高階の醜聞

 主家に仕える女房とひとくちに言っても様々で、主人の身の回りの世話をする者、屋敷の管理や家政に携わる者、楽器の演奏や香の調合などの技術で奉仕する者、そして学識と教養でもって主人の講師や話し相手になる者などがいた。

 娘の入内にあたって特に重要視されたのが、後宮の直廬を華やかに彩る後者の女房らだった。



「上様はどちらで験力の修行を積まれたのですか」

 うららかな早春の陽につつまれた二条の邸第。

 庇の間に高麗縁の畳を敷いて、宝珠丸こと上と和斗子は碁を打っていた。

「とくに山籠りなどしなかったが、術の手ほどきなら母から受けた」

 予想外の答えに和斗子の手が止まった。

「母君というと、あの高内侍様?」

 構わず上は石を置く。

「ああ。沙輪法師の名に聞き覚えは?」

「確か一昔前、巷間で評判だった陰陽法師ですわね。それが何か?」

「それが母だ」

 動揺して間違った目に石を置いてしまった。

「なんだ、其処でよいのか?」

「負けました。投了いたします――それよりも沙輪法師のお話ですよ。その、本当に高内侍が?」

「ああ。わたしも直接見知ってるわけではないが、話は本人から聞かされて育った」

 高内侍は二代前の帝――つまり今上帝の父君――の御世に掌侍として出仕している。

 掌侍を含む内侍司の女官は、和斗子のように主家に雇われる女房と違い、内裏に起居しながら帝に仕える職掌だ。長官である尚侍はいつしか形骸化し妃のような扱いを受けていたが、典侍以下の女官たちに主上の手がつくことも皆無ではなかった。

