記憶の扉は開かれて
大階段の先の扉を開けると、そこには螺旋階段があるだけだった。
そこをぐるぐると何階分上ったか分からない程に上り続けて、ようやく着いたフロアはカチャンカチャンと食器のぶつかり合う音がしていた。
「眠りネズミ! 起きろ! 乾杯の時間だ!」
黒いシャツに紅いタキシード、赤くて大きなシルクハットを被った、鷲鼻で白髪に白髭の爺さんが、体長50cmはありそうな薄茶のネズミの前足をフォークで突き刺しながら言った。
おそらくこの爺さんが帽子屋だろう。
「むぅぎゅ……それぇは、さっきぃも……したぁよ……」
そのデカいネズミは痛がる様子もなく、むにゃむにゃとはっきりしない言い方で答えた。
頭には紅白のボーダーの浮かれたとんがり帽子を被って、帽子屋と同じ色のベストを羽織っている。
机に寝そべっている様子からしても、眠りネズミだろう。
「うひゃひゃひゃ! 乾杯、かんぱ~い! そしても一つぅ、かんぱぱぱ~い!」
椅子の上で飛び跳ねながら言ったのは、初めに会った白兎より二回りほど大きな灰色の兎だった。
手に持ったカップから、びちゃびちゃと紅茶がこぼれて眠りネズミのお尻に掛かっているが、眠りネズミは熱がる様子もない。
この兎も揃いの深紅のジャケットを着て、首元には黒い蝶ネクタイを付けていた。頭には藁で編まれた冠を被っている。
三月兎はコイツのことだろう。
ここまでの奴等も大分イカれていた感じがしたが、目の前のぐちゃぐちゃになったテーブルセッティングの有り様と、おかしな挙動を見ていると、コイツ等は段違いにヤバそうな気配がする。
私が来たことに気付いてもいない様子なので、これ幸いと大鎌を持ち直して三人の座っている机に駆けた。
「おっしゃ、死ねぇッ!」
真正面に寝ている眠りネズミを殺そうと大鎌を振り下ろそうとしたところで、突如視界に表れた赤いシルクハット。
「『お茶会』の邪魔をする気か小娘! 片腹痛いわ!」
右手で大鎌の柄を受け止めた帽子屋は、左手で強烈なボディブローを繰り出した。
「かはっ……ッ!?」
大鎌の自動防衛システムが働いて柄で防御したが、柄ごと拳を鳩尾に叩きつけられて、息が出来ないまま後ろに吹き飛ぶ。
なんとか体勢を立て直して、攻撃してきた相手を見れば、余裕な様子でタキシードの襟を正していた。
「はッ、ジジイの癖に動けるじゃねぇか」
大鎌を構え直して帽子屋に言う。
「ぬわっはっはっは! 吾輩に盾突こうなんぞ4世紀早いわ!」
胸を張って言った帽子屋が拳を握って腕を広げれば、その全ての指の間にいつの間にかフォークとナイフが握られている。
「いいぞ~! 帽子屋~! やれやれ~い! うひゃひゃひゃひゃ!」
大笑いしながら応援する三月兎の言葉を受けて、帽子屋はそのナイフとフォークを素早く投擲した。
半分は大鎌で払い落し、半分は体勢を低くすることで避けたが、避けたフォークが硬い床に突き刺さっているのを見て背筋が冷える。
カトラリーの投擲を避けつつ帽子屋に近づき大鎌で連撃を仕掛けるが、巧みに避けられてしまう。
「安直! 単調! 直情的! 目を瞑っていても避けられるわい!」
「こンのクソジジイ……!」
頭に来るが、一撃も当たっていないので何も言い返せない。
「あ~あ、アリス弱っちいの~! とっととアリスを殺して『お茶会』の続きしよ~う!
そう言って三月兎が尋常じゃない跳躍力を見せて飛び掛かかってくる。
「くっそ、っざけんじゃねぇぞ!」
紙一重で避けた三月兎の蹴りが当たった大理石と思われる床にヒビが入ったのを見て冷や汗が出る。
「余所見をしているとは余裕だな小娘!
