望んだ理想の世界へ

 深紅の壁にチェス盤のような白黒の床、白いクロスの掛けられた10メートルはあろうかという長テーブルの上には食べきれない程の料理にお菓子。

 その長テーブルの両脇に供えつけられた沢山の椅子に置かれているのは、人間から動物までありとあらゆる生物の生首だった。

「いい趣味してんなぁ、女王様よぉ」

 さっきから首を刎ねまくってきた私の言える台詞でもないが、食欲の失せるオブジェを見て、長テーブル最奥の短辺の席に着く女王を見据えて言った。

 金髪をシニヨンのように結って王冠を被り、赤と黒を基調としたボリュームのあるドレスを身に纏った派手な顔立ちの女だった。

「分かってもらえて嬉しいわ、アリス。あなたもお茶会を楽しみましょうよ」 

 女王は、うっとりと唇を開いて言った。

「生憎、生首と茶ぁ飲む趣味はねぇんだ、とっととアンタの首を刎ねて理想の世界で目覚めさせてもらう!」

 私はそう言って、女王に向かって駆け出した。

「――あら、悪い子ね」

「っ!?」

 大鎌をするりと避けた女王が手に持っていた赤いファーのついた扇子で私の喉をくすぐった。

 驚いて距離を取ってから再び大鎌を振るうが、女王はわずか紙一重のところで私の攻撃を避けて悠々と話し続ける。

「白兎からも聞いたでしょう。ここは、黄昏――つまり、誰そ彼たそかれの国。さあ、あなたの一番焦がれる人を教えて?」

 大鎌を避けた女王が私の顔を両手で包み込み、私の瞳を覗き込む。

 女王の瞳に、私の顔が映るのが見える程近づいても、身動きが取れない。

あなたにとって私は誰かしらフー・アム・アイ?

