朱雀大路の狗

「犬でございますか……」

 ぱちりと碁盤が鳴る。

「ああ。出るそうだ」

 碁器で石がじゃらじゃら擦れる。

「夜な夜な犬の妖が朱雀大路に」





 事の発端は御所で飼われている猫だった。

 命婦のおとどと名づけられた雌猫は今上帝に大層可愛がられていた。

 生来腺病質で寝つくことの多かった孤独な少年にとって、室内で愛玩できるこの小獣は何より得がたい友だった。

 たかが畜生に人間の乳母をつけ、殿上に必要な五位を与え、仔を産めば産養を執り行う偏愛ぶりを批難する上達部もいるにはいたが、直にこの猫を目にするとなるほどこれが魔性かと得心のいく愛らしさなのだ。

 滑らかな黒い毛にきらきら輝く翡翠の眸。時折覗く珊瑚色の舌。

 首に取りつけられた組紐にじゃれる仕草や白い腹を晒して寝転ぶ様子に顔の綻ばぬ者はいないと思われた。

 猫の方でも人間たちが己に甘いと心得たもので、清涼殿の昼の御座であろうと渡廊であろうと、内裏の中を我が物顔で歩き回っていた。

 歩くたびに鈴をさげた紅の組紐を引きずるので、涼やかな音色ですぐに居所がわかったものだ。

 和斗子もこの柔らかな肢体に不遜な魂を持った小獣に滅法弱かった。

 新調したての海賦の裳にまとわりついて台無しにされた時も、墨を摺る作業を机に飛び乗って邪魔された時も、腹は立つのに強くは叱れなかった。

 もっとも叱責したところでこの小さな夜叉が反省するとも思えないのだが。

 その命婦のおとどがある日行方知れずになった。

 あれほど宮中の其処此処で聞かれた鈴の音がぱたりと止んだ。

 内裏を上も下も大騒ぎで捜し回った。殿上人や女蔵人は屋内を、地下人は床下や庭を目を皿のようにして猫の影を追った。

 和斗子もやきもきしながら捜索に加わったが、見つからないのではないか、という悪い予感が終始頭から離れなかった。

 しばらくして内裏で飼われている翁丸という犬がしきりに吠えるので下人に調べさせると、なんと血塗れの口に件の組紐を咥えているではないか。

 伝え聞いた帝は激昂し、翁丸を打ち据えて内裏から放逐するよう命じた。

 数名の舎人が言われた通り散々棒で叩いて弱った翁丸を陽明門から蹴り出した。

 せめて愛猫の亡骸を供養してやりたいと帝は更に床下や庭の隅々、果ては池の水まで浚わせたが、結局命婦のおとどの亡骸は見つからなかった。

 仕方なく形見の組紐を鳥辺野で焼いて弔った。

 こうして命婦のおとど失踪はなんとも後味の悪い結末を迎えた。





「あれは可哀想だった」

 唐獅子が和斗子の脇の下から顔を出す。

「唐、」

「気の毒だった」

 反対側から狛犬が擦り寄ってくる。

「狛、」

 どうやら石像たちにも独自の理があるらしく、必ず先に口を開くのは唐獅子で後を引き取るのが狛犬だった。

「どちらのことを言ってるの」

「もちろん翁丸だよ」と唐獅子。

 いかつい顔をしているが今は耳と尾を垂れて心なしか悄気てみえた。

「翁丸は食べてない」と今度は狛犬。

「どうしてわかるの?」

 二匹に訊ねる。

「あれは命婦のおとどの血じゃなかった」

「翁丸はおとどの紐を拾っただけ」

「褒美が貰えると思って紐を見せにいった」

「可哀想な翁丸」

 和斗子は目を瞬く。

「上様、この事は主上に奏じ上げるべきでは?」

「言ってどうする」

 上は盤面から顔をあげない。

「唐獅子と狛犬がこう申しておりますので翁丸の罪をお赦しくださいとでも?」

 碁石が硬い音を立てて置かれる。

「仮に主上がこれを聞き入れたら百官から笑い者にされるであろう。それに――」

 上が眉を曇らせた。

「赦したとしても翁丸は戻ってこない」

 まさに和斗子が危惧するのもそこだった。寄ってたかって殴打された翁丸があれから半月も経って生きているとは思えない。

「これだから、下種は乱暴で嫌いなんです。殺生をなんとも思ってない」

 和斗子の怒りの矛先は翁丸を懲らしめた舎人たちに向いた。

「少納言、次はおまえの番だよ」

 はっとして盤を見ると和斗子に勝ち目は無くなっていた。

「……参りました。投了いたします」

 じゃらじゃらと石を碁器に戻す。

 空の盤上に外から紛れ込んだ蜻蛉が止まった。

 唐獅子が尾を振って蜻蛉に飛びかかる。膝を踏み台にされた和斗子は悲鳴をあげた。

 生き物のように振る舞っていても本性は石像なのだ。あまりの重さに脚が潰れそうだった。

「唐、おやめ! 狛もおすわり!」

 上が一喝すると二匹はおとなしく「待て」の体勢に戻った。

「話を戻そう」

 手持ち無沙汰になった上が扇を開く。ふわりと白檀の香りが舞う。




 翁丸が陽明門から棄てられて数日経ったある晩、朱雀大路に異変が起きた。

 大路を縄張とする犬たちが狂ったように吠えたてて、一晩中騒ぎ続けたのだ。

 その数の多さ、あまりの喧しさに牛馬が怯えて通行もままならないほどだった。

 朱雀大路に限らず、京には野犬が多い。路上に暮らす彼らは残飯や死体、時には生きた病人や排泄物を餌としていたため、都人からは忌み嫌われていた。

 その野良犬たちが一斉に威嚇のように吠えだしたのだ。胆の据わった者でも何事かと戸惑うほどの狂騒だった。

 騒動は明け方まで続き、東の空が白々明ける頃には治まっていた。

 しかし昼間の朱雀大路にいつもより心なしか犬の姿が少なくなったようだった。目につくのは比較的大きな個体ばかりだ。

 その晩も殺気だった犬の吠え声が夜陰に満ち、往来からは人馬が消えた。

 翌朝、やはり朱雀大路を通る者たちは異変に気づいた。

 明らかに犬の頭数が減っている。

 それだけではない。




「道端に転がる死体や塵芥も増えてないのだよ」

「……? それのどこが不思議なのです?」

「少納言は馬鹿だなぁ」

 唐獅子が薬玉と戯れながら言った。

「言い過ぎだよ。おつむが弱いって言わなきゃ」

 薬玉から垂れた糸にじゃれつきながら狛犬が言い添える。

 端午の節句から柱に飾っていた薬玉を重陽の節句を機に取り外したのを目ざとくみつけ、玩具にしているのだ。

「上様~~二匹とも口が過ぎます。ちゃんと躾てくださいまし」

 泣きつくと上は執り成すように苦笑した。