「も一つ
拳を繰り出す帽子屋と、またしても頭上から蹴りかかって来る三月兎に左右から挟み撃ちにされた形になり、咄嗟にしゃがむことで避けたその時。
「ぐおっ!?」
「ぎひゃっ!?」
三月兎の蹴りが帽子屋の頭に、帽子屋の正拳突きが三月兎の顔面にクリティカルヒットした。
「――連携が取れねぇなら世話ねぇなッ!」
一人と一匹がよろめいた隙を逃さず、大鎌をその首めがけて振るう。
「な、に……っ!?」
「そん、なあ……っ」
最期の言葉を口走りながら、三月兎と帽子屋の首が落ちた。
ラッキーな同士討ちに助けられた形だが、とどめを刺せたのだから良しとしよう。
倒れる身体にさっと両手を合わせてから残る眠りネズミに大鎌を構えた。
「あぁあ……ありがぁとう、アぁリス……」
転がる首を見て、今まで微動だにしていなかった眠りネズミが、のそりと身体を起こして私に言う。
「おいおい、仲間が殺されたってのにお礼ってどういうことだよ」
よく分からない事態につっこめば、眠りネズミはむにゃむにゃと口を開いた。
「じぃつは……僕ぅは……」
眠そうな話口調で長々と話してくれた内容を要約すると、眠りネズミは白兎同様、お茶会の狂気に影響を受けていないキャラクターらしく、だんだんおかしくなる三月兎と帽子屋に胸を痛めていたらしかった。
眠りネズミが影響を受けないのは、目覚める際の『理想の世界』を正しく選べるようにするための『記憶の番人』という役割を担っているかららしい。
『記憶の番人』とは、アリス本人が忘れてしまっていることや目を背けている真実について、魔法を使って記憶を再現して見せることで、何が理想なのかを自覚させ、目覚める世界を一つに絞るための役割だという。
「なるほど。目を背けている真実ってのが少しひっかかるが、どんな世界がいいか決めかねてたから助かるっちゃ助かるな」
便利な仕組みだと思って眠りネズミに言えば、眠りネズミは寝ぼけた顔ながら悲しそうな表情を見せる。
「つぅらい、記ぃ憶……かぁも、しれぇないけど……ごぉめんね、アぁリス……」
眠りネズミにはもう、私の記憶が見えているのだろうか。
「はっ、どんな記憶だろうと受け止めてやるよ。謝んじゃねえ」
祖父母以外からこんな風に思い遣ってもらえたのは初めてで、照れくさくて眠りネズミの背中をわしわし撫でてやった。
「わぁかった……それぇじゃ、魔ぁ法を……かけぇるよ……」
「おう」
眠りネズミは前足を合わせる。
「
眠りネズミの言葉と共に私の周りを大きな鏡が取り囲む。
万華鏡のように自分を映し出すそれに驚いていると、派手な音を立ててその鏡が砕け散った。
――咄嗟に頭を庇って目を瞑る。
大きな鏡が粉々に砕ける派手な音が収まって目を開ければ、私はさっきと違った場所にいた。
すぐ目の前に、にやついた中年手前くらいの男の顔が見える。
黄ばんだ歯、脂ぎった顔、ぎょろりとした目は興奮で血走っていた。
男の酒臭い、荒い息がかかって鳥肌が立つ。
抵抗しようと男の肩を押し返す手を見て、それが異常に小さいことに気づいた。
そこで幼い時の記憶だと気づく。
甲高い悲鳴が、意識と裏腹にこぼれていた。普段の私よりずっと高い声。
男の肩越しに、レースのカーテンが見えた。薄いクリーム色の縦じまの壁紙。シールの跡のついた焦げ茶のタンス。その右奥に障子戸。あのアマと二人で住んでいたアパートの間取りだった。
意識が景色の方に行っていたその時、スカートの中に、男の手が入ってきた。
太股を這いまわる体温と感触に幼い私は悲鳴を上げる。なんだこれ、こんなこと覚えてない。
さわさわと太股に触れる男の固い皮膚に吐き気がした。
「や、やだ! おじさんやめて! お母さん助けて!」
泣きわめく私が助けを求めたのは、他ならぬあのアマだった。
「ちょっと、何してるのよ!」
聞き覚えのあるようなアルトの声が空気を切り裂いて、男を突き飛ばし、私を抱きしめた。
「いってえなあ。お前が拒むからだろう? 娘に相手してもらおうと思ってよお」
下卑た笑いが男の口から漏れた。しっかりと胸に抱えられて女の顔は見えない。
「ふざけないで! この子はまだ小学生にもなってないのよ!? 何考えてるの!?」
「お前が生意気な態度とるからじゃねえか。借金肩代わりしてもらってる身の上で、俺に逆らおうとするからだよ。娘に手ぇ出されたくなかったら、大人しく従えばいいだけの話だろ?」
「……分かった。分かったわよ。従えばいいんでしょう。だから、娘には手を出さないで」
私を抱きしめる女の手に力がこもった。
「最初からそう素直になりゃいいんだよ。まあ、娘も大きくなったらさぞかしいい女になるだろうなあ。そうなりゃ二人まとめて可愛がってやろうか」
「ふざけないで! 娘に手は出させるもんですか!」
憎悪交じりに叫んだ声は、何か、私の中のあのアマのイメージと違う。
確か、あのアマは金に目が眩んでこの男と一緒になったはずだった。
なのに、なんでこんなに不本意そうなんだろう。
なぜこんなに私をしっかりと抱きしめているんだろう。
だって、私が邪魔で捨てたはずだったのに。私を捨てて、この男を選んだはずなのに。
なんで。どうして。
その時、かちゃりと、耳の奥で鍵の開く音がした。
気づけばまた私は違う場所にいた。
日に焼けた畳、松の絵が書かれた古い襖、暗い部屋に隣の部屋から差し込む蛍光灯の白々とした明り。
ここは祖父母の家の仏間だ。襖の隙間から明りが差している隣の部屋が茶の間だ。
「本当にそれでいいのか」
祖父の低い声がする。
「仕方ないでしょう、こうするしかないの。何度も言わせないで」
苛立ったような口調で、女は真っ赤な唇に煙草を運んだ。黒のワンピースは赤いアネモネの柄。
ああ、これはあの日の情景だ。私が捨てられた、あの日の。
「茜……でも」
祖母はいつも私に向ける以上の心配そうな顔で女を見つめている。
「あの男は最近、有子にまで手を出そうとしてるの! このままじゃ、あの子が危ないのよ! でも私には清太郎さんの借金の返済がある! お金が必要なの! 私はあの男に頼るしかないんだから、どうしようもないでしょう!?」
女の苛立たしげな怒鳴り声は、どこか聞き覚えがあった。
お金が必要、あの男に頼る――そうだ、私はこれを聞いてあの女が私を捨てて男を選んだのだと思ったのだった。
さっきの情景が思い出される。
あの男は幼い私にまで手を出した。
私をあの男から守るため、あの女は自分を犠牲にして、私を祖父母に預けた――?
