第二話 初夏
初夏は、
彼は藤の花が好きだった。彼が生きていた頃はよく庭で、藤を一緒に眺めていた。
智昭は人形師で、私を作ってくれた人だ。
彼が初めて作った人形が、私だった。
明るい、春のように、周りをしあわせにできる子になるようにと、明るい子と書いて、はるこという名前にしてくれた。
とてもすてきな名前だと思う。
彼は私のことを『俺の恋人』とか、『俺の可愛いお姫様』と呼んでくれた。
いつもそばに置いてくれて、とても大事にしてくれたのだ。
だからだろうか。原因はわからないが、私はある満月の夜、自由に言葉を話し、動くことができるようになった。
そう、妖になったのだ。
妖になる前から、意識はあった。だが、普通の人形の時は匂いなんか分からなかったし、気温も感じなかった。
妖になったことで、暑さや寒さが分かるようになり、食べ物や飲み物を味わえるようになった。自分の体温まで、今では感じられるし、感情が高ぶれると、涙が流れることもあるのだ。
とても不思議なことだが。
私が妖となった季節が、初夏だった。
彼が愛した季節だ。
もちろん彼は喜んでくれた。
『もっと早くてもよかったが』
とも、言っていた。
智昭が私を作ったのが二十代で、私が動き出したのが、彼が五十代の時だったからだ。
彼は幼い頃から妖を見ることが多く、慣れていたので、いきなりのことに驚きはしても、私を恐れたりはしなかった。
私が普通の人形だった時と同じように、愛してくれた。
頭を撫でてくれたり、抱きしめてくれたり、やさしい言葉をたくさんくれた。
私には、智昭が作ってくれたその時から、心というものがあった。彼のことが愛しいと感じ、智昭と話したいと願っていた。
人間になることができれば、智昭と話せるのではないかと思い、人間になりたいと思ってた。
人間にはなれなかったが、妖となり、智昭と会話をして、自分から彼に触れることができて、ものすごくしあわせだった。
智昭は、満月の夜が好きだった。
だから、満月の夜には必ず、共に散歩に出かけていた。
彼が寿命で亡くなったあと、私は長く眠るようになった。気づけば、満月が過ぎている時もあって、彼の弟子の
蔵カフェのマスターであるリクは、智昭が亡くなったあと、私がカフェに行くと、『これからはお代は結構ですので、いつでもここにいらっしゃってくださいね。すべて無料にしますから』と言ってくれた。
だが、当たり前のように青磁が五十円玉を与えてくれるし、お金を払うことを知っているのに、無銭飲食をするのは、罪悪感があるので、私はお金を払うことにしている。
二年程前、智昭があの世とやらに行く前に、私に青磁を頼むと言っておったな。青磁は、私がいなくても生きていけるだろうに。
ふう。
コーヒーを見下ろしながらため息を吐いていると、「なーに、たそがれてんの?」と言いながら、ヌッと紅い鯉のフェイフェイが顔を出す。
近すぎるので、私はバシッと、フェイフェイの頬を叩いた。
「いやんっ! いじめないでっ!」
と、フェイフェイが、ヒレをパタパタさせる。
「お主がいじめるからだ」
「ちがうっ! ちがうわぁ! ともやんがいなくなってからぁ、あなた、ひきこもって、ねてばかりでー、なかなか会えないからぁ、アタチ、しんぱいしてたの。でも、今夜は満月だから会えるかと思ってぇ、楽しみにしてたのよー。なのに、シカトするしー、アタチ、さみしいきもちでいっぱいだったの。そしたら、なんか、たそがれてるしー、アタチ、あなたのことがしんぱいで」
「ムゥ」
「ぽっぺをふくらませても、きゃわいいわぁ!」
イラッとしながら、私は冷めたコーヒーを一気飲みした。
「甘いっ!」
ドンッと、るり色のマグカップをカウンターに置く。割れたりはしない。いろいろな妖が訪れる場所なので、蔵カフェの陶器は丈夫なのだ。
「お砂糖はいつもと同じですよ」
マスターが、笑顔でささやく。
気づけば、曲が変わってる。
初めて耳にする音楽だ。
やさしい音。愛を感じて、満たされる。心が喜んでいるのを感じた。
「これは?」
首を傾げて、たずねれば、マスターはニコリと笑う。
「はるこっていう名前の曲です。ひらがなの、はるこですよ」
「ふうん。そんな曲があるんだ」
