14 【無敗の拳】


 ──世界を救う英雄になる男だ



 男がそう宣言した途端、ウォフの殺気が弱まったのに気付けたのは、スラエータオナが曲がりなりにも騎士としての経験値を積んだからだろうか、それともウォフがそれ程までに分かりやすく警戒を解いたからだろうか。


「あー……んでビクロ、おれ達が偽物だとしてあんたはどうするつもりなんだ?」


 返す言葉にも覇気がない。赤髪の女剣士は、意味有り気に絡んできたこの男がただのバカであると判断したようだ。一方、対峙するウォフの態度の変化に気付く素振りの無い男は、更に気勢を上げて声を荒げる。


「ケンカに決まってんだろ!」


「おおーー!!!」


 ビクロの咆哮に、それぞれで飲み騒いでいた男たちが一斉に拳を突き上げて呼応した。野太い声が何重にも鳴り合って、場は一瞬で異様な雰囲気に達する。


「おいおい、何だってんだよ」


 ウォフは困惑した様な表情で頬を掻くが、空気に呑まれる事は一切なく呆れと困惑が混ざった眼で眼前のビクロを睨め付けていた。


「勝負は簡単だ、オレ様が勝ったらお前らは悪だくみを全部白状して謝罪しろ!」


 ウォフに対して人差し指を突き付け宣言するビクロ。その言葉に、酒瓶を片手に盛り上がっていた野次馬たちは更にヒートアップする。


「やっちまえビクロ、最近お前の勝負が見れなくて退屈だったんだ!」


「今回も俺はお前に張ったぞ!!」


 周りを取り囲む男たちの反応を見るに、ビクロがこうやって酒場で喧嘩を売った経験は一度や二度ではないようだ。娯楽の少ない街において、男は己の強さを誇示しつつ英雄を気取る事で自尊心を満たし、観衆達は酒と賭博と娯楽とを一気に味わえる、呆れる程に単純で合理的な共生関係だった。


「状況的に戦うのは当然おれとして……あんたが負けたらその二人を返してくれる、ってことで良いか?」


 ウォフは一度二度首を鳴らし、この程度の修羅場は慣らしたものだと言いたげに、高まる熱気を浴びる毎に冷静になっていく。その落ち着き払った確認を挑発と取ったのか、ビクロは腕を広げて豪快に歯を剥いた。


「今すぐ返してやるよ、どうせ三人揃って謝る事になるんだからな! さぁ、一番自信がある奴はどいつだ!?」


 相当に自信があるのだろうか、あっさりと解放されるスラエータオナとドゥルジ。太い腕が首に食い込んでいた反動で勢いよく肺を満たした空気は、ドゥルジを少し咽させた。



 三人は素早くアイコンタクトを取り、当初の構図通りウォフがビクロの前へと一歩踏み出す。勝手気ままに捲し立てる野次馬の囲いがそのままリングとなって、机の無い中央部分へと二人を誘った。


あんちゃんら、ビクロに絡まれて可哀想になぁ」


 野次馬の一人が、酒気を帯びた舌でスラエータオナ達へと言葉を向けてきた。黒髪の少年はその独特の臭気が苦手だったが、無視すると酔った勢いのままにこちらでも乱闘が起きそうなので渋々答える。


「そ、それはどうしてですか?」


 視線を変えずに返事をする眼前、拳を打ち鳴らしながらステップを踏んで体を温めるビクロは、想像以上の迫力を持ってウォフの頭頂部へと影を作っている。ビクロ・ンガルラと名乗った男は、ンガルラの名乗りの通りに純南方人種としての特徴である長い手足と黒光りする肌を持った偉丈夫だった。



 女だてらにスラエータオナより身長の高いウォフ、それより更に頭一つ分も大きな背丈は、王都騎士団の中でも中々お目にかかれるものではない。暗金色の髪を短く剃り込んだ頭部は、しかし陰湿さの無い悪戯っ子の様な表情によってその無頼さを中和されており、全体的に見て恵まれた体格の子供といった印象をスラエータオナに与える。