「まぁまぁ。唐と狛が言いたかったのは、犬の頭数が減ったなら、その分餌の量も減るはずなのに、そうならないのはおかしいという事だよ」

「言われてみれば……」

 犬はその悪食ゆえに嫌悪される反面、街中に放置された死体や塵芥の掃除屋でもあるのだ。

「別の生き物が始末しているのでしょうか?」

「生き物であれば、いいのだがな……」




 七日経つ頃には大路から犬の姿が消え失せた。

 市街から完全にいなくなったのではなく、路地裏や郊外をうろつく姿は見られるので、朱雀大路を塒とする犬がいないというのが正しいのだろう。

「初めは狼と思うたらしい」

 八日目の晩。

 犬たちの消えた往来は以前よりも歩きやすく、再び牛車や騎馬が行き交うようになった。

 道幅二十八丈の広大な目抜き通りである。檳榔毛の車が何台でも悠々とすれ違える。

 その大路の一隅に際立って大きな犬が蹲るのを何人もが目撃している。塵芥を漁っているのかはたまた死体か。じっと見て気持ちのいいものではないので、大方は足早に通り過ぎる。

 だが中には好奇心の強い者もいて、もっとよく見ようと松明の明かりを向けると――

「孩児の腕を銜え、目を光らせた大きな犬だったと」

「ひっ」

 和斗子は小さく悲鳴をあげた。

「本物の狼だったのでは?」

 ごく稀にではあるが、四方の山々から野の獣が京に下りてくることがあった。

 中には内裏や貴族の邸宅に迷い込んで騒ぎになる場合もあり、可能性がないわけではない。

「かもしれない。暗がりで見たものを鵜呑みにはできぬからな」

 石像たちが弄んでいた薬玉が割れ崩れて、中からふわりと蓬の香が匂い立つ。ふいに嗅いだ初夏の残り香は、和斗子の胸をせつなく締めつけた。

「困った子たちだ……」

 やれやれと嘆息をつく上の様子は家猫の専横に手を焼く飼い主と何ら変わらない。

 この晩を機に朱雀大路では犬の化物が頻繁に目撃されるようになる。

 曰く、

 目を酸漿のように光らせた山犬を見た――

 青い燐光を放つ犬の鬼を見た――

 仔牛ほどもある犬が骨を咥えていた等々。

 中には小山ほどの大きさの犬が野犬の群れを追い立てていたなどと嘯く者もいた。

 まるで犬の百鬼夜行だ。

 目撃者に加えて日を追うごとに被害者が現れ出した。化け犬に追われて転倒した者、牛を襲われた牛飼などである。

「こうなると、単なる見間違いや勘違いでは済まされないものがある……」

 犬の怪異の噂は寄る波のごとく禁中にまで及んでいた。何処其処のお屋敷の家人が見たとか、上達部の何某が右京に行く道すがら遭遇したなどと、もっともらしい尾鰭がついていたが、真偽のほどは定かでない。

「やけにお詳しいのですね」

 上の語る話は和斗子が聞きかじった噂以上に詳細だった。

「わたしには動く耳目がいるからね」

 上のもうひとつの顔――陰陽法師宝珠丸には私的に雇う僕が存在する。

 彼らは京にいくつか点在する宝珠丸の隠れ家を守りながら、市中に変わった様子があれば逐一報告しにくる。

 僕の身分は一概に低く、路上を住処とする浮浪児や私度僧もいて、和斗子など彼らを見るのも不愉快なのだが、宝珠丸は平気で口をきくし、気前よく褒美を与えてやる。

「彼らは我らが知りもしない貴重な情報を持っているのだよ」

 裕福に生い育った宝珠丸は褒美や禄の与え方が大雑把で、長らく実家の家計を切り回してきた和斗子とは金銭感覚が大いに違った。

 和斗子の経験上、使用人は必要以上に褒美を与え続けると慢心して安い報酬で働かなくなる。たまに心付を弾んでやるくらいで丁度いいのだ。

 その匙加減がどうも宝珠丸には理解できないらしい。

 ともあれ、そうして市井に放った僕たちがもたらす無数の証言によって、宝珠丸は内裏から一歩も出ないまま、まるで自分で見聞きしたかのように京の様子を知ることができた。

……上様はまるで薬玉みたいだ。

 美しい毬玉から垂れた飾り糸。

 その糸を京の四方八方に掛け巡らし、自身は中央に座したまま、糸を伝って様々な情報を得る、薬玉の核。




「その犬の妖異、複数の妖ではなく、たった一匹の犬だとしたら?」

「目撃されたものすべてがですか? 流石にそれは考えにくいのでは……」

 犬という共通項はあるものの、それぞれの目撃談の特徴は随分異なっている。

「時の流れに沿って考えてごらん」

 碁盤を扇で軽く叩く。

「まず初めに目撃されたのは狼と見紛う大きな犬だった」

 扇の先が一升動く。

「次に目撃されたのは仔牛ほどの犬」

 更に一升。

「次には小山ほどの大きさの犬 」

 更に一升。

「これは同一の個体が日に日に大きくなっているとは思わぬか」

 和斗子は息を呑む。

「ですが、このような短期間でこうも変わるものでしょうか?」

「妖であればな」

「……上様は、翁丸だと思っておいでで?」

 上は長い睫毛を伏せた。

「ああ」

「可哀想な翁丸」

「可哀想な翁丸」

 石像たちが呟く。

「翁丸が打ち棄てられてから怪異は起こり始めている。死して鬼となったか、生きながら化物に変じたかは定かでないが、さぞや人間を怨んでいるだろう」

「でも、でも……その推理は、あまりに憐れです……」

 和斗子は自分の見知った翁丸の姿を思い浮かべる。

 利発な犬だった。小柄だが毛艶のよい犬で、濡れたような眸でいつもこちらを伺っていた。

 みんな面白がってよくおさがりを与えていたので、朝餉の時間になると階隠しの側までやって来て、上が食事を終えるのをおとなしく待っていた。

 滅多に吠えたり唸ったりしないところも女房連中から好感を持って受け入れられていた。時々和斗子も銀灰色の毛並を撫でてやったものだ。

「そんな翁丸が命婦のおとどを襲うわけがないのに……」

 おそらく猫の命婦は、外から侵入してきた別の犬に襲われでもしたのだ。もしかしたら翁丸は猫を守って闘ったのかもしれない。

「せめて命婦のおとどが見つかってくれれば、主上もお怒りを解いてくださるかもしれないのに」

「憶測だけで何事も決めつけてはいけないよ、少納言」

 上は諭すような口振りで言った。

「翁丸は命婦のおとどを襲ったかもしれないし、襲わなかったかもしれない。命婦のおとどは何処かで生きてるかもしれないし、死んでいるかもしれない。いずれにせよ、判断に必要な証拠が少な過ぎる」

