職曹司の鬼



 五月雨が紗のように景色を覆い、鮮やかな藤の紫も冴えた柳の緑も初夏の色彩は霧雨の彼方に烟って見える。

 軒先からは絶え間なく雫が滴り落ち、まるで見えない糸で貫いた白玉のようだ。

 内裏にも世間と等しく雨が降るのだわ……

 庇の間に座って和斗子はしみじみ感慨に耽っていた。

 登華殿の御帳台の前には唐獅子と狛犬の石像が鎮座し、貴顕の御座所であることを示している。

 だが当の女主人は母屋に不在で、和斗子と向かい合って碁を打っている。

 緋袴に五つ衣を羽織った上はどこからどう見ても可憐な姫君だ。

 華奢な体は衣装に埋もれてしまいそうなほどで、纏っているのが冴えない鈍色の喪服であるのが悔やまれた。

 今上帝の父君の喪に服しているのだ。

 和斗子が宝珠丸に初めて同行した生霊事件から間もなく、長く病床にあった院はとうとう崩御された。

 二月に面通しを終えた和斗子の参内が遅れたのも喪中を慮ってのことだ。

 だがその間も和斗子は暇を託っていたわけではなかった。

 上こと宝珠丸のお忍びに付き従い、市中のあちこちを駆け巡っていたのだ。

 変装をしてわかったことだが、女にしては上背のある和斗子は頭巾を被ると尼ではなく僧侶に間違われる場合が多かった。表を出歩くのに男と思わせておく方が何かと便利なので、あえて誤りを正したりはしなかったが。

 もっとも上が男装して市井に繰り出す事は滅多になく、大抵は依頼人から事件のあらましを聞いただけで謎を解決してしまう場合がほとんどだ。

「諮問陰陽師の出番となる事件はそれほど多くないのだよ」

 いつだったか上は組紐を結んだ小匣を見せてくれた。




「これは?」

「今迄調伏した悪鬼妖魔の類の魄さ」

 蓋を取ると中から七色の光が溢れた。

 琥珀、水晶、柘榴、翡翠、瑠璃……色とりどりの宝玉がぎっしり詰まっていた。

 どれも小指の先ほどの大きさで装飾に用いるには小さすぎたが、それでも溜息が出るほど美しい。

「鬼の本質がこれほど美しいとは皮肉ですわね」

「ふふっ。森羅万象、遍くものの魂魄は皆このように美しいのかもしれないよ」

 細い指で一顆を摘みあげながら上は悪戯っぽい微笑を浮かべたものだ。




「上様は識神はお使いにならないのですか」

 碁石を置きながら和斗子はふと思いついて言った。

 これまでも宝珠丸自身が不思議な術を使う場面は幾度も目撃したが、識神を操るところを見た覚えがない。

 紙や木石を識神に変えて使役するというのが和斗子の思い描く陰陽師像なのだが。

「陰陽寮の安氏などは識神に蔀戸の開け閉めをさせるそうですわよ」

「和斗子」

 上がぴしりと石を打つ。

「どうして一言指図すれば従う生身の人がいるのに、わざわざ手間と霊力を割いてまで式にやらせる必要がある?」

 そうだった。目の前の御仁は陰陽法師である前に人臣の頂点に立つ関白家の姫君であり、帝の中宮でもあるのだ――何百あるいは何千の人員を傅かせ顎で使うのが当然の雲の上の身分なのだ。

