最終話

「修理して欲しいのは二台って聞いてたもんだから」


 それを聞いた瞬間、私は長い棒でも飲み込んだみたいに固まった。


「お母さんから、聞いてない?」


 作業員の表情が、微かに当惑の色を見せる。

 私は緩慢な動きで首を横に振る。


 だめだ、もう。全てが面倒くさい。


 ひとまずリビングの一台だけを修理してくれるよう、彼らに頼んだ。

 そして、自分だけ二階に上がると、私は断りもなく寝室のドアを開放した。


 想像していた通りの光景がそこには広がっていて、いったい何度目になるのかもわからない、深い深いため息をつく。


 ベッドの上ですっかりとろけた父は、昨日見た母や妹以上に触りたくない感じだった。


 しかし、このままではエアコンの修理をしてもらえない。なぜなら、この寝室、寝ている父の頭上にエアコンが設置されているのだ。


 このドロドロのデロンデロンをどうにか除去し、ベッドの上に何か敷いてから上がってもらわないといけない。


 どうする。もう疲れたし、作業の一環として手伝ってもらう?

 いやいや、ない。私が作業員だったら、なにがなんでもお断りするわ。


 こういう場合って、どうしたらいいんだろう。リビングの一台だけ直して帰ってもらうのが正解?

 でも、あとで『なぜ二台とも直してもらわなかったのか』と怒られたら。


 逡巡ののち、私は昨日妹に使ったバケツと、トイレ掃除用のバケツを持ってきた。


 作業員には待っていてもらえるよう声をかけ、泣きたい気持ちになりながら、両手で父親をすくってはバケツに入れた。


 父のモールドは母に使ってしまったので、バケツがいっぱいになったら、お風呂に運び込んで浴槽に溜めた。


 両手にバケツを提げて十往復ほど。ようやく父を風呂場に移し終えた。


 途中で何度かぶちまけそうになり、一度に運ぶ量を減らしたので、けっこうな時間が掛かってしまった。


 あのリンゴ型に膨らんだ腹の贅肉のせいで無駄に三往復はさせられたと思うと、憎らしい。


 濁った肉色を半分ほど溜めた浴槽には、一晩かけてアルコールを分解したオッサン独特の臭いが充満していた。


 吐き気がして、折り畳み式の蓋を少し乱暴に閉めた。


 ほどなくして、二台目のエアコンの修理が終わると、作業員たちは請求書を残して帰っていった。


 彼らは父が溶けてしまったことに気付いているようだったが、私がなにも言わなかったためか、特に触れては来なかった。


 これでいいのかと言われれば、たぶん私は間違っている。

 自分の力でどうにもできないとき、またはどうすればいいのかわからないとき、子供は大人に助けを求めるのが正解だ。

 結果、助けてもらえるかどうかは別としても。


 しかし、私はもううんざりしていた。大事にしたくなかった。


 他人が集まって騒ぎ出したり、忙しなく動き回るあの慌ただしい空気を、想像するだけで堪えられなかった。


 それに、助けを求めて追加料金を請求されたら。父の方はともかく、あのケチな母親に何を言われるか、分かったものではない。


 私は、リビングのソファ(もちろんきれいなほう)に腰掛けて、エアコンをつけた。

 すぐにひんやりした空気が、雑多なリビングを充たす。


 大きく息を吸って、ゆっくりと吐きながら目を閉じた。


 あ。ヤバイ。お父さんの出勤時刻過ぎてる。私の学校は、まあ、いいや。緊急事態だし。


 会社……連絡くらいした方がいいかな。でも、子供が連絡なんかして、余計なことをするなとか、恥をかかせやがって、なんて言われないこともないかも。


 私って、どうしたらいいの。いや、どうしたってダメなんだ。

 そう思ったら、なにをする気もなくなった。



「お姉ちゃん。起きて、ほら。起きなさい」


 肩を掴んで揺すられた。


 少しばかり冷やし過ぎたリビングで、私は薄く目を開けた。

 父の顔が、すぐそばで私を覗き込んでいる。


「……おとうさん?」


「もう、寝惚けてるんじゃないわよ。母さんたち、大変だったのよ」


「え……」


「それなのに、お姉ちゃんってばこんな時間から寝ちゃって。暢気よね」


 なにいってんだ、こいつ。


 ぼんやりと父の顔を眺めながら、やがて、私は理解した。


 これ、お父さんの型で冷え固まったお母さんだ。


 その証拠に声だけは、いつものやる気のなさそうな母のもの。想像以上に気持ちが悪いな。


「帰ってきたんだ」


「冷却所の送迎バスで、帰ってきたの。綺麗に固まってるって言われたけど、ちょっと冷やし過ぎよ。もう、関節がガチガチで……」


「そう」


 大変だったのは、こっちだって同じだ。

 まあ、実際溶解して身体の自由が利かなくなった上に、巨大な冷蔵庫で一晩中冷やされたというのは、気の毒だと思うが。


 だが、こちとらあのドロドロのスライムを、回収してモールドに流し込み、冷却所へ搬送してもらえるよう手配してやったんだ。


 感謝くらいはしろ。暢気に寝ていたのはどっちだ。


「そういえば、めるも一緒だったんでしょ?」


「そうよ。あのままじゃ風邪を引きそうだったから、今お風呂に入らせてる」


「お風呂……?」


 全身の血の気が引いたような気がした。


 ソファから転がるようにして降りると、洗面所の奥にある風呂場へ突進する。


 声も掛けずに曇りガラスの引き戸を開けた。


 白い浴槽の中に、ふたまわりほど小さくなった妹がいた。

 彼女は湯気の立つお湯に肩まで浸かった状態で、黙って私の方を見返した。


 やけにおとなしい。


 普段なら、『勝手に入ってくんな、クソ姉!』と石鹸のひとつやふたつ投げ付けて来てもおかしくはない。


 なんというか、ぼんやりしている。


「める、そのお湯……」


「おねえちゃんも入る?」


 妹の小さな身体が、さぶりと音を立てて湯船から立ち上がった。小麦色の肩が、不自然な光の粒をまとってきらめいている。


 あ。昨日のラメ。


 きれいに出たなあ。満足して相好を崩すと、妹もふわりと笑った。

 昔の小さくて可愛い妹が戻ってきたみたいだった。


「おねえちゃんも入ろ。あったかくて、きもちいいよ」


「そうだねえ……でも、長風呂は禁物だよ」


 また溶けちゃうからね。


 浴槽は朝の光を浴びて、眩しいほどに白かった。

 銀色の手摺の少し下のライン、透明なお湯が小さな音を立てながら揺れている。


「める。湯船の中、なにか入ってなかった?」


 なにかっていうか。

 なんていうか。


「汚いお湯が入ってたから捨てたよ」


「そっかあ……」


 すぐ後ろで、母親の悲鳴が聞こえる。

 鏡でも見たのだろう。

 気持ち悪いとか、なによこれ、とか叫びまくってるけど、聞こえないふりをした。


「そっか。捨てちゃったかあ」


「うん。きれいさっぱり、流しちゃった」


 嬉しそうに言う無邪気な妹に頷き返し、


「そっかあ……」


 私は考えるのをやめた。


 ……マジでもう、全部がどうでもいいわ。


<END>

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