わたしと夏のトンネル
のおと
わたしと夏のトンネル
のぞき込むと、奥は暗い。
トンネルの中は、外よりもひんやりとした空気が流れているようだった。
「ちょっと怖くなってきたんじゃないの?」
闇の中から細い川が流れ出し、チロチロと単調な水音を響かせている。コンクリートで固められていて、川幅は一メートル以下。川と言うよりは水路といったほうが適切だ。
わたしと夏乃さんは、水路をたどって、このトンネルの入り口までやってきた。
何をしに来たのか。
トンネル探検である。
ほんとうはわたし一人で来るはずだったのだが、ちょっとしたいきさつがあって、夏乃さんも付いて来ることになった。
ここに来る途中、ばったりと夏乃さんに会った。
「あら、
こういう場合は、何か適当にあいさつをするだけでよかったのだろうと思う。だが、突然のことにわたしは慌てて、
「いや、ちょっと探検に……」
などと答えてしまった。いかにも不用意である。
「ほう、探検! 楽しそうだな! 今から? どこに?」
どうやら、探検、という言葉が夏乃さんの興味を惹いてしまったらしく、矢継ぎ早に質問を浴びせられる。
「うん、ちょっと先にトンネルがあって……」
と、正直に答えてしまい、やむなくわたしはその先を説明することになる。
いわく、今、自分たちが立っているのが暗渠の上であること。その暗渠をしばらく遡るとフタが取れて川が見えること。さらに少し先にトンネルがあって、川はそこから流れ出していること。そのトンネルに入ってみようというわたしの計画。
初めは「こりゃ説明しづらいなぁ」と思っていたのに、夏乃さんは聞き出し方がうまい。結局、あらかたの情報をしゃべってしまった。
さてそうすると、「それじゃあまたね」とはならない。
「あたしも行く!」
と夏乃さんは言う。
夏乃さんは制服姿だったので、「服が汚れるかもよ」と言ってみたが、「へいきへいき!」と取り合わない。まあ探検とは言っても、わたしはごく普通の私服である。背中に背負ったカバンくらいしか装備もなく、もとより軽い遊びだと伝わっている。強いて断るほどの理由が見つからないのだった。
夏乃さん……
夏乃さんはたいてい、四、五人の女子、あるいは二、三人の男子といっしょにおしゃべりをしていた。夏乃さんには、なんとなく華やかな雰囲気がある。誰もが夏乃さんに話しかけないではいられないようだった。
わたしはそういう夏乃さんの姿を、うらやましいと思わなかった、と言えば嘘になる。
ちょっと前に読んだ『クマのプーさん』の原作本に、こんな場面があった。
プーさんが考えながら歩く。「ほかのひとは、みんないま、なにしてるだろうな。いったい、ほかのひとになるなんて、どんな気もちがするものだろうな」と。
その場面がなんともおかしくて吹き出してしまったわけだが、じつのところ、わたしは、自分が夏乃さんみたいだったらなあと、妄想したこともあった。
しかし、よく考えてみれば「ほかのひとになる」なんて、想像しようにも想像できないことではないだろうか。仮に着ぐるみのように中身が入れ替わったとしても、わたしは夏乃さんを演じることが出来ない。中身がわたしでは仕方がない。
もし、わたしが夏乃さんだったとしたら、わたしの中のわたしはどこに行ってしまうのだろうか?