 彼女にとっては紙を切り抜いて人形を作るより人に命じる方がよほど手軽なのだ。

 上があまりに気さくに接するので忘れがちだが、生まれ育った身分の差をこのような時に痛感する。

「愚問でございました」

「式を操るというのは、手にした餅を別の誰かに分け与えるようなもの」

 ふいに上ではない甲高い声がして、そちらを振り向くと、御帳台の前に置かれたはずの唐獅子が碁盤を覗き込んでいた。

「餅を割って分け与えれば、自分の取り分は減るだろう? だから式を打つ時機は慎重に見極めないといけないのさ」

 反対側から今度は狛犬が言った。

「石像が……喋った……」

 和斗子が呆気に取られているとまた唐獅子が口を開いた。

「おまえの石ここでいいの? 後三目で負けるよ?」

「唐、言っちゃ駄目だよ」

 と今度は狛犬。

「おまえの思う識神とはこういう物かな?」

 愉快そうに上が微笑む。

「さぁ唐、狛。あんまり少納言を揶揄うんじゃないよ。魄をあげようか」

「やったぁ」

「やったぁ」

 二匹は尾を振りながら上に駆け寄る。その仕草は生きた犬と何ら変わらない。

 上が例の玉手匣を取り出し魄を宙に放ると、二匹の石の獣が器用に口で受け取る。

「甘露」

「甘露」

 二匹は魄を噛み砕くと今度は猫のようにごろごろと喉を鳴らした。

「上様もお人が悪い。こうしてすぐ側で識神を使っておられたんですね」

「気が向いた時だけだよ。唐が言ったように、術士は自分の霊力を割いて紙だの石だのに仮初の命を吹き込むのだ」

「餅の例えですわね」

「あれは言い得て妙だった」

 上が唐獅子の頭を撫でると狛犬も頭を擦り寄せてくる。

「霊力は無尽蔵にあるわけではないから式を打つのはやはり骨が折れる。だが手にした餅と同じく霊力は術士自体ではないのだ。唐と狛はわたしの式だが、彼らには彼らの意思がある」

 和斗子がまだよく理解できずにいるのを表情から察したのだろう上は更に例え話をした。

「霊力は紙に書きつけた文字にも似ている。筆を取って書き記すのは労力を要する」

 和斗子がうんうんと頷く両脇で石の獣たちも神妙に聞き耳をたてている。

「文字は確かに自分の手になる物で、この書付けは誰のものかと問われたら、自分のだと答えるだろう。だが決して自分自身ではない」

「なるほど。ようやくわかってまいりました」

「それが消息だった場合には自分の手を離れた宛先人の所有になる。それでも書いたのが自分であることには変わりないし、文章を捻り出すにあたって呻吟した事実も消えはしないのだ」

