初夏色ブルーノート ~満月の夜、妖のいる蔵カフェで~

桜庭ミオ

第一話 満月の夜に

明子はるこさん、今夜は綺麗な満月ですよ」


 やわらかな声音に、私はふっと眠りから覚める。

 穏やかな表情の着物姿の青年――青磁せいじが、私のことを見下ろしているのが分かった。


「満月か」


 横になりながらぽつりと呟く私に、「はい。いつものように五十円玉、巾着袋に入れておきました」と、青磁が言う。


 私はゆるりと体を起こし、「うむ」と頷いた。


「では、行くとするか」

「はい、行ってらっしゃいませ」


 頭を下げたあと、青磁が窓を開けてくれる。


 草の匂いを含んだ生ぬるい風を感じながら、私はふわりと宙に浮き、巾着袋を持ち上げた。


 外に出た私は、空を仰ぐ。


「綺麗な月だ」


 輝く満月に微笑んだあと、庭の藤棚に近づき、観賞する。

 華やかで甘い藤の香り。愛する人の顔が浮かび、涙が零れた。パチパチと瞬きをする。


「行くか」

 小さな声を出し、私は敷地から出るために動き出した。



 大きな満月が闇夜を照らす。こんな夜の散歩は、踊り出したくなるぐらい、楽しいものだ。


 先程、犬に吠えられた時はビクリとしたが、鎖で繋がれた犬が追いかけてくることはない。

 昔は野良犬が多くて、大変だった。


 いや、犬だけじゃないか。猫も、人も、私の存在に驚いていた。だが、この町の人々は、今では私に慣れている。


 風が気持ちいいな。前の満月は、四月だったか。では、今は五月か。ふむ。


 月夜を堪能しながら進んでいると、やがて、大きな蔵が見えた。橙色の灯りが漏れているのは、戸が、ガラスだからだ。


 ここは昔、普通の蔵だったのだが、三十年程前、蔵カフェというものになった。休みの日もあるが、新月の夜と満月の夜は開いている。


 蔵カフェのマスターは、人間の姿に変化できる狐の妖だ。

 マスターの元で働く者たちは、妖だったり、人間だったりする。


 客は朝と昼は人間で、夜は妖というように、一応決まっているのだが、たまに、夜に人間がくることがある。

 妖がいても気にしない人間もいるし、妖がいると知らずに訪れる人間もいる。


 知らずに行った人間はホラーだろう。妖には、人間の目に映る者と、映らない者がいる。

 私のように、どんな人間が見ても、人形に見える妖もいるが。


 そんなことを考えながら、階段の上をふわふわと移動する。


 ガラス戸に映ったのは、一体の人形――私。


 長い髪の毛は栗色で、瞳は若葉色。洋風な色と顔立ちなのに、艶やかな牡丹柄の着物を着ているもんだから、すぐに顔と名前を覚えられてしまうのだ。


「行くか」

 ぽつんと呟き、ガラス戸を開けて中に入る。ガラスぐらい、通り抜けできるが、力を使うと眠たくなるからしない。


 コーヒーの香り。流れていた音が止まる。

 蔵の中の黒いピアノを見る。そこにいる紅い鯉の妖――フェイフェイは弾いてない。


 私に気づいたフェイフェイが、カッと目を見開いた。


「あらぁ、ハルルンがいるわぁ。おひさぁ」

 と、フェイフェイが嬉しそうな声で言い、体をくねくねさせたので、「ああ、うん。ひさしぶり」と答えて、さっさとカウンターに移動した。


「いやーん、つめたーい」

 とか聞こえるが、スルーして、カウンターにドカリと座る。


「いやーん、ハルルン、きゃわいいー! 椅子に座るハルルンも萌えるけど、そこでもいいわぁ」


 フェイフェイが叫んでるが、もちろんスルーだ。


 白い花瓶に生けられた、ピンクの薔薇が綺麗だな。

 そう思いながら、カレンダーを見上げる。


「やはり五月か」

「ええ、そうですよ」


 やさしい声音にふり向けば、黒と白の仕事着で身を包んだ、白銀の髪の男がいた。

 琥珀色の双眸が、穏やかに私を見下ろしている。


 今は狐耳も尻尾も出してないが、彼がこのカフェのマスターだ。名前はリクだが、私はいつもマスターと呼ぶ。


 妖を見ることができない普通の人間には、黒髪黒目に見えるらしいが、私はこの色を気に入っている。

 人間になりたいと願った時もあったが――。


「どうぞ」

 注文していないのに、温かいコーヒーを出してくれるのはいつものことだ。


 るり色のマグカップに触れてみたら、熱かったので、もう少ししてから飲むことにした。


 ぼんやりとマスターを見ていたら、一枚のレコードを取り出した。レコードを替えているようだ。


 すぐに、曲が流れ出す。


「――これはっ!」

 驚き、叫ぶ私に向かって、マスターがクスリと笑う。


「初夏ですから」

「……初夏か」


 マスターの言葉を受けて、私は呟く。

 確かに今は初夏なのだろう。五月だしな。


 だが、マスターの言葉の意味は、それだけではないはずだ。


 この曲のタイトルは、初夏色ういかいろの涙。

 智昭ともあきが愛していた曲だ。


 彼が昔愛した人間の少女がこの曲を好んでいたらしい。彼女が許婚の元に嫁ぎ、智昭は生涯独身だった。 


 ブルーノートが多く使われているらしく、気だるい感じというか、泣けてくる。

 泣きにきたのではないというのに……。


 そう思いながらも、音を止めろとは言わなかった。

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