのだ。

 つまり他の識神も術が破られたら仮初の姿を保てなくなるのよね……?

「そんなに端近にいては、男に姿を見顕されてしまうよ」

 思いがけず近くから声がして和斗子はぎょっとして身をこわばらせた。

 細面に苦笑を浮かべた公達が側に立っていた。

「実方様……」

「相変わらずだね和斗子は。出仕して大人の女の慎みが身についたと思ったらこれだ」

「実方様こそ。露払いもなく、おひとりで来られるとは不用心ですわよ」

 貴顕の者は単独で行動することは滅多になく、必ず従者を伴うものだ。

「今朝方の怪異の話を聞いて、どうしてもお伺いしたくなってね」

 実方の口ぶりはあくまでも柔和だ。

 和斗子は昨夜の上の言葉を思い出し、やや警戒心を持って実方を眺めた。

 痩身の実方が少し糊の落ちた蘇芳の直衣に濃紫の指貫をゆったり身につけた様はなんとも風情がある。出会った頃より少し痩せたようだが、何年経っても美しい男だ。

 ふと腰に目をやると帯から白い鞠のようなものを下げている。

「実方様、それは、」

「昨日賜った造花があまりに見事だったのでね。早速こうして薬玉のように身につけるのが一部で流行っているのだよ」

 ということは、中将は少なくとも敵ではなかったのだ。

 和斗子は人知れず安堵した。知己が主家の敵とわかるのは、やはり気持ちのいいものではない。

「中宮様の式はずいぶん優秀だね」

 実方の思ってもみない言葉に和斗子は再び驚いた。

 すぐには声が出せずに目だけで「どうしてそれを?」と問いかける。

「ご覧」

 実方はそっと紙片を取り出した。掌に隠れるほどの陸奥紙の切れ端だ。

 軽く唇に当ててふっと吹き上げると、白紙は宙で雀に変じた。

 小さな翼をはばたかせ軒先を旋回すると雀は実方の指先に止まった。

 呆気にとられる和斗子の目の前に小鳥を掲げてみせる。

「識神を扱えるのが陰陽師だけとは限らないさ。きみの上様のようにね」

「あなたとは知り合ってだいぶ経つけど、初めて知ったわ……」

「初めて言ったからね」

 ちゅんと短く雀が鳴いた。斑の羽色もてっぺんだけ黒い頭も生きた雀そのものである。

「もっとも、わたしは正式に術を学んだわけではないから、できるのは紙を鳥に変えて飛ばすくらいだけどね」

「……だから識神に気づいたわけ?」

「なんとなくね。確信を持ったのは今朝の騒動を聞いてからだが」

 雀を空に放つとそのまま船岡山の方角へ飛び去った。

 鳥影を見送りながら実方は言う。

「上様が自らこうして式を打つということは、何か身の危険を感じておられるのでは?」

 実方の指摘は正鵠を射ている。上はおくびにも出さないでいるが内心穏やかではないだろう。

「わたしでよければ力になりたい。微力ではあるが、何かのお役に立てると思う。そう上様に伝えてもらえまいか」

 験力を眼前で披露されたのは何にも増して説得力がある。ましてや相手は旧知の間柄。

 気づけば和斗子は何度も頷いていた。





「それで中将が宿直に?」

「はい。色々支度を済ませてから改めて伺うとのことです」

 母屋では相変わらずものものしく誦経が続いている。

 上は眉を顰めて考え込んでいる。実方の協力はきっと上も喜ぶと思っていた和斗子は肩透かしをくらった気分だ。

「今日も主上から文をいただいてな。ずいぶんと心配されて、僧による御修法だけでは心もとないので、陰陽師を寄越すと言ってきた」

 仏道の加持祈祷と陰陽道の禊祓は絶妙な棲み分けがなされている。

