初夏色ブルーノート ~満月の夜、妖のいる蔵カフェで~
桜庭ミオ
第一話 満月の夜に
「
やわらかな声音に、私はふっと眠りから覚める。
穏やかな表情の着物姿の青年――
「満月か」
横になりながらぽつりと呟く私に、「はい。いつものように五十円玉、巾着袋に入れておきました」と、青磁が言う。
私はゆるりと体を起こし、「うむ」と頷いた。
「では、行くとするか」
「はい、行ってらっしゃいませ」
頭を下げたあと、青磁が窓を開けてくれる。
草の匂いを含んだ生ぬるい風を感じながら、私はふわりと宙に浮き、巾着袋を持ち上げた。
外に出た私は、空を仰ぐ。
「綺麗な月だ」
輝く満月に微笑んだあと、庭の藤棚に近づき、観賞する。
華やかで甘い藤の香り。愛する人の顔が浮かび、涙が零れた。パチパチと瞬きをする。
「行くか」
小さな声を出し、私は敷地から出るために動き出した。
♢
大きな満月が闇夜を照らす。こんな夜の散歩は、踊り出したくなるぐらい、楽しいものだ。
先程、犬に吠えられた時はビクリとしたが、鎖で繋がれた犬が追いかけてくることはない。
昔は野良犬が多くて、大変だった。
いや、犬だけじゃないか。猫も、人も、私の存在に驚いていた。だが、この町の人々は、今では私に慣れている。
風が気持ちいいな。前の満月は、四月だったか。では、今は五月か。ふむ。
月夜を堪能しながら進んでいると、やがて、大きな蔵が見えた。橙色の灯りが漏れているのは、戸が、ガラスだからだ。
ここは昔、普通の蔵だったのだが、三十年程前、蔵カフェというものになった。休みの日もあるが、新月の夜と満月の夜は開いている。
蔵カフェのマスターは、人間の姿に変化できる狐の妖だ。
マスターの元で働く者たちは、妖だったり、人間だったりする。
客は朝と昼は人間で、夜は妖というように、一応決まっているのだが、たまに、夜に人間がくることがある。
妖がいても気にしない人間もいるし、妖がいると知らずに訪れる人間もいる。
知らずに行った人間はホラーだろう。妖には、人間の目に映る者と、映らない者がいる。
私のように、どんな人間が見ても、人形に見える妖もいるが。
そんなことを考えながら、階段の上をふわふわと移動する。
ガラス戸に映ったのは、一体の人形――私。
長い髪の毛は栗色で、瞳は若葉色。洋風な色と顔立ちなのに、艶やかな牡丹柄の着物を着ているもんだから、すぐに顔と名前を覚えられてしまうのだ。
「行くか」
ぽつんと呟き、ガラス戸を開けて中に入る。ガラスぐらい、通り抜けできるが、力を使うと眠たくなるからしない。
コーヒーの香り。流れていた音が止まる。
蔵の中の黒いピアノを見る。そこにいる紅い鯉の妖――フェイフェイは弾いてない。
私に気づいたフェイフェイが、カッと目を見開いた。
「あらぁ、ハルルンがいるわぁ。おひさぁ」
と、フェイフェイが嬉しそうな声で言い、体をくねくねさせたので、「ああ、うん。ひさしぶり」と答えて、さっさとカウンターに移動した。
「いやーん、つめたーい」
とか聞こえるが、スルーして、カウンターにドカリと座る。
「いやーん、ハルルン、きゃわいいー! 椅子に座るハルルンも萌えるけど、そこでもいいわぁ」
フェイフェイが叫んでるが、もちろんスルーだ。
白い花瓶に生けられた、ピンクの薔薇が綺麗だな。
そう思いながら、カレンダーを見上げる。
「やはり五月か」
「ええ、そうですよ」
やさしい声音にふり向けば、黒と白の仕事着で身を包んだ、白銀の髪の男がいた。
琥珀色の双眸が、穏やかに私を見下ろしている。
今は狐耳も尻尾も出してないが、彼がこのカフェのマスターだ。名前はリクだが、私はいつもマスターと呼ぶ。
妖を見ることができない普通の人間には、黒髪黒目に見えるらしいが、私はこの色を気に入っている。
人間になりたいと願った時もあったが――。
「どうぞ」
注文していないのに、温かいコーヒーを出してくれるのはいつものことだ。
るり色のマグカップに触れてみたら、熱かったので、もう少ししてから飲むことにした。
ぼんやりとマスターを見ていたら、一枚のレコードを取り出した。レコードを替えているようだ。
すぐに、曲が流れ出す。
「――これはっ!」
驚き、叫ぶ私に向かって、マスターがクスリと笑う。
「初夏ですから」
「……初夏か」
マスターの言葉を受けて、私は呟く。
確かに今は初夏なのだろう。五月だしな。
だが、マスターの言葉の意味は、それだけではないはずだ。
この曲のタイトルは、
彼が昔愛した人間の少女がこの曲を好んでいたらしい。彼女が許婚の元に嫁ぎ、智昭は生涯独身だった。
ブルーノートが多く使われているらしく、気だるい感じというか、泣けてくる。
泣きにきたのではないというのに……。
そう思いながらも、音を止めろとは言わなかった。
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