赤い薄様

 宝珠丸様の色は白――

 それも明るく朗らかな望月のような――

 あるいは無色透明――

 緒に貫いた水晶

 軒先の氷柱

 砕け散る水滴

 きらきらと光を放つ澄んだ眸――




 などとうっとりする夢想を打ち砕くのもまた宝珠丸自身だった。

 石山寺に逗留する和斗子のもとへ中宮からの使者が訪れたのは夏の盛りのことだ。

 目も覚めるような鮮やかな赤の料紙に一言、

「都合よければ来い。悪くても来い」

 と書いて寄越すのだ。

 理由は何一つ記されていないが、こう催促されては和斗子も参らないわけにはいかない。

 四方を山に囲まれた盆地の夏はとかく暑い。

 せっかく京を離れ、涼しい山寺に籠っていたというのに、和斗子はまたもや煩わしい人間関係とうだるような暑気の待つ京へと舞い戻る羽目となった。

 持参した硯や筆を片付けながらそれでも何やら気持ちが弾むのを和斗子は抑えきれなかった。





 上――宝珠丸との出逢いから約半年――和斗子は弟子の常陸坊和斗尊として図らずも数々の事件に首を突っ込んできた。

 諮問陰陽師のもとへ舞い込む依頼は玉石混淆で、驚くような大物からの内々の打診もあれば、女童の飼っていた雀の行方捜しのような他愛のない頼み事まであった。

「身分の上下で事件は選ばない。わたしが興味を抱いた依頼を引き受ける」

 というのが宝珠丸のこだわりで、その為か二条の門前には貴賎を問わず依頼者が引きも切らなかった。

 とりわけ和斗子が印象深かったのが「草庵の惨劇事件」「北家の儀式書事件」「三蹟の署名事件」などだが、宝珠丸はまた違った意見かもしれない。

 実際上は型破りな姫君だ。

 可笑しい時には口をあけておおらかに笑い、いつも表情豊かで、颯爽と大股で歩く。触穢にも無頓着で、猫のお産に立ち会ったり、虫や小鳥を籠に飼ったりもする。

 およそ大貴族の令嬢と聞いて思い浮かぶ像とかけ離れている。

 おまけに始終童水干姿で邸内をうろつくので「関白家には元服前の名の知れない男児が存在する」と一部で囁かれていた。まさか関白家の大姫(長女)が顔も隠さず端近にいるとは思いもしないようだ。