 そう唱えてにっこりと微笑んだ女王の姿がぐにゃりと別人に代わった。

 紅いアネモネの柄が入ったノースリーブの黒いワンピース。真っ赤な口紅。

 さっき眠りネズミの魔法で見たばかりの、あの女の顔。

「はっ、肉親の顔で動揺させようってか? 残念ながら、あの女に恨みこそあっても、首を刎ねるのを躊躇うことは無いね!」

 驚きでいくらか気を取り直した。

 慌てて距離を取ってから大鎌を握りなおして、あの女の姿の女王に向かって振り上げる。

「そうね、有子。あなたには、殺されても仕方ないことをしたもの」

 あの女と同じ声で、あの女と同じ顔で、見たことのない悲しそうな笑顔で、女王は避けようともせずに言った。

 このまま振り下ろせばいい。そのはずなのに、大鎌を振り下ろせない。

「有子、本当にごめんなさい。許してなんて言わない。でも、私の都合で、あなたに辛い思いをさせたことを、ずっと後悔してたの」

 眠りネズミの魔法で過去の記憶を見ていなければ、こんな言葉など一笑に付して躊躇なく大鎌を振り下ろしていただろう。

 目の前にいるのは女王だということも分かっている。

 それなのに、あの女の顔から目が離せない、動けない。

「有子のことが大事だからこそ、離れなきゃいけなかった。でも、ずっとあなたに会いたかった。大きくなったわね、有子」

 あの女は優しく目を細めて、温かい掌で、私の頬に触れた。

「あなたが許してくれるなら、あなたの傍でこれまでの償いをしたいの。もう、辛い思いをさせたりしないわ」

 涙の滲む目で私に語り掛けるあの女の声が、表情が、どこまでも優しくて、すがってしまいそうになる。

 だってそれは、私は愛されていたと、捨てられていたのではなかったと、そう思わせるのに十分な言葉だったから。

「お母、さん……」

 振り上げた大鎌を床へと下ろすと、女は私に両手を伸ばした。

「大好きよ、有子。お母さんと、ここで一緒に暮らしましょう」

 甘い言葉と共に温かな胸に優しく抱きしめられ、ぎゅっと目を瞑る。

 そして、一つ深呼吸してから相手の顔を見上げた。

「――悪いが、こんなまやかしで納得できるほど、聞き分けのいい良い子じゃなくってね」

 片手で思い切り女王を突き飛ばして、すぐさま両手で大鎌を構える。

「有子、何を……っ」

 まだあの女の声と顔を繕う女王に、大鎌を振り上げた。

「私が知りたいのは、真実なんだ! ここには居られない!」

 動揺した様子の女王めがけて渾身の力で大鎌を振り下ろす。

「いやああああぁあああああぁああっ!」

 絶叫と共に落ちる首があの女から女王の顔に戻って、床へ転がった。

「終わった、のか……?」

 女王の身体も首に遅れて床に倒れたところに両手を合わせてから、辺りを見回す。

 これで聞いていた分は全員死んだはずだった。

 何も起きないので、これは元来た道を戻ればいいのかと思っていると、目の前の女王の死体が眩く光りはじめた。

「なんだ?」 

 眩しさに目を細めれば、女王からその光がどんどん広がって、視界を真っ白に塗り替える。

「有子様、おめでとうございます!」

 あまりの眩しさに目を閉じたところで、覚えのある無駄に愛くるしい声が聞こえた。

「白兎?」

 恐る恐る目を開ければ、そこは女王の間ではなく、一番最初の洋館のエントランスだった。

 目の前には燕尾服にバカでかい懐中時計を下げた例の白兎がいる。

「有子様のおかげで、『お茶会』がようやく終わりました! 本当に、何とお礼を申し上げて良いやら! ありがとうございます、ありがとうございます!」

 ぴょんぴょん跳ねて近寄ってきた白兎は、大鎌を持っていない方の私の手を取ってぶんぶん握手しなから言った。

「約束は覚えてんだろうな?」

 白兎を睨めば、大袈裟に頷かれる。

「ええ、それはもちろん。『お茶会』を終わらせた有子様は、理想の世界で目覚めることが出来ます!」

 白兎は、にこにこして言った。

「では有子様、理想とする世界は決まりましたか?」

「ああ、決まったよ」

 眠りネズミの魔法で見た記憶。女王の見せたあの女の姿。私が知りたい真実。

 それらを総合して考えて、私は白兎に告げる。

「分かりました。それでは、その世界を強くイメージして、わたくしめの首を刎ねてください」

「まだ刎ねないといけないのか!?」

 すっかり全部終わったつもりになっていたので、白兎の言葉に驚いて聞いた。

「ええ。わたくしめの死体が、扉の鍵になるのです。最初に約束しましたでしょう――『この首にかけてでも』と」

「まさかそんな物理的な意味だとは思わないだろ普通……胡散臭い奴だと思っててごめんな」

 苦笑する白兎に謝って、しゃがんでその喉の下を撫でてやる。

「ふふふ、良いのです、良いのです。それがわたくしめの役目なのですから。さあ、わたくしめを刎ねたら、鍵を後ろの玄関のドアに差し込んで、この館を出てください。そうすれば、もうそこは理想の世界です」

 白兎は撫でられて気持ちよさそうに目を細めながら、説明した。

「分かった、ありがとうな、白兎」

 ぽんぽんと頭を撫でて、私は立ち上がった。

「いえいえ、とんでもないです! こちらこそありがとうございました、有子様。それでは一思いにどうぞ!」

 シャキッと背筋を伸ばして首を伸ばす白兎に言われ、私は願いを込めて大鎌を振るう。

 軽い手応えで首が落ちれば、白兎の頭と身体が淡く光って古めかしい鍵へと形を変えた。

「これが、理想の世界への鍵」

 大鎌を床に置いて、代わりにずっしり重い大きな鍵を手に取る。

 それを胸の前で握り締めて、私は玄関を振り返って歩み寄った。

 鍵穴に、白兎だった鍵を差し入れる。

 ガチャリと回せば、拍子抜けするほど簡単に鍵が開いた。

 ドアノブを回して扉を開く。

 何も見えない真っ暗な中に、私は足を踏み出した――



 兎穴に落ちたアリスのように長い長い浮遊感に包まれているうちに気を失い、気づけば、見知らぬ天井を見上げていた。

「有子ちゃん、気が付いた!?」

「ばあ、ちゃん?」

 聞きなれた祖母の声がする方に顔を向ければ上手く動かず、全身が痛いことに気付く。

 腕は点滴のチューブに繋がれ、右足はギプスで固定されていた。

 外から陽の光が差しているから、もう夜が明けたのだろう。

「ああ、良かった、気づいて……! お医者さんに来てもらうわね」

 いそいそとナースコールを押す祖母に、状況を思い出す。

 バイクで事故ったから、病院に搬送されたのだろう。

「有子ちゃん、泥棒を追いかけててバイクのバランスを崩して走行中に転倒したの。幸い、投げ出された先が田んぼの柔らかい地面だったのと、ヘルメットとちゃんとした服装のおかげで運よく右足の骨折と全身打撲で済んだけど、ずっと意識がなくて心配してたのよ。一応、頭も打ってるから、意識が回復したら脳の検査もあるって」

