祝呪官吏

柚緒駆

祝呪官吏

 空があった。いままで生きてきて、見た記憶がないほどに青く澄み渡った綺麗な空。


「それは面白いですね。いや、皮肉だというべきなのかな」


 声がした。横たわっていた体を起こし、その方向に顔を向けると闇があった。いや、闇のように真っ黒なローブ。裾は長く長く、青空を遮るように遙か遠くまで続いている。


 そこで、俺は異変に気付いた。


「ええ、そうですよ」


 黒いローブから浮き出た青白い顔が言う。


「あなたはいま、空に浮かんでいるのです。まあ物理的に浮遊している訳ではありませんが」


「……いったい、どういう事だ」


 俺の言葉に黒ローブの男は、さも当たり前だろうとでも言いたげな顔を見せた。


「決まってるでしょう。あなた死んだんですよ」


 その瞬間、俺の脳裏にあの光景が蘇った。拳銃が俺の胸を撃ち抜き、大量の血が噴き出す。遠のいて行く意識の中で俺は叫んだ。おまえを許さない、と。


 夢のような気もしないではないのだが、胸に残る痛みが伝える。あれは現実なのだと。ならば、俺は本当に死んだのか。


「思い出したようですね。いちいち説明するのも面倒臭いので何よりです」


 黒ローブの男は口元を小さく歪めて笑った。こいつ、何なんだ。


「ああ、申し遅れました。私、この地域の祝呪官吏しゅくじゅかんりを務めております、ゴウと申します」


 ゴウと名乗る男は小さく頭を下げた。


「しゅく……じゅ、かんり?」


 聞いたことのない言葉だ。何かの専門用語のようなものなのだろうか。ゴウは笑顔を崩さずにこう言う。


「簡単に申し上げれば、死んだ人間の魂、つまり今回はあなたですが、あなたが現世を祝福するのか呪うのか、その決断に立ち会う役職の者です。まあ役職と申しましても、どこに所属してるとかそういう話はちょっと難しいですが」