 和斗子が殊に高内侍の名を印象的に覚えているのは、彼女が出仕先の内裏で関白家の御曹司――上の父親――に見初められて玉の輿に乗ったからだ。

「祖父は母が主上の目にとまり、おてつきになることを望んだらしいがな。それより先に父に求婚されてしまったという訳だ」

 可笑しそうに語る。

「母はしばらく法師稼業の現場に父を連れ回ったそうだ。世間知らずの父の戸惑った様子が目に浮かぶではないか」

 和斗子は夢想する。

 水干に身を包んだ娘時代の高内侍が、狩衣姿の貴公子の手を引き、夜の京を駆け抜ける様を。

 月の照らす青い闇に浮かび上がる男とも女ともつかない妖艶な陰陽法師。

 高内侍の結婚は当時の人々の耳目を集めた。

 相手は関白を父に持つ藤原北家の嫡男。

 対する高内侍の生家高階はよくて受領階級の中流貴族。

 とても家格が釣り合うとはいえず、側妻のような扱いを受けると当初思われた。

 だが彼は高内侍を正妻として遇した。

 長男が生まれてからは妻子共々東三条の屋敷に引き取り、生まれてくる子は皆嫡子として扱った。

 今をときめく貴公子との身分違いの恋の成就は、当然中流下流の貴族の娘たちの羨望の的となった。

 和斗子も例外なくこの恋愛結婚に憧れを抱いたし――現実の結婚生活は破綻したものの――今でも高内侍は憧憬の対象だった。

「母の代では叶わなかった娘の入内。わたしは高階の悲願の結実なのだよ」

「高階の? 藤家のでなく?」

 普通娘を後宮に入れ、帝との姻戚関係を足掛かりに栄達を望むのは父親の側だと思うのだが。

 上はふと遠く見晴かすような目つきになった。

「和斗子は在中の物語は知っているね」

 在中――在原業平――色好みの代名詞。数々の女人と浮名を流した貴公子。

 彼の数多の恋を歌とともに記した物語は王朝で知らぬ者のいないほど人口に膾炙していた。和斗子も仮名が読めるようになった子どもの時分から愛読している。

「存じておりますよ」

「その中の伊勢の斎宮との逸話は覚えている?」

「勿論でございます。在五中将の恋物語のなかで二条の后と並ぶ有名な逸話ですもの――あっ」

 和斗子が思い当たって声をあげると上は満足げに微笑んだ。

 京から勅使として伊勢を訪れた在五中将は、あろうことか神に仕える斎宮と恋に落ち、一夜限りの逢瀬に及ぶ。

 たった一度の契りの末、斎宮は身ごもり、生まれた男子は高階家に引き取られたと伝承は伝える。

「高階の御先祖は斎宮を穢し、皇系を乱した事を悔いていた。いつかは斎宮から受け継いた力で帝をお守りし、本来の血筋にお返ししようと、代々の氏長者は考えた」

 高階一族は菅原や大江のような学問の家系だが、その豊富な知識から左道にも通じ、怪しげな呪術を専らにすると、まことしやかに囁かれた。

「上様の御力は、天照大御神にお仕えした清き巫女姫から受け継いだものなんですね…… 」

 加えて美男と名高い業平の血もその身に流れているのだ。

 神さびた血統と伝承は、上の浮世離れした容姿に奇妙な説得力を与えている。

 かつて和斗子にも物語に憧れた夢見がちな少女時代が存在した。

 それこそ在五中将のような色男と恋をしたり、なよ竹のかぐや姫のような絶世の美女になりたいと願ったものだ。

 だが長じるにつれ世の中を知り(業平のような貴公子はやはり絵空事で少なくとも和斗子の身の回りには存在しなかったし)年頃になっても和斗子の髪は相変わらず日に晒したように赤茶けていた。

 せめてあたしにも不思議な力があれば。

 碁盤を挟んで座る美貌も家柄も才覚も兼ね備えた少女を見遣る。

……とはいえ力を使いこなせるとも限らないわね。

「おまえには素質があるよ」

 上に心の内を読まれたかと和斗子は驚いた。

「わたしの力の大半は、神通力ではなく、見聞きした物事から判断し導き出した推理に過ぎない」

「そんな馬鹿な。あんなにすらすらと過去の出来事を言い当てておられたではありませんか。千里眼か神通力でもなければとても、」

 その証拠に一緒にいた和斗子には何が起きているのか皆目わからなかったのだ。

「それはおまえが漫然と見ているだけで観察しないからだ」

 扇を眼前にぬっと突き出す。和斗子から奪ったいつかの檜扇だ。

「たとえばこの扇ひとつからでも数多の事がわかる」

 ぱらりと扇を拡げ見る。

「これは老いた乳母から借り受けた物で、おまえが酔っ払いが大嫌いで、ついでに年の離れた姉兄が五人いることもな」

「どうしてそれを!」

 今度こそ仰天して和斗子は扇を奪い返した。

 檜扇を矯めつ眇めつしてみてもやはり和斗子には何もわからない。

「……上様、やはりわたくしをからかっておいででしょう?」

「扇は男女問わず常に携える物だから、持ち主のひととなりがもっとも反映されるのだよ。他にもおまえが幼くして母と死に別れた事や父方に引き取られてからは甘やかされて育った事やなんかも雄弁に語っている」

 ますます和斗子は開いた口が塞がらない。

「どうすれば、この扇一枚からそんな答えを導き出せるのでしょう」

 上は今度は自分の扇を拡げた。白檀の香りがふわりと舞う。

「まずこの扇は年代物だが使い古されてはいない。作りは上等だが意匠がやや古臭い。この事から、和斗子よりも年配の女人が晴れの日の為に作らせた物で、日頃は大事に仕舞われているとわかる」

 和斗子はうんうんと頷く。

「そんな大事な扇を貸すのだから和斗子とは気心の知れた仲だろう。年の離れた年配の同性……だとしたら普通これは乳母か女親だ」

 和斗子は唸った。

「お話をうかがうと確かに筋が通っておりますね。どうして自分では気がつかなかったのか不思議なくらいです」

「ね? こうして種を明かすと大した事じゃないだろう。だから和斗子にもできると言っている。多少の訓練は必要だが」

「種を明かされても、狐につままれたような気分ですわ。初めて上様にお会いした時も色々言い当てられて大層驚きましたけど」

「いや、実はあの時は少しずるをした」

 上はふと明るい日差しの降りそそぐ宙空を見上げた。

「おまえの側を小さな魂魄がついて回っているのが見えた……おまえがあんまり悲しむので、赤ん坊なりに気がかりなのだろう。まだ成仏できずに此岸と彼岸を彷徨っているのだ」

 虚をつかれて和斗子は言葉を失った。

「もう解放しておやり。執着はおまえも赤ん坊も幸せにしない」

 優しく説き伏せるような口ぶりだ。

「わたくしはどうしたらいいでしょう……」

「もう大丈夫だと言って聞かせておやり」

 和斗子は上の視線の先――光の中を舞う細かな埃しか見えなかったが――を見つめて言った。

「あたしが不甲斐ないばっかりにごめんね。駄目な母を許しておくれ」

 虚空に声が吸い込まれる。

「おまえに随分心配かけたけど、これからはもう大丈夫だから」

 言い終えると空気がふっと軽くなった気がした。

「……逝ったよ」

 和斗子は目尻に滲んだ涙を拭った。

「ありがとうございます、上様」

「別にわたしは何もしてないよ」

 そう言ってそっぽを向く。

 上でも照れる時があるのだと思うと急に親しみが湧いた。

 あたしがお仕えするのは、昔語りの姫君でも天女でもなく、今を生きている十五歳の少女なのだなぁ。

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