私がずっと恨んでいたあの女の行動の意味を理解して、私は膝から崩れ落ちそうになる。
「こんな事情、有子には話せないわ。どれだけ恨まれてもいい。私にはもうこの子に顔を合わせる資格はないんだもの。私は死んだということにして、この子を育ててちょうだい。お願いよ」
あの女は、灰皿にタバコを押し付けてから、目に涙を浮かべて、祖父母に頭を下げた。
「分かった。だが、いつかカタが付いて本当のことを話せる時が来たら、いつでも帰ってこい」
祖父は、静かに真っ直ぐ自分の娘の目を見つめて言った。
「ありがとう、お父さん」
微笑んだ母の目から、涙がこぼれ落ちた。
その涙がアネモネ柄のワンピースに落ちたところから、世界が波紋の広がる水面のように歪んでいく。
歪んだ視界が正常に戻ると、そこは、ついさっきの泥棒の目撃現場だった。
「おい、待て!」
記憶の中の私が男に向かって叫ぶ。
男が軽自動車に乗り込む際に外れたフード。
その横顔を見て、ハッとした。
老けてはいたが、最初に見た記憶の、幼い私にまで手を出してきたあの男の顔だった。
訳が分からない。お金があるはずの男が、どうして泥棒なんかを?
私が高校生になるまでの10年ちょっとの間に、もしかして何かあったのか?
それで、母の実家である祖父母の家に盗みに入ったとか?
記憶の中の私がバイクのエンジンを吹かしてライトをつける。
その光が急に強まり、視界を真っ白に埋め尽くしたところで、大きな鏡が派手に割れる音が、響いた。
――音が収まって目を開けると、そこは元の『お茶会』の会場だった。
「おはぁよう、アぁリス……真ぅ実は、見ぃえた、かぁな……?」
目の前にいた眠りネズミが、相変わらずの眠そうな声で言った。
「よく、分かんねぇけど……目覚めたい世界は、なんとなく決まった気がする」
分からないことも多くて、何を選ばせるための真実だったのか、はっきりとは分からない。
でも、この分からない状況を作るための真実だったのだとしたら、選ぶべき世界は一つしかないと思った。
「そぉう、よぉかったね……そしたぁら、僕のぉ……首ぃも、刎ぁねて……」
むにゃりと笑った眠りネズミは、机の上から自分の首を差し出した。
「よくしてもらったのに、首を刎ねないといけねぇのは、気が引けるよ」
柔らかくて暖かい眠りネズミの喉を撫でて言う。
「でぇも、皆殺ぉしに……しぃないと、いけぇないの……だいぃじょうぶ、だぁよ……」
眠りネズミは小さな手で私の手の甲に触れて言った。
「僕ぅを、刎ぁねたら……奥ぅの、とぉびら、かぁら……女ぉ王の間ぁへ……女王ぅを、刎ぁねたら……全ぇて、終わるぅよ……」
眠りネズミに優しく言われて、私は大鎌を握り締めた。
「分かった。色々ありがとうな、眠りネズミ。それじゃあ、行くよ」
「うんぅ……さよぉなら、アぁリス……」
目を閉じる眠りネズミに、大鎌を振り下ろす。
あっけなく冷たい大理石の床に転がる小さな頭を、身体の傍に置いて手を合わせた。
お茶会の会場の奥にある大きな両開きの扉の前に立って一つ深呼吸をする。
いよいよ、次で最後だ。
私は重い扉を両手で押し開け、女王の間へ足を踏み入れた。
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