 どことなく馬鹿にされているような気もするのだが、まあそれは置いておこう。


「祝福と呪い? そんな事をしなきゃいけないのか」


 どちらも宗教とかオカルトとか、そういう類いでなきゃ聞かない言葉だ。ゴウはうなずく。


「ええ、どちらかを選んで頂けると話は簡単なので」


「ちなみに祝福すればどうなるんだ」


「すぐ上に参ります。あなた方が天国や極楽浄土と呼ぶ世界です」


「じゃあ呪えば」


「すぐ下に参ります。あなた方が地獄や黄泉と呼ぶ世界です」


 そんなもの、答は決まってるだろう。


「だったら祝福するよ」


「そうですか、素早い決断ありがとうございます。では許して頂けますね」


「許す?」


「ええ、死後の魂が上に行く条件はただ一つ。あなたが現世で出会ったすべての人間を祝福する事、すなわちあらゆる罪を許す事です」


「ちょ、ちょっと待ってくれ」


 動揺が俺の言葉をもたつかせる。


「許すって、全部か。全員をか」


「ええ、そうなっております」


 ゴウは笑顔でうなずくが、俺にとっては笑い事じゃない。


「俺は、殺されたんじゃないのか」


「どうやらそのようですね」


「その犯人も許せっていうのか」


「そういう決まりですし」


「……ふざけんなぁっ!」


 腹の底から怒りがフツフツと湧いてくる。ゴウに殴りかからなかったのはまだ自制心が働いているからだろう。


「俺は被害者だぞ! 殺された被害者だぞ! 何で俺が許さなきゃいけないんだ!」


「何でとおっしゃられましても、被害者が許さずに誰が許すというのですか?」


「そういう問題じゃない! 理屈の話なんかしてない! 俺は……俺は!」


 するとゴウは不思議そうな顔でこう言った。


「何か誤解なさっているのかも知れませんが、別に私はあなたに許しを強要している訳ではありませんよ。許さないのはあなたの自由です。当然の権利と言ってもいい」


「それじゃ」


「ええ、許せないのなら呪ってください。まあ下に行く事にはなりますが」


「意味がないだろうが!」


 怒鳴る俺に、いかにも心外だと言わんばかりの顔でゴウはつぶやく。


「あなた結構クレーマー気質ですね」


「何がクレーマーだよ! 何で俺がこんな目に遭わなきゃならないんだ。理不尽じゃないか」


 胸の奥の怒りは、いつしか哀しみに変わっていた。悲しさと情けなさに、心底泣きたかった。しかしゴウはいささか呆れたような表情を浮かべる。


「理不尽は世の常でしょう。それともあなたは生きている間、理不尽な目に遭わなかったとでもいうのでしょうか」




「そりゃあ仕事は楽じゃないさ。けどね、日本で十年働けば、ここで死ぬまで働くより金が稼げるんだよ」


 ブローカーの男はそう言って笑ったという。母さんがベトナムの村を出たのは十八歳のとき。自分が売り飛ばされるなんて考えもしていなかった。


 それから、言葉にもできない――できたってしたくない――クソのような日本での三年が過ぎたとき、母さんは俺を身ごもった。父親が誰なのかなんてわからない。けど俺を産む決心をした母さんは逃げ出した。


 逃げて、逃げ回った末に行き着いたのは、ベトナムマフィアの縄張り。腐った場所から別の腐った場所へ移っただけだったが、それでも母さんは俺を産めた事を喜んだらしい。俺が望んだ訳ではないけれど。


 俺は、生まれた瞬間から理不尽の中に居た。


 母さんは俺を日本の学校に行かせたがった。日本で「普通」の生活をさせたいと願っていたようだ。だが子供は残酷だ。肌の色や言葉のイントネーションの違いで、俺はいつもつまはじきにされていた。


 だからといってベトナム人のコミュニティに居ても安心などできない。俺の血の半分はベトナム人だが、残り半分が何者なのかわからないからだ。俺に笑顔を向けてくれるヤツなんて誰も居なかった。


 それでも人間には居場所が必要だ。誰かに認めてもらいたい。そんな俺がマフィアの手伝いをするようになったのは、当然の成り行きなのかも知れない。


 使いっ走りから始めて、窃盗の見張り、詐欺の手伝い、大麻の栽培、麻薬の売買、いろいろやった。十六にもなれば仕事にも慣れて、それなりのワルを気取るようにもなっていた。そんなとき。


 大麻を栽培していたアパートに警官が乗り込んできた。捜査令状もなしに、しかも仲間も連れずにたった一人で。警察は面倒な相手だが、何でもできる魔法使いじゃない。法律に縛られた飼い犬だ。俺は軽くあしらって追い返そうとした。もちろんこのアパートからトンズラしなきゃならないとは言え、自分一人で逃げるくらいは簡単だ。そう思っていた。


 あいつが血走った目で、震える拳銃を俺に向けるまでは。




「なあるほど、あなたの側にも殺されるだけの理由はあった訳ですね」


「あんた、俺の考えを」


 目を丸くする俺に、ゴウは鼻先で笑った。


「ええ、読めますよ。祝呪官吏を任されるくらいですから、その程度は。たまに怒る方もいらっしゃいますがね、勝手に心を読むな、とか。でも死後の世界にマナーもルールもへったくれもないですし」


 にらみつける俺を楽しそうに見やると、ゴウは天を指さした。


「ああそうだ、いい事を教えて差し上げましょう」


 すると上空に男の顔写真が大写しになった。思わずあっと声が出る。忘れろと言われても忘れはしない、俺を撃った警官だ。


「あなたが殺された事、いま現世では大問題になってますよ」


「……問題?」


「ええ、どうやらこの警官、過去にも在留外国人に暴言を放ったとか暴力を振るったとかいう経歴があるようで、日本中のマスコミがこぞって警察を大バッシングしています。『日本のジョージ・フロイド事件だ』とか言いながら」