「よくわかりました。でもそうなると、わたくしたちが日頃やりとりする文もある種の識神のようなものですわねぇ」

 上の黒い瞳が叡智に輝いた。

「少納言は鈍いようでいてたまさか鋭いことを言うね」

 少納言とは和斗子の候名だ。出仕にあたって女房たちは本名ではなく近親者の役職や任国などに因んだ通り名で呼ばれる。

「……お褒めの言葉と受け取っておきます」

 唐獅子の指摘通り、三手で勝ち目がないとわかって和斗子は投了した。

 その間にも雨は間断なく降り続いている。

 和斗子は五月が嫌いではないがこのところ雨ばかりで少々退屈していた。

 宝珠丸に従って昼日中の市街を闊歩する愉しみを覚えてしまったのも原因だろう。以前までどうやって長雨の季節をやり過ごしていたか思い出せないほどだ。

「中宮様、主上より使いが参っております」

 取次の女房が現れて和斗子は肝を冷やした。動く石像を見られたらどう対処したものか。

 唐獅子たちを一瞥すると彼らは元の定位置にいつもと変わらず行儀よく座っていた。

「お通ししなさい」

 上の声は鈴を振るように愛らしい。

 和斗子と二人で話す時は声色も口調も少年のようにりりしいが、第三者のいる場面では途端になよやかで可憐な姫君に転身する。

 和斗子はそれをひそかに「猫を被る」と呼んでいる。




 御簾越しに対面した内裏女房に和斗子は思わず声をあげそうになった。

 女房装束に身を包み入念に化粧を施しているが、そこにいるのは紛れもなく生霊事件の被害者である粟田殿の妻妾だった。

 あの時は恐怖に取り乱した憐れな中年女にしか見えなかったが、今は見違えるほど貫禄ある佇まいだ。

「主上より御文を預かって参りました」

「ご苦労。返事は追って寄越すから、あなたは下がりなさい。藤三位」

 藤三位の手から和斗子が結び文を受け取る。今上帝の御手だと思うと緊張が走る。

 恭しく頭を下げると藤三位は供を引き連れ去っていった。

「……驚いた。いずれかの上臈女房とは思っていたけど、まさか内裏女房だなんて」

「藤三位は主上の乳母だった方だよ」

 折り畳まれた料紙を丁寧に拡げながら上が付け加えた。

「わたくしまだ主上の玉顔を拝したことがありませんが、どのような御方なのでしょう」

 主人の夫君に会ったこともないのも妙な話だが、帝と后妃といえど普段は広い内裏の別々の殿舎で暮らしている。帝のお渡り、またはお召しがあって初めて夫婦は会合するのだ。

「……主上は、お寂しい方なのだよ」

 文面に目を落としたまま上は言った。

 今上帝は御年十二歳の少年だ。十五にして中宮の地位にある上にしても若いが、それよりも更に幼い。帝位についた時はわずか七歳だった。無論これは政治的画策あっての事だ。

 娘を後宮に入れた上の祖父・法興院大臣が幼帝の補佐――摂政――として権力を振るわんが為に裏で動いた結果の史上最年少での登極だった。

 大臣の死後、権力を引き継ぐかたちで嫡男の現関白が娘を入内させている。つまり帝と上は従姉弟どうしでもあるのだ。

 大人たちの思惑に翻弄され続けた帝は、父君と引き離されて母の生家東三条邸で育った。上も東三条の屋敷で東宮時代の帝と出逢っている。

「おとなしくて体の弱い御子だった。父君とも離れて暮らして――わたしの祖父が悪いのだが――寂しがっておいでなのに、周囲の大人には決して漏らさず、時折隠れて泣かれて…… 」

 過去を懐かしむように上が遠くを見上げた。

「この方をお守りしよう、誰よりも側近くで。わたしが不思議な力を持って生まれてきたのはこの方の為だったのだ――そう自然に思えたのだよ」

 そう語る上の表情がいつになく慈愛を湛えて、見ている和斗子までが胸を締めつけらるようだ。

 上は文を畳み終えると悪戯っぽい笑顔になった。

「喜べ少納言。今夜にも主上にお目通りかなうぞ」

「へ?」

「主上のお渡りだ」





 間近で見る今上帝は線の細い白皙の貴公子で、上と並ぶと雛人形のように愛らしかった。

 在五中将業平に背負われ芥河を渡る折、野原一面の夜露を眺め「あれはなぁに?」と訊ねた二条后の裔とその在中の子孫の姫が妹背として再び巡り会う……

 まるで物語のようだと和斗子は溜息をつく。

 新しく手に入れた巻物を肩を寄せあって眺めている様子など見ていて微笑ましい。

 今宵の登華殿はいつも以上にきらびやかだ。

 帝の引き連れてきた女房や楽士が居並び、流麗な楽が奏される。釣り灯籠や灯台には惜しげもなく火が灯され、昼よりも明るい。

 参内して和斗子が驚いた事のひとつに宮中の夜の明るさがある。

 庭先には松明が母屋には大殿油の火が明々と闇を払い、その光の中で人々は夜通し管弦に興じたり物語りして有明を迎えるのだった。




 子の刻を回っても雨は降り止まなかった。

 夜が深まるにつれ一人また一人と退出し、それに伴い灯も徐々に減り、後には和斗子を含めた女房数人が残るのみとなった。

 それまで仲睦まじく歓談していた帝と上がふと意味ありげに目配せする。どちらともなく立ち上がり、唐獅子と狛犬の守る御帳台へと向かう。

 あっ……

 さらさらと衣擦れの音だけ残して上の袿の裾が御帳台に吸い込まれるのを見て遅まきながら和斗子は事態を察した。

 いつまでもこの場に居残っているのは無調法だ。退出する先輩女房に促されて和斗子も庇の間の局に戻った。

 褥と文机と厨子を置けば満杯の数畳ほどの空間が内裏で和斗子に与えられた局だった。

 壁や障子といった隔てもなく、几帳で仕切っただけの狭い場所で寝起きするのもようやく慣れた。最初の頃は両隣の物音が気になってひどく緊張したものだ。

 間断なく降りしきる細かな雨音を聴きながら和斗子は何回目かの寝返りを打った。

 母屋の様子が気になって眠れない。

 夫婦とは言ったものの、まだほんの十代の少年少女である。寝所での睦み合いよりも双六遊びでもしている方が余程しっくりくる。

 特に普段の少年のような上を知るだけに尚更性的な想像を抱きにくく、和斗子を落ち着かない気持ちにさせた。

 褥で愛を囁き合う二人? どうも違うわ……えーと、あたしが則光と初めて寝た時はどんなだったっけ?