 一般的に僧侶が調伏するのは怨霊や生霊といった人に由来する悪霊で、対する陰陽師が祓い清めるのは鬼神や物怪といった人に危害を加える怪異である。

「主上はお優しい方にございますね」

 和斗子は素直に褒めたが上の愁眉は開かれない。

「……何か拙いのですか?」

「卜占で仮病を見破られたら拙かろう」

 珍しく気弱な発言である。

「本来ならば陰陽師が乗りこんでくる前に決着をつけるはずだったのだ」

 しばし黙考すると覚悟を決めたように上は言った。

「このうえは陰陽師が来るより先に病気から回復するしかあるまいな」

「?」

 和斗子は言われた意味がわからず首を傾げるばかりだ。




 氷の袷――表も裏も白――の童水干を纏った宝珠丸と尼僧姿の和斗子に登華殿の濡れ縁で出迎えられて、さしもの実方の中将も戸惑った。

 和斗子も気まずさを隠せずにいたが、ただひとり宝珠丸だけが久々に外の空気に触れられて喜んでいる。

「陰陽師が来るより先に病気から回復する」とは、すなわち「陰陽師がやってくる前にこちらから積極的に動いて事件を解決する」の意味だったのだ。

 それには中宮とお付きの女房では何かと不便だ。市井の陰陽師宝珠丸と弟子の常陸坊和斗尊の出番だった。

「和斗子、この御方は……」

「わたしは中宮様の命を受けた陰陽法師、宝珠丸と申します」

 宝珠丸はにこやかに挨拶した。

「実方様、何も言わずにおいて」

 和斗子が機先を制したため実方は口をつぐんだ。

 だがすぐにいつもの調子を取り戻すと「いいよ。わたしは何をすればいい?」と優しく問うた。

「式をみつけたい」

 宝珠丸が和斗子に代わって答える。りりしい口ぶりと気品のある佇まいは、殿上童として奉仕する良家の子息といっても通りそうである。

「おそらくは内裏を縄張とし、監視している式が何処かに潜んでいる。その式を捜し出し、術者に返したいのだ」

「呪詛返しというわけですね」

「そのとおり。それに中将殿の式をお借りしたい」

 実方の腰の造花を手にとる。

「中将殿の式に一切れずつこの紙を咥えさせて、内裏の至る所に放ってほしいのです」

「それくらいお易い御用です……といいたいところですが、相当な数になりますよね?」

 実方が自信なさげに頬をかいた。

 以前上が話したように識神とは無尽蔵に生み出せるものではない。ましてや素人に毛が生えた程度の実方に大量の識神を打てというのは無理難題ではないのか。

 和斗子が助け舟のつもりでそう言うと、宝珠丸でなく実方がやると言い出した。




 宝珠丸が取り出した紙片は数百枚はあるだろうか。大判の紙を割いて細かい方形にしたものだ。

 実方がその一枚一枚に息を吹きかけると何の変哲もない紙が次々に茶褐色の小鳥に変じる。

「やっぱり雀なんですね…… 」

「これが一番得意……というか楽なんでね」

 雀たちは紙の花から一口大の破片を千切りとって空へと飛び立つ。

「物心ついた頃から紙を鳥に変えることができた。自分にできることだから当然他人もできるだろうと思って言わずにおいた……長じて、今度は逆に誰もこんな不思議な技は持たないとわかって、尚更口をつぐんだ」

 一羽が実方の冠にちょこんと着地する。

「その道の師について、修行しようとは思わなかったのですか?」

「他の力もあればね。わたしには紙の鳥をつくりだすことはできても、鬼の姿を見ることも、未来の事柄を言い当てることもできなかった。おそらく修行を積んだところで、大した技は会得できなかったろうよ」