「作曲家の方にお願いして、作っていただいたのです」
「――ハッ? わざわざ?」
「はい。僕の好きな女性をイメージした曲を作ってほしくて――」
「へッ?」
「僕、好きな女性がいるんです。ですが、彼女には愛する方がいて。彼女が愛する方は、もう、亡くなっているのですけどね。それでも彼女は一途なのです。そんな真っ直ぐな彼女も好きなのですが……」
切なげに、琥珀色の瞳を揺らすマスターを見上げたまま、私は胸がドキドキするのを感じていた。顔が熱い。どうすればいいか、分からない。
「いやーん! すてきぃ! 恋ってすてきね! すてきだわっ! 魚の鯉じゃないのよっ! 相手をいつくしみ、まごころをささげたいと願う、神聖な気持ちなのっ!」
「うるさい」
ジロリと、私はすぐそばにいるフェイフェイを睨みつける。
「ウルサイとはしつれいしちゃうわねっ! マスターが言ってるのはあなたのことなのにっ!」
「いや、気のせいだ」
首を横に振れば、「このどんかんっ!」という声が飛んでくる。
うるさい鯉を放置して、私は巾着袋から五十円玉を取り出した。
そして、カウンターに置く。
渡しても、受け取ってくれなければ、意味がないからな。
「帰る」
そう言って、私は宙に浮かんだあと、巾着袋を持ち上げる。
「待ってください。明子さん」
その声に、体が震えた。泣きそうだ。
切なげな声で、呼ばないでほしい。
私が悪者みたいだ。
緊張する。迷う。
去るか、留まるか。
「マスター、がんばってねー。今日はもう帰るわぁ。ダーリンに、会いたくなっちゃったぁ! お代はここにおいておくわねー」
お金を置くような音がしたあと、フェイフェイの声がしなくなった。
もう、いないのかもしれない。
胸が高鳴るのを感じながら、私はゆっくりと顔を上げた。巾着袋を持ったまま。
目が、合う。
真摯な眼差しに、ドキリとした。
「あの、本日は、驚かせてしまい、申し訳ありませんでした」
頭を深く下げられて、私はぶんぶんと首を横に振った。
「えっと、あのっ――」
なんと、言えばいいのだろう?
分からない。困った。
「貴女の繊細なお心を戸惑わせてしまうような、我儘な男で、大変申し訳ないと思っています」
ピョコンと、マスターの頭の上に、白い狐耳が現れて、ペタンとなった。気づけば人間の耳がない。
狐耳は可愛いが、わざとだろう。
狐だからな。あざとさを感じるが、気づいていないふりをする。
「――ですが、僕は貴女のことを愛しているのです。貴女や、他の誰かに、この想いを否定されたとしても、それをやめることはできないのです。貴女が、愛する方を忘れることができなくても、それでも貴女を愛していたいのです」
「……私は、マスターの気持ちを、否定するつもりはない」
呟き、俯いた私の小さな耳に、「そうですか。よかった」という、安堵したような声が届いた。
しばらく経ってから顔を上げると、「梅雨入りしたら、紫陽花を見に行きませんか? 雨に濡れた紫陽花を」と、狐耳をピンと立てたマスターがささやいた。
「紫陽花か。昔はよく、寺まで見に行ったものだ」
「一緒に行ったこともありますね。四人で」
「うむ。智昭と青磁と、マスターと私でな」
「はい。紫陽花も、それを見てはしゃぐ貴女も、とても可憐で美しく、胸が躍りました。この命、貴女のために使いたいと、そう思ったものです」
「……愛が重いな」
「ふふっ。そうですね。自分でも、そう思います。こんな僕はお嫌いですか?」
「嫌いなど、そんなこと、思ったことはない。ここは大事な場所だ。それに、お主も大切だ」
「ありがとうございます。嬉しいです」
狐耳をピコピコさせて、マスターが言う。
「私は寝ていることが多いんだ。梅雨入りして、紫陽花が綺麗だと感じたら、教えにきてくれ」
そう頼めば、マスターが、花開くように笑った。
私は、「ではな」と告げると、素早く移動し、戸を開けて、蔵カフェの外に出た。
空を仰ぐ。
「智昭、告白されたぞ」
満月に語りかけた私は、
完
初夏色ブルーノート ~満月の夜、妖のいる蔵カフェで~ 桜庭ミオ @sakuranoiro
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