 昼間聞いた上の昔語りを思い返す。

 華やかだが広く冷たい御所。

 大人ばかりの玉の台で、身を寄せ合う比翼の雛鳥を思い浮かべる。

 互いの翼で庇い合って風雨を凌ぐ二羽の小鳥。

 まだ膨らみかけの胸に帝のあどけない寝顔を抱いて眠る上。

 姉弟のように寄り添う少女と少年。

 比翼の雛鳥、連理の若枝……

 そんな益体もない事を考えているうちに眠りについた。





 翌朝、和斗子が上の御前に参った時には帝は清涼殿へ朝食を摂りに帰った後だった。

 寂しいような安堵するような不可思議な気持ちを抱えたまま、上の身支度を手伝う。

 泔をつけて丁寧に上の髪を梳る瞬間が和斗子は何より好きだった。

 豊かで真っ直ぐな黒髪を黄楊の櫛がするすると滑る感触が心地いい。

 和斗子自身の髪の毛はというと、この湿気でぼさぼさに膨らんで更に赤味が増し、身の回りの世話をさせている女童も櫛を通すのに苦労する始末だった。

 長寿だった父に似て和斗子も体は頑健だが、頭髪に恵まれないところまでも似てしまったらしい。父は若い頃から赤毛で髪が薄く、和斗子が物心ついた頃にはほとんど禿げあがっていた。

 それに比べて上の髪はずっしりと重く、黒い正絹のように艶やかだ。

「少納言」

「はい、上様」

「主上の母君の事は聞き知っているな?」

「東三条院様ですわね」

 帝の生母――上の叔母でもある――は院の崩御に際し落飾し、今は女院となっている。

「今は職御曹司にお住いだが、病に伏せっておいでだそうだ」

「まぁ……」

 これは和斗子も初耳だった。公には伏せられた情報なのだろう。

 とすれば、上は昨晩帝から内々に打ち明けられたのかもしれない。

「大内裏から里への退出が伸びているのも病悩が原因らしい」

 女院の里邸は院号の通り東三条にある。皇族は移動に手輿を用いるが、その輿に乗る事もできない程体調が優れないと推測される。

「ついては主上直々に女院を見舞ってほしいと頼まれた」

 上にとっても姑であり叔母でもある女人だ。身内として見舞うのはごく自然な行為だが、上の口調にはどうも含むものがあった。

「どうやら主上は母君の病悩の原因は厭魅にあるのでは、と疑っておいでだ」

 和斗子は唾を呑む。

「それはつまり、」

「ああ。宝珠丸と和斗尊の出番だ」




 職御曹司は中宮職の庁舎で、大内裏の中でも比較的内裏に近く利便性がいいので、后妃の一時的な居所として利用される場合もあった。

 ただあくまで役所であって、居住を前提とした建築ではないため通気性は悪く、長い逗留には不向きである。

 このところの長雨の影響か母屋には湿気が澱のように沈んでおり、とても病人の住む所ではない、というのが和斗子の第一印象だった。

 非公式の来訪なので上は少数の供しか連れておらず、和斗子の他は宰相の君、弁の御許の候名で仕える先輩女房だけだ。

 出迎えたのは上の叔父で女院の弟でもある中宮大夫の土御門殿だった。

「これはこれは中宮様、よくぞおいでくださいました。院もお喜びになるでしょう」

 土御門殿は和斗子と生まれ年は同じと聞いていたが、年齢よりも若々しく精悍な印象を受けた。

 にこやかにしていても華やぎよりも凄味を感じさせる偉丈夫で、中宮職より近衛府が似つかわしい。だがそこは育ちのいい上流の公達で、粗暴な印象はなく立ち振る舞いにも品がある。