 上の眼差しに光がやどる。

「だが妖犬の正体ならば、わたしが直接見て判断をくだせる」





 亥の刻、朱雀門の前に佇む大柄な尼僧の姿があった。常陸坊和斗尊に扮した和斗子だ。

 朱雀門の黒い楼閣越しには、まろやかな望月が皓々と照っている。今夜は松明なしで出歩けるほど辺りが明るい。

 翁丸が陽明門から放逐されたのは朔月の晩だった。

 月明かりとてない暗い夜道をとぼとぼ歩く犬の後姿を思い浮かべ、和斗子の胸はまた痛んだ。

「宝珠丸様遅いなぁ」

 いくら神出鬼没の宝珠丸とはいえ、内裏から抜け出すのはやはり至難の技ではないのか。抜け出そうとしたところを誰かに見咎められ、足留めをくっている可能性もなきにしも非らざるだろう。

「待たせたな、和斗尊」

 涼やかな声がして、和斗子は安堵して振り返る。

「待ちくたびれましたよ。斧の柄が腐りおちるところでした……わ……」

 ひとくさり文句を言ってやろうとして和斗子はそのまま声を失った。

 花薄の童水干の宝珠丸の背後に狩衣姿の少年を認めたからだ。

 質素な狩衣に身をやつしているが、月光に浮かぶ繊細な顔立ちには確かに見覚えがあった――

「主上どうして……」

 とっさに宝珠丸が口を塞ぐ。

「声が大きい。ここが大内裏の目と鼻の先だというのを忘れたか」

 口を動かせない和斗子は必死に頷いてみせる。

 宝珠丸が手を離すと梅花の香とも白檀ともつかない残香がかすかに薫った。

 あたしには手に負えない……! 関白家の姫君だけでも手一杯なのに、そのうえ主上のお忍びのお供だなんて……! 一介の女房の許容範囲外よっっ!

 和斗子が悶々と思い悩んでいると帝が前へ進み出た。

「すまない少納言。朕が連れていってほしいと頼んだのだ。そなたを困らせるつもりはなかった」

 はっとして和斗子は少年を見た。

 幼少の頃から大人たちの顔色を窺っていたためか、帝は過剰なほど機微の変化に聡い。

 誰よりも尊い身分にありながら決して威圧的になることもなく、こちらが恐縮するほどの気遣いを見せる。

「此度の朱雀大路の一件、原因が翁丸にあるかもしれないと聞いて、居ても立ってもいられなくなってな。かっとなったとはいえ、あれには悪いことをした」

 白い頬を染めて帝は言い募る。

「だから、朕自身で落とし前をつけたいのだ。たとえ妖が翁丸であってもなくても」

 帝はきつく唇を引き結んだ。

「京の安寧は朕が護る」

「困るだなんてとんでもない」

 まだ年若い帝の決意に胸打たれ、和斗子は力強く言った。

「参りましょう、朱雀大路へ。不肖和斗尊、御二人を力の限りお守り申しあげます」

「さて、そうと決まれば長居は無用。そろそろ行こうか。奇居子」

「へい、此処に」

 門の陰から松明を手に男が現れた。

「おまえは……」

 生霊事件で妻を亡くした下人だった。

「あれから二条のお屋敷で世話になっております」

 萎烏帽子の頭をひょこりと下げる。

「骨身を惜しまずよく働いてくれてるよ。案内をよろしく頼む」

「へい」

 奇居子と呼ばれた男は一行の先頭に立って歩きだした。





 月明かりに照らされた朱雀大路を奇妙な四人連れが行く。

 褐衣の下人を筆頭に、童水干の少年、狩衣姿の少年が続き、しんがりを尼僧が務めている。

 暑くもなく寒くもなく、そぞろ歩きに最適の秋の月夜なのだが、連夜の怪異の影響か、はろばろとした大通りはいやに静まりかえっていた。日頃はあれほど吠え声を響かせる野犬の今は影さえ見えない。