 その事件の話なら聞いた事はある。あるが。


「ベトナム政府もカンカンでね。十六歳のベトナム人が日本で警官に殺されたのは差別だって首相が発言して、日本の大使を呼びつけたり駐日大使を呼び戻したり、それはもうエラい騒ぎで」


「何だよ、それ」


 俺は自分の声が震えているのに気がついた。


「生きてるときには何もしてくれなかったのに、死んだら騒ぐのか」


 ゴウはさも当然というようにうなずく。


「そりゃあね、人間の社会なんてそんなものです。いまに始まった事じゃない」


 知っている。もちろんそんな事は知っている。知っているが、まさか自分がこんな立場になるなんて思いもしなかった。思わず顔を押さえる俺に、ゴウの明るい声がかかる。


「どうです。許したくなりましたか」


 俺の視線には殺意が込められていたかも知れない。しかし相手は冷たい目でそれを軽く受け流した。


「それとも呪いたくなりましたか。さっさとどちらかに決めていただけると有り難いのですけど」


「あんた、それしか言えないのかよ」


「他に言うべき事もありませんし……おや、これはちょっと面白い事になっていますね」


 ゴウは遠い目でそうつぶやく。


「面白い事って何だよ」


 人が死んでるんだぞ。殺されてるんだぞ。その被害者の前でそんな言葉を使うのか。そう感情的になりそうな俺の目の前に、突然見慣れた景色が現れた。


「俺の家、か」


 見慣れた暗い安アパートの一室。中学に上がる頃には飛び出して寄り付かなくなったが、母さんが俺を育てた場所。目の奥にこびりついて離れない場所。家具らしい家具もない殺風景な部屋の真ん中に、母さんが座り込んでいる。一瞬別人かと思ったくらいに小さくしぼんでいたが、間違いない。胸に抱えている白い箱。あれは……俺の骨壺か。


 そのとき、ドアがノックされた。母さんが呆けたような顔を上げる。フラフラと立ち上がりドアを開けると、小柄な婆さんがいた。日本人か。目に涙を浮かべて真っ青な顔をしている。その口が動いた。誰かの名前を言ったらしい。


 母さんはしばらく意味がわからないようだった。だが不意に泣きはらした目がつり上がったかと思うと、俺が聞いたことのない声で絶叫を上げる。そして。


 母さんが。あの母さんが。俺を一度も怒鳴った事すらない母さんが、婆さんにつかみかかった。汚い罵声を浴びせながら、首を両手で締め上げる。婆さんは抵抗もせず、されるがままになっていた。しかし叫び声を聞きつけた近所の連中だろう、何人かが割って入り、母さんを婆さんから引き剥がす。母さんはもう何を言っているのかわからない。ただ、殺してやると繰り返している以外は。


 近所の連中は婆さんに逃げろとか帰れとか言っているようだ。立ち上がった婆さんは泣きながら頭を下げると、背を丸めてトボトボとその場を離れた。


 いったい何がどうなってるんだ、俺が口にする前にゴウが言う。


「あなたを殺した警官の母親ですよ。謝罪に来たのでしょうね」


「謝罪だと、ふざけんな」


「ええ、あの人もそう思っていました。だから、あなたのお母さんに殺されるつもりだったんでしょう」


「はぁ?」


「とは言え、剣幕に怯えて帰ったところを見ると、土壇場で死ぬのが怖くなった可能性もありますね。……おや、どうしました。馬鹿にして笑わないんですか。あなたには笑う権利があると思いますが」


