15 【与え施す者】


「お爺さん、隣いいかい?」


 そう銀瞳の少年が話しかけたのは、カウンター席の端で一人酔い潰れていた客、ビクロが紹介してくれた老人だった。



 いつから居るのだろうか堆く積まれた杯は両手で数える程で、声を掛けても反応は鈍く、涎を垂らした赤ら顔で辛うじて寝返りを打ってこちらへと顔を向けた。


「ジイさん、客だ。昔みたいに話を聞かせてくれよ」


「おぁ、その声は坊っちゃんか? 聞かせてやりたいが生憎とド忘れしてての~、酒でも飲めば思い出せそうなんだが」


 意識がはっきりしているのかいないのか、これだけ呑み明かしているのに尚も次の一杯を求める老人。その言葉を聞いたビクロはだらしない祖父への対応に困った様に、剃り込んだ暗金色の頭部を掻いた。


「ジイさん、流石に飲み過ぎだろって──」 


「いいよ。お姉さん、この店で1番強いお酒を一つ」 


 あまり強くは出れず嗜める口調になったビクロを制して、藍髪の少年は勝手知ったる所作で老人の隣へと腰掛けた。その振る舞いが余りにも遠慮が無かったためか、スラエータオナが口を挟もうとした頃には既に交渉は終わっていた。



 それでも何か小言の一つでも言うべきかと逡巡して、道程はどうあれこの老人に話を聞く流れにはなっただろうと自己解決し、開いた口を再び閉じる。衆目美麗な少年の、不躾な態度から来る行動力は、確かにスラエータオナにとってはやりたくない仕事を率先してくれる側面を持ち合わせているのだ。



 いつかどこかで、自分の道筋は自分の意志で決めたいと願ったはずなのに。決意と行動がまるで矛盾した汚い思いを抱いてしまう。それはドゥルジとの関係性のためなのか、それともスラエータオナの生来持つ偽らざる本性なのだろうか。


「……にしても、坊ちゃんに話を聞かせるのは随分と久しぶりな気がするのぉ~」


「おいおいホントに大丈夫かよジイさん、ついこないだも付き合ってやっただろうが」


 へべれけの小柄な老人に、ビクロは本当に困った様子で声を掛ける。スラエータオナ達に絡んできた時とは随分好対照な仕草で、あの横柄な振る舞いはいつでも見せるものではなく、場の空気に彼自身も呑まれて大きな態度を取っていたことが窺えた。


「今日は見ない顔の友達を大勢連れとる様だが、一体なんの話をするかね? 世界の西端にある知恵の塔、黒い潮を吹く鯨、氷の大地に眠る白龍、真横に落ちる雷、お決まりの話は幾らでもあるぞい?」


 老人の口調は以前、酒の影響で呂律が回らないままだ。それでも一瞬、思うままに語る言の葉が詩の一片へと変化し、未知に対する甘美な欲求がスラエータオナの脳を駆け巡った。



 黒髪黒瞳の少年は、元来このような伝承や物語を好む性質であった。そして、少年なら誰しも持つ未知や冒険への憧れ、いつの間にか現実との摩擦で削れ消えるを、ヘミから一度も出られなかった故に失う事なく抱き続けている少年であった。



 それは、アムシャ・スプンタとヴェンディダードの戦いに巻き込まれるにあたっては有利に働いたかもしれない。何しろヘミを追い出されてからアシャと出会うまでの数日は非現実の波濤だった。彼が全てを飲み込んで歩みを進められたのは、目の前で起こっている事を否定しない精神の強靭さの他に、『そういう非現実をどこかで待ち望んでいた』という事実にも起因する。


「……!」


 老人が口走った意味深な単語はどれも聞き馴染みのない物語の断片だ、叶う事なら全ての話を聞きたい。喧騒に満ちる酒場、一人の少年の生唾を飲む音が聞こえたはずはないのだが、ドゥルジはスラエータオナを後ろ手にしたまま「ダメだよ」と呟いて、断固とした口調で言い切った。


「今日聞きたい話は一つ、ディアライトに残る帝政パルシスタンの頃の話だ」


 当然だと理解していながらも眉尻が下がるスラエータオナ、しょうがねぇだろと背中を叩くウォフ。老人は口を半開きにして宙を見やって呆けた後、ガラクタの山から何とか目当ての物を掘り出した様に手を叩いた。