「此処です」

 奇居子が立ち止まったのは三条にさしかかる朱雀大路と小路の交わる辻だった。

「最初の犬の妖異の現場か」

「へい。次の目撃場所もすぐ近くですね」

 反対側の柳の木を指さす。

 それから男に案内され更に南下したが、怪異の起きたとされる場所は、すべて大路が他の道と交わる辻や木や橋のたもとである。

「よく調べてくれたね」

「何がわかったのだ」

 帝がじれたように訊く。

「妖犬の出没地に何らかのつながりを見いだせないかと思ってな」

「同じ場所に出るわけではなさそうですね」

「ああ。ただ辻や橋といった境界ばかりに出るのは妖の特徴だ」

「一箇所に留まらないなんて、まるで方違えですわね」

 ぽつりと呟いた和斗子に宝珠丸が勢い込んで言った。

「それだ! でかしたぞ和斗尊!」

 黒曜石の瞳が輝いている。

「どうも何かに似てると思ったが、此度の怪異、おそらく陰陽道に関わりある」

「陰陽道?」

 帝と和斗子が異口同音に声をあげた。

 更に口を開きかけたところで宝珠丸の顔に緊張が走った。和斗子も辺りの空気の不穏さを遅まきながら肌に感じた。

 いつの間にか四人は無数の人影に取り囲まれていた。夜だというのに念の入ったことに全員が覆面姿だ。

「夜盗か」

 宝珠丸の舌打ちが帝に聞こえてなければいいのにと和斗子は思った。

 鞘鳴りとともに抜き身の刀が閃く。抜刀した男たちが鋒をこちらに向け、徐々に躙り寄ってくる。

「いずれかの名家の子息とお見受けする。悪いことは言わぬ。着物と金目の物を置いて立ち去れ」

「我らとて鬼ではない。命までは取りはせん」

「宝珠丸様……!」

 とっさに和斗子は背に少年たちを庇った。

 いかに宝珠丸が優れた陰陽法師とはいえ、中身は小柄な少女である。妖ならともかく、盗賊を向こうに回して戦えるとは到底思えない。

「宝珠丸様、主上を連れてお逃げください」

「和斗尊を置いていけるか」

 宝珠丸が懐から数珠を取り出す。

「オン・センダラ・ハラ――」

「そこな者共、何をしている」

 鋭い誰何が夜気を切り裂いた。

 松明を手にした武官と思しき男が大股に近づいてくる。

 思わぬ闖入者に盗賊たちが一瞬怯んだ。検非違使の役人などに遭遇してはひとたまりもない。

 だが男がたった一人で供もつけず徒歩であると知るや、すぐに威勢を取り戻した。

「おぬしも命が惜しくば金目の物を出してもらおうか」

 首領格の男が刀を向ける。

「ほう? 俺から追い剥ぎするか」

 闖入者は不敵に言い放った。

 その声に聞き覚えがある気がして和斗子の胸は波立つ。

「ならば問答無用だな」

 男は松明を投げ捨てると目にも止まらぬ速さで太刀を抜き、近くの夜盗に斬りつけた。

「ぎゃあっ」

 血飛沫と叫声が同時にあがる。

 間髪を入れずもう一人を袈裟懸けに斬り、返す刀で更に一人。瞬く間に首領の男との間合いを詰める。

 その鮮やかな太刀筋と戦い慣れた身のこなしに宝珠丸たちは呆気にとられ、盗賊たちはたじろいだ。

「そらどうした、俺から着物を剥いだらどうだ」

 血塗られた刃が月光に濡れ光る。

「仲間の手当がしたくば、さっさとここから立ち去され。今ならまだ命は助かろう」

「おのれ……」

 覆面の首領が後ずさる。憎々しげに太刀を仕舞うと、それを潮に手下も次々に刀を下ろし、蜘蛛の子を散らすように朱雀大路を去っていった。

 負傷者を抱えて逃げる一味を男は追わなかった。それよりも助けた者たちの安否が気になるようで、懐紙で刃を拭うとこちらに向き直った。

「おい、おまえたち無事か? 誰か怪我をしている者は?」

 月明かりを背にした男の顔が近づくにつれはっきりと見てとれた。

 和斗子の内に芽生えた予感はみるみる確信に変わった。

 男との距離があと数歩まで縮まった時、向こうも歩みを止めた。

「……和斗子? おまえ和斗子なのか?」

 数年前に離縁した夫の橘則光だった。




 気まずさにこの場から立ち去ってしまいたかった。何故よりによって喧嘩別れした元夫に命を助けてもらわねばならないのか。

 これもあたしの前世の因縁なんだろうか……

「知り合いか?」

 背後で息を潜めていた帝がおずおずと囁く。

「とんでもない! 縁もゆかりも無い方でございます!」

 思わずいやに語気を強めて否定してしまった。

「おいおい、随分な言い草だな。その負けん気の強い顔とキンキン声、俺が間違うわけないだろうよ」

「あんたなんか知らないって言ってるでしょ!」

 むっとして反駁する。

 元夫婦の犬も喰わないやりとりに宝珠丸が割って入る。

「危ないところを助けていただき、まことにありがとうございます。これらを代表してお礼申しあげます」

 ふいに現れた少年に則光は呆気にとられ目を瞬いた。無理もない。夜道で出逢えばこれこそ化生ではないかと思わせる浮世離れした美貌なのだ。

 慌てて和斗子は則光の袖を掴み、宝珠丸から引き離した。

「ちょ、ちょっとこっちへ」

 今ここで主上と中宮のお忍びが露見しては非常に拙い。そのまま則光を柳の下まで引っ張っていった。

 則光はまだ宝珠丸が気になるらしくちらちらと視線を投げている。

「おまえの知り合いか?」

「えっ、ええ。まあね」

「えらく綺麗な子だな。髪を垂らして袿を着たら姫君でも通りそうじゃないか」

 期せずして核心を突いた発言に和斗子の冷や汗が止まらない。

 則光は気の利いた科白はひとつも言えない朴念仁のくせに勘だけは妙に鋭いのだ。

「夜盗から助けてくれたのは本当に感謝してる。ありがとう。けどここは何も訊かず帰ってくれる?」

 和斗子が一息に言って立ち去ろうとするのを今度は則光が引きとめた。

「待てよ。ついさっき襲われたかけたんだぜ? こんな女子供だけで夜歩きは危険すぎる」

 則光は太刀だけでなく弓と矢の充填した胡籙まで携えている。

「でも――」

「おまえも知ってるだろうが、このところ大路には犬の化物が出るって噂だ。命が惜しけりゃ、おまえらこそ帰るべきだろう」

 相変わらず面白くもない則光の正論を聞く内にまた腹が立ってきた。

 どうもこの男といると和斗子は大人の分別を忘れて、気の短い娘時代に戻ってしまうようだ。

「和斗尊」

「わっ!?」

 いつ忍び寄ったのか、真後ろに宝珠丸が立っていた。

「こちらの御仁はおまえの旧知のようだし、腕も立つし、この際護衛として同行してもらってはどうか?」

「はぁっ!? 冗談はよしてください」

 和斗子の批難を無視して則光に向き直る。

「いかがでしょう。勿論ただとは申しません。助けていただいたことと併せて御礼はいたしますので」

「俺は構わんが……」

 和斗子の顔色を窺うように一瞥する。

「よし決まりだな」

 宝珠丸は佇む奇居子と帝の元へ踵を返す。その細い後姿に追いすがりながら和斗子は言った。

「わたくしは反対です。事情を知らぬ他人を巻き込むだなんて」

「他人ではなかろう」

 宝珠丸は振り向きもせずぴしゃりと言った。

「金吾殿は和斗子の妹背だと前に聞いた」

 金吾とは衛門府の異称である。則光の現在の役職は左衛門尉だ。いかにも武張った則光には似合いの役職だと和斗子は思う。

「昔の話にございます。あれとの結婚はわたくしにとってよからぬ思い出……暗黒の歴史とでも呼ぶもので」

 宝珠丸はそのまま帝たちの横を通り過ぎた。

「宝珠丸様……もしや怒っておられます……?」

 宝珠丸が足を止める。

「和斗子は狡い。わたしという者がありながら、左衛門尉にばかりかまけて…… 」

 思わぬ告白に面食らう。

 えーーと? ひょっとして上様、拗ねておられる……?

「和斗子はわたしの『一の人』だろう」

 それは折に触れて和斗子が語る持論だった。


「愛されるからには一番に愛されたい」

「同じ好きでも二番手三番手に甘んじるのはごめんだ」

「それならいっそ嫌われたほうがまし」


 との極論で、同僚女房からは冷笑されるが、隠れもなき和斗子の本心だった。

 これは男女の仲に限ったことではなく、むしろ主従関係を念頭においた話であり、無論和斗子が一番に愛されたいと願うのは、美しく聡明なうら若き女主人であった――

 他ならぬ宝珠丸の口から飛びだした言葉に和斗子は感激した。

「勿論にございます! わたくしこそ宝珠丸様を一番にお慕い申してあげ、一番に目をかけていただいている『一の人』にございますっ!」

 宝珠丸は和斗子の頤を掴んで引き寄せた。

「ならばわたしだけを見ろ。他の男に脇目を振るのは許さん」

 黒々と濡れた瞳に射抜かれるかと思った。

 言い捨てると宝珠丸は何事もなかったように男たちの元へ戻った。

 待ちかねた帝が口を開く。

「先程、陰陽道と言ったな」

「ええ。気になったのは犬が大路より消えたことです」

「牛や馬も襲われてますわ」

「それはここ最近の出来事だ。最初の異変は犬からだった」

 奇居子の掲げた松明が小さく爆ぜる。

「蠱毒を知っているか」

 陰陽道の忌まわしい秘術のひとつが蠱毒である。

 蛇や蟇、蜈蚣といった生き物をひとつの壺に封じ込める。密閉した器の中で飢えた虫たちに共喰いをさせ、そうして同士討ちのすえ生き残った一匹は凄まじい魔毒を得るとされている。