 ゴウはどことなく楽しそうだ。


 まあ理屈としてはそうなのかも知れない。俺は笑ってもいい立場なのだろう。だが本当に笑ってしまったが最後、何かが終わるような気がする。


 祝呪官吏と言ったか、こいつは俺を破滅させようとしてるんじゃないのか。もしかしてこのゴウは。


「それはユニークな解釈ですね」


 そうゴウは無表情に言う。


「でも私は悪魔でも死神でもないのですよ。そもそもそんなモノは実在しませんし。あなたの魂など破滅させても意味も価値もない。とにかく、さっさと上に行くのか下に行くのか決めていただければ、それで話は終わるのですけど」




 俺は黙り込んでいる。言葉を思い浮かべればゴウに読まれてしまう。いや、そう考えた時点で読まれている事は間違いないのだが、とにかく言葉以外を思い浮かべようとしていた。


「別に読まれたっていいじゃないですか、減るもんじゃなし」


 からかうようなゴウの言葉を無視して目を閉じる。暗い視界に映し出されるのは、さっきの母さんの姿。鬼のような怒りの形相。オーバーラップする子供の頃の母さんの笑顔。頭が膨張して破裂しそうな気分になる。


 そう言えばあの婆さん、俺を殺した警官の母親、あれからどうしたのだろう。俺が心配する意味も理由もない。ないのだが。


「気になりますか」


 耳元で聞こえたゴウの声に、俺は腰が抜けるほど驚いた。


「な、何すんだこの野郎!」


「そんなに驚かなくてもいいでしょう。疑問を解消して差し上げようと思っただけですのに」


「うるせえ! 人の頭の中、勝手に読みやがって!」


 しかし俺の言う事など聞く素振りも見せない。


 目の前にまた映像が現れた。無機質な部屋。真ん中に透明な板で区切りがあり、その板の前にあの婆さんが座っていた。


「拘置所です。あの足で面会に来たんでしょうね」


 そこに板の向こう側へ人影が入ってきた。あいつだ。制服を着てなくてもわかる。俺を撃ったあの警官だ。母親の前に座ったが、目を伏せ何も言わない。


「……元気、かい?」


 弱々しい母親の声にも視線を上げず、男は一人つぶやくように言った。


「もう遅い」


「え?」


「オレが本当に悩んでたとき、苦しんでたとき、つらかったとき、何もしなかったくせに。頭がおかしくなっても話も聞かずに知らん顔していたくせに。いまさら心配してるフリなんかしても遅いんだよ」


「そんな、私は」


「面倒臭いんだろ。迷惑なんだろ。悪かったな、こんな人殺しの息子でよ!」


「違う、違うの」


「うるせえよ! アンタはもうこれから一人で気楽に生きてきゃいいだろ! もう来んな、二度と来んな! 顔も見たくねえ!」


 手が宙を掻いた。俺の手は無意識に男を捕まえようとしていた。はらわたが煮えくり返る。言葉が口をこじ開けた。


「ふざけんなよ、この野郎」


 映像だ。ただ見えているだけだ。それがわかっているのに、俺は震える指をさした。


「服汚れてるだろ。首に傷ついてるだろ。何かあったって思わねえのかよ。わかんねえのかよ。見ろよ。顔上げて自分の親をちゃんと見ろよ! おまえの親が何やったか知ろうとしろよ! おまえのために、おまえなんかのために!」