「それだけ古の物語ならそう数も多くない。その上でこの土地に関係するとなれば一つ、聖女伝説に限るだろうなぁ」


 そう枕をおいて語り出す老人の詩に、一同は喧騒の中で耳を澄ます。ある者は物語への、またある者は得られる情報への、更には語る老人自体への興味を抱いて。




 ────遥かな過去、人類が幾星霜を重ねる以前、世界はパルシスタンという『絶対』を中心に回っていた。それは生まれる場所を選べず、また生きる道を選べない国であった。


 絶対的な身分制、初めに配られた物が全ての時代において、女は名家の生まれの通りに富める者であると同時に、持ち得る物を守る事なく与え施す者であった。


 時は帝政末期、貴族達は皆一様に利と権に耽溺した暗黒の時代。その中で、持たざる者への慈悲こそが義務だと言わんばかりに弱者への奉仕を続ける彼女は稀有なる才の持ち主であり、際立った異端でもあった。


 女に救われた人々は口を揃える。空腹であれば食料を、病であれば治療を、空虚であれば癒しをもたらす本物の聖女。あれこそが善神の遣い、人類の持つ不滅の聖性であると。


 また、貴族たちは口を揃える。貧者へと富を与え、環境を与え、安息を与える邪悪なる愚者。あれこそが盤石なる国を脅かす病魔であると。


 しかして、彼女は闊達なる心のままに弱者を救い、同じ数だけの強者に恨まれ厭われた。既得権益を貪る肥えた貴族からすれば、女は人が口にするよりも上等な飼料を家畜へと与える狂人、自分たちへの反乱の力となる元種を提供し続ける病人であった。


 幾年が経っただろうか、少女だった聖女はいつしか立派な女性へと変貌し、遂には実親からも厭われる様になった。彼女の父は典型的な悪しき貴族で、自家の利益と発展のために常に策謀を巡らせ、他者を蹴落とし、積み上げた屍の上に置いた椅子でふんぞり返っている男であった。


 そんな父にとって女は邪魔だったのだろう。家の存亡の期待は聖女の姉妹へと注ぎ、彼女自身は家での居場所を奪われていった。それをどう受け止めたかは定かではないが、彼女がより一層精力的に施しを続けたのは確かだった。見ず知らずの他人を救う事、それだけが女の誉れであり宿痾であったからだ。


 しかし彼女は知らない。自分が施し与え慈悲を掛けた人々、その顛末がどうなったかを。


 何しろ規則を作れるのは強者、貴族側なのだ。聖女が再分配した富は、様々な物言いや難癖、より厳しい取り立てによって貴族の元へと還る。それに彼女は関知しない。女の役目は施し与えるだけで、一旦得た物を守る所までは行ってくれなかった。


 ある日、もはや日課になった治療行脚の先で聖女は唐突に終わりを迎える。それはかつて彼女に救われた男の凶刃によってだった。


 男は刃を突き立てて言う。


 彼女によって与えられる事が無ければ「足る」を知る事などなかった。だのに、一度彼女に与えられた上で味わう元の生活は、最早耐え難い物であった。お前のせいで、自分の人生が苦しいものだと気づいてしまった。お前は慈悲を与えたつもりで、その実もっと大きな苦しみを与えているのだと。


 その言葉に、初めて女は。この世はなべて不条理にして複雑怪奇。敵である強者にではなく、味方のはずだった弱者によってこそ、聖女は殺された。


 誰かに手を差し出す時は気を付けて。握り返された掌が、こちらを切り刻む刃物でないとは限らないのだから────




 紡がれたのは悲譚、教訓めいた最後の一節が酒気に混じって余韻を残す中で、語り手の老人だけが以前と変わらぬ雰囲気のままと音を立てて腹中の空気を吐き出した。



 それは寓話の側面も持つ興味深い物語ではあったが、アーラク村での様に、求めていた情報を与えてくれる物とは異なっていた。口と頭を動かす中で酔いが回ったのだろうか、顔により強い朱色を灯してカウンターに腕枕をする老人へ、ドゥルジは催促する様に顔を覗き込む。


「お爺さん、多分ボク達が欲しかったのと近そうで違うかったんだけどさ、他の話もあったりする?」


 尋ねられた老人は、しっかりと目が合った藍髪の少年に何を思い出したのか僅かに目を細めて、


「銀の瞳──ああそうでしたか……お久しゅうございます大賢人様…………ぐぅ」


 眠ってしまった。


「……お爺さん、寝ちゃったみたいだし。アシャちゃんに悪いからもう行こうか」


 やけにあっさりと引き上げようとするドゥルジ、赤髪の女剣士はその肩を掴んで待てと言わんばかりに引き寄せる。やけに博識だった老人だ、先ほどは情報保護の観点から浅い聞き方で攻めたが、あるいは正直にキーワードを伝えれば実のある話の一つでも聞けるかもしれない。


「おいドゥルジ、爺さんの話は確かに面白かったがアムシャ・スプンタも祠の場所もなんも分からなかったし、それに最後の──」


「祠? もしかしてお前ら、森の石室でも探してるのか?」


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