つまるところ、わたしはわたしを生きるほかない。とまあ、そういうところで折り合いを付けている。
わたしは、自分から夏乃さんに話しかけたことはなかった。気後れがあった。
ところが、どういうわけか、夏乃さんがわたしに声をかけてくることがあった。
ご想像の通り、わたしは、急に声をかけられると、あたふたとしてうまく答えられないタイプである。戸惑いながら返答しようとしているうちに他の人が話しかけてきたり、ちょうどチャイムが鳴ったりで、あやふやに終わってしまう。なんだか、かえって悪いことをしたなという感じが残っていた。
そんなわけで、さっき夏乃さんに声をかけられたときには、だから、ちゃんと答えなくては、という意識があったのだと思う。
わたしと夏乃さんは、いっしょに暗渠をたどり、それからハシゴを伝って水路に降りた。
水路の両側はコンクリートの急斜面で、V字の谷になっている。斜面の上には住宅が建ち並んでいるので、水路の底まではあまり日が当たらず、薄暗い。
川の両岸には、いちおう歩けるだけの幅がある。
「いやー、こんなところがあるなんて知らなかったなあ。琴美さんは変なこと知ってるなあ。今日日、小学生男子でもこういう場所には来ないと思うよ」
言われてみれば、そういうものかもしれない。
夏乃さんは、細い水路を飛び越え飛び越えしながら付いてくる。
住宅街を抜けると、ちょっとした雑木林になり、蝉の声が響いてきた。
そこに、目指すトンネルがあった。
水の流れは、その、さほど大きくはないトンネルの中から出ている。川の両岸は、歩ける幅をそのままに保ち、闇の中に続いていた。すぐ足元では流水に水草が揺れているが、奥は真っ暗でほとんど何も見えない。
わたしはカバンを下ろして、LEDランタンを取り出した。うちの防災セットの中に入っていたものだ。
それから、いつもカバンに付けている小さなペン型のライトのことを思い出し、これを夏乃さんに渡すことにした。
「ありがとう。準備がいいなあ」
トンネルに足を踏み入れ、わたしが右岸、夏乃さんが左岸を歩き始める。
夏乃さんはペンライトを点けて、チロチロと動かしてみせた。暗いトンネルの壁に小さな光の点が走る。
「あんまり明るくはないけれど……」
「なんか手持ち無沙汰な感じがなくなっていいね」
入り口付近では外の光でよく分からなかったが、わたしが右手に持つランタンのほうは、まあまあしっかりとした明るさがある。ペンライトのような方向性の光ではなく、ぼんやりと周囲を照らす灯りだ。
聞こえていた蝉の声がすうっと遠くなる。
水の音と足音だけが響く。川幅がやや狭まり、水の流れが速くなった気がする。
振り返ると、トンネルの入り口が真っ白な窓のように見えた。
「琴美さん、ちょっと手を伸ばして」
夏乃さんの声が響く。わたしが左手を伸ばすと、夏乃さんの右手が伸びてきた。
「手、つないでいこうよ」
水の流れを挟むかたちで、夏乃さんは、わたしの手を握る。
右岸のわたしは右手にランタンを持ち、左手は川の上で夏乃さんの右手につながる。そして、左岸を歩く夏乃さんは左手にペンライトを持つという形になった。
人と手をつなぐというのが、ずいぶん久しぶりな気がする。なんだか、小学生のときの遠足みたいだ。
この暗い穴は、どこまで続くのだろうか。
なんとなく、行けるところまで行こうという程度のつもりだった。
十メートルも入れば行き止まりなんじゃないか、とさえ思っていた。
トンネルの上には国道が通っていて、そこはとっくに過ぎたはずだ。国道の向こうには、ちょっとした雑木林と、その先には住宅街が広がっているはず……違っただろうか。グーグルマップをよく見ておくのだった。スマホなら背中のカバンに入っているが、しかし、今は両手が塞がっている。後ろを振り返るにも、手をつないで歩きながらでは難しい。
そういえば、夏乃さんも無言になってから、ずいぶんと経った気がする。
わたしたちは、このままずっと手をつないで歩き続けるんだろうか……なんていう、妙な考えが浮かんだ。単調な足音と水音を聴いていると、それもいいかなと思えてくる。
いやいや、そろそろ引き返してもいいんじゃないだろうか。
だが、なんとなく声が出ない。
トンネルの中では、自分の声が、自分の声じゃないみたいに響く。
だから、無言になった。
それでも、足は身体を前に運んでゆく。自動的だ。
まるで、わたしの制御を離れたかのようだ。
両手は塞がっているし、両足は勝手に動いている。
声は出ない。
どんなふうに、引き返す判断をしたのだったか。