「オレ様は痛めつけるとか殺すとかは嫌いだからよ、倒れたら素直に負けを認めろ。いいな?」


 ビクロは優しさなのか余裕なのか勝利条件を今一度確認するが、ウォフは取り合う事なく気だるげに指で挑発を返した。



 ウォフがバリガーや王都騎士団の精鋭相手に一歩も引かない女傑である事は十分に理解している。だが、その歴然とした埋め難い肉体の差はスラエータオナに疑念を抱かせるには十分だった。この勝負、実は紙一重なのではないかと。



 それに拍車をかける様に、話しかけてきた野次馬は黒瞳の少年へ返事をする事なく心底楽しそうに叫ぶ。


「さぁ行け、ビクロ!!!」


 一際大きかった男の声がゴングとなったのか、ビクロは猛然と殴り掛かった。そこに洗練された武芸者としてのキレは無かったが、恵まれた身体能力がなせる業なのか、耳元で発せられた大声にスラエータオナが耳を抑える間にもう男の右拳はウォフの目前へと迫っていた。


「はや──」


 その言葉は、果たして誰から漏れ出でて誰に向けられたものだったのだろうか。



 ウォフは殺気の抜けた気配のまま、さも当然とばかりにそれを最小限の動きで避け、素早く身を反転させながら黒光りする太い腕をがっちりと掴んで、体重の乗った拳の勢いを利用して一気に投げ飛ばした。



 自身の重みが全て乗った高速の一本背負い、男は足を投げ出すことでかろうじて背中からの着地は免れたものの、なすすべなく天を仰ぐ形になる。


「悪いけど」


 上のウォフと下のビクロの視線が交わる数瞬、投げた勢いで被っていた外套の頭巾が外れ、女の美しい赤いビロードの髪が露わになった。


「おれも喧嘩で負けたこと無いんだよ」


 驚愕と興奮、野次馬たちの静が動へと変わる前に、床に転がった男はぽつりと呟いた。


「好きだ」


「はぁ!?」


 ビクロが負けた事実に追い付いた観衆たちが、はち切れんばかりの喧騒を掻き鳴らしながら二人の声を消す。スラエータオナとドゥルジは、賭けの取り立てや興奮でもみくちゃになる野次馬たちの間をすり抜け、特徴的な赤い長髪の元へと駆け付けた。


「胸が無いし、戦う前はまさか女だとは思わなかったが……めちゃくちゃ美人でめちゃくちゃ強い! 好みど真ん中だ、オレ様の女にならないか?」


 状況を理解していないのか、木板に叩きつけられて立ち上がれない姿勢のまま偉そうに求愛するビクロに、先ほどまでとはまた違った理由で辟易するウォフ。駆け寄ったスラエータオナが労いの言葉を掛けても、返って来たのは生返事のみだった。


「で、どうだ? オレ様と結婚してくれるか?」


 女が絶句しているのを純粋に迷っていると捉えたのか、期待に満ちた目で催促するビクロ。その上しれっと結婚に格上げしている。その奇怪なやり取りに、ドゥルジもやや困惑気味にやんわりと言葉を掛ける。


「えっとさ、何がどうなってるのウォフちゃん?」


「どうもこうもおれが聞きてぇよ! 何なんだこいつ」


 戸惑いと揶揄いがないまぜになった複雑な色でニヤつくドゥルジ、それに一々取り合う手間すら惜しむほどに、美しき女剣士はこの闖入者への対処に迷っている様だった。



 なにせ、爛々と目を輝かせて快諾を待つこの男には他意が全く感じられない。ただ三人を悪人と思い込んで喧嘩を売り、ただウォフに一目惚れをしたから周りの目も気にせず求婚したのだろう。真面じゃないのに裏はないというのは存外に厄介で、腹の探り合いや化かし合いをどうやっても行えない以上、愚直さに愚直さを以って応じる他なくなる。