 和斗子の思い描く中性的な貴公子像とは少し異なるが、まずまずの好印象だ。

 案内を済ませた土御門殿が退出すると和斗子は小声で隣の宰相の君に囁いた。

「土御門殿にはお初にお目にかかったけどなかなか素敵な方ね」

「あら、少納言はああいう方がお好み?」

「そういう訳ではないけれど」

「少納言はまだ参内して日が浅いから目が肥えていないのよ。わたくしは頭中将が一番お綺麗だと思うわ」

 と弁の御許。

「ちょっとそれ初耳よ」

 三人が色めきたったところで上が唇に指を当てる。訪問の目的を思い出し、気まずく黙り込む。

 それにしても職御曹司は静かだった。

 病人に配慮しての事だろうが周囲に侍る女房たちも無口でひとつひとつの物音がやけに辺りに響いた。

 登華殿は女房たちのお喋りや笑い声が絶えずいつも賑やかなので、宮中の直廬は何処も同じと思っていたが、主人の気風によって随分異なるらしい。

 和斗子たちは廂の間で随分長く待たされた。

 土御門殿が言付けを命じた女房は御簾の奥に引っ込んだまま音沙汰もない。退屈で軒を打つ雨音がいやに耳についた。

 今をときめく中宮の訪問を受けながら随分と疎略な扱いをするものだと和斗子は憤りを覚えた。

 だが相手は国母、皇太后なのだ。帝とのあいだにまだ御子もいない中宮とは別格の地位にある皇族だ。

 女院側からしてみれば、目下の若輩をいくらか待たせたところで痛くも痒くもないのだろう。

 ようやく取次の女房が現れ、上だけが寝所に呼ばれた。

 ほっとしたのも束の間、和斗子たちは引き続き庇の間での待機が続くのだった。

 考えてみれば一介の女房が女院様の枕辺に伺候できるはずもないわね。

「ねぇねぇ、ちょっとご覧なさいよ」

 急に宰相の君が弾んだ声をあげた。

「何? あまり大声を出すと品位を疑われるわよ」

 弁の御許が窘めるように振り返りあっと短く叫んだ。

「少納言、雨が上がってるわ。日も差してる!」

 三人ははしゃいで半蔀から外を眺めた。

 久方ぶりの陽の光は眩いほどだった。

 長雨で洗い清められた大気は澄み渡り、北の山嶺もくっきり青々と見える。

 前栽に降りた数千数万という雫が陽光にきらきらと輝いた。

「綺麗ね。蓬莱の枝の実ってこんなかしら?」

「あら『露とこたへて消えなましものを』よ」

 宰相の君と弁の御許のやりとりを和斗子は興味深く聞いていた。

 上の集めた女房たちは教養があり頭の回転も早い。とっさに引き歌や故事を使っての知的応酬は傍から見ても面白い。

 弁の御許の引き歌は、かの有名な在中の歌だ。



 二条后を屋敷から攫い出したものの、逃避行を悪天候に阻まれてしまう。

 仕方なく荒れ屋に后を匿い、在中は追手を警戒して戸口に不寝番に立った。

 ところが荒れ屋は鬼の棲み家で、守るはずだった姫を男はみすみす鼻先で取って喰われてしまう。

 一人残された在中が涙ながらに詠んだのが


  白玉かなにぞと人の問ひし時露とこたへて消えなましものを


 の歌なのだ。

 物語の中でも一際美しく悲しい歌として知られている。



 庇の間に戻ってきた上はいつになく思案げな表情をしていた。

「女院のお加減がそれほど……?」

 宰相の君がおずおずと訊ねる。

 上ははっと我に返ったように顔をあげた。

「いいえ。思ったよりもお元気で。ただ……」

 再び上は柳眉を曇らせる。

「いくつか気になる事があるので、わたくしは今晩こちらに泊まろうと思っているの」

「ええーーっ、この職御曹司にですか?」

 弁の御許が不満の声をあげたのも無理はない。和斗子もこの建物の陰鬱な空気にすっかり嫌気がさしていた。湿気が篭ってじめじめとしているからか虫が多く、上を待つ間、床を大きな蜈蚣が這うのも目撃していた。

「それなら弁の御許と宰相の君は登華殿にお戻りなさい。行ってわたくしが今晩帰らない旨を皆に伝えて。あと、くれぐれもわたくしの留守だからといって羽目をはずさないよう釘も刺しておくのよ」