 陰陽師たちはこれを呪詛に用いる。

 公には禁じられた呪法だが、余程効果が高いのか、使う術士が後を絶たなかった。

「これは犬をつかった蠱毒ではないのか、と思ったのだ」

 初めに消えたのは弱い個体――やがて強い個体も淘汰され、生き残った最後の一頭が――

「巨体となり他の生き物を襲うようになった、と考えるとすべての辻褄が合う」

 風もないのに篝火が大きく揺れた。

 辺りに強烈な腐臭が満ち、荒々しい気配とともに黒い影が躍り上がった。

 和斗子は確かに何もない空間から現れる獣の姿を見た。





 黒い獣はこれまで見たどんな獣より巨かった。

 牛よりも馬よりも熊よりも大きい。和斗子は絵姿でしか知るよしのない普賢菩薩の乗り物――象――ほどもある巨体だった。

 犬の姿の名残をかろうじて留めているものの、大部分はおぞましく変容を遂げていた。

 瞋恚に燃え盛る黄色の眸、互い違いに伸びた牙、鋼鉄のような四肢の鉤爪。裂けた口からは絶えず青白い燐火が吐き出され、凄まじい形相を浮かび上がらせた。

 よく見ると黒いのは返り血で、ところどころまだらに白っぽい毛皮が覗いている。

 やっぱり翁丸なの!?

 化け犬は巨体に似合わぬ素早さで則光目掛けて飛びかかった。

「いかん!」

「則光!!」

「くっ」

 則光は横ざまに転がって攻撃を避けた。

「や、やめんか、この化け物め」

 奇居子が震えながら松明を振りかざす。ちょうど虚空に円を描くように振り回すと、獣がわずかに後ずさった。

「いいぞ奇居子、こやつは火が苦手のようだ」

 宝珠丸が勢い込む。

「オン・ギャロダヤ・ソワカ」

 真言とともに端切れを振ると軌跡に沿って火炎が翼のように広がった。宝珠丸の宝具のひとつ、迦陵頻の領布だ。

 化け犬が唸りをあげる。地の底から響くような声だった。

 則光が膝をついて起き上がると犬は再び狙い定めて襲いかかる。

「なんで則光ばかり……」

「おそらく金吾殿が人を斬ったせいで、血の穢が妖を惹きつけてしまうのだ」

 宝珠丸は迦陵頻の領布を羽織ると地を蹴った。

 華奢な体はそのままふわりと宙に浮き、更に虚空を蹴って飛翔する。

 淡い金色の領布を靡かせ夜空を舞う姿は、羽衣を纏った天女か極楽浄土の飛天を彷彿とさせた。

「オン・ギャロダヤ・ソワカ!」

 金色の炎が中空で閃き、火の粉が散る。

 則光と妖犬のあいだに宝珠丸がふわりと降り立つ。

「そなた一体……」

 則光が呆気にとられて目を瞬く。

 化け犬は火の気を警戒して無闇に近寄りこそしないが闘争心は失っておらず、しきりに脚で地面を掻いている。

 威嚇を込めて唸るたびに、口から凍てついた炎が吐き出される。腐りかけの凍った死骸のような悪臭が濃くなる。

 獣は中天の月を仰いで高らかに遠吠えた。空気が漣のように震える恐ろしい吠え声だった。思わず和斗子は耳を塞いだ。

 口から漏れた青い炎が野火のように毛皮に燃え広がり、黒い巨体を青白く染めあげた。

 恐ろしげな容貌が更に獰猛さを増し、丸太のような四肢に蟠る影は一層濃くなる。

 宝珠丸にしては珍しく、困惑の表情を浮かべるばかりで次の手が打てないでいる。

 妖犬が脚を振り下ろすと地響きがした。

 瞳孔のない燃える双眸で前方を見据えると、巨獣は杉の木ほどもある尾を振って、凄まじい速さで朱雀大路を北へ駆け出した。

 まるで箒星が光る尾を引いて駆けているようだ。

 このまま道を北上すればいずれ朱雀門――大内裏に行きつく。

 宝珠丸が再びその背に向かって金の炎を浴びせかけるが、氷色の毛並みに一歩届かない。舞い散る火の粉も宙で灰となって霧散してしまう。

 一同はなすすべもなく遠ざかる巨体を見送るしかなかった。

 何気なく背後を振り返った和斗子はそこに信じられない光景を見た。

 青褐色の墨を流したかのような朱雀大路――その大路の尽きる処に丹塗の柱と緑青の瓦を葺いた高い楼門が聳えたっていた。

「宝珠丸様、あれを!」

 つられて則光も振り仰いだ。

「嘘だろう……羅城門が、ある……」

 いにしえの遷都の折、京の南端に建造された羅城門は、長らく都城の象徴として威容を誇っていたが、天元三年に倒壊して以降、再建されず今日に至っている。

「あれは大風で倒れたはず……けど間違いない……確かに見覚えがあるもの」

 和斗子と則光はかろうじて記憶にその姿をとどめているが、宝珠丸は実物を目にしたことすらないのではないか。

 いつの間にか松明を持つ奇居子の姿が見えなくなっている。どころか生き物の気配がすっかり絶えて、そらぞらしいほどの静寂が辺りに満ちていた。

 残された四人を照らすのは天上の青い月ばかり。

「そうか。ここは犬の化物が現れ出ずる隠形の京か」

「おんぎょう?」

 耳慣れぬ言葉に和斗子は首を傾げた。

「詳しく説明している暇はないのだが、我々が見て触れている世界には、実はいくつもの層が重なり合って存在している」

 宝珠丸の背で領布が蝶の翅のように揺れる。

 迦陵頻――金翅鳥の異名を持つ天部――の力を宿した薄布はその名のとおり淡い金光を帯びている。

「昼間は互いの層は干渉し合わないものだが、黄昏や夜には境が曖昧になる。いわば各層に綻びが生じる――鬼や妖といったモノは、その綻びを通じてこちらの層へ這い出てくるのだ。逆も然り」

