第11話
コンサート当日、琴は朝早く目が覚めた。
朝から緊張して、落ち着いていられない。
コンサートは夕方だが、昼には、家を出ることにした。
それまで、失敗しないように、自分の歌詞を読み返したり、自分の曲を聴いたりした。
昼になると家を出て駅まで歩き、電車で移動して会場に行く。
楽屋に入ると、山際が既に来ていた。
「おはようございます」
「おはよう。今日は期待しているよ」
講演前は、楽屋では、琴と山際はあまり話せなかった。山際は、コンサートの前、精神集中に余念が無い。人を避けて、静かに座っていた。
琴は、自分で買ってきたコンサート用のドレスに着替え、メイクも鏡を見ながら自分で直した。ステージが始まるまで、本番で間違えないように、歌詞とメロディーを、徹底的に反復する。
やがて、客が席に入り、コンサートが始まる。
楽屋にも、山際の華麗な鍵盤使いが聞こえてくる。風に音楽の精が乗っかって、幸せを運んでくれているかのようだ。琴は緊張を隠せない。
じっと出を待つ。きらびやかな山際の奏でる調べも、凍りきった身体を暖め切れないが如く、がちがちの緊張を解けない。待機の時間が、牢獄に入れられたかのように、長く痛く感じられる。壁に掛けられた時計の秒針が、時限爆弾のようにカチカチ、心臓に響く。
やがて、琴が呼ばれる。
側舞台から覗くと、暗いブラックのステージに、オレンジとブルーのアップライトが左右から交差して、グランドピアノのあたりが、軟らかいホワイトのダウンライトで照らされていた。山際の新曲が、躍動的でヴィヴィッドな情景を演出している。
やがて、一曲が終わると、山際がMCを始めた。
「今の曲、今年夏発売の、『緑命』に収録の『密林』でした。
前のアルバム『岩風』は、北アルプスの偉大さをイメージしたアルバムでしたが、今回の『緑命』は、アルプスの裾野に広がる樹海の深さ濃さから、その生命力の偉大さを書いた音楽です。人類の生まれる前から、滔滔と流れ受け継がれてきた生命、その深遠さは、計り知れません。
生命は、受け継がれる。新陳代謝のように、死んでは生まれ、生きては滅んでいく。さの明滅流転の中に、ひとつの軸として、受け継がれる何かがある。
人間も、同じですよね。皆死んでいく。私もいずれ死ぬ。そういう中で、また新しいアーティストが生まれ、音楽とその素晴らしさが、受け継がれていく。
今日、ひとりの新人アーティストを紹介します。
涸沢琴」
山際自ら拍手をすると、観客席から、喝采が巻き起こった。
その中を、戸惑いながら恐る恐る、ステージ中央に歩いていく琴。照明が顔に当たって酷く眩しい。
「はじめまして。涸沢琴と言います。私は、山際さんの音楽に一目惚れして、ファンになった女です」
「『岩風』を聴いてくれたのだよね。そしたら、私に一曲、書いてくれたんですよ」
「お恥ずかしいです……」
「でも、相当の才能の持ち主ですね。天才なんだろうなあ……。一曲目がシングルになって売り出されるって、相当のものですよ」
「なんだか、申し訳ないです」
「今日は、一曲、歌ってくれるんだよね」
「あ、それが、今日のために、ミニアルバムを頑張って作りました。これ、山際さんにプレゼントです」
「これは、すごいね。ゆっくり聴かせてもらうよ。コンサートショップでも売っているのかな?」
「あ、売ってます」
「みなさんも、一枚、どうぞ」
「宜しくお願いします」
「じゃ、歌のほうを……」
「はい。『虹の雨露』です。聴いて下さい」
山際の前奏が始まる。間近で聴くと、背筋がぞっとするくらい、うっとりする演奏だ。曲に酔いそうになるところ、はっとして慌てて歌いだす琴。
「彼氏に振られた冬の日
ひとりぼっちの帰り道」
大学時代の焼けるような孤独が、しみじみと思い出される。
「灰色の歩道に銀色の空っ風
こころのぽっかり空洞に吹き抜けて痛い」
山際の演奏に出遭った日の、あの寒すぎる秋風。
「その夕暮れにきらびやかな虹ひとつ
その向こうから聞こえる美しい歌声」
電器屋のディスプレイを食い入るように見詰めたあの日。
「あなたはどこにいるの?
どこから私を誘うの?
その声はあの虹の彼方から私を導く
その声は風に乗って私を青く染める」
今、こうやって山際と共演している自分が、なんだか夢の産物のように思えてきた。
「消えないで、私の天使
いつか必ず、あなたと出逢うから
いつか必ず、あなたに巡り会うから」
ステージのスポットライトの眩しさに少し慣れてきて、観客の表情が見えてきた。
「待っていて、あともう少し
あの虹の向こうで」
手に掴めぬ虹を現実に掴んだ、琴はそう思った。
「ああ、愛しい天使よ
私を虹の雨露で濡らして」
観客の幾多の眼が、海の水泡のように揺らぎ煌いている。
琴は、マイクに向かって熱唱した。客の眼々に向かって、熱演した。
山際のピアノの間奏が、海のさざなみのように、快くこころの琴糸を打ち鳴らし、琴はステージに酔い痴れた。ステージの上で、ブルーやオレンジのスポットライトがいくつも走査し、琴の顔は、明暗交互に照らされた。その、揺れる光は、夕日に照り返される夜の波濤に似ていた。宵の暗闇に沈みつつ、煌びやかな夕日のオレンジに照らされる頬。その波濤の間を、掻い潜るように通り抜ける、山際のダイナミックな間奏。琴は、ステージに立ちながら、こころが洗われて、清明になっていくのを感じた。
二題目が始まる。
「あなたに逢えないうつろな日
ひとりぼっちの部屋の中
暗い窓から見える曇り空
虚しさと寂しさに満たされたこころは痛い
そんな窓辺に煌びやかな虹ひとつ
空の向こうから私に架け橋
あなたはどこにいるの?
どこから私を誘うの?
その声はこの虹に乗って彼方から届く
その声は私の手を取って彼方へ誘う
消えないで、私の天使
いつかきっとあなたの元に行くから
いつかきっとあなたの傍に行くから
待っていて、あともう少し
この虹の袂で
ああ、愛しい天使よ
私を虹の雨露で抱きしめて」
トロピカルにも見える波濤の光に向かって、琴は、こころの限り、演じ歌った。
観客席の幾多の光は、伴奏に沿ってゆらりゆらり畝り揺れた。その観客の光と、琴の歌声が共鳴し、彼方の空まで伝わっていくかのようだった。
虹は、手に掴んだら雨露でしかない。しかし、琴は、今その虹の雨露にそぼぬれて、至福の力唱に没頭していた。
琴は、山際の絶妙な演奏に揺られながら、このとき思った。虹を手に掴んだ実体の雨露は、掴んだら虹ではなくなるのだと。
<竟>
虹の雨露 大坪命樹 @Pearsword
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