「おいお前、気安くちゃん付けするな。オレ様だってしたい」


 投げられた事による虚脱から解放されたのか、背中を付けた姿勢から一息に立ち上がったビクロは、えらく真剣な表情でそう宣った。


「ああもう五月蝿ぇな!! おれから『はい』を引き出したきゃ、せめておれより強くなってから出直して来い!」


 先に痺れを切らしたのはウォフの方で、指通りの良い長髪をまるで頓着する事なく掻き乱し、吐き捨てる様に条件を突き付けた。それは歴然たる力量差を踏まえての実質的なノーだったのだが、同時にそれは完全な否定とはならなかったために、


「マジ!? 見とけウォフ、オレ様は絶対お前より強くなってやるぞ!」


 結果として、その愛を燃え上がらせる事になったようだ。


「……なんつぅか、喧嘩より疲れたわ」


「でもウォフちゃん、全体を通すとそんなに悪くない転がり方じゃないよ」


 一人浮かれるビクロを尻目に、半分白目を剥く様なうんざりした表情で手近な席へと腰を下ろすウォフ。小市民的な感性か、そそくさと元の席から食事の残りを運んで来ていたスラエータオナが差し出した残りの少ないジョッキを呷って、女は色気の欠片もなく口を袖で拭った。


「はぁ。んで、こっからどうするよ。外にアシャを待たせてる以上、あんま長い事ここに居るのも悪いだろ」


「たった今ウォフちゃんが篭絡したビクロ・ンガルラくん、随分とここへ入り浸り慣れてる様子なのに他の人と違って労働後の服装でもない。顔も広そうだし、姓の一致が偶然でもない限りは十中八九あの首長のドラ息子でしょ? ここで捕まえとけばこの街にいる間は何かと便利になるんじゃない?」


 少年の提案は陰気で迂遠、そして狡猾だった。つまるところ、惚れた弱みに付け込んで利用できるだけ利用しようという魂胆に、スラエータオナは友人ながらに引き攣った表情を見せる。



 二つ道があれば意地が悪い方を好んで選ぶ、そんな旧友の悪癖に閉口するスラエータオナを置いて、藍髪の少年は自らの癖毛を指で弄びつつ黒人の男へと尋ねる。


「ビクロくん、だっけ? 詳細は省くんだけど、ここいらで民間伝承とか昔話とかに詳しい人、知らない?」


「知ってても誰がお前みたいな間男に答えるか、絶対に嫌だね!」


「……ヘルプミー、ウォフちゃーん」


 どうやら彼の中ではウォフとウォフの連れには確固たる線引きがあったらしい。先に吹っ掛けてきたのはビクロとは言え、今はこちらが遥かに悪どい方法を取ろうとしている以上、いっそ小気味良い否定が笑いを誘う。



 拗ねる子供の様な態度に突っぱねられたドゥルジは、意外にもその否定が心の弱い部分に当たったのか、生気の薄れた声でウォフの名を口にする。椅子の上で器用に胡坐をかいていた女は、その呼び声に渋々と言った表情で立ち上がり、言い辛そうに顔を歪めながらなんとか呟いた。


「おれからも頼むよ……」


「お前の言う事なら全部聞く全部聞く! それならあの端っこに居るジジイ、法螺吹きウーバがそういう話を良くしてくれたぜ」


 あっさりと手のひらを返すビクロ、その後ろ姿を眺めて嘆息するウォフの肩をポンとドゥルジが労ったが、その掌は歩を進める女に予想以上の強い身振りで払われた。


「おれは女を利用するのは嫌いなんだ、もう辞めてくれよな」


 一つの絵画じみた端正な横顔、スラエータオナが覗き見たそれは、ドゥルジを窘めるよりも自身を厭う沈痛な面持ちだった。


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