気がつくと、正面にトンネルの出口が小さく見えていた。少しほっとする。
すでに、ランタンの光よりも、出口からの白い光のほうが強い。
光を目指して、真っ直ぐに、ただ歩く。
ペンライトの光は、もう見えなくなった。
つないだ手はずっと伸ばしたままなので、感覚が薄くなっている。
手のひらが汗ばんでいる。
握り直すと、返ってくる力がある。
わたしたちは、あたかも、水の流れに押し出されるように、前に進んでゆく。
まもなく、蝉の鳴き声が響いてきて。
むっと熱い夏の空気が流れてきて。
あたしと琴美は、トンネルの入り口に戻ってきていた。
「いやー、ドキドキしたね!」
「うん。でも、何にもなかった」
「もっとずっと奥まで行けたのかも」
「無事に帰ってこれて良かったね」
「……」
つないでいた手をどちらともなく離す。
トンネルの中ではずっとつないでいて、一度も離さなかった手。
なんだか決まりが悪いような、頼りないような感じがする。
あたしは、唐突に、夏はこれからだな、と思う。
夏休みもまだ始まっていない。
翌日のこと。
いつものように目覚まし時計を止め、眠い目をこすりながら、あたしは階下に降りる。父はもう会社に出かけたらしい。
テーブルの上に新聞が置いてある。
いつもと変わらない光景だ。
しかし、ふと、その新聞の題字が目に止まった。
「○○新聞」と筆書で書かれ、そのまわりをゴテゴテとした唐草模様が囲んでいる。はて、権田原家で取っている新聞の題字は、こんなデザインだったろうか? もっとスッキリした見た目だったような気がする。とは言え、特に注意して見たことはなかったから、違っているという自信はまったくない。
最近変わったのかな……。
記事のほうは、なんだか憂鬱になる世界情勢が書いてあるようだ。
天候の欄を見ると、午後から雨になるようだ。今は曇り空で、やけに部屋が暗い。
「夏乃、カサ持っていくのよ」
と母が言う。
そういえば、昨日、琴美さんから借りたペンライトを、そのままポケットに入れて持って帰ってしまったのだった、と思い出す。返さなければ。
「夏乃、あんた、なんだかぼんやりしてるねえ」
あたしがトーストを食べていると、母もあたふたと出勤していった。いつものことなのに、今日はなんだか置いて行かれた気分になる。
昨日のトンネル探検のあと、あたしは少し様子がおかしいようだ。
鏡を見る。もちろん、それはいつものあたしの顔だったが、どことなく違った感じもする。部屋が暗いせいだろうか。鏡の奥に見えるクマのプーさんのぬいぐるみも、今日はなんだか浮かない顔をしている。
どうも、やはり昨日のトンネル探検が関係している気がする。
トンネルの中で何があったか、よく思い出せないのだ。
いや、思い出せないわけではない。
ずっと手をつないでいたということはおぼえている。
琴美さんとあたしは、水路をはさんで手をつないだまま、トンネルの奥へと向かった。トンネルの中での時間は、長かったのか短かったのかよくわからない。だが、手を離したという記憶はない。どちらかが「引き返そう」と提案したということもない。
ならば、いったいどうやって入り口に戻ってきたのだろうか?
真っ直ぐ歩いて、そうして、引き返すタイミングを失ったまま、反対側の世界に出てしまった、とか。もしかしたら、ここは元の世界ではなく、鏡の中の世界か何か、そういうものではないのだろうか?
鏡?
そういえば、トンネルから出たときに、あたしは右手を琴美さんとつないでいた。そうして、左手にペンライトを持っていた。では、入ったときはどうだったか。つないでいたのは右手だったはずだが、確信がもてない。
いかんいかん、あたしは右も左も分からないのか。
鏡なんか見て確認するから、ややこしくなるんだ。
やっぱり、おかしいのは、あたし、権田原夏乃ではなくて、世界のほうじゃないのか。
だけど、ともあれ、父も母もいるし学校もある。ひとまずは登校だ。もうすぐ夏休みだし、琴美さんにも会える。
そうだ、琴美……
今度は、以前よりもうまく話しかけることができる気がする。
琴美月子は、いつものように、少し戸惑ったような様子で返事を返すだろう。
トンネルを出た時に、つないでいた手は離したけれど、いずれまた、そんな機会があると思う。
そうしたら、あたしは、元のわたしに戻れるだろうか。それとも。
わたしと夏のトンネル のおと @note2021
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