「では、わたくしたちが今いるのはいつもの朱雀大路ではないと?」

「そうでもあるし、そうとも言えない。ここは層と層のあいだの通い路に近い気がする。犬の蠱毒に使われた壺の中、壺中の天と言ったところかな」

 いつもながら宝珠丸の説く話の半分くらいはわからない。和斗子が元夫に目を遣ると、則光は更に棒を飲んだような表情でいたので、少しばかり安堵した。

「これで化け犬の力が急に増したのも理解できる。やつの本来の住み処だからな」

「どうする? あのままでは内裏が襲われてしまう」

 帝が眉根を寄せる。

「わたしがそうはさせません」

 決然として宝珠丸が言った。

「ここが隠形の層なれば、わたしの式も本性を発揮しよう」

 宝珠丸が高らかに指笛を鳴らす。鳶の鳴声のように澄んだ音が夜陰に響き渡る。

 ほどなくして月の彼方から二点の雨雲のような影が素晴らしい速さで近づいてきた。

 徐々に近づいてくるその姿に三人は度肝を抜かれた。

 虚空を力強く蹴ってこちらへ向かってきたのは、中宮の御座所に鎮座する唐獅子と狛犬だった。

 ただし平素の姿とは違い、本物の獅子ほども大きさがある。寝殿で見る彼らには犬か猫のような愛嬌があるが、巨体となった二頭は化け犬に負けじ劣らず恐ろしげな猛獣に見えた。

「宝珠丸様ぁ」

「参りましたぁ」

 吠え声も銅鑼のように臟に響く。

 巨大な頭を擦り寄せる二頭の鼻面を宝珠丸は軽く撫でる。

「さぁ三人とも、彼らの背に乗って。金吾殿、わたしの援護を頼みます」

「どうすればいい?」

「この軍荼利明王の弓を使われるがよろしい。つがえた矢が破魔の火箭になります」

 宝珠丸が取り出したのは遊興に使う小弓よりも小さな両掌に乗る弓だった。

 則光が半信半疑で受け取ると、手にした弓がみるみる大きくなり、金糸の張られた強弓に変じた。

「おおっこいつは凄いな」

 まるで新たな玩具を与えられた子どものように目を輝かせ、弦の張り具合を確かめる。

 則光は唐獅子に和斗子と帝は狛犬に相乗りとなった。

 本性を取り戻した二頭は、まったく生きた獣と遜色ない手触りがした。体は絹のように滑らかで巻いた鬣は羊毛に似ている。

 畏れ多くも帝の玉体に掴まっての騎乗など金輪際ないだろう。和斗子は緊張で全身が硬くなった。

 領布を纏った宝珠丸に続いて、守護獣たちが宙に浮く。

「ひぃっ」

 みるみる遠ざかる京の風景と感じたことのない浮力に和斗子は身が竦んだ。

「少納言は怖がりだなぁ」

 肩にしがみついた和斗子に帝が笑いかける。

「とんだご無礼を……」

「よいよい。しっかり掴まっておれ。少納言は朕が守る」

 帝の頼もしい一言に和斗子は甘えることにした。

 どちらかといえばおとなしい少年とばかり思っていた今上帝の快活な一面を垣間見て、興を覚える。

 東寺の五重の塔よりも高く一行は飛翔する。

 上空は風が強く、秋だというのに吐息が白く凍てつくほど寒い。

 唐獅子たちが虚空を蹴って走るのに対し、宝珠丸は滑るように飛行する。光る領布を尾のように長く引く姿は流星のようだ。

 和斗子の脳裏に幼き日の記憶がまざまざと甦る。




 健在だった父に抱かれて小さな和斗子は夜空を見あげている。

 乞巧奠の満天の星空をひときわ明るい星が尾を引いて横切る。

――あっ流れ星!

 和斗子が興奮して軌跡の消えた辺りを指差す。

 子どもの体を抱え直しながら父が言った。

――ああした大きな流星を天津狐と呼ぶんだよ。

――キツネ? あれは星じゃなくて狐なの?