 主人直々に許諾を得た二人はそそくさと職御曹司を後にした。本音を言えば和斗子も一緒に帰ってしまいたかった。

 だが上の目的が見舞いに託けた厭魅の調査にあることはわかっているので、弟子の和斗尊としてはここで退くわけにもいかないのだった。





 再び雨が降り出した。

 これまでの霧か霞のような小雨とは違い、風を伴った強い雨礫が軒を打った。

 夜の闇と相俟って風雨の音は恐ろしげに響いた。

 庇の間に設けられた寝所に二人は横になっている。主従の範は越えてはならないと間に几帳を立ててはいるが、急拵えの部屋は和斗子の局と大差なかった。

「叔父上は父とはあまり似ていないだろう」

 関白は故法興院大臣の長男、土御門殿は三男である。

 和斗子は数年前、小白河邸でまだ中将だった頃の関白を見た事があるが、いかにも花鳥風月の似合う柔和な貴公子だった。

「叔父上は亡くなった祖父に一番似ている。父と違って顎が太いだろう。あれは奥歯をよく食いしばるからだ。祖父も若かりし頃、苦汁を舐めてよく歯ぎしりをしていたそうな」

 上の祖父も最初から順風満帆だった訳ではない。兄の堀河殿とは不仲で関白職を巡って相当熾烈な政権争いを演じている。

 和斗子にとっては雲の上の話でしかなかったが、ここでは身内の実話として語られる。自分が歴史という大河の流れに身を浸していると実感する瞬間だ。

「どうしてわたくしにその話を?」

 几帳の向こうで上がふっと息を洩らした。

「別に。少納言は惚れっぽいから、叔父上はおまえの手に負える御仁ではないよと忠告しておこうと思ってな」

「わっわたくしは別に」

 昼間の会話を聞かれていたのだ。

「言ったろう。此処は静かすぎる」

 上はそこで更に声を潜めた。

「静かすぎるとは思わぬか」

「へ? はい、確かに静かですわね。針を落とした音すら響いてしまいそう」

「妙ではないか。夜居の僧侶も鳴弦の武士もいない。仮にも女院の御座所であるのに」

 指摘されると確かに不自然だ。貴顕の病床には加持祈祷の僧侶が仰々しく侍り、もっと騒然としているのが普通である。女院の病悩を秘匿するにしても人払いが徹底している。

「女院のお加減が良くなったとか?」

「それなんだが……院のご病気は……おそらく仮病だ」

「なんと!?」

 ぎょっとして和斗子は起きあがりそうになった。

「枕辺にて直にお会いして確信した。この数日伏せっておいでとのことだが、御顔も御手もつやつやしておられた。あれが病人であるわけがない」

「何故そのような……」

「さて、どこから仕組まれたのやら…… 」

 かすかな衣擦れの音がして、上が立ちあがった。

 几帳の陰から現れた上は単袴に白い汗衫を羽織っており、その表情はすでに宝珠丸のものだった。




 深更、雨脚はますます酷くなり遠く神鳴すら聞こえてきた。単なる暴風雨を越えて最早季節外れの嵐である。

 母屋の中にいても風が蔀戸を揺らす音や濡れ縁を叩く雨音が喧しい。

 鼻を抓まれてもわからない濃い闇の中に二人は佇んでいる。

 和斗子は霊感など持ち合わせていないはずだが、母屋に入った瞬間から悪寒が止まらなくなった。

「……こんな晩であったな」

 宝珠丸の呟きに和斗子はびくりと肩を竦める。

「何がですか?」

「在中が鬼に遭うたのは」

「ああ……」

「妙な話とは思わぬか」

「と言いますと?」

「鬼の話だよ。この話、実は鬼は譬え話で、正体は二条后の兄たちだったとされている。姫を奪い返された在中が、苦し紛れに相手は鬼だと言い繕ったと」

「たしかに、あの物語はそう解釈されていますわね」

 近くで雷鳴が鳴り響いた。

「だとしたら尚更、鬼は在中を喰らわなかった? 喰い殺したいのは后ではなくむしろ憎い男の方であろう――」

 母屋の天井に暗雲が渦巻き、腥い風が吹きはじめた。

 和斗子は歯の根が合わぬほど震えていた。その場に立っているのがやっとだった。

 昏黒の闇の中、見えるはずのない巨大な腕が見え、鋭い牙の覗く巨大な口が見え――

「オン・クロダヤ・ウン・ジャク・ソワカ!」

 稲妻が母屋の中に落ちた。

「宝珠丸ーー!!」

 稲光で照らし出された一瞬、宝珠丸が鬼の手に掴みかかられる姿が見えた。

 迸る電流と風圧に和斗子は柱まで吹き飛ばされた。

 几帳や屏風が薙ぎ倒され、暗闇のあちこちで悲鳴があがる。

 背中を強打し全身が痺れるように痛かったが、それよりも宝珠丸の安否が気がかりで和斗子は起きあがった。

 まさか、そんな……!