「叫んだって向こうには聞こえませんよ」


 ゴウの冷静な声に我に返る。息が苦しい。胸が痛い。銃で撃たれたときでも、こんなに痛くはなかった。


 映像の中で男は立ち上がり、母親に背を向ける。母親も慌てて立ち上がった。


「待ってるから。ずっと待ってるから、出てきたら帰っておいでよ」


 しかし男は無言で面会室を出て行く。


 そして暗い廊下を係官に連れられて歩いた。


 その足が、不意に止まる。


「おい、どうした」


 係官の声がきっかけになったのか、男は崩れ落ちるようにしゃがみ込んだ。口からは苦しげなうめき声が聞こえる。


「……母ちゃん……母ちゃん」


 映像は消えた。


 俺は膝をついていた。立ってなどいられない。全身が重く力が入らないのだ。特に胸の痛みは血が流れ出さないのが不思議なほどだった。


「何でだよ」


 俺の言葉に、ゴウの表情は変わらない。こっちの頭の中を読んでやがるくせに。


「何で俺が、何で俺ばっかり、こんな思いしなきゃいけないんだ。何でこんな苦しまなきゃならないんだ。俺は被害者だろ、違うのか。それとも俺があんたに何かしたのか」


「何かされた記憶はないですね」


 ゴウはニンマリと笑った。


「私はただあなたに判断基準を提示しているだけです。祝うか呪うか、とっとと決断していただけると助かるのですが」


「それしか言えないのかよ」


「そういう仕事ですし」


 俺は顔を伏せ、自分の手を見つめた。見えない汚れにまみれた手を。


 おまえのために。おまえなんかのために。


 自分の言葉が胸に突き刺さって抜けない。痛くて苦しい。こんなに泣きたくなった気分は初めてだ。だが涙は出なかった。そうか、死んだら涙も流せないのか。




 さっきまで真っ青だった空は、いつのまにか真っ暗になっていた。その向こうに輝く星の海。流れ星が一つ。


「どうして星が流れるのか、ご存じですか」


 ゴウが問う。まさか人が死んだときに流れるとか……。


「あれは小さな天体の欠片が大気圏に突入した摩擦で燃えているのです」


「それぐらい知ってるわ、馬鹿にすんな」


「ただ」


 ゴウは少し自慢げにこう言った。


「私自身は体験した事がないのですが、すべてを許せば人も『流れる』らしいですよ」


「結局許せって言うんじゃねえか」


 するとゴウの顔が明るくなる。


「あ、じゃあ呪います?」


「うるさい黙れうるさい」


「そんな邪剣にしなくてもいいじゃないですか。祝福できないんなら呪うしかないでしょう」


「そっちの都合なんか知るか」


 ゴウはやれやれという風に苦笑する。


「もしかしたら誤解してるかも知れませんが、下に行ったからってそれで終わりじゃないですからね。それなりに時間を置いて魂が浄化されたら上に行けるんですよ。ちょっと早いか遅いかだけの話です」


「本当にちょっとなんだろうな」


「……ちょーっとくらいですかね」


「マジで馬鹿にしてるだろ」


 夜空にまた音もなく星が流れる。あれも何かが燃えているのだろうか。それとも。


「なあ、聞いていいか」


「何でしょう」


 頭の中を読んでいるだろうに、ゴウは俺の言葉を促すように小首をかしげた。


「俺が許したら、あいつらはどうなるんだ」


「少しだけ幸運になります。許された人間には、そういう特典があるんです」


「何であいつが得をするんだよ。俺は殺され損じゃねえか」


「そうですね、まったく世の中は理不尽だらけです」


 いけしゃあしゃあとゴウは言ってのける。


 と、不意にまた映像が浮かんだ。


「何だよ」


「気になってるかと思いましてね」


 そう言って笑うゴウを軽くにらんで、俺は映像に目を移した。


 家具らしい家具もない、殺風景な部屋。広さも壁も窓も違うが、何故か俺は自分の育ったあのアパートを思い出した。部屋の片隅には、あいつの母親が正座して手を合わせている。仏壇か。


 仏壇の中には三枚の写真。真ん中には中年の男。あいつの父親だろうか。右隣には警官の制服を着たあいつの写真。そして左側には、新聞か雑誌の切り抜きかも知れない、俺の写真があった。