――さぁどうだろう。わしも直に見たわけではないからのう。昔の人は空飛ぶ獣と思うたらしい。

――いいなぁ。和斗子もお空を飛んでみたい。




 子どもの頃の益体もない願いが大人になった今叶ってしまっている皮肉。

 大人になるにつれ、少女の夢想は現実に悉く裏切られてきた。

 胸踊るような冒険も美しい奇跡も物語の中にしか存在しないのだと。

 ところがどうだ。宝珠丸といると幼き日の幻想が目の前で実現してしまう。

 宝珠丸といる限り、永遠だとか絶対などという絵空事を今一度信じてみようと、和斗子は思えるのだった。





 眼下に碁盤のごとき京の都が展開する。

 北を船岡山、南を巨椋池、東を賀茂川、西を山陰道に囲まれた四神相応の盆地に築かれた都。

 条理を刻む長方形の都市を南北に貫く朱雀大路。南の果てが羅城門であれば北の果ては朱雀門――大内裏の入口であった。

「いたぞ!」

 宝珠丸の目が青白い獣を捕らえる。四つ足の巨体は朱雀門を乗り越えようとしている。

「金吾殿!」

「よしきた。任せろ!」

 則光が弓をきりりと引き絞る。

 軍荼利明王の法力で矢尻が火で炙ったように赤々と輝く。

 放たれた矢が紅蓮の火箭となって化け犬の鼻先を掠めた。

「外したか」

 則光が舌打ちする。

 突如去来した灼熱の火箭に化け犬が上空を振り返る。

 楼門は巨獣の重みに耐えかね、軋みを立てはじめていた。瓦が何枚も剥がれ落ち、地表で儚く砕け散る。

 妖犬が巨大な口を開く。涎が糸引く洞穴の奥から強烈な冷気の塊が迫りあがり、咆哮となって放たれる。

 夜闇に白い光が奔る。

「和斗子!」

「則光!」

 唐獅子と狛犬が左右に飛んで攻撃を避ける。光が掠った法衣の袖が凍りついて雲母のように剥がれ落ちた。

 一歩間違えば自身がああなっていたのかと和斗子はぞっとした。

「和斗子無事か!?」

 遠くから則光が怒鳴る。

「ええ、無事よーー!」

 和斗子も叫び返す。大声で叫ばないと耳元で渦巻く風音に掻き消されてしまう。

 巨獣は朱雀門の屋根に乗ったまま、四方に威嚇の咆哮を繰り出す。氷の霧が辺りに立ち込め、夜気を更に冷やす。

 めきめきと支柱が音を立て、木片や漆喰が剥がれ落ちる。老朽化した朱雀門が怪物の重みに耐えかね、ついに崩れはじめた。

「畜生、化け物め」

 再び則光が矢をつがえた。

 今度の火箭は前脚に当たった。氷の獣が弾かれたようにのけ反る。

 化け犬は無数の瓦を砕きながら大内裏の中へと着地した。衝撃で地鳴りがする。

「まずいぞ。ええい、宿直の連中は何をしている!?」

 化け犬の正面に回り、次々に矢を射掛けながら則光がぼやく。

 怖気もせず化け物と渡り合う元夫の勇猛さには感心するが、いかんせん分が悪い。傍から見守るしかない己がこんなにももどかしかったことはない。

 あたしにも何かしらの力があれば……

「オン・アボキア・ビジャヤ・ウンハッタ!」

 宝珠丸が不空羂索観音の真言と共に羂索を放つ。

 光る縄が蜘蛛の巣のように中空で広がり、化生の巨体に絡みつく。

 妖犬は羂索を振りほどこうと自分の尾を追いかけるようにしてその場で回り出した。

「やりましたね、宝珠丸様!」

「まだ足留めしたに過ぎない。こやつを調伏せんことには……しかしあまりに大き過ぎて、迦陵頻の火では気休めにしかならぬ」

「一口鬼を召喚してはどうでしょうか?」

 妙案を思いついたつもりの和斗子だったが、宝珠丸にあっさり一蹴される。

「あれは建物に憑く鬼だ。屋内なら無敵だろうが、屋外では役に立たん」

「鬼神も万能ではないのですね……」

「そうだ。だからこの化け犬にも何かしら弱点はあるはず。火の他の弱点がわかれば、合わせ技で倒せるかもしれぬ」

 細い縄目が肉にくい込んで化け犬が苦しげな叫びをあげた。

 化け物にも痛みがあるのだ……

 打ち据えられた翁丸の悲痛な鳴き声を思い出す。

「そもそも何故化け犬は内裏を襲うのでしょう」

 唐突な和斗子の問いに帝も宝珠丸も虚をつかれた。

「もしあれが翁丸の変わり果てた姿だったとしたら、翁丸はただ、自分の住み慣れた場所に戻りたいだけではないのでしょうか?」

「少納言……」

「よしわかった」

 宝珠丸は和斗子の肩を叩いた。

「和斗尊、主上、我々で今一度あの犬に呼びかけてみましょう。あれにまだ翁丸の心が残っていれば、畜生といえど説得できるやもしれません」

「宝珠丸様……!」

 言うが早いか宝珠丸は身を翻した。二人を乗せた狛犬が後に続く。

「翁丸ーーっ!」

 化け犬の耳がぴくりと動いた。

 宝珠丸に唱和するように和斗子も呼びかける。

「翁丸、おまえ翁丸でしょう?」

「翁丸、朕がわかるか? あの時はすまなかった」

「翁丸」

「翁丸」

 唐獅子と狛犬も呼びたてる。

 妖犬は周囲を飛び回る守護獣たちを追い払うように威嚇する。

 氷の咆哮が再び放たれる。

「やはりあれは翁丸ではないのでは?」

 鬣にしがみつきながら帝が言う。

「いいえ! あれは翁丸です!」

 ふいに和斗子は確信を持って断言した。

 この瞬間まで、和斗子も化け犬の正体については半信半疑だった。この恐ろしげな怪物の正体が賢く健気な犬であって欲しくない思いとあまりの豹変ぶりに同一の個体とは思えなかったからだ。

「あの眼は翁丸に違いありません。ただの野犬があれほどの怒りと悲しみを湛えた眼をするでしょうか。あれは人に裏切られ、傷ついた者の眼にございます」

 今度は翁丸に向けて和斗子は叫ぶ。

「ねえ、そうでしょう翁丸? おまえ、悲しくて悔しくて、そうして化けて出たのでしょう?」

 爛々と燃えたぎる黄濁した双眸に翳りが差す。

 唸るのをやめた化生の目から泉のように涙が溢れた。

 はらはらと大粒の涙が地表に零れ落ちる。

 宝珠丸は羂索を握る手を緩めた。巨体に絡みついた数多の縄が消失する。

「ああ、やっぱり翁丸ね。おまえは賢いままなのね」

 和斗子は手を伸ばして角盥ほどもある大きな鼻先を撫でた。

 唐獅子に乗った則光も側へ飛んできた。

「和斗子おまえ……」

「和斗尊には鎮魂の才があるな」

 宝珠丸が懐から取り出したのは乳白色の優しい色味を帯びた月輪の球だった。

「オン・センダラ・ハラバヤ・ソワカ」

 宝珠丸の華奢な掌の上で月輪が輝きはじめる。目を射るような眩さはないが膚に染み渡るような幽かな光。

 指先で触れると球体が蓮の花のように綻び、淡い光で辺りが満たされた。

「綺麗……」

「月光菩薩の薬壺だよ」

「薬師如来の薬壺ならば聞いたこともありますが」

「今宵は満月、月光菩薩の力がもっとも発揮される時だからな。使わぬ手はないと思ってな」

 乳白色の光の雨が降り注ぐ中、翁丸にも変化が起きた。

 黒くこびりついていた返り血が洗い流され、本来の毛並があらわになったのだ。

 銀灰色の毛皮が、月光にふさふさとそよいだ。

 聳えるような巨体が一拍ごとに小さくなる。

 象ほどの大きさから牡牛ほどの大きさへ、牡牛から仔牛へ。

 やがて狼ほどの丈に縮んだ時に翁丸は小さく鳴いた。

「どうした? まだ化生の体に未練があるのか?」

 同意するように一言鳴くと、翁丸は迷わず内裏の奥へ向かった。数歩ほど進んで足をとめ、催促するようにこちらを振り返る。

「案内するつもりのようだな」

 和斗子たちも守護獣の背から降りて徒歩で後に従った。





 翁丸は豊楽門を素通りし、治部省の脇を通り過ぎ、典薬寮も造酒司も越えて松の枝葉が鬱蒼と茂る宴の松原へと至った。

 宴の松原は昼でも薄暗く不気味な場所だ。陰鬱な雰囲気からか怪談話が後を絶たず、禁中における肝試し場所の定番でもあった。

 銀灰色の犬は更に松林の奥へ一同を導こうとする。

「わたくし此処はあまり好きではありません。だって鬼が棲むと評判なのですよ」

 林の入口で躊躇う和斗子に宝珠丸は呆れた。

「おまえ、あれほど怪異に立ち会っておきながら、何を今更怖がる必要がある? 鬼なら職御曹司にも棲んでおるし今は登華殿に棲んでおろう」

「そうなのか!?」

 初耳だった帝が驚いて声をあげる。

「おい、見失わないよう先に行くぞ」

 則光の一言で一同は黙々と松林に分けいった。

 常緑樹の林は昼間も日が差さないので、潅木や下生えが育たず歩きやすい。この宴の松原もいつからあるのか定かではないがいずれも年古りた松の大木ばかりで、夜歩きもさして苦にならない。

