16 【原理祆教】
温暖な土地と夏という季候は、夜のディアライトに湿った風を運んでくる。貼りつく様な感触を疎んで大多数の人間が開放的な姿を晒す中、不快さとは無縁の少女はいつも通りに白い布を頭から被っただけの服装で往来に佇んでいた。
この外見年齢では酒場への入店が出来ないのも致し方ない。寧ろ素通りさせてもらえる方が店の信頼度に疑問符が生まれたりするので、アシャは無感情な碧眼の奥で誰にも知られることなく納得していた。
とは言え少女も立派に考える葦である。店内での情報収集に左右される終わりの定かではない待ち合わせは退屈で、時計がないなら尚更にその時間は長く感じた。徒に自身の蒼銀の糸じみた髪をいじったりもしてみるが、肩上に切り揃えられた癖一つない頭髪は遊ばれる事なく自身の元居た場所へと律儀に戻っていく。
「キミどうしたの? もしかしなくても迷子かな?」
突如、明るい口調の女性に話しかけられる。返答して良いものか一瞬迷いが頭を過るも、屈託のない笑みを向け続ける女はアシャから無視される事など露とも考えていない様子で、それを気の毒に思った少女は白磁のごとく血の気が薄い唇で返事をする。
「い、いえ。待ち合わせしてるだけ、なので」
「そうなんだ、偉いね! でもお父さんは悪いね、こんな小さな子を家に送る事もせずにお酒を飲むなんて。お姉さんが呼んできたげる、キミの名前は何て言うの?」
アシャの引き出しの中ではあしらう様な単語を使ったはずなのだが、女の受け取り方は違ったらしい。あろうことか見当違いな義憤に駆られてより一層首を突っ込んできた女、アシャからすればはた迷惑この上ない。それでも、
「ア、アシャです」
咄嗟の嘘になれていないせいだろうか。適当に流せばよい物を、ついつい正直に名乗ってしまった。
「アシャちゃん? って事はもしかしてキミも原理祆教の洗礼を受けた子?」
が、アシャが覚悟した女の行動と第一声は随分毛色が異なっていた。面識も無ければ風格もない女の口から放たれた、祆教やアシャの名など一連の真相に迫った単語に、得体の知れない怖気が貫頭衣の少女を襲う。
「……それは何故ですか?」
怪しまれない様に同年代の女児を意識して不自然でない程度に崩していた口調もすっかり元の慇懃なものへと戻って、それを知っているという自白に似た台詞を以ってその真意を問いただした。
「だってアシャって旧い神様の名前でしょ? ほら、十年くらい前にお山から何人か降りてきて教えを……って、そっか。親御さんの事情だもんね、アシャちゃんには分からないよね」
しかし、女にはアシャへの機先を制するといった邪気を孕んだ思考は無かったようで、極めて自由に、そして鋭くアシャの知らない重要そうな情報を惜しげもなく喋ってくれる。
「すみません、もう少し詳しく──」
「おいアシャ、行くぞー」
「あ、お父さん……じゃないね、お姉さんたちかな? 来たみたいだから私は行くね、バイバーイ」
幸か不幸か、アシャが女に絡まれる原因となった夜の立ち往生は、ウォフ一行の帰還によって解消された。女が立ち話に興じてくれたのは本当にその心配による物だけだった様で、声を掛けられて一人ではなくなった少女の姿を確認すると、後腐れもなく足早に立ち去ってしまった。
「師匠、今のはどなたですか?」
「それは……えっと、すみません、説明に少し整理の猶予を頂けますか?」
異国の夜の、不可思議な出逢いは終わった。それは時間に見合わない謎と疑問を残して、ディアライトの湿った風の様な得体の知れない不快感を少女の心に残して行ったのだった。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
「という顛末です」
赤髪の端麗な女、糸目の偉丈夫と顔を突き合わせ、人形めいた美貌の少女はそう報告を締めくくった。二人が思案する様に各々眉間にしわを寄せる背後で、部屋には男達の無遠慮な声が響く。
「はぁ!? 強すぎるだろ!? 絶対ズルだって、もういっぺん勝負しやがれ!」
「何度やっても、ボクには勝てないと思うけどね」
競技者二人と観客一人、三人が興じるのは盤上遊戯。年長者は庁舎を去った後に起こった出来事を各々報告し合う中で呑気な物だが、年相応にバカ騒ぎをする彼らの姿は騎士団の装いに身を包んだ日から久しく、少年らの抱えた問題を知らないビクロのおかげでやっと本当の振る舞いを出来ているのかもしれない。