「宝珠丸様っ」

 最悪の事態を想像し和斗子は青ざめる。

「オン・ギャロダヤ・ソワカ」

 暗闇から宝珠丸の凛とした声が聞こえ、淡い金色の光が点った。

 光る薄い領布を纏って宝珠丸が佇んでいた。

「……よくぞご無事で……!」

 這い寄ろうとして和斗子はぎくりと動きを止めた。

 華奢な宝珠丸に寄り添うように青黒い巨大な鬼の腕と顔が見えたからだ。

 蓬髪の間から覗く目玉と裂けた口がいかにも恐ろしげだった。鬼の躯は巨きすぎて部屋の中に右腕と顔だけしか入らないらしい。

「恐れることはない。紹介しよう。我がご先祖が芥河の側で遭うた鬼一口とはこれのことよ。まさかぬしが職御曹司に棲んでいたとはな」

 鬼は猫のように喉を鳴らしたが、その音は雷鳴のように轟いた。

「わたしを喰うつもりだったらしいが、もっと食い出のある物をやると言ったら式になってくれたよ」

 宝珠丸はまったく臆することなく鬼の横面を撫でてやっている。

 和斗子は安堵とも脱力ともつかない心地でへたり込んだ。

 そうだった。この方が鬼ごときにやられるわけがない……

 上様なら「あれは何か?」と問う深窓の令息に「夜露だよ」とおしえてさしあげるだろう。

 ようやく手燭を持った女房たちが駆けつけ、ところどころ焦げた御帳台の中で放心している女院をみつけた。

 女院は呆然としながら震える声で言った。

「なんなの……おまえたちは何者なの?」

 怯えた目は鬼を手なずけて平然としている少女に向けられている。

「お元気になられたようで何よりです。叔母上」

 上は莞爾とほほえんだ。





「それでは、上様は何者かに仕組まれたと、そう仰られるのですか?」

 和斗子が石を置く。

「十中八九そうであろうよ」

 盤面を見つめたまま上は答えた。

 久々の五月晴れのもと、主従は庇の間で碁を打っている。

 庭先の樹木は長雨で洗い清められ翡翠色に輝いている。松から垂れ下がる藤の花房は雨露を含んで一層重たげだ。

「あそこではあらゆる魔除けがなされてなかった。鬼に母屋から出ていかれては拙いからだろう」

「何の為に…… 」

「決まっておろう。鬼にわたしを喰わせるためだよ」

 この姫君は不吉な言葉も平気で口にする。

「院がご病気とあらば孝行息子の主上は心配しよう。まして呪詛の可能性を囁かれては。だが表立って陰陽寮に動かれては事が大きくなる。そこで――」

 上が絶妙な位置に石を打った。

「上様に内密に調べてくれるよう頼んだ」

 上は頷く。

「主上の動きまで読んだうえでの謀であろうな……」

「まさか女院様が……?」

「それは無かろう。院はわたしを嫌っておいでだが、首謀者ではあるまい。むしろその気持ちにつけ込まれて利用されたと考えたほうが自然だ」

「嫌ってって……御自分でよく仰られますねぇ」

 半ば呆れ半ば感心して和斗子は言った。

「事実は事実だ。院からすればわたしはたったひとりの愛息を奪った魔縁の類に等しいだろうよ」

「確かに、姑に好かれる嫁は滅多におりませんが」

「まぁよい。こうして新しい式も手に入ったしな」

 上が小匣の蓋を取ると餌を貰おうと唐獅子と狛犬が駆け寄ってきた。

 ついで天井からぬっと青黒い手が伸びてきて、上から差し出された魄を摘んでまた消えた。

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