 翁丸は何かに導かれるようにひたすら前進する。立ち止まるのは人間たちが着いてくるのを確認する時だけだ。

 ひときわ高い古木の根元でようやく翁丸は足を止めた。

 後脚で立ち上がると幹を前脚で掻いて登りたい素振りをみせた。

「? 上に何かあるのか?」

 則光が頭上を見上げる。濃い木々の影が覆い被さるばかりでろくに見通せない。

「わたしが見てこよう」

 宝珠丸は領布を取り出すと、そのままひらりと上昇した。

「あの領布は随分と便利だなぁ」

「神仏の御加護というものよ」

「そうだ。さっきの御曹司にこれを返しといてくれよ」

 則光は元の寸法に戻った軍荼利明王の弓を和斗子に手渡した。

 指先と指先がわずかに触れ合う。

 慌てて引っ込めようとした手を則光が掴んだ。

「ちょっと、離してよ――」

「話を聞いてくれ、和斗子」

 則光の目が真剣味を帯びる。

「おまえが出仕を始めたと風の噂で知って、いつか宮中で出くわすこともあるんじゃないかと思ってたんだ」

 則光の顔を改めて振り仰ぐ。女にしては長身の和斗子は大抵の殿御とは目線が合うのだが、則光は更に背が高い。

「同僚や上司からおまえの評判を何度も耳にしたよ。草庵の惨劇事件は俺も鼻が高かった。おまえは昔っから気が強くて誰彼かまわず衝突しがちだったけど、ようやく相応しい居場所をみつけたんだなと嬉しくなった」

 どうも雲行きが怪しい。則光がこうして和斗子を手放しで褒めることなぞ今までなかったことだ。

「昔のことは……その、悪かった。今更謝ってもどうにもならんが、俺も思慮に欠けていた」

 しおらしく頭を下げる。

 和斗子は急に毒気を抜かれたようにすべてが馬鹿らしくなった。

「いいのよ。あたしも素直じゃなかった……いい北の方じゃなかったわ」

 もう二人は互いの自我をぶつけ合った幼い二人ではなかった。過ぎ去った年月の分則光は老い、和斗子もまた老いた。

 帝がわざとらしく咳払いをしたので、慌てて元夫婦は手を離した。

「宝珠丸はまだかな」

「今参りました」

 白い袖を翻して宝珠丸が降り立つ。

 迎える狩衣姿の帝と相まって、まるで月から舞い降りたなよ竹のかぐや姫だと和斗子は思う。

 かぐや姫は両腕に黒っぽい塊を抱きかかえていた。

「! 命婦のおとど!」

 帝が叫んだ。

「かなり弱っていますが心の臓は動いています。一晩薬壺を抱いて寝れば少しは回復しましょう」

 小獣の体を割れ物を扱うようにして譲り受けた帝はわずかに涙ぐんでいた。

「おとどは高い枝に引っかかっていました。おそらくは鷹か何かに攫われてここまで運ばれてきたのでしょう」

「そうか。おまえは鳥から命婦のおとどを取り返そうとしたのだな? 翁丸」

 翁丸は前脚を揃え、おさがりを待つ時のように行儀よく座っている。

「ありがとう、翁丸。そしてすまなかった。そなたの冤罪を解き、殿上に必要な五位を授ける」

「よかったわね、翁丸」

「俺より出世したな」

 言祝ぐ人間たちをよそに翁丸はきょとんとしている。

 宝珠丸だけが何かを悟ったように妖犬の前に跪いた。

「おまえはどうしたい?」

 翁丸は悲しげに鼻を鳴らすとその場に伏せた。

 毛を覆っていた仄白い光が消え失せ、体は半分に満たないほどに縮んでしまった。

「一体どうしたのだ」

「主上。翁丸はもう長くはありません」

 意表を突かれその場にいた誰もが耳を疑った。

「もともとはひどく弱っていたのです。それを蠱毒で無理矢理奮い立たせていたのです」

「そんな……」

「和斗尊、先程言ったろう。この世は見えない層が重なり合って存在していると。夜の世界では魔力を得て生きながらえたとしても昼の世界――現し世では最早生きられないのだよ、この犬は」

 白い繊手が皺の寄った眉間の毛を優しく撫でる。

「このまま畜生としての生を終え、輪廻転生するか。それともわたしの式となって此岸と彼岸のあわいに留まるか。好きなほうを選ぶがいい」

「翁丸」

「翁丸」

 唐獅子と狛犬が尾を垂れて側に寄り添う。

 宝珠丸が懐から小匣を取り出した。

 虹色の魄の結晶が封じられた玉手匣。

「これを一粒口にすれば、もうおまえはわたしの識神だ。どうするね?」

 差し出された小匣を前にして、小さな獣はいつまでもいつまでも動かなかった。





「少納言にこれを」

 恭しく差し出された懸盤の上には真新しい白紙がきちんと角を揃えて載っていた。

「兄からの貰い物だ。上等の紙が手に入ったとかで、半分を主上に、半分をわたしに献上してきた」

 上の二歳年長の兄は従三位の権中納言だ。今もっともときめく花形貴公子といって過言ではない。

「それを何故わたくしに……?」

 久々に呼び出された用件がこれである。紙は貴重品であるから貰えれば無論嬉しいが、和斗子が賜与される謂れも思い当たらない。

 上は檜扇で口元を隠し不敵に微笑んだ。

「和斗子が皆に内緒で草子を書き溜めているのをわたしが知らないとでも?」

「それは……っ、とてもお見せできる内容でもありませんし」

 まさか中身までは知られまいと思うも冷や汗が滝のようだ。

 いや千里眼の上様のことだし、内容もそれとなくご存知かも……!?

 女房の反応を面白がりながら上は言い募る。

「主上は献上された紙に史記を書写させるとおっしゃっておいでだ。さて、わたしの司馬遷は何を書くかな?」

 和斗子は興奮に頬が赤らむのを感じた。

……書こう。上様のこと、宝珠丸様のこと。

 ここまで期待されるなんて、女房冥利に尽きるというものよ。

 それは彼女に付き従う自分にしか書き残せぬ物。

 決して歴史の表舞台では語られることのない二人だけの秘めた冒険。

「書かせてください。書きますとも」

「ようやく元気が出たようね」

 上が目を細めて微笑む。

 翁丸の一件ですっかり意気消沈した和斗子は、しばらく里邸に下がっていた。

 上からはひっきりなしに文が届けられたのでその後の出来事のおおよそは把握している。

 翁丸の亡骸は奇居子によって鳥辺野に葬られたこと。

 数日経て命婦のおとどが回復したこと。

 朱雀門は倒壊したが、大内裏の被害が軽微であったこと。

「……結局、翁丸は荼毘に付したのですね」

 望月の晩を思い出し、和斗子はしんみりする。

「翁丸は生きたくはなかったのでしょうか」

「生きたかったであろうな」

「翁丸苦しんでた」

「翁丸悲しんでた」

 唐獅子と狛犬が側に擦り寄ってきた。いつもより覇気がないように感じるのは和斗子の思い過ごしだろうか。

「だがそれよりも」

 上は静かに瞑目する。

「生き物としての生を全うしたかったのであろうよ」

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