 だが和斗子はこの一風変わった姫君が大好きだった。

 魅了されてると言っていい。破天荒な言動に振り回されながらもどこか喜んでいる自分がいた。

 上はいつも和斗子の知らない世界を見せてくれる。

 それは時には恐ろしく残酷で、時にとてつもなく美しかった。

 あのまま里居を続けていたのでは絶対に知り得なかった世界だ。和斗子は得意気に鼻を膨らませる。

 和斗子にも消息をやり取りし、時には家を訪問しあう、女友達のような存在はいた。

 彼女たちの大半は宮仕えの経験もない箱入り娘から主婦に転じた中流貴族で、話す事といえば夫への不満か子育ての愚痴ばかり。

 毒のない悪口は聞いていてそれなりに面白くはあったが、顔を合わせるたびにそれでは、流石の和斗子も飽きてしまう。

 たまに鋭い意見でもって和斗子を面白がらせる人には過去に出仕経験のある場合が多く、もっと面白いのは女友達が散々にこき下ろす夫達と言葉を交わした時だったりする。

 男兄弟で育った為か、和斗子は同性より異性との方が話の調子や意見が合うことが多かった。

 染物の出来映えよりも和斗子には語らいたい事柄が沢山あった。

「白氏文集」の解釈や「宇津保物語」の登場人物の優劣について心ゆくまで意見を闘わせてみたい。そういう「腹の足しにもならない」議論に乗ってくるのは大抵男なのだ。

 上とは、そんなところでも価値観の一致をみた。

 漢詩人として名を馳せた高内侍から漢籍の手ほどきを受けた上は、年若いのに驚くほど博識で、その知識は古い史書から流行りの物語まで幅広い。

 更に頭の回転が早く舌鋒も鋭いので、並の人間では太刀打ちできなかった。

 和斗子も十も年下の才媛にやり込められてばかりだが、上の人柄からか不思議と憎めないのだった。




 半日がかりの旅程をその三分の二の速さで戻る。

 かなり牛車を急がせて多少の悪路も構わず突き進んだ。

 いくら夏は昼が長いとはいえ限度がある。どうにか明るい内に逢坂の関を越えてしまいたかったが、一行が差し掛かる頃には既に空は暮れなずんでいた。

 川の浅瀬を渡る頃、中天に月がかかった。

 月影が岸辺の石を洗う漣や夜風の渡る水面を皓く輝かせる。

 車輪の回転にあわせて水飛沫が玻璃玉のように砕け散る。

 まぁ奇麗……

 日が落ちてから車を出した事など滅多にないもので、窓から見た光景は強く和斗子の心を捉えた。





 賀茂川を越えて市中に着いた頃にはすっかり夜も更けていた。

 旅疲れで和斗子はうっかりすると眠ってしまいそうだが、牛車は二条の邸第には向かわず、京を南に下って六条辺りへ来た。

 京も栄えているのは左京の一角ばかりで五条を過ぎた辺りから風景は寂れてくる。大きな邸宅は疎らで廃屋や空き地がちらほら目につく。

 もっともそれらも今は月光の魔法にかかっているのか、銀の瓦か玉砂利を敷いたかのように和斗子の目に映った。

 牛車は万里小路の荒れ屋で止まった。築地の一部が崩れかけ、夏草の生い茂る庭からはうるさいほどの虫の声がした。

 母屋から仄かな明かりが見てとれる。

 近づくと家屋は手入れは杜撰ながら廃屋と呼ぶほどもなく、柱や欄干の手触りから存外新しい建築の気がした。

 掛金のかかっていない妻戸から身を滑り込ませると、粗末な褥に小柄な影が横たわっていた。

「! 宝珠丸様!!」

 血相を変えて和斗子は駆け寄った。

 瞑目していた宝珠丸が、蝶の翅のように睫毛を開いた。

「……和斗子?」

「そうです。あなたの一番弟子が参りましたよ。お気を確かに宝珠丸様っ。何処かお怪我でも?」

 あれほど危険な現場に単身乗り込んでいくのだ。いつか取り返しのつかない重傷を負うのではと不安だったのだ。

「……大事ない。今は少し落ち着いた。わたしも少々不覚をとった」

「ですが、」

「そう喚くな。おまえもわかるだろう……月役だ」

「え」

 月役……月の障り……女なら誰しも身に降りかかる生理現象だが、少年にしか見えない童水干の宝珠丸の口から聞かされると奇妙な響きがする。

「出先で急に来てしまってな。幸いこの家の近くだったので休んでおった」

「まさかそれでわたくしを呼び戻しに?」

「違う。月の物が来たのは使いを出した後だ。和斗子の力が必要だったのだが、わたしがこのていたらくではな……」

 苦しげに顔を顰める。

 痛みに歪むその顔すら美しいと謳われた西施とはこのような美貌ではなかったのか。