「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」


 すすり泣きに肩が震えている。いったい誰に謝罪しているのかはわからない。わからないが、俺の中で何かが急に小さくなって行くのを感じた。


「なあ、あんた」


「何でしょう」


「頼みがあるんだが」


「と言うと」


「全部許すとか、俺には無理だ。でも、特別にこの人だけ許して欲しい」


「特別じゃなくてもできますけど」


「えっ、できるのかよ」


 驚く俺にゴウは平然とこう言葉を返す。


「もちろんできますよ。ああ、ついでだから言っておきますけど、一人許すごとにあなたが下で暮らす時間は半分になります。つまりもう一人許せば元の四分の一になる訳です」


「なっ、そ、そういう事はもっと早く言えよ」


「おや、言ったら何人くらい許しました?」


 改めてそう聞かれると困る。他に許す人間なんて思いつかないからだ。


「いや、一人で終わりだけど」


「そうですか。では一人だけ祝福、後はみんな呪うという事で決定してよろしいですね」


 別に良くはない。しかしそういう決まりなら仕方ないだろう。俺はもう諦めていた。


「俺は下に行くのか」


「はい、あなたは一人許しましたから元の時間の半分に短縮されはしますが、下の世界で魂の浄化を待つ事は変わりません。構いませんか」


「ああ、それでいいよ」


 ため息が出た。腹立たしい気持ちがゼロになった訳ではないが、何だか心の中にあった様々なトゲや段差が消えて、なめらかになったような気がする。下で何が待っているのかは知らない。けどまあ、これはこれでいいんじゃないだろうか。


 見えていた映像は消えた。それと入れ替わるように、大きな古めかしい装飾の施された黒い扉が目の前に現れる。


「これが下につながる扉です。引き継ぎは完了しておりますので、あなたはただこの扉をくぐっていただければ」


 扉が静かに開いた。中には闇が詰まっている。その向こうから招く声が聞こえるような気がした。俺は足を踏み出す。


「ただ、これは余計な事かも知れませんが」


 ゴウの言葉に止まる俺の足。


「あなた、自分のお母さんを許さなくてもいいんですか」


 頭を思い切り殴られたかのような衝撃が走り、息が止まる。


「……え?」


 そのとき、視界が滲んだ。これは、涙か。でもどうして涙が。俺は死んだはずなのに。


「やっぱりつながってませんでしたね」


「つな、がった?」


「死者の魂であるいまのあなたから涙が出るという事は、いまこの瞬間あなたのために泣いている人が居るという事です」


 止まらない。溢れ出る涙が止まらない。胸の内がどんどん重くなる。流れ込んでくるこれは何だ。これは、俺を想う心か。俺が知らなかった、いや、頑なに見ようとしなかったそれに、いま全身が浸って行く。


「いやだ」


 星空にはいくつもの流星が走った。


「俺は、死にたくない」


「あなたはもう死んでるんですよ。体は焼かれて骨になってる。私にはどうする事もできません」


 静かに答えるゴウのローブに縋り付く。


「もう一度だけ、もう一度だけやり直させてくれ。頼む、頼みます。お願いだ」


 泣き喚く子供のような声で俺は頭を下げた。いまなら、いまなら母さんの顔がちゃんと見られるはずなんだ。いまなら。


 ゴウは優しく俺の手を取った。


「その気持ちは大事に覚えておいてください」


 そして微笑む。


「またいつか時の流れの中で、あなたはお母さんと巡り会うかも知れないのですから」


 俺の体は軽々とゴウに引っ張り上げられると、グルリと一回転して扉の中に放り込まれた。


「あなたの祝福した人数は二人だと上司に報告しておきますからね」


 そんな声を遠くに聞いて。




 ある日、また一つ夜空に星が流れた。




「どうかした?」


 妻が不思議そうに僕を見つめている。


「いや」


 いま何か思い出しかけたような気がしたのだが、まあただの気のせいだろう。僕は微笑むと妻の大きくなったお腹に触れた。


「どうしてかな、ずっと昔からこの子を知っていたような気がするんだ」


「まだ生まれてもないのに? 変なの」


 妻は笑う。そう、変だとは自分でも思う。だが胸の内に溢れて止まらないのだ、この子を想う気持ちが。たとえこの先に何があっても決して目は伏せない。今度こそは、と。

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祝呪官吏 柚緒駆 @yuzuo

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