 実方の口ぶりが少し寂しげなのは和斗子の気の所為だろうか。

「ほら和斗尊、中将殿の邪魔をしない!」

 宝珠丸から叱責が飛ぶ。

「申し訳ありませんっ」

 頭をさげたところで袋を手渡された。両手で包み込める程度の小さな包みだ。

 紐解くと中からは精米が出てきた。

「散供の米だ。和斗尊だけいつも丸腰なのはいただけないからな」

 米や豆を撒いたり投げつけたりするのは人口に膾炙した簡単な退魔法だ。大晦日の年中行事・追儺においても行われている。

「何かあればこれを使うといい」

 思いがけない贈り物に感激する。

 確かに宝珠丸に同行する際、徒手空拳なのはいささか不安の種ではある。僧形らしく錫杖でも持とうか検討していた矢先だったのだ。

「ありがとうございます、宝珠丸様」




 実方が最後の一枚を雀に変えて放つ頃には午後の日が傾きかけていた。

 識神の雀たちは四方に散り、普通の小鳥となんら変わりなく軒先や梢で鳴き交わし、庭先に降りてきて砂浴びなどに興じている。

 拍子抜けするほど長閑な光景だった。

 水面下で呪術の応酬がなされていることなど、すべて空事のように思えてくる。

 最初に異変に気づいたのは実方だった。

 艮の方角から何かに急き立てられるように雀が鳴きながら飛んできた。しきりに短く鋭く鳴くのは仲間に危険を報せるためだ。

「……何か来る」

 実方が呟いたのとほぼ同時に地面や軒先に留まっていた鳥たちが一斉に飛び立った。

 もともと雀は臆病な性質なのでちょっとしたことに驚いて飛び立つ行動じたいは珍しくない。

 だがそれが瞬く間に数十、数百の大群となれば話は別だ。空の一角が黒く染まるような鳥の群れが、慌てふためいて低空を飛行するのは明らかに異様だ。

 和斗子の目には群れが何から追われているのか一向にわからなかった。

「うーーむ、やっぱり雀だと弱いなぁ。鴉にすればよかったか」

 逃げまどうばかりの己の識神の体たらくに実方が頭を抱える。

「わたしが力になろう」

 宝珠丸は立ちあがると数珠を手にした。

「オン・ギャロダヤ・ソワカ」

 迦陵頻の真言を唱えると雀たちの茶褐色の羽色が淡く金に光りだした。

 迦陵頻――金翅鳥は極楽に棲む聖なる鳥だ。広げた翼は三三六万里を覆うとされ、龍や大蛇を餌とする鳥の王。

 神鳥の加護を受けた雀は次々に身を翻し、見えない何かに立ち向かっていく。

 最初和斗子の目には虚空をつつき合う奇妙な小鳥の様子しか映らなかった。

 だが時折小さな稲光のような亀裂が宙に閃き、そのたびに雲母が剥がれ落ちるようにうっすらと鳥のかたちが浮かんできた。

 それは眼だけが金色の全身純白の美事な鷹だった。嘴から尾羽まで雪のように真っ白だ。それだけでも珍しいのに、鷹には脚が三本あった。

 ほんとうに識神が隠れひそんでいた……

 数十羽の光の雀が何倍もの大きさの白い鷹に群がる、およそありえない光景が三人の頭上に繰り広げられた。

 雀の群れはなかなか奮闘するも、運悪く鋭い嘴や鉤爪の餌食となり、脱落するものも少なくなかった。

 地面へ真っ逆さまに墜落するもの、中空で体勢を立て直そうともがいて力尽きるもの、どれも痛々しい最期で、和斗子は胸が塞がれる思いがした。

 小さくて儚げな生き物が痛めつけられるのが、和斗子はどうしても苦手なのだ。

 雀だった残骸は地表に触れると降りはじめの雪のように溶けさり、後にはぼろぼろになった紙片だけが残された。

 鳥の姿に仮託されてはいるが、これは呪力と呪力の闘い、呪詛を返すか返されるかの力の拮抗なのだった。

 雀たちは頭数を減らしながらも奮闘した。

 羽を毟られ、ところどころ地肌のあらわになった鷹が喘ぐように鳴いた。

 それが絶命の合図だったのか、鷹の姿が糸をほどくように両翼、胴、首、尾羽とばらばらに散乱した。

「やりましたわね、宝珠丸様! 実方様!」

 和斗子が喜んだのも束の間、中空で散ったかと思われた鷹の生首が、矢のように飛来し実方に喰らいついた。

 それだけではない、切り離された翼や鉤爪が八方から飛びかかり、それぞれに意思があるように襲いかかったのだ。

「くっ」

 咄嗟のことで実方は顔を覆って身を守るしかなかった。

「実方様!」