 うっとり見蕩れていると宝珠丸がまた呻いた。慌てて青白い額に結ぶ汗を懐紙で拭ってやる。

「今は看病の手が必要のようですわね。明朝二条に使いを出しましょう。それまではわたくしだけで辛抱してくださいまし」

「和斗子……」

「はい?」

「ありがとう」

 しおらしい宝珠丸の様子に和斗子の胸は苦しいほどに高鳴った。

 弱ってる上様可愛い! いつもが可愛げがないから尚更……いや普段も可憐だけれど。

 身の丈の三倍……五倍くらい不遜でおられるから、容姿の愛らしさと性格の憎らしさが相殺されてしまうのよねぇ。

 看病に必要な物――角盥や清潔な布などを探しに立ちあがる。目当ての物はすぐ見つかった。

 和斗子が思った通り、邸内は最初の印象ほど荒れてはおらず、生活に必要な調度も最低限備わっていた。

 聞けばこの別邸は上が母から譲り受けたもので、沙輪法師時代の隠れ家のひとつだったそうだ。




「高内侍様にはまだお会いしたことはございませんが、いいご趣味をなさっておいでですわねぇ」

 蝙蝠扇で枕辺の蚊を払いながら和斗子は呟いた。

 月の明るい晩だけに、開け放たれた半蔀から庭の様子が見てとれる。

 丈高く夏草の繁茂した庭先には見事な松の木があり、藤蔓が重たげに絡みつき、池の水面は藻に覆われ、周囲を黒々と木立が取り巻いていた。

 まるで郊外のような野趣に富んだ光景に濃厚な草いきれ。

 いわくありげで、いかにも物語に出てきそうな邸宅だわ。

 和斗子が語ってきかせると、上は初めて可笑しそうに笑った。

「おまえは法会や祭事に目がない派手好きかと思いきや、こんな荒れ野のような庭も好みなんだね」

「変でしょうか? 確かに祭の類も大好きですが、それと同じくらい野山や寂れた場所にも惹かれます」

「いや、おまえの抽斗の多さは面白いよ。わたしもこの家が好きだ。気に入ってくれて嬉しい」

 上の口ぶりはいつになく優しい。月役で弱っているのか普段の切れ者の印象が薄れ、あどけない雰囲気が漂う。

 和斗子が少し目を離した間に上は再び眠りにつき、鈴虫の澄んだ羽音に混じって規則正しい寝息が聞こえてきた。

 年齢よりも幼い寝顔に愛しさがいや増す。

 半蔀から射し込む月明かりに照らされた面は何処かこの世ならざる気配を湛え、和斗子は急に不安になる。

 美しいもの、清らかなもの、儚げなもの――それらは時に魔に魅入られ、幽世へ連れ去られてしまう。

 人や神仏が美しいものを好むように魔物もまた美を求める。だから子どもの幼名には魔除けとしてわざと醜い名をつけたりするのだ。

 あれほど慕わしかった月の光が不吉に思え、上の顔にそっと扇を翳した。





 翌朝、上の乳母の大輔命婦がやって来た。月の障りに効く薬湯と着替えを携えて。

 命婦は身の回りを手際よく整え、薬湯の作り方を和斗子に伝授するとそそくさと引き上げていった。

「少し冷淡すぎやしませんか」

 まだ横になったままの上の傍らで薬湯を溶きながら和斗子は憤慨する。

「命婦には二条の留守を任せてあるからな」

 明るい光のもとでも上の顔色は優れない。いつも桜色に上気した頬も珊瑚の唇も青ざめて紙のようだ。

 上のつらそうな様子に和斗子は胸を痛める。

 和斗子自身、月役は軽い方で月に一度の里下がり中もただただ退屈で仕方がない。身動きとれないほどの腹痛とはどれほどか想像するしかなかった。

 部屋の片隅に置かれた文机を引き寄せ、昨日石山寺から持ち帰った筆記具を拡げる。

 いつしか和斗子は里居の退屈しのぎにと宮中で見聞きした事柄や雑感を書き散らすようになっていた。

 それが更に高じて、宝珠丸が解決した事件やその鮮やかな手腕の数々を形に遺せないかと思うようになった。

 殿方の日記や歴史書のような肩苦しい漢文調では、きっとこの面白さは伝わらない。

 柔らかで軽やかな仮名文がふさわしい。

 だがそんな文章を和斗子もこれまで読んだことがない。試行錯誤を繰り返すうちにいよいよ煮詰まって、気分転換も兼ねての石山詣だったのだ。

「ああ、また……」

 草稿の表も裏も余白がなくなり舌打ちする。持参した紙がこれで尽きてしまった。

 紙は日常的に用いる貴族にとっても貴重品で、書き損じてもすぐ反古にはせず、裏面まで利用するのが普通だった。

 こうした文書の裏面から発覚したのが「北家の儀式書事件」だったのだが、この事件の妙をどうしたら的確に書きあらわせられるのか、今のところ和斗子には見当もつかなかった。