「……あのアホの相手も仕事だから放っとくとして、だ。原理祆教とかお山とか、おれ達が聞いた単語とはちょっと違うとはいえ、そりゃあ思い出すまでもなくマリラさんの言ってた『トゥルカナ高地の原教』だろ。リュウさん、これ知ってたか?」
「いや、前提として原教は山外不出の密教だ、私が教典を知る由はない。それにしても原教とはパルシスタン建国神話、その上
騒ぐ声からあっさりと切り替えて思考を深めるウォフ、その真紅の瞳に反射した壮年の男性は、元から細く奥の覗けない目を更に細めてトゥルカナ高地への不信を覗かせた。
「だから何でオレ様の駒は獲られるのにドゥルジの駒が取れる位置に来ねーんだ! おかしいだろ!?」
「いやビクロが弱すぎるだけ、多分俺でも余裕で勝てるくらいに」
再戦は迅速に終わり、すぐに打ち解けたのか口調も軽く言い合う三人。意地の悪い笑みで足を組む藍髪の少年の前で机につっぷす大男が、まるで子供の癇癪の様に机を拳で打ち付け、揺れ浮いた駒が方々へと転がっていった。
足元まで来たその一つ、
「俺も一戦──と言いたいところだが残念だなアホ共、こっちの擦り合わせは粗方終わったから出立だ。ビクロの話の通りなら時間がない、さっさと行くぞ」
それを聞かされた男衆は、遊びを中断された事に不満げな表情をしつつも手元に用意してあった小荷物を持ち上げた。同じくいつの間にか旅装に身を包んだウォフは、駐屯所の一室である大部屋を出る前に見返って、何気ない口調で質問を投げかけた。
「リュウさん、あんたが話してくれた通りだとパルシスタンへの親書は駐屯騎士が書いたらしいけど、この国の識字率ってどんなもんなんだ?」
「識字率、か……。ディアライトは教育保障が手厚く我々の国と同等と聞く、鉱山の肉体労働者は国外から募っている様であるし、ディアライトの民に関しては一定の教養が担保されているはずだ」
「そっか、じゃあ決め手にはならねぇか……」
質問の意図が分からないとばかりに顎に拳を当てる灰髪の剣士だったが、それに意味がないとは微塵も思っていない素振りで、出来る限りの知識を絞り出す。その返答を受け取った女は一人で納得した様に呟いたが、人形めいた少女がその独りよがりを許してくれない。
「ウォフさん、懸念事項があるなら予め共有しておいて下さい。速やかな情報の伝達こそ最も価値のある戦術、と私の時代の諺にもありました」
「いや、今言ったら逆にリュウさんらの邪魔になると思うから、明日帰って来てからそっちに動きがあったら改めて共有するわ」
諫める物言いの少女に関して、紅の女剣士はあっけらかんと手の内を隠す。何がしか彼女しか気付いていない事柄があるようだが、ドゥルジと違ってウォフは悪意や悪戯心で情報をせき止める性質でもないために、誰からもそれ以上のお咎めもなく会話は終わる。
建物の外に出れば、日の長いディアライトも流石にもうどっぷりと夜が更けていた。煌々として賑やかな、パルシスタンの表通りと同じ空気を纏う路地をしばらく往くと、明らかに要人向けに装飾された馬車が一行──正確にはビクロを待っていた。
「坊ちゃん、久々の無断外出ですかい? 最近はめっきり減ってたのに、また悪さする友達が出来たんですね」
まぁなと歯を剥いて御者と談笑する坊主頭の男を横目に、一口に友達と括るにはやや個性が取っ散らかっている四人は慣れた動きで馬車に乗り込む。これまでは馬に直接騎乗するか荷台に大勢で乗るのが主だった中、扉もしっかりと付いた常用馬車というのは小市民のスラエータオナにとっていささか気恥ずかしかった。
舗装された道路によって揺れの抑えられた車内、車輪の回る音で会話が御者へ満足に届かなくなった事を確認してから、ウォフは柏手を叩いて話し始めた。
「今更だがおさらいするぞ、おれ達はビクロの情報に基づいて近くの密林にあるらしい祠を目指す。早朝から向かえば一日で行って戻れる距離って事で、今晩は最寄りの宿まで取り敢えず向かう。……道中長かったが、これで二柱目だ。何はなくとも、気合入れてこうぜ」
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