 和斗子は蒼白になりながら散供の米を投げつけた。

 猛禽の恐ろしげな嘴や鉤爪に比べて小さな乾いた礫はいかにも頼りなかったが、実方の身を助けたくて必死に投げた。

 米粒が鷹の体に当たるとそこから煙が立ちのぼり、焦げた臭いとともに消し炭となって地に落ちた。

「実方様、ご無事ですか? しっかりなさって」

 実方を助けおこす。冠が飛ばされ、直衣はぼろぼろだった。顔にも腕にも無数の掻き傷が見受けられ、額には血まで滲んでいる。

「みっともない姿をきみに見られたな……」

 実方が弱々しく微笑する。

「わたしのことはいいから、そら、あれを追うんだ」

 指差した空を白い脚が滑るように飛んでいく。鷹の三本脚のひとつだった。

「あれは、わたしへの呪詛返しに失敗した式。術者の元へ戻るはず……」

 額から流れ出る血を畳紙で押さえながら実方が言い募る。

「行こう、和斗尊」

 宝珠丸が急き立てる。肩にはもう迦陵頻の領布を羽織っている。

「でも……」

 負傷した実方を放っておくのも忍びない。和斗子の気持ちは揺れた。

「いいから行くんだ。名誉の負傷までしたんだ——必ず術者をつきとめて、わたしの分まで懲らしめてくれよ」

 実方の言葉に背中を押され、ようやく和斗子は駆け出した。





 鷹の脚は大内裏を達智門から一条大路へと出た。

 出たとはいっても和斗子たちが後を追ってその道順を辿ったというだけで宙を飛ぶ脚からすれば道など存在しないも同様である。

 ただ識神もだいぶ弱っているようで、決して高くは飛ばず、季節外れの蝶のように弱々しい軌跡を描いている。

 地面を二本足で駆けるほか手段のない和斗子からすれば不幸中の幸いだった。

 大内裏の塀に沿って脚が大宮大路を浮遊する。

 斜めから差す西日が和斗子たちの目を眩ませる。

 識神の断片は大路を南下し、上東門、陽明門、待賢門、郁芳門を過ぎ、神泉苑を過ぎた。

「どこまで行くのでしょう」

「さて…… 」

 宝珠丸は険しい表情を崩さない。

 脚は西日を追うように勧学院、奨学院を過ぎ、はろばろと開けた朱雀大路に出た。

「これではまるで、後を追うより導かれているようだ」

「八咫烏に導かれての東征ですわね」

 八咫烏とは天つ神の御子を熊野から吉野へ導いたとされる三本足の鴉だ。この霊鳥は別名を金烏といい、太陽の中に棲むとも太陽の化身とも伝えられている。

 宝珠丸が苦笑する。

「わたしたちが熊野まで足を伸ばす羽目になったらどうする」

「勿論お供いたしますとも。わたくし、宝珠丸様とでしたら何処へでも参りますわ」

 和斗子に自由にはばたく翼はないが、宝珠丸――上と一緒であればどんな場所へでも行ける気がする。

 一年前、悲しみに心折れ、萎縮するばかりだった和斗子を外の世界へ連れ出してくれたのは宝珠丸だった。

 きらびやかな宮中も、うらぶれた陋巷も、不思議もときめきも波乱も、すべて宝珠丸が新たに見せてくれたものだ。

 宝珠丸は和斗子の心に自在天の翼を授けてくれたのだ。




 脚がふらふらと宙を舞ううちに孟春の短い夕暮れが始まった。

 二人は朱雀大路を挟んで左京の反対側、右京にさしかかっていた。

 要人の邸宅が建ち並ぶ左京に比べ右京には不案内な和斗子は自分が今どの辺りにいるのか自信がなくなった。日が落ちれば更にわからなくなるのは必至である。

 つごもりの紫色の空に星がまたたきはじめた。

 辺りは一層闇が濃くなる。

 暗闇の中、白い識神の脚だけが標のように行く先に浮かんでいる。

 これを見失っては黒幕へとつながるたった一本の糸が絶たれる。その想いに駆り立てられ、昏い路地を二人はひたすらついていく。

 いくつ角を曲がっただろうか。和斗子がいい加減休みたいと思い始めた時、脚が立派な門を潜った。二人も迷わず後に続く。

 門を抜けると中は広大な敷地が広がっていた。星を鏤めた空の下、無数の殿舎が整然と建ち並んでいる。

 和斗子は奇妙な既視感に襲われた。見慣れた風景ではないのに見知った風景である。

 三本目の脚に導かれ、二人が辿り着いたのは内裏だった。

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