 祖母は余程心配していたのか、聞いてもいないのに滔々としゃべり始めた。

「そう……心配かけて、ごめん」

 珍しく素直に謝れば、祖母は泣きそうな顔をした。

「本当よ! もうこんな危ない真似しちゃダメよ」

 祖母は涙の滲む目で言って、皺のある手で私の頬を撫でた。

「それで、泥棒はどうなったの? 通帳は?」

 はっとして聞けば、祖母は苦笑した。

「捕まったわよ、有子ちゃんのおかげで。通帳も無事戻ってきたわ」

「あのさ、泥棒の顔が見えたんだけど、あの男、お母さんと出て行った人だったよね」

 私が言えば、祖母はぎょっとする。

「有子ちゃん、あなた、覚えて……」

「覚えてたというか、なんか、色々思い出してさ」

 眠りネズミの魔法のおかげで、とは言えなくて、曖昧な答え方をした。

 私は結局、別の世界ではなく、元の世界に戻ることを選んだ。

 私は何も知らなかった。

 母の事情も、祖父母の思いも、自分に向けられていた愛情も。

 だから、元の世界で本当のことを知りたいと思ったのだ。

「茜――あなたのお母さんからは、言うのを止められていたんだけど、そろそろ、話してもいい頃かもしれないわね。色々検査が済んだら、ゆっくり話しましょう」

 祖母は観念したように話す約束をしてくれた。


 私は意識が戻ったことで諸々の検査をさせられ、その後、警察からの事情聴取とキツイお叱りを病室で受け、祖母から事の顛末と昔の話を聞けたのは、翌日のことだった。

 祖母が教えてくれた話をまとめると、こうだ。

 私の父は大変なお人よしだったらしく、親友の連帯保証人になったせいで多額の借金を背負ってしまった。

 更に悪いことにその借金の返済のため必死に働きすぎて過労死してしまい、母と私が残されてしまった。

 母が水商売で働いていると、当時父の会社の社長の息子であり父の上司だった山村という男に言い寄られ、自分の女になるなら父の借金を肩代わりしてやると言われた。

 私を育てることを考えると、とても払いきれない程の借金だったため、母は仕方なく山村の言いなりになり、借金を肩代わりしてもらうことにしたらしい。

 そしてその山村が私にまで手を出そうとしてきたので、私を祖父母に預けたのは眠りネズミの魔法で見た通り。

 山村は約束通り父の借金を完済したが、最近、勤めていた会社が倒産の憂き目に遭い、経済的に困窮してしまったらしい。

 そこで山村は母へ、肩代わりした借金を返せと言ってきたが、母は無理だと拒否。

 それなら母の身内から金をとろうと、母の身辺について調べた山村が、母の両親である祖父母の家に金目の物を盗みに来たらしい。

 実の娘がお金を持っていったと思わせれば、祖父母も警察に通報しないだろうと思ったのだそうだ。

 そのため、母の白い軽自動車で来てわざわざ家の前に停めていたそうだが、運悪く、私に盗みに入ったところを見られてしまった。

 あとは慌てて逃げ出して、私とカーチェイスするうちに警察に捕まってしまったというわけだ。

「被害届を出したから、窃盗罪と危険運転による致傷罪でかなり長く収監されることになりそうなんですって。おかげで、と言ったら変だけど、ようやく茜もあの男から解放されるわ」

 祖母がほっとしたように言った。

「あのね、有子ちゃん。茜はあなたを見捨てたわけじゃなかったのよ。山村のところに行くことにしたときに、母親失格だから、私は死んだことにしてくれの一点張りで。あなたのことを思うなら、本当は、伝えないといけなかったのかもしれないけど、小さかったあなたに信じてもらうのは難しいと思って……本当に、ごめんなさい」

 祖母が深々と頭を下げるので私は困惑した。

「顔あげてよ、ばあちゃん。たぶん、ばあちゃんから昔その説明を聞いてても、私、信じなかったと思う。今だから、信じられるけど」

 私が言えば、祖母はゆっくり顔を上げて苦笑した。

「ばあちゃん、お母さんに会うことって、出来るか?」

 意を決して言えば、祖母は目を丸くする。

「会って、くれるの?」

「まだ許せない気持ちもあるけど、ちゃんと、お母さんの口から、話を聞いてみたくて。難しいかな?」

 信じられないように祖母が聞いてくるので、私は頷いて答えた。

「いいえ、難しくないわ。連絡先は知ってるの。茜も、ずっとあなたに会いたがってて、事故のことも聞いて、すごく心配してて。なんならあの子、電話すれば今からでも飛んで来るわよ」

 祖母の嬉しそうな声に今度は私の方が面食らってしまった。

「そ、そんなすぐじゃなくていいから! もうちょっと落ち着いてからで、いい」

 言ってみたはものの、心構えができていなくて慌てて答えた。

「そうね、まだ怪我のこともあるし、気持が落ち着かないものね。じゃあ、落ち着いたら教えてね。茜に連絡をとるから」

「うん、分かった」

 祖母の笑顔に頷いてから、窓の外を見る。

 黄昏色の空が、優しく世界を包み込んでいた。




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

黄昏の国のアリス 佐倉島こみかん @sanagi_iganas

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