「和斗子」

 気がつくと背後に上が立っていた。

「上様、起きて大丈夫なのですか」

「ああ。だいぶ気分がいい。おまえの薬湯が効いたようだ」

 いつの間にか日が傾き、庭先からは寒蝉の鳴く声が聞こえていた。

「出かけるので支度を手伝え」

「いいのですか?」

 驚いて聞き返す。

「本来なら昨日までに片づけるべき案件だったのだ。おまえも参れ」

「どちらに行かれるので?」

「六条河原院」

 あっさりした上の回答に和斗子は猛然と首を振った。

「嫌でございます! わたくし言いましたよねっ!? そういう場所は苦手だと!!」

 河原院といえば都人なら誰でも知っている有名な化物屋敷である。肝試しをすれば十中八九怪異に遭遇するとの評判だ。

 宝珠丸に同行した結果怪異に遭遇するのは不可抗力として、どうしてわざわざ出ると噂の拠点に赴かなければならないのか。

「和斗子は本当に臆病者だね。おまえ、清涼殿の荒海障子も怖がっていたね、確か」

「なんとでも仰ってください。わたくしはそれでも参りませんから」

 開き直って和斗子はふんぞり返る。

「そうか。ならば仕方ない」

 和斗子はほっと胸を撫でおろす。

「河原院へはわたしひとりで行く」

 和斗子の心臓は再び跳ねあがる。

 いくら宝珠丸が優れた陰陽法師とはいえ、ついさっきまで寝込んでいたのだ。万が一、和斗子の目の届かない所で倒れでもしたら……

 昨晩の横たわる姿を目にした時の胸の塞がるような思い。もう二度とあんな上を見たくない。

 しばしの逡巡のすえ、和斗子は腹を決めた。

「わかりました。わたくしもお供いたしましょう」

「おまえならそう言うと思ったよ」 

 にっこり上は微笑んだ。





 またもや巧妙に丸め込まれた気もするが、乗りかかった船だ。和斗子はいつもの僧形に改め、水干姿の上に続いて荒れ屋を出た。

 宝珠丸と常陸坊和斗尊の出動だった。

 黄昏の薄暮が辺りを覆い、空ばかりが赤銅色に輝いて見える。

「明日も晴れにございますね」

 やれやれと和斗子は溜息をつく。こう連日暑くては適わない。

 前を歩く宝珠丸はいつもと変わりない様子に見えた。

 六条坊門万里小路から河原院まではほんの目と鼻の先ほどの距離だ。

 往年の河原院といえば音に聞こえた大豪邸で、敷地だけで優に四町を越える。その広大な屋敷も今は荒れ果てて、かつての庭は樹木に覆われて、梟や貉が棲みつくほどだった。

「宝珠丸様ぁ、本当にここで一晩過ごされるおつもりで?」

 階に並んで腰をおろし、震える声で和斗子は訊ねた。濡れ縁は簀子が腐り落ち、危なくて上がれなかったのだ。

「うん。もしかしたらもっと早く済むかもしれないが」

「それはいつにございます?」

「丑の刻」

「ヒイッ」

「まぁ落ち着け。ここだって万里小路の隠れ家と大差ないだろう?」

「ものには限度がございます。わたくしは閑静な佗住いは趣きがあって好きですが、こんなおどろおどろしい廃墟は嫌いです」

 和斗子は手にした数珠を揉みしだき経を唱えた。

「それも今は止めてくれ」

「化物屋敷の中なんですよ? せめてこれくらいしないと」

「化けて出てきてもらいたいんだよ」

 困ったように宝珠丸は言った。




 どれほどの時が過ぎただろうか。日が沈み、まろやかな月が中天に差し掛かる頃、ふいにそれは現れた。

 風もないのに急に蔀戸が音を立てて閉まった。

 ついで家鳴りが始まり、礫が屋根を叩く音、部屋を駆け回る無数の足音に続き、不気味な哄笑が辺りに響き渡った。

「さぁ余興が始まったぞ」

「宝珠丸様」

 無礼を承知で宝珠丸にしがみつく。

「臆するな和斗尊。いや存分に怖がれ」

「どういう意味です?」

 二人の応酬の間も怪音は止むことなく続いた。

「……来た」

 宝珠丸の見据える闇を和斗子も振り向いた。

 初めそれは目の錯覚に思えた。

 暗闇で翻る布ような立ち昇る陽炎のような曖昧な影。灯した直後の火影のように定まらなかった像が徐々に濃くなり、やがて凝って青白い男の姿を成した。

 で、出た~~!!

 本当は絶叫したいのに喉が引き攣れて声が出ない。

 和斗子にできるのは宝珠丸の袖を引く手に力を込めることくらいだ。

 姿を現した幽鬼に向かって宝珠丸は涼やかに言った。

「お待ち申し上げておりました。河原左大臣」

 はっとして和斗子は幽鬼の様子を仔細に眺めた。

 夜陰に朧げに浮びあがった装束はいくらか古めかしく、唐土の強い影響が見受けられた。

 この方が河原左大臣……

 かつての河原院の主人。賜姓源氏の元親王。贅を尽くした豪邸でこの世の春を謳歌しながら、ついに帝位に登ることは叶わなかった皇子。

 そう思うと佇まいや面差しから気品が感じられるのだから和斗子も現金である。

 大臣の霊は怨めしいというよりは途方に暮れたような印象を受けた。

「行こう、和斗尊」

 宝珠丸が立ち上がり、あるはずのない踵を返した霊の後を追う。

 大臣の霊は地を滑るように進むのに少しも裾が乱れない。後姿を透かして月光を葉末に受けた下生えが見えるのに踏み分ける沓音はしないのだった。

 建物に沿って幾度か角を曲がった先でふいに大臣の姿が掻き消えた。

「なんだったのでしょう……?」

「実はわたしが此処へ来たのは大臣に呼ばれたからだ」

「何と!?」

「正しくは夢枕に立たれたのだが……」




 宝珠丸――上は、夢の中で殿上の間に控えていた。上の見知った内裏とは少し様子が異なるが、この時は気にならなかった。

 そこで上座に座った先程の男から信夫摺りの衣と高坏に盛られた粗塩を賜与されたのだった。

 衣を肩に掛け、拝舞の礼を取ろうとしたところで、困惑したような何か言いたげな表情の大臣と目が合った。

 そこで夢から覚め、朝食を摂りつつ自ら夢解きをし、河原院へ出向いたのだった。




「その夢が何故、河原左大臣と繋がるのですか?」

 首を傾げた和斗子に宝珠丸は呆れ返った。

「何故って、火を見るより明らかじゃないか。すべての物象が左大臣を示している」

 まだ納得しかねる和斗子に噛んで含めるようにして言う。

「夢で渡された信夫摺り……これから導き出されるのは大臣の有名なあの歌だろう?」

「あっ……」


 陸奥のしのぶもぢずり誰ゆゑに乱れむと思ふわれならなくに


「更に粗塩は、大臣がこの河原院に造らせた陸奥の塩釜を喚起する。これで河原左大臣に思い当たらなければ王朝人失格だぞ、和斗尊」

「わ、わたくしも歌じたいは存じておりますっ。ただ咄嗟に思い出せなかっただけで……」

 しどろもどろの言い訳。

「和斗尊。人の頭の中というのは塗籠と同じだ」

「塗籠?」

「そう。塗籠の中が雑然としていては、仕舞った物がすんなり取り出せず難儀する」

 宝珠丸の言わんとすることがまだ和斗子には呑み込めない。

「だから厨子棚にきちんと寄り分けて仕舞い、見出しをつける事で捜し物をみつけやすくする。さしづめ今の和斗子は、陸奥の塩釜も曇った鏡や季節外れの綿入と一緒くたに籠に突っ込んだまま放置といったところか」

「そこまで酷くはございません!」

 憤慨する和斗子に宝珠丸が指を立てて合図する。

 よくよく耳を澄ますとかまびすしい叢の虫の音に混じってかすかな呻き声がする。大臣の姿が消えた辺りからだ。

「オン・センダラ・ハラバヤ・ソワカ」

 宝珠丸が懐から数珠を取り出し真言を唱えると、周囲一尺ほどを照らす淡い光が珠玉に宿った。

 数珠を翳して床下の暗がりを覗き込むと、果たしてそこに人が倒れていた。

「まさか河原左大臣様!?」

「馬鹿。あの方が何年前に鬼籍に入られたと思っている。それによく見てごらん。先程の大臣の亡霊とは似ても似つかぬご面相だ」

 人の気配に気づいたのか男が掠れた声を絞り出した。

「助けてくれ……命だけはどうか……盗んだ物は、そっくり返すから……」

 二人は顔を見合わせた。

「どうやらわたしより検非違使の出番のようだな」

「……ですわね」




 まだ夜も明けきらぬ刻限に叩き起され、小野宮殿は機嫌が悪かった。

 本来であれば非常識な来訪者は一喝して帰してしまいたいのだが、中宮からの使者とあっては無下に扱えない。

 しかも用向きは最近市中を荒らし回ってる盗人の居場所の申告である。

 検非違使別当の立場上、これは捨てて置けない。

 ただちに人員を手配し六条河原院へ向かわせると、果たして崩れかけた屋敷の床下に足を折って倒れ伏した男がいた。

 取り調べによると、男は盗品を隠す目的で河原院に忍び込んだらしい。

 長らく使われていない廃墟とはいえ、多少の雨風は凌げるし、折しも季節は夏。屋外で寝ても快適なほどだ。

 荷物を隠し終えた盗人は、その晩は河原院に寝泊りすることにしたのだが……





「その後は、わたしたちと同じさ。散々大臣の霊に脅され、逃げ出そうとした男は腐った床板を踏み抜いて転落。運悪く骨が折れて、屋敷から出たくても出られなくなったというわけだ」

 銀の器に盛った削り氷を匙で掬いながら上は話し続ける。

「河原左大臣からすれば迷惑な話だ。追い出したい相手が逆に屋敷に居続ける羽目になったのだから」

 宮中の夏の醍醐味、氷室から切り出した氷を雪のように鋺に盛り、蜜をかけた削り氷を和斗子も相伴に預かる。

「しかし大臣の霊はどうして手をこまねいていたのでしょうか。上様の夢枕に立つなんて遠回りをしなくても、盗人を屋敷の外に蹴り出してしまえば済む話ではありませんか」

「わかってないな、和斗子は」

 さくっと音を立てて氷を掬いとる。

「おまえも見ただろう。大臣の魂魄が、もうこの世の物象には干渉できなくなっていたのを」

 地を踏みしだくことのない足。風にそよがぬ袖。

「ですがあんなに家鳴りが……」

「あれは屋敷内だからできたこと。河原院を一歩出たら大臣は路上の小石ひとつ動かせないよ。地縛霊とはそういうものだ」

 器の表面に雫が次々と玉を結び、陽光を受けて輝く。

「……なんだかお気の毒ですわね。生前は栄華を極めた方でらしたのに」

 今はただ朽ち果てるのを待つばかりの廃屋に囚われた霊魂。

「そっとしておいて欲しいのだろうよ。今生で叶わなかった夢を追想するためだけに残っておられる」

 臣籍に降りながら帝位につく野望を諦めなかった元皇子。

「……城夏にして草木深し」

 和斗子は呟いて溶けかけた氷を口に含む。甘みと冷たさが舌の上でほどけて、この世の極楽だ。

「気の利いた事を言うね」

 上が微笑む。杜甫の「春望」の季節を春から夏に置き換えたのだ。

「わたくしも塗籠